• ベストアンサー

ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか

qsxdrfvgyhの回答

回答No.39

基本的に、長考で了解です。  ★ やはり、思考停止の方を選択したくないように思うのです。ですから、有神論でも無神論でもありません。  ☆ 信仰は 《思考停止》ではないのです。つまり 経験思考をさらに及ぼしていける対象が残っていて 中断でないとすれば 行き着くところまで 思考を及ぼし尽くしておくべきであるという場合ではなく そうではなく 《思考は ここからは 及び得ないという限界》を想定したという意味にもなります。つまり 《絶対》の想定においては です。 (再回答)ここでは、全面的な思考停止を意味していません。信仰生活は思考と実践の二本立てだと思います。絶対者を受け入れるのか、拒否するのか(正直に言って、信仰者がこのことをどのように表現するのか分かりません。不適切ならば訂正してください。)その時の判断における思考だけを意味したつもりです。つまり、信仰者は、絶対者を思考の結果ではなく(理性を度外視して)受け入れたと想定しています。よく分かりませんが。  ★ 無限  ☆ この概念を用いて 絶対を説明することができると考えます。すなわち 《〈思考の限界〉の想定》にかかわるはづですが こうです。  ○ 無限を 仮りに分割できるとすれば その分けられた部分部分は やはり 無限である。  ☆ この無限の概念で考えるなら   ○ 《相対の世界を超えたところ》というのは もはや もし仮りに どの部分を取り出して来ても すべて 《絶対》である  ☆ となります。  (再回答)ここは無限を連想させる比喩だったのでしょうね。絶対は唯一ですから、分割不可だと思います。「絶対は、絶対に分けられない。」そう思います。 >しかも 驚いたことに  ○ 絶対は 相対の世界をも 含む  ☆ とさえ考えられて来ます。すなわち  ★ 絶対は、相対と対極の概念  ☆ であると同時に   ○ 絶対は 相対を包摂する  ☆ と思われます。 (再回答)先の回答の一部を転記します。 「絶対とは、完全に他に依らず(非依他起性)、力強く自立した概念で、 自性的なので、非空であると考えます。」 相対とは、相互依存的な関係(相依性、縁起の関係)で、 1.遍計所執性(へんげしょしゅうしょう):仮構の存在形態 無実体なのに価値判断によって形成される執着対象として仮構している固定性 有為の中心概念 物に限らない(イメージなど言語的存在) 現実把握・認識の初期段階(有我の段階) 2.依他起性(えたきしょう):他に依存する存在形態(相対的存在形態) 自立的存在でない 恒常不変でない(諸行無常、有為転変) 3.円成実性(えんじょうじっしょう):完成された存在形態(絶対的存在形態) 諸法無我(無主体論) 常住不変の実体観からの解放(非実体観) 世俗諦認識の完成段階(無我の段階だが、まだ無我という有に留まっている) 無差別・平等の真実・真如(無執着なありのままの世界観) という認識が可能な概念であり、自性がなく、空であると考えます。 では、「絶対は 相対を包摂する」が成立しているでしょうか。 残念ながら、「絶対(非空)は 相対(空)を包摂する」が成立しないと見ました。いかがでしょうか。 (参考) A(鳥)がB(鶏)を含むとき、B(鶏)はA(鳥)である。 A(絶対)がB(相対)を含むとき、B(相対)はA(絶対)である。

noname#80116
質問者

補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。  個々の論点について 一つづつ 共通の認識を得ていくことが いいですね。  ★ では、「絶対は 相対を包摂する」が成立しているでしょうか。 / 残念ながら、「絶対(非空)は 相対(空)を包摂する」が成立しないと見ました。いかがでしょうか。  ☆ この場合の《包摂》というのは 特殊です。すなわち  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 絶対は、相対と対極の概念  ☆ であると同時に   ○ 絶対は 相対を包摂する  ☆ と思われます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という形態での包摂です。  ○ 相対との言わば境界があって その外の領域が 絶対である。しかも 同時に 外から絶対が 相対を 包んでいる。  ☆ というような恰好ではないでしょうか。この  ○ 絶対による相対の包摂において 相対の世界に存在する人間は あたかも普遍的な絶対を分有するかのように 霊ないし仏性を 心に宿す。  ☆ という虚構が現われます。  ★ 「絶対とは、完全に他に依らず(非依他起性)、力強く自立した概念で、 / 自性的なので、非空であると考えます。」  ☆ この定義は おそらく 有神論を前提にして そこから さらに その神ないし絶対の属性を 捉えようとして得た内容ではないかと考えます。第一次の定義は 《表象し得ぬ領域》で足りると思います。  信仰にあたって 絶対に関して 神は有るという表現で捉えたなら その神について さらに 《完全性 / 他に依らず みづから存在する実体であること / 被動性はなく 自立している / 自性・本性・本質》が 付加されます。そして  ★ 非空  ☆ については 初めに《神は有る》と捉えたことを言いかえたに過ぎないと考えます。無神論では 《空》と捉えると思います。  ★ つまり、信仰者は、絶対者を思考の結果ではなく(理性を度外視して)受け入れたと想定しています。  ☆ このとおりだと思います。(思考停止について 勘違いでした)。ここでも 細かいことを言えば (1)《理性を度外視して》ではなく 《理性の働く余地のないところで 理性を超えて》だと思います。そして (2)もちろん 《受け容れない》場合も 同じく《理性を超えて》 かつ 受け容れる場合と同等の態度として 選択され得ます。《拒否する》でも かまわないと思います。  そして 無神論の場合には 一たん 受け容れないという信仰形態に立ったのですが あとは もう 信仰とか無神という神だとかを 放っておくものと思います。経験的な思考と能力の発揮を主要な原動力とする世界に位置します。  ちなみに 有神論の場合は そのように自助努力をおこなうのは まったく一緒なのですが その努力の有効性が 社会的に実現するのは 最終的に あたかも絶対者の力によると思っています。つまり 早い話が 成功するかどうかは 人間には 分からないと思っているし 有効であれば 成功にたどりつくだろうと思っています。  ★ 絶対は唯一ですから、分割不可だと思います。「絶対は、絶対に分けられない。」そう思います。  ☆ まさに それでこそ 絶対なのですが そうなのですが 仮構としては どんどん 想像が伸びていくということだと思います。  二分しても それぞれの部分は やはり無限であるという想像裡での遊びのようなものだと思います。ただし 《父と子と聖霊との三つの位格が それぞれ 無限でありつつ 一つの本質である》という三位一体なる神が 想起され 説明として 持たれます。  ぼちぼち まいりましょう。

関連するQ&A

  • ブッダ葬送がやっぱし必要ではないでしょうか

    ブッダ葬送がやっぱし必要ではないでしょうか  (α) 末法が 現実であるのではないでしょうか。  (β) もう何も新しい思想は ブディズムからは出て来ないのではないでしょうか。あとは 広義の訓詁註釈のみではないでしょうか。  (γ) 後世に現われた広義のブディズムは ブッダをきちんと葬送して初めて その生きた思想は生きるのではないか。    (δ) 《慈悲》は 人間にとっておこなうことは出来ないと なぜ明らかにしないのでしょう。出来るのなら ふつうの思いやりです。無縁慈悲は 絶対の愛のごとく 実践はむつかしい。  (ε) 《縁起共生=空観》――てっとり早くは 関係主義の思想――は当たり前だと なぜはっきりさせないのでしょう。そうでなければ ただ精神において理念や美を描こうとしたその想像世界です。  (ζ) 《仏性》ほど 唱えていながら それにもかかわらず はっきりさせないものはないのではないでしょうか。絶対普遍のことなら そうだと言うべきでしょう。そうでなければ ただのお慰みのおもちゃです。思いやりの問題に還元されます。  (η) 一たんきちんと 葬送をしておく必要があるのではないでしょうか。そうすれば ひょっとして 復活する恵みが起きるかも知れません。  言いかえると いまもこれなら生きているというおしえを おしえてください。

  • 仏様に人格はあるか

    独学で仏教の思想をかじっているものです。これまで読んだ本の知識では、己の執着心を捨て、自分内面へと掘り下げていくと、そこは無の世界観であり、混沌とした、増減しないエネルギーの宇宙の下、縁起により、絶えざる変化の結果として生まれた形(色)が顕現するだけの無秩序に向かう思想と理解してます。また、一切衆生悉有仏性により、だれでも仏様になれる可能性を有しており、修行して努力すれば、真の自己にいたり仏様になれるという理解です。このように、修行して慈悲(悟った人が悟りを求めぬ人に悟りを求めさす)ことが出来る覚者となった仏様の人格(道徳的行為を持った主体としての個人)をどう考えればいいのかが分からなくなります。空の世界観では、自性(単独で自立した主体)はないとのことで、仏様は人格はないのでしょうか?間違った理解のためにかなり混乱しているかもしれませんが、かなり仏教にお詳しい方がたくさんいらしゃるようなので、回答をお願いいたします。

  • 慈悲は 経験現実か

     わたしたち人間のおこなう行為であるのか これを問います。  《ウィキペディア:慈悲(じひ、パーリ語mettaa、サンスクリット語maitrii, karuNaa)》にもとづき設問します。  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2  まづ 《慈》も《悲》も 日本語での 友がら・やさしさ・思いやりといった言葉と同じように 生活の中から出た言葉であって( 人間S語 ) しかも 抽象一般化し また 概念を純粋化し高めたもの( 普遍A語 )と考えられます。高められたとき それは 実践しうることだと見ているのかどうか このことが知りたいことです。  ▲ (ヰキの記事に 私註をはさみつつ)~~~~~~~~~~~~  〔《慈》にあたる〕サンスクリット語の「マイトリー(maitrii)」は、「ミトラ」(mitra)から造られた抽象名詞で、  【S語】 本来は「友情」「同志」の意味である。しかも、  【A語】 ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもち、友誼を示すことをいう。  したがって慈とは、このようないっさいの人々に対する平等の友情をいう。  次に、〔《悲》にあたる〕サンスクリット語の「カルナ(karuNaa)」は  【S語】 「優しい」「哀れむべき」というのであるが、その原意は「呻き」(うめき)にあるという。「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。  【A語】 その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。  仏教ではこの慈悲心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲である。いわば慈悲心の生起する理由とその在りかたをいう。  (一) 衆生縁とは   衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。    ☆ (これは =【S語】か?)  (二) 法縁(ほうえん)とは、   すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をいう。    ☆ (これは ≒【S語】か?)  (三) 無縁とは   慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。    ☆ (これは =【A語】であろう。あたかも≠【S語】か?)  この三縁の慈悲とは、  第一は 一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、  第二は 聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にあるものの起こす心、  第三は 仏の哀愍の心であると言える。  この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahD-karunD)と言える。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  Q1. 慈悲は 全体として 人間に実践可能か。  Q2. 〔可能だと仮定した場合〕 三縁の慈悲のうち 第三の《無縁の慈悲》は 《仏性》のことと違うのか。  Q3. 仏性と同じだと仮定して ならば すべての人間が 慈悲を実践しうるとなるのか。それとも 人は仏性を宿すが 慈悲を実践しうる者とそうでない者とに分かれるのか。分かれるとすれば それは なぜか。

  • 慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?

     わたしたち人間の能力を超えていることなのか? それとも 人間のおこないうる行為であるのか? これを問います。  《ヰキペ:慈悲(じひ、パーリ語mettaa、サンスクリット語maitrii, karuNaa)》にもとづき設問します。  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2  まづ 《慈》も《悲》も 日本語での 友がら・やさしさ・思いやりといった言葉と同じように 生活の中から出た言葉( スサノヲ人間( S )語 )であって しかもすでに同時に 抽象一般化しまたその概念を純粋化し高めたもの( アマテラス普遍( A )語 )であると考えられます。  抽象化され高められたとき それは 実践しうることだと見ているのかどうか このことが知りたいことです。  ▲ (ヰキの記事に 私註をはさみつつ)~~~~~~~~~~~~  1. 〔《慈》にあたる〕サンスクリット語の「マイトリー(maitrii)」は、「ミトラ」(mitra)から造られた抽象名詞で、  【 S 語】 本来は「友情」「同志」の意味である。しかも、  【 A 語】 ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもち、友誼を示すことをいう。  したがって慈とは、このようないっさいの人々に対する平等の友情をいう。  2. 次に、〔《悲》にあたる〕サンスクリット語の「カルナ(karuNaa)」は  【 S 語】 「優しい」「哀れむべき」というのであるが、その原意は「呻(うめ)き」にあるという。  「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。     ☆(私註) これらの S 語は 日本語の《もののあはれ》に通じて     いると思われます。  【 A 語】 その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。  3. 仏教ではこの慈悲心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲である。いわば慈悲心の生起する理由とその在りかたをいう。  (一) 衆生縁とは   衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。    ☆ (これは =【 S 語】か? つまり経験現実か?)  (二) 法縁(ほうえん)とは、   すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をいう。    ☆ (これは ≒【 S 語】か? そのような経験現実か?)  (三) 無縁とは   慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。    ☆ (これは =【 A 語】であろう。あたかも≠【 S 語】か? それとも 【 S 語】じたいの中に潜在しているというのか?)  この三縁の慈悲とは、  第一は 一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、  第二は 聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にあるものの起こす心、  第三は 仏の哀愍の心であると言える。  この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahD-karunD)と言える。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  三縁の慈悲のうち 第三の《無縁の慈悲》は 《仏性》のことであるとも考えられます。そのことをも含めて 慈悲は 人間の実際におこないうる現実であるか? こう問います。  あるいはまた 《もののあはれ》という S 語は 普遍 A 語の内容をも宿しているか? この問いも含みます。  ずばりおしえてください。

  • 葬送とは?

    タイトルのままなのですが,“葬送”とは具体的には葬式から火葬までのどの部分でしょうか? 

  • ブッダについて

    閲覧ありがとうございます。この世を一切皆苦と表現したブッダですが、何故子どもをつくってはいけないという教えを作らなかったのでしょうか?

  • ブッダについて

    ブッダの人生観について教えてください! お願いします!

  • ブッダ

    ブッダの説いた「無我」について詳しく教えていただけませんか?? ウパニシャッドやアートマンや五蘊などの点で特に・・

  • 葬送曲

    皆さんは自分の葬送曲にどんな曲を流してほしいですか? あ、カテ違いかもですけど。 私はデヴィッド・ボウイの「ロックンロールスイサイド」かビートルズの「レット イット ビー」「ロング アンド ワインディングロード」のどれかが流れてくれればなぁと思っています。 ツェッペリン信者ですが「天国への階段」は嫌です。

  • 現代の葬送について

     最近では、テレビなどメディアでオリジナリティのある葬儀とか、市民団体で葬儀を挙げるとか、葬儀社以外の団体のサポートによる葬儀を挙げるとかなどと色々興味ある事が頻繁に出て来ていますが、これについてお聞きしたいと思います。  私などが関係したり知っている有名な市民団体やサポートしている方々は、大概というよりすべてが葬儀社のアドバイスや実際に葬儀社へ動いてもらっています。または、葬儀社を辞めた方が新しいビジネスでと願って活動しています。  そして、そこには美味しい利益などとあってはならない事を考えてます。  そんな現代の葬送について疑問などあればお聞きしたいのですが・・・  そして、皆様が本当に望む葬儀とは何かなと改めてお教え頂きたいのですが、いかがでしょうか。  勿論すべての方がそれぞれお考えが違うと思います。  私も壁にぶち当たっている感じがしています。  お教えください。