• ベストアンサー

ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか

qsxdrfvgyhの回答

回答No.38

終局が延期しそうな予感がします。 また、自己の信仰について深く考察する良い機会を得たと感謝します。  ★ 無為の探究のみです。有為の信仰は、関心外です。  ★ 経験思考は及ばず、思考停止しかないので、信じる・信じないになるというのには、反対です。論理を尽くした先にある理性を超越した「無為」の手がかりを探究してみようという興味だけです。  ☆ 元も子もない言い方をしますが この  ★ 探究  ☆ は 表象し得たならば 経験思想であり そうではなく あくまで 表象し得ぬ領域という想定に相い対しているという姿勢や態度であれば それは 《非思考の行為》です。どちらか一つに区分けされます。後者の《非思考の行為・・・)》 これが 《信じる》という有為の経験行為であり 一般に 《信仰》と呼びます。  したがって この広義の《信じる》には 《〈受け容れない〉という態度。・・・狭義の意味での信じることをしない》振る舞いも 含まれます。 論理的思考の探究経験、あるいは、非思考経験として信仰する・信仰しないの三者択一問題と見ました。有為の経験(世俗諦)として仏教哲学の論理を尽くし、論理的思考の探究経験を選択し続けたいと思います。つまり、「~でない」で記述する積み重ねの先に、無為が示される手法をさらに緻密に探究してみたいと思うのです。 >> つまり 絶対は 《非有非無》ですから 仮りに その想定をさらに延長して あたかも 代理表現の仮想世界をわざわざ作ってしまうとするならば 絶対(つまり簡単に 神)が《有る》とするか 《無い》とするか どちらか二つに一つです。あくまで すべては 虚構の世界における出来事です。 >絶対が 《非有非無》ならば、「絶対(つまり簡単に 神)が《有る》とするか 《無い》とするか どちらか二つに一つです。」には、なりません。 ここの部分を再検討して、訂正する必要に気付きました。絶対は《非有非無》ではないのです。絶対とは、完全に他に依らず(非依他起性)、力強く自立した概念で、自性的なので、非空です。ゆえに、《非有非無》でもないのです。また、虚構は、理性の範囲内に限定されると考えます。絶対の概念をこのように確認した上で、次にいきます。 > すなわち 仮りの《絶対》を 一方では 仮りの仮りとして《有》と想定し 他方では 同じく《無》と想定するという振る舞いが現われます。どちらも 全く互いに対等な行為です。つまり 早く言えば 有神論と無神論というともに《信仰》の具体的な形態だということになります。 なるほど、無為探究を諦め、非思考を自由選択すると有神論又は無神論に結びつくようですね。 > この《絶対》ないし《無為》にかんして 代理表現によって説明するとき  ★ 本当は、論理を貫いて、創造も記述したくないのですが  ☆ というご指摘は ごもっともだと考えます。つまり  ★ 創造  ☆ にかんしては 代理する段階が 二つあって初めて 現われます。第一段階は 《絶対》を 擬人化の手法で 《絶対者》と呼び 古くからの言葉で一般的な意味での《神》と呼ぶ局面です。第二段階は この《神》を さらに 《世界を創造した主体》だというふうに 人間の自己の思惑をすでに容れて 表現する局面です。  これは 経験世界を超えているという初めの想定に合致していると思わる限りで 間違いではないとされるでしょう。本体に伴なわれている属性だという捉え方になると思います。 いままで、曖昧に混乱していた絶対と無為の差異をしっかり検討すべき時のようです。 絶対とは、完全に他に依らず(非依他起性)、力強く自立した概念で、 自性的なので、非空であると考えます。これは、先にも記述したとおりです。 無為とは、自ら定義付ける力を持たず、無力な非自立的な概念で、 無自性なので、非有非無の中道に通じると考えます。 よって、「無為なる絶対」という矛盾した表現は、有為の仮構としても成立しないとなります。 ここてちょっと、論理的な思考の準備体操です。 「無限の点からなる」という記述を考えます。 直線は、無限の点からなる。 半直線は、無限の点からなる。 線分は、無限の点からなる。 これでは、何の役にも立ちません。 半直線は、直線の半分の無限の点からなるわけではないからです。 個別の特徴を記述しなければなりません。 「超越している」という記述も考えます。 絶対は、相対と対極の概念で、時空を超越している。 無為は、有為と対極の概念で、理性を超越している。 中道は、非有非無の概念で、理性を超越している。 勝義諦は、世俗諦と対極の概念で、理性を超越している。 これでは、何の役にも立ちません。 こちらも、個別の特徴を記述しなければなりません。 絶対と無為の差異は、先ほど検討したとおりです。勝義諦は八不の先にあると先人たちは教えてくれています。そして、唯摩の沈黙に込められた豊かな無が、示されたと気付けるかどうか僕の研鑽は続くようです。 > あえて もう一点 異論です。  ★ 仏教は、無我に至る悟りの修行を説き、世俗諦に終始し、勝義諦の哲学的探究には、失敗しているということかもしれません。つまり、救済の実践の方を優先しています。  ☆ 《つまり》以下に 異議があります。上のように 信仰の類型論を捉える限りでは 信仰の類型的なあり方を 主観の問題ではありながら その自己を紹介するかたちで どうなのかを 明らかにすべきだと考えます。つまり 有神論か無神論か どちらなのかです。そうしておくと 互いの交通対話において ずいぶん なめらかに 話がすすむと思われます。  したがって そのように自己の《信仰類型》を明らかにすることこそ 《救済の実践の第一歩》だと考えられるのです。いま言っていることは いやそうではなく それは 形式的なだけではないかと思われるかも知れませんが 必ずしもそうではないはづです。  なぜなら たとえば《阿弥陀仏を 〈信じる〉のですよ》とはっきり説明したり あるいは 《〈信じる〉のではありません。無神論にのっとって 人間の自己の能力と知恵を発揮して ブッダの境涯にちかづくのです》と説明したりというふうにして 救済の実践〔の第一歩〕が優先されるはづです。《なんとなく悟りが大事》というのではないはづですから。(そのような雰囲気も 雰囲気としてあるでしょうが)。 やはり、思考停止の方を選択したくないように思うのです。ですから、有神論でも無神論でもありません。それと、「救済の実践を優先する」なんて書きましたが、現代の状況ではありません。昔々の状況です。施薬院とかその他色々のことです。そう言えば、近所で幼稚園経営やら老人ホーム経営の寺社がありますから、そうそう学校法人も多いですから、それなりの社会貢献はあるようです。ただ、救済なのかどうかは疑問です。

noname#80116
質問者

補足

 qsxdrfvgyhさん 延長戦ですね。おもしろそうです。ご回答をありがとうございます。  この延長戦は 一回ごとの表・裏のインタヴァルが長くなるかも知れませんね。相当 思惟を先へ先へと伸ばしてみないと 結論が出ないかも分かりません。  九回同点の情況というのは もちろん  ★ 論理的思考の探究経験、あるいは、非思考経験として信仰する・信仰しないの三者択一問題と見ました。  ☆ これです。そのとき 焦点は  ★ なるほど、無為探究を諦め、非思考を自由選択すると有神論又は無神論に結びつくようですね。  ☆ というように考えると 大きく二者択一になるかも知れません。すなわち  (A)  無為探究と信仰選択  (A-1) 信仰選択とは 有神論か無神論かである。  ☆ の細かく三者・大きく二者です。ただし わたしのいま現在の結論は 別の二者択一にもなります。  (B) 信仰類型の選択として 有神論か無神論か。  (B-1)このとき 無為探究は これも 煮詰めていくと 有神論    か無神論かの選択をおこなうはづである。  という見込みです。  いくらか 揚げ足取りをします。  ★ やはり、思考停止の方を選択したくないように思うのです。ですから、有神論でも無神論でもありません。  ☆ 信仰は 《思考停止》ではないのです。つまり 経験思考をさらに及ぼしていける対象が残っていて 中断でないとすれば 行き着くところまで 思考を及ぼし尽くしておくべきであるという場合ではなく そうではなく 《思考は ここからは 及び得ないという限界》を想定したという意味にもなります。つまり 《絶対》の想定においては です。  ★ 無限  ☆ この概念を用いて 絶対を説明することができると考えます。すなわち 《〈思考の限界〉の想定》にかかわるはづですが こうです。  ○ 無限を 仮りに分割できるとすれば その分けられた部分部分は やはり 無限である。  ☆ この無限の概念で考えるなら   ○ 《相対の世界を超えたところ》というのは もはや もし仮りに どの部分を取り出して来ても すべて 《絶対》である  ☆ となります。しかも 驚いたことに   ○ 絶対は 相対の世界をも 含む  ☆ とさえ考えられて来ます。すなわち  ★ 絶対は、相対と対極の概念  ☆ であると同時に   ○ 絶対は 相対を包摂する  ☆ と思われます。  実際問題として わたしは 無為の探究を 試みたことがなかったので いまは これまでに得ていた結論を述べました。  ★ 勝義諦は八不の先にあると先人たちは教えてくれています。そして、唯摩の沈黙に込められた豊かな無が、示されたと気付けるかどうか僕の研鑽は続くようです。  ☆ たぶん ヰ゛トゲンシュタインにも通じることなのでしょうね。この理論も わたしに欠けていますので 長考一番をお待ちしたいと存じます。

関連するQ&A

  • ブッダ葬送がやっぱし必要ではないでしょうか

    ブッダ葬送がやっぱし必要ではないでしょうか  (α) 末法が 現実であるのではないでしょうか。  (β) もう何も新しい思想は ブディズムからは出て来ないのではないでしょうか。あとは 広義の訓詁註釈のみではないでしょうか。  (γ) 後世に現われた広義のブディズムは ブッダをきちんと葬送して初めて その生きた思想は生きるのではないか。    (δ) 《慈悲》は 人間にとっておこなうことは出来ないと なぜ明らかにしないのでしょう。出来るのなら ふつうの思いやりです。無縁慈悲は 絶対の愛のごとく 実践はむつかしい。  (ε) 《縁起共生=空観》――てっとり早くは 関係主義の思想――は当たり前だと なぜはっきりさせないのでしょう。そうでなければ ただ精神において理念や美を描こうとしたその想像世界です。  (ζ) 《仏性》ほど 唱えていながら それにもかかわらず はっきりさせないものはないのではないでしょうか。絶対普遍のことなら そうだと言うべきでしょう。そうでなければ ただのお慰みのおもちゃです。思いやりの問題に還元されます。  (η) 一たんきちんと 葬送をしておく必要があるのではないでしょうか。そうすれば ひょっとして 復活する恵みが起きるかも知れません。  言いかえると いまもこれなら生きているというおしえを おしえてください。

  • 仏様に人格はあるか

    独学で仏教の思想をかじっているものです。これまで読んだ本の知識では、己の執着心を捨て、自分内面へと掘り下げていくと、そこは無の世界観であり、混沌とした、増減しないエネルギーの宇宙の下、縁起により、絶えざる変化の結果として生まれた形(色)が顕現するだけの無秩序に向かう思想と理解してます。また、一切衆生悉有仏性により、だれでも仏様になれる可能性を有しており、修行して努力すれば、真の自己にいたり仏様になれるという理解です。このように、修行して慈悲(悟った人が悟りを求めぬ人に悟りを求めさす)ことが出来る覚者となった仏様の人格(道徳的行為を持った主体としての個人)をどう考えればいいのかが分からなくなります。空の世界観では、自性(単独で自立した主体)はないとのことで、仏様は人格はないのでしょうか?間違った理解のためにかなり混乱しているかもしれませんが、かなり仏教にお詳しい方がたくさんいらしゃるようなので、回答をお願いいたします。

  • 慈悲は 経験現実か

     わたしたち人間のおこなう行為であるのか これを問います。  《ウィキペディア:慈悲(じひ、パーリ語mettaa、サンスクリット語maitrii, karuNaa)》にもとづき設問します。  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2  まづ 《慈》も《悲》も 日本語での 友がら・やさしさ・思いやりといった言葉と同じように 生活の中から出た言葉であって( 人間S語 ) しかも 抽象一般化し また 概念を純粋化し高めたもの( 普遍A語 )と考えられます。高められたとき それは 実践しうることだと見ているのかどうか このことが知りたいことです。  ▲ (ヰキの記事に 私註をはさみつつ)~~~~~~~~~~~~  〔《慈》にあたる〕サンスクリット語の「マイトリー(maitrii)」は、「ミトラ」(mitra)から造られた抽象名詞で、  【S語】 本来は「友情」「同志」の意味である。しかも、  【A語】 ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもち、友誼を示すことをいう。  したがって慈とは、このようないっさいの人々に対する平等の友情をいう。  次に、〔《悲》にあたる〕サンスクリット語の「カルナ(karuNaa)」は  【S語】 「優しい」「哀れむべき」というのであるが、その原意は「呻き」(うめき)にあるという。「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。  【A語】 その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。  仏教ではこの慈悲心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲である。いわば慈悲心の生起する理由とその在りかたをいう。  (一) 衆生縁とは   衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。    ☆ (これは =【S語】か?)  (二) 法縁(ほうえん)とは、   すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をいう。    ☆ (これは ≒【S語】か?)  (三) 無縁とは   慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。    ☆ (これは =【A語】であろう。あたかも≠【S語】か?)  この三縁の慈悲とは、  第一は 一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、  第二は 聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にあるものの起こす心、  第三は 仏の哀愍の心であると言える。  この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahD-karunD)と言える。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  Q1. 慈悲は 全体として 人間に実践可能か。  Q2. 〔可能だと仮定した場合〕 三縁の慈悲のうち 第三の《無縁の慈悲》は 《仏性》のことと違うのか。  Q3. 仏性と同じだと仮定して ならば すべての人間が 慈悲を実践しうるとなるのか。それとも 人は仏性を宿すが 慈悲を実践しうる者とそうでない者とに分かれるのか。分かれるとすれば それは なぜか。

  • 慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?

     わたしたち人間の能力を超えていることなのか? それとも 人間のおこないうる行為であるのか? これを問います。  《ヰキペ:慈悲(じひ、パーリ語mettaa、サンスクリット語maitrii, karuNaa)》にもとづき設問します。  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2  まづ 《慈》も《悲》も 日本語での 友がら・やさしさ・思いやりといった言葉と同じように 生活の中から出た言葉( スサノヲ人間( S )語 )であって しかもすでに同時に 抽象一般化しまたその概念を純粋化し高めたもの( アマテラス普遍( A )語 )であると考えられます。  抽象化され高められたとき それは 実践しうることだと見ているのかどうか このことが知りたいことです。  ▲ (ヰキの記事に 私註をはさみつつ)~~~~~~~~~~~~  1. 〔《慈》にあたる〕サンスクリット語の「マイトリー(maitrii)」は、「ミトラ」(mitra)から造られた抽象名詞で、  【 S 語】 本来は「友情」「同志」の意味である。しかも、  【 A 語】 ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもち、友誼を示すことをいう。  したがって慈とは、このようないっさいの人々に対する平等の友情をいう。  2. 次に、〔《悲》にあたる〕サンスクリット語の「カルナ(karuNaa)」は  【 S 語】 「優しい」「哀れむべき」というのであるが、その原意は「呻(うめ)き」にあるという。  「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。     ☆(私註) これらの S 語は 日本語の《もののあはれ》に通じて     いると思われます。  【 A 語】 その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。  3. 仏教ではこの慈悲心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲である。いわば慈悲心の生起する理由とその在りかたをいう。  (一) 衆生縁とは   衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。    ☆ (これは =【 S 語】か? つまり経験現実か?)  (二) 法縁(ほうえん)とは、   すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をいう。    ☆ (これは ≒【 S 語】か? そのような経験現実か?)  (三) 無縁とは   慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。    ☆ (これは =【 A 語】であろう。あたかも≠【 S 語】か? それとも 【 S 語】じたいの中に潜在しているというのか?)  この三縁の慈悲とは、  第一は 一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、  第二は 聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にあるものの起こす心、  第三は 仏の哀愍の心であると言える。  この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahD-karunD)と言える。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  三縁の慈悲のうち 第三の《無縁の慈悲》は 《仏性》のことであるとも考えられます。そのことをも含めて 慈悲は 人間の実際におこないうる現実であるか? こう問います。  あるいはまた 《もののあはれ》という S 語は 普遍 A 語の内容をも宿しているか? この問いも含みます。  ずばりおしえてください。

  • 葬送とは?

    タイトルのままなのですが,“葬送”とは具体的には葬式から火葬までのどの部分でしょうか? 

  • ブッダについて

    閲覧ありがとうございます。この世を一切皆苦と表現したブッダですが、何故子どもをつくってはいけないという教えを作らなかったのでしょうか?

  • ブッダについて

    ブッダの人生観について教えてください! お願いします!

  • ブッダ

    ブッダの説いた「無我」について詳しく教えていただけませんか?? ウパニシャッドやアートマンや五蘊などの点で特に・・

  • 葬送曲

    皆さんは自分の葬送曲にどんな曲を流してほしいですか? あ、カテ違いかもですけど。 私はデヴィッド・ボウイの「ロックンロールスイサイド」かビートルズの「レット イット ビー」「ロング アンド ワインディングロード」のどれかが流れてくれればなぁと思っています。 ツェッペリン信者ですが「天国への階段」は嫌です。

  • 現代の葬送について

     最近では、テレビなどメディアでオリジナリティのある葬儀とか、市民団体で葬儀を挙げるとか、葬儀社以外の団体のサポートによる葬儀を挙げるとかなどと色々興味ある事が頻繁に出て来ていますが、これについてお聞きしたいと思います。  私などが関係したり知っている有名な市民団体やサポートしている方々は、大概というよりすべてが葬儀社のアドバイスや実際に葬儀社へ動いてもらっています。または、葬儀社を辞めた方が新しいビジネスでと願って活動しています。  そして、そこには美味しい利益などとあってはならない事を考えてます。  そんな現代の葬送について疑問などあればお聞きしたいのですが・・・  そして、皆様が本当に望む葬儀とは何かなと改めてお教え頂きたいのですが、いかがでしょうか。  勿論すべての方がそれぞれお考えが違うと思います。  私も壁にぶち当たっている感じがしています。  お教えください。