• ベストアンサー

ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか

qsxdrfvgyhの回答

回答No.37

いよいよ、終盤のようです。終局局面に至ったと思います。  ★ 『有為なる<絶対>』ではなく、『無為なる<絶対>』ならば、「究極の他者」と同類にできそうです。  ☆ 概念の規定にきめ細かく対処して行っておられるようですが そして むろん そのことは 大事だとわたしも思いますが 定義は 反面で 単純明快であるのも よいと思います。  ○ 相対の世界を超えたところ  ○ 表象し得ないもの(領域)  ○ 表象し得ず 語り得ず 記述し得ず わづかに そのものの代理としての表現で 互いの了解を得て 想定しておくもの これが 絶対である。  ☆ これで どうでしょう? 《 X 》でいいのだと思います。それこそ 《鰯の頭》でもいいわけです。これらの記号や言葉も 《絶対》そのものではなく 代理の表現でありますし しかも 《絶対》という言葉も 同じく 代理のしるしだということになります。  ですから 《無為》でもよいでしょうし 《究極の(あるいは 欠如としての)他者》(――《 Autrui 》という言い方を フランス哲学を真似て していたみたいですね――)でも もちろん 通ります。 絶対者 神 について、論ずるべき段階のようです。ウパニシャッドから仏教に流れ込んでいるブラフマン(梵天)に関する言及です。この人格神は、比喩的な形で、記述できないのに「記述した」仏教の論理矛盾の例になります。まだ、ウパニシャッドの方が「まし」です。つまり、理性を超越していると認めているので、具体的に記述できないわけです。そこで、記号を仮に与えて、説明にならない、曖昧なイメージで「記述を擬制した」わけです。ウィッキに依れば、ブラフマンは、「宇宙の源」であり、「世界の魂」であり、「普遍」的に偏在し、「創造者」と位置付けられ、ヴィシュヌとシヴァとも一体であると書かれています。これって、実は何ら具体的にならない記述で、創造以外如何なる行為も記述されていないわけです。そして、創造者なので、他によって創造されたわけではないですから、「唯一」でもあります。仏教の梵天は仏陀に布教を勧めたわけですから、御伽話程度で、児童文学ジャンルでしょう。(童話にこそ哲学に通じる背景を感じるものもあるわけですが、ここでは論理的外形がないという意味です。) 『無為なる<絶対>』でも「究極の他者」でもブラフマンでも《 X 》でも《 Autrui 》でも仮称は何でも良くて、絶対者は宇宙・時空の(虚妄的)創造以外如何なる行為も記述されていないわけですから、《無為》なわけです。本当は、論理を貫いて、創造も記述したくないのですが・・・つまり、記述に見せかけて実は何も記述できていないという手法です。「ふーん、それで」な状況です。  ★ 空観は、中道ですから、対極点に通じる「絶対」という概念とは、馴染まないように思いますし、  ☆ 《対極点に通じる「絶対」》というのが よくわからないでいますが いま上のように想定した絶対からいけば この絶対の立ち場(もしくは それとの関係を あたかも絶対的に 持った人間の立ち場)に立って 見た世界観が 空観だと考えます。中道であり 世界の縁起関係が 見えているということではないでしょうか。 たとえ話です。中道のイメージは、春分・秋分です。絶対のイメージは、夏至・冬至です。つまり、絶対は、どちらか一方の極限状態だということです。針が振り切れている。そういうイメージでの《対極点に通じる「絶対」》という表現です。ですから、森羅万象に内在する空観(世俗諦)とは違い、絶対は、森羅万象・理性の超越者(外側)で、ブラフマンの偏在性という内在でもなく、ブラフマンが超越的ならば一致するでしょう。 また、「究極の他者」は、「私」からは、如何なる視点も持ちえず、言葉で記載できないという意味の他者と考えていますから、やはり、内在ではなく、超越的なのです。この点では、「絶対」に通じてはいます。先の回答で、「全宇宙のアスペクト変換」と書きましたが、正確には、全宇宙内では視点を持てないようなアスペクト変換(つまり理性では不可能ですが)によって示されるかもしれないような超越というイメージです。(破綻的・矛盾的な記述手法です。) > じつは――ひとこと つけくわえますが―― これが このままで すでに 《信仰》なのですよ。  絶対は 考えても・表象しようとしても 分からないのですから それと対面すると言っても 経験思考は及びません。そのときには 《信じる(もしくは 信じない=つまり 信じないとして 信じる)》という態度になっているはづです。《信じないとして信じる》のは いわゆる無神論になります。そういう信仰です。 経験思考は及ばず、思考停止しかないので、信じる・信じないになるというのには、反対です。論理を尽くした先にある理性を超越した「無為」の手がかりを探究してみようという興味だけです。 > つまり 絶対は 《非有非無》ですから 仮りに その想定をさらに延長して あたかも 代理表現の仮想世界をわざわざ作ってしまうとするならば 絶対(つまり簡単に 神)が《有る》とするか 《無い》とするか どちらか二つに一つです。あくまで すべては 虚構の世界における出来事です。 絶対が 《非有非無》ならば、「絶対(つまり簡単に 神)が《有る》とするか 《無い》とするか どちらか二つに一つです。」には、なりません。 > そして 添え書きとしては 《〈無為〉に対して採る〈有為〉の人間の態度》 これが 信仰だと思います。人間である限り 《世俗諦》にとどまるのは 致し方ないと思います。(円成実性もそうでしょう)。 無為の探究のみです。有為の信仰は、関心外です。 > ということは 《勝義諦》は あくまで 《絶対》という純粋(?)な概念ということになります。しかも これを 擬人化して表現すれば 《神》ということになっています。(これは 信教の自由・表現の自由という次元に移って一段 世俗的になった情況での話です)。 超越的なところは、共通ですから、、絶対は、森羅万象・理性の超越者(外側)という切り口と《勝義諦》、無為の切り口が、微妙に違う感じがします。現時点では、その差異が、僕も指摘できないのです。 > これが 信仰にかんする哲学だと思うのです。このことを 仏教は どういうわけか おこなわない。こういう物言いなのですが? 仏教は、無我に至る悟りの修行を説き、世俗諦に終始し、勝義諦の哲学的探究には、失敗しているということかもしれません。つまり、救済の実践の方を優先しています。

noname#80116
質問者

補足

 qsxdrfvgyhさん 今回は異論が出ますね。細かいところですが 重大であるかも知れません。ご回答をありがとうございます。  ○ 信仰  ☆ についてです。これは もとより 主観の行為であり どこまでも 主観の問題なのですが 哲学として 第三者からの分析も 可能です。  ★ 無為の探究のみです。有為の信仰は、関心外です。  ★ 経験思考は及ばず、思考停止しかないので、信じる・信じないになるというのには、反対です。論理を尽くした先にある理性を超越した「無為」の手がかりを探究してみようという興味だけです。  ☆ 元も子もない言い方をしますが この  ★ 探究  ☆ は 表象し得たならば 経験思想であり そうではなく あくまで 表象し得ぬ領域という想定に相い対しているという姿勢や態度であれば それは 《非思考の行為》です。どちらか一つに区分けされます。後者の《非思考の行為(これはつまり 心の わづかの動きとしての伸び・志向性のようなもの。さらにつまりは たとえば 〈表象し得ぬもの〉を 仮想の行為としてでも 受け容れるという心の振る舞い)》 これが 《信じる》という有為の経験行為であり 一般に 《信仰》と呼びます。  したがって この広義の《信じる》には 《〈受け容れない〉という態度。つまり 仮りにだが 無だというふうに捉えて 狭義の意味での信じることをしない》振る舞いも 含まれます。  すなわち 仮りの《絶対》を 一方では 仮りの仮りとして《有》と想定し 他方では 同じく《無》と想定するという振る舞いが現われます。どちらも 全く互いに対等な行為です。つまり 早く言えば 有神論と無神論というともに《信仰》の具体的な形態だということになります。  この《絶対》ないし《無為》にかんして 代理表現によって説明するとき  ★ 本当は、論理を貫いて、創造も記述したくないのですが  ☆ というご指摘は ごもっともだと考えます。つまり  ★ 創造  ☆ にかんしては 代理する段階が 二つあって初めて 現われます。第一段階は 《絶対》を 擬人化の手法で 《絶対者》と呼び 古くからの言葉で一般的な意味での《神》と呼ぶ局面です。第二段階は この《神》を さらに 《世界を創造した主体》だというふうに 人間の自己の思惑をすでに容れて 表現する局面です。  これは 経験世界を超えているという初めの想定に合致していると思わる限りで 間違いではないとされるでしょう。本体に伴なわれている属性だという捉え方になると思います。  あえて もう一点 異論です。  ★ 仏教は、無我に至る悟りの修行を説き、世俗諦に終始し、勝義諦の哲学的探究には、失敗しているということかもしれません。つまり、救済の実践の方を優先しています。  ☆ 《つまり》以下に 異議があります。上のように 信仰の類型論を捉える限りでは 信仰の類型的なあり方を 主観の問題ではありながら その自己を紹介するかたちで どうなのかを 明らかにすべきだと考えます。つまり 有神論か無神論か どちらなのかです。そうしておくと 互いの交通対話において ずいぶん なめらかに 話がすすむと思われます。  したがって そのように自己の《信仰類型》を明らかにすることこそ 《救済の実践の第一歩》だと考えられるのです。いま言っていることは いやそうではなく それは 形式的なだけではないかと思われるかも知れませんが 必ずしもそうではないはづです。  なぜなら たとえば《阿弥陀仏を 〈信じる〉のですよ》とはっきり説明したり あるいは 《〈信じる〉のではありません。無神論にのっとって 人間の自己の能力と知恵を発揮して ブッダの境涯にちかづくのです》と説明したりというふうにして 救済の実践〔の第一歩〕が優先されるはづです。《なんとなく悟りが大事》というのではないはづですから。(そのような雰囲気も 雰囲気としてあるでしょうが)。  * あとの論点は 保留しても 逸れて行ったりしないと思います。

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