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源義経

源義経と言ったら壇ノ浦の戦いが有名ですよね。でもその後は兄である源頼朝と対立し、自害したと学校で習いました。  でも、テレビなどを見てると自害せず元に逃げたという説を聞きました。他にもどのような説があるか気になるんですけど、詳しい人がいたらおしえてください。

noname#53352
noname#53352
  • 歴史
  • 回答数5
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質問者が選んだベストアンサー

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回答No.2

 先に回答された方の通り、義経=チンギスハーン伝説は、年号が交差する為、今も伝説として残っていますね。  また、義経が自害したのは夏で、その首が頼朝の元に届くまでに腐敗しただろうし、頼朝自身が届けられた首を前にして確認しなかったとも聞きます。  史実は誰にも分からないでしょう。鎌倉時代の話であり、現代に至るまでに、どこまで脚色されているか分かりません。

noname#53352
質問者

お礼

義経の首が頼朝のところに届けられたのはしりませんでした。歴史は本とか嘘か分からないとこがまた面白いです。

その他の回答 (4)

  • sunset2nd
  • ベストアンサー率10% (4/39)
回答No.5

補足ですが義経の首が鎌倉に届くまで一月以上もかかり時期も夏だったので義経本人のものかどうか確認できる状態じゃなかったらしいです。 義経がチンギスハーンになったと言うのはあくまで仮説ですが孫のフビライの元寇は祖先の無念を晴らすためと言う説もあります。 アイヌ民族の信仰していたオキクルミが義経で東北、北海道に残る義経伝説の延長線が大陸まで行き年齢が近いチンギスハーン=義経となり判官贔屓で世に広まったらしいです。 義経の叔父の為朝が大島から沖縄にたどり着き子孫が琉球王朝の祖、舜天になったという伝説もあります。

  • zexus
  • ベストアンサー率34% (148/427)
回答No.4

私は司馬遼太郎の義経を読んだのですが そこではある寺で自害したと載っていました。 個人的には、元に逃げてチンギスハーンになったというのは、偽りだと思います。チンギスハーンは父親が誰だかわからないだけで、母親もちゃんといますし、出生ははっきりしています。 テレビでは希望を持たせるために、元に逃げたとしたのではないでしょうか? やはり自害したというのが正しいのではと思います。

  • accura
  • ベストアンサー率20% (141/686)
回答No.3

北海道には義経伝説が数多くあると云います。北海道に渡った記録は ないのも関わらずです。華やかな部分だけではなく、兄頼朝に追われ、 東北に落ち延びて行くその姿に人々は伝説を作り上げたのでしょう。

  • harepanda
  • ベストアンサー率30% (760/2474)
回答No.1

義経が元に逃げてチンギスハーンになったというのは、「英雄には死んで欲しくない」という民衆の願望による、作り話に過ぎないと思います。 万が一、義経が東北で細々と生き延びていても、少なくとも、政治的には死んだのと同じです。

noname#53352
質問者

お礼

やっぱりそうですよね。チンギスハンになってなんかいませんよね。もしなってたとしたら、歴史が楽しくなるのにな。

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