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源義経が壇ノ浦の戦いの捕虜を連れて鎌倉を目指した際、頼朝は、義経が頼
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義経、行長に頼朝追討の令を下しましたが、これは院宣でなく「宣旨」でした。 義経等に脅迫されやむなく後白河法皇が命じたのですが、 「宣旨」は天皇の命令で、「詔勅」に比して内輪の文書です。 法皇はこの宣旨を出したあと、すぐに義経達に悟られぬように、頼朝に釈明の使いをだしました。 しかし頼朝の怒りは解けず、頼朝に義経、行長を召し捕るべしとの「院宣」を下しました。 「院宣」は法皇の命令ですが、天皇の「詔勅」と同格で「宣旨」より上格です。 従い天皇の宣旨の後、法皇の院宣が出れば後の上位の院宣の方が効力があり、実質宣旨は失効になります。 もっとも宣旨といっても法皇が出しているのですが。 前言取り消しという事ですか。 一応矛盾はなく、後白河法皇のしたたかさはたいしたものです。 武家に生まれれば英雄になったでしょう。
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お礼
院宣=上皇・法皇、綸旨=天皇、令旨=親王や王・皇后の皇族、御教書=三位以上の者・・・のそれぞれ近臣が出す、 と思っていましたが、 そのほかにも、宣旨という内輪の文書があるのですね。 ありがとうございます。