• ベストアンサー

 源義経が壇ノ浦の戦いの捕虜を連れて鎌倉を目指した際、頼朝は、義経が頼

 源義経が壇ノ浦の戦いの捕虜を連れて鎌倉を目指した際、頼朝は、義経が頼朝に無断で、後白河法皇から検非違使に任命されたことに怒り、鎌倉入りを拒みました。 これに対し、後白河法皇は、義経に、頼朝討伐の院宣を出しましたが、 これに怒った頼朝が大軍を京に向けたところ、今度は後白河法皇、頼朝に、義経討伐の院宣を出したと認識しています。  短期間のうちに、お互いを討伐するような院宣を出すことはありえるのでしょうか? ご存じの方、よろしくお願いします。

  • 歴史
  • 回答数1
  • ありがとう数2

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • Pinhole-09
  • ベストアンサー率46% (597/1294)
回答No.1

義経、行長に頼朝追討の令を下しましたが、これは院宣でなく「宣旨」でした。 義経等に脅迫されやむなく後白河法皇が命じたのですが、 「宣旨」は天皇の命令で、「詔勅」に比して内輪の文書です。 法皇はこの宣旨を出したあと、すぐに義経達に悟られぬように、頼朝に釈明の使いをだしました。 しかし頼朝の怒りは解けず、頼朝に義経、行長を召し捕るべしとの「院宣」を下しました。 「院宣」は法皇の命令ですが、天皇の「詔勅」と同格で「宣旨」より上格です。 従い天皇の宣旨の後、法皇の院宣が出れば後の上位の院宣の方が効力があり、実質宣旨は失効になります。   もっとも宣旨といっても法皇が出しているのですが。 前言取り消しという事ですか。 一応矛盾はなく、後白河法皇のしたたかさはたいしたものです。  武家に生まれれば英雄になったでしょう。    

cambodian
質問者

お礼

 院宣=上皇・法皇、綸旨=天皇、令旨=親王や王・皇后の皇族、御教書=三位以上の者・・・のそれぞれ近臣が出す、 と思っていましたが、 そのほかにも、宣旨という内輪の文書があるのですね。 ありがとうございます。

関連するQ&A

  • 源 義経と頼朝の間には!?

    源 義経は平氏をやぶったのに源 頼朝はなぜ鎌倉に入れなかったのだろうか!?

  • 源義経はなぜ官位を受けてしまったのでしょう

    頼朝の許可なく官位を受けてしまったのはなぜでしょうか?ただ単純にうれしくて受けただけでしょうか。また授けた後白河法皇はやはり頼朝と義経の対立をもくろんで授けたのでしょうか。

  • 源義経

    源義経と言ったら壇ノ浦の戦いが有名ですよね。でもその後は兄である源頼朝と対立し、自害したと学校で習いました。  でも、テレビなどを見てると自害せず元に逃げたという説を聞きました。他にもどのような説があるか気になるんですけど、詳しい人がいたらおしえてください。

  • 梶原景季が源頼朝・義経の不仲の原因の一つ?

     石橋山の戦いで源頼朝を救った梶原景時、 その子である梶原景季が、 源頼朝と源義経の不仲の原因の一つと聞きましたが、 そうなのでしょうか?

  • 頼朝、義経、泰衡

    藤原泰衡は源義経を衣川で襲撃した後、源頼朝に討たれますが、例えば義経と泰衡が協力し合っても、同じ結果になったのでしょうか??? 「IF」なのですが、義経と泰衡に、鎌倉幕府や頼朝に対抗できる、あるいは、対抗できないにしても、せめて捲土重来を期して生き延びる手段・方法があったら教えてください。 一番貧乏籤を引いたのは「泰衡」ですよね。やはりバカだったと評価すべきなのでしょうか???

  • 源義経の肖像は誰が画いたものでしょう。鎌倉のサイト(↓)などに載せられ

    源義経の肖像は誰が画いたものでしょう。鎌倉のサイト(↓)などに載せられているもは本人であることがかなり確実なのでしょうか。頼朝像はかなり怪しいそうですが…。 http://www.kamakura-burabura.com/jinbutyositune.htm

  • 源頼朝は評価に値する?

    頼朝は武家政権確立の立役者と言われて評価されていますが本当に評価に値するのでしようか? 頼朝は鎌倉を本拠に据えてからはほとんど自分では戦わず 弟の義経に平家討伐を任せ 邪魔になったら逆賊にして消す 確かに駒として使われた義経が愚かと言われればそれまでですが しかし頼朝が天下を取れたのは間違いなく義経がいたからだと思います 徳川家康でさえ関ヶ原や大阪の陣では自ら出陣し戦って天下を取りました 天下を奪ったということは2人とも同じですが 家康のほうが潔さみたいなものを感じられます ほとんど実績という実績もあげず天下を収めた頼朝は本当に評価されるべき人物でしょうか?

  • チンギスハーンが源義経だとする仮説について

    チンギスハーンが源義経だとする仮説(俗説程度に過ぎませんが)は 義経が頼朝から逃亡するときに北海道へ逃げて アイヌ民族の助けを借りて(頼朝は征夷大将軍でアイヌ民族を攻めていたので)モンゴルへ逃げて モンゴルで将軍になって死後に子孫のフビライハーンが仇討ちで頼朝が作った鎌倉幕府を滅ぼそうとして元寇を仕掛けたってことですか?

  • 西行と源義経の接点

    西行さんは1118年に生まれ、出家をしてから、1146年に初の奥州行き。縁者を訪ねての旅とのこと。1186年に再び、焼け落ちた東大寺大仏殿の再建を勧請するため、奥州藤原氏を訪れているらしいです。 一方、源義経は、1159年生。1187年に頼朝に追討をうけ、奥州に落ち延び、1189年に泰衡に責められて自刃したようです。 二人の人生は、保元の乱、平治の乱の後の混乱期に、場所も、京都・鎌倉・奥州、と重なっているようです。西行さんと頼朝のエピソードはいくつか残っていますが、義経との接点を何かご存知の方がおられましょうか。 頭の隅に、いつも疑問に思っていたことを思い切って質問します。 よろしくお願いします。

  • 平重盛

    歴史に「もし」はないですが、平重盛が清盛よりも長く生きていたら、後白河法皇との関係もずっと穏健なもので、平氏政権ももう少し長く続き、頼朝の鎌倉政権ももう少し、遅れたのではないかと思いますが、どう思いますか?お答えください。