源 義経と頼朝の間には!?(1/2)

締切り済みの質問

源 義経と頼朝の間には!?

源 義経は平氏をやぶったのに源 頼朝はなぜ鎌倉に入れなかったのだろうか!?

投稿日時 - 2009-06-03 22:14:19

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QNo.5014700

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回答(8件中 1~5件目)

ANo.8

 朝廷と距離を置き、賞罰の権限をもって武士を治めるつもりでいた頼朝にとっては、義経の行動を認めるわけにはいかなかったのではないでしょうか。
 義経の例外を認めてしまえば、今後次々と朝廷におもねる武士が現れることは想像に難くありません。
 身内であればこそ、余計に許せなかったのでしょう。
 ついでに言えば、利用価値のなくなった義経を厳しく断罪することで、逆に幕府の権勢を磐石にすることが出来ると考えたということもあるのでしょう。

投稿日時 - 2009-06-04 16:45:01

ANo.7

 回答番号:No.4、No.6  何回もしつっこいけれども、食事中に思いついたことです:

 1. 多分軍事専門者の目で、自分の居を構える地域を見られたくない。という配慮があったのかもしれませんね。

 2. そして勢いにのっていて、強大で殺伐たる軍隊が平和な居城地域に入ってきて、空気を変改することも、回避する意思もあったかもしれませんね。

投稿日時 - 2009-06-04 13:28:47

ANo.6

 「三種の神器」を喪失したり、「ジュネーブ協定」に違背するのは、将たる資質に悖るのでしょうね。
 略奪と殺戮で戦場を駆け巡る、常軌に身を持せない兵卒か、その頭目の器なのかもしれませんね。
 いろいろ伝説と手柄は伝わっていますが、兄弟として遇することになる前に、距離をおく必要があったのかも知れませんね。
 何かと、後々に過災い(わざわい)があるとの判断がなされているかもしれませんね。
 示唆に富むご回答のご指摘の他に、このような事情もあったのではないかと、愚考します。

投稿日時 - 2009-06-04 12:18:07

ANo.5

義経の戦法が禍して「三種の神器」を喪失してしまい頼朝は天皇を正統化するのに苦慮した
こういうこともあったかと思います
義経の戦法は現代でいえば「ジュネーブ協定」を蹂躙するものであったようで源氏の評価を下げることになりそうです

投稿日時 - 2009-06-04 09:10:09

ANo.4

 門外漢ですが:
  対応が可能であった、頼朝と義経の立場。
  そういう対応のための、大義名分。
  そういう対応が必要であった、頼朝側の状況と立場。
 などから考えることなのでしょうが、私は義経像には多分に後世の粉飾があるものと存じます。
 一例としては戦略において、従来の観念からは許容されざる方式もあえて採用してきたという言動上のことも、義経側にはあったと存じます。
 そういうことは必ずしも、公論の評価するところにはならないで、むしろ、義経を迎える事は頼朝の看板に思わしくない事柄であったのではないでしょうか。
 そういうこともあったかな、と存じます。
 意外に、現代では隠れた事実があるのではないかと存じます。

投稿日時 - 2009-06-04 07:52:09

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