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源義経の人物像と死

今どき、陳腐な質問で恥ずかしいのですが、皆さんのお考えを教えて下さい。 歴史に関する本を読んでいましたら、源義経は、藤原泰衡に攻められ、衣川館の持仏堂で自害したというのが、定説で、正史の一等資料といわれる「吾妻鏡」も、そのように記されているということのようですが、私の読んだその本には、「義経が平泉を脱出して生きていたという証拠は多くある。」とも書かれていました。……具体的な証拠には触れられていません。 私も、「義経……ジンギスカン説」までは信じませんが、「吾妻鏡」にしても、義経の死の部分は、義経の死後80年も経って書かれているそうで、「信憑性も疑われる」とありました。また、義経の首は、「杉目小太郎行信」の替え玉説もあるとのことでした。 ここで、考えられるのは、 (1) 義経は、吾妻鏡にあるように、衣川館の持仏堂で自害した。 (2) 義経は、平泉を脱出して生きのびた。 (3) 現時点では、どちらとも言えない。どちらを信じるか?というだけの問題だ。 ということではないかと思いますが、皆さんのお考えを教えて下さい。 また、義経の人物像について、大方の見方は、「戦には強いが、少々配慮の足りない、政治的には無能の弱虫」という評価のようですが、この義経の人物像について、皆さんのお考えを教えて下さい。

noname#205122
noname#205122
  • 歴史
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みんなの回答

回答No.7

●義経神社があったり、義経伝説がありますが ○そうです。北海道の義経神社は「義経北行伝説」に基づいて江戸時代に創建された物ばかりらしいです。 ●北海道の開拓が本格的に始まったのは、明治になってからだと思いますが。 ○そのとおりです。そしてそこに誤解があるのです。  確かに「農業・酪農」による開拓は明治以降ですが、それ以前にもアイヌの人々が住み、松前藩との交易が行われ、交易所も開設されていたのでそこそこ和人が北海道各地に入り込んでいたのです。 ●生き延びた可能性は?となってくるのです。 ○「可能性」と言ってしまうと織田信長が本能寺の変で、明智光秀が山崎の合戦で、豊臣秀頼が大坂夏の陣で死なずに生き延びた可能性だってあります(実際、そのような主張をしている人もいます)。  先にも述べたとおり「歴史学」とは「資料を積み重ねて蓋然性の高い事項を抽出する」ものなので、可能性や不確実な資料に基づいて語るのは「小説」となります(笑)。

noname#205122
質問者

お礼

再度のご回答恐縮しています。 「江戸時代に創建された物ばかりらしいです。」……北海道以外の地域では、江戸時代に作られた物なんて珍しくないかも知れませんが、北海道では、珍しいというか、異質ではないかと思います。(*^_^*)アイヌの人々は神社を建てなかったと思います。少数の和人が建てたとすれば、「何故、義経神社なのか?、江戸時代以降の義経北行伝説に基づいて、わざわざ作るものなのか?」という疑問が湧いてきます。むしろ、その地域に伝説があったと考える方が自然なような気がします。 歴史において、「蓋然性の高い事項」ということと、「可能性や不確実な資料」との間に、どのくらいの「有意差」があるのでしょうかねぇ。「歴史学」にはあまり興味はありませんが、「歴史」はおもしろい部分があります。

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.6

義経の評判が高いのは朝廷側に付いたからです。義経は平家(平氏の公家)に支配された関東武士(平氏と源氏)の本心が理解できていないのです。だから頼朝の立場がまったく分っていなかった。 奥州平泉の藤原秀衡の反対を押し切って鎌倉に馳せ参じるところも思慮深くは無いと思われる。平家憎しで平家を倒したが、平家に憧れであったのでしょう。朝廷から大夫判官の官位を勝手に喜んで貰うことが大失敗であったのです。義経の純粋さを後白河上皇に見透かされ、朝廷に手玉に取られたのでしょう。 義経の首が藤原泰衡から送られ頼朝が首実見している。泰衡もこれで頼朝に攻められないと思っているのだから、偽者とは思えない。もし逃亡したのなら後に軍事行動を起こすに違いないが、その記録は無い。

noname#205122
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 「泰衡もこれで頼朝に攻められないと思っているのだから、偽者とは思えない。」……質問後も、少し思いを巡らせていたのですが、義経の行く末を考えるときに、この「泰衡の人物像」というのが、極めて重要になってくるような気がしてきました。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10494/33001)
回答No.5

戦前に、スパイとして活動されたある日本人がいたそうです。この方、戦後のどさくさのときに改名して戸籍謄本をとりました。戦災で謄本が失われたりしたのでそういうことが簡単にできたのです。 おそらくそれは自分の過去を消し、かつての自分を知る誰かが自分や家族に危害を加えないための自衛策でもあったと思います。その方はもう鬼籍に入られたそうですが、戦後は死ぬまで改名した名前を名乗り続け、その名前で死亡診断書もとったので、なんと改名前の人物は死亡診断書が出ない(出ようがない)ので戸籍上は「今も生きている」という扱いになるそうです。 その方は息子さんがご存命で、息子さんが当然のことながらそのあたりの事情は直接に知っているわけですが、この息子さんも天寿を全うされてしまえばもうその方のことを直接に知る人はほとんどいなくなります。 そのくらいの時代になって、「実は改名した人はそう見せかけた替え玉だ」という人が出てきたら、今なら息子さんが一笑に付するでしょうが、直接に知る人がいない時代ならそれを否定することはできなくなります。 江戸時代のマルチプロデューサーであり、「土用の丑の日に鰻を食べることを世間に広めた人物」として知られる平賀源内は、人を斬ってしまい牢獄に入れられ、獄死します。しかし、表向きは獄死扱いにしただけで、密かに生きていたという伝説があります。ある旧家には「平賀源内が住んでいた」と代々伝わる隠し部屋があるそうです。 状況証拠からするとその可能性は充分にあり得るのですが、今でいうなら「オウムの麻原が密かに入れ替えられて出所している」みたいな話で、証拠があっては困ります・笑。 当時の奥州は藤原秀衡死後に源氏の圧力が高まり義経をかばいきれなくなったわけですが、当時はDNA鑑定も写真もなかった時代ですから「そういうこと」にしようと思えばいくらでもできたわけです。ただ、できたとはいえバレたらマズいわけですから、そりゃ厳重な上にも厳重に隠さなければなりません。 そういうのを含めて楽しむのが「歴史ミステリー」です。歴史ミステリーにはラストシーンの崖ですべての謎が明らかになるということはありません。カタルシスなきモヤモヤ感を楽しむのが歴史ミステリーの楽しみ方なのです。下山事件で、下山総裁が死後に汽車に轢かれたのか、汽車に轢かれて死んだのかは永遠にその謎は解けることはないのです。 さて、「吾妻鏡」ですが、他の方も指摘するようにこれは北条氏によって書かれた「御用公式見解」なので、北条氏にとって都合が悪いことは書かれていません。だから、いろいろと他にも謎があることで有名です。 有名なのが、源頼朝の死因です。「落馬して死んだ」とありますが、鎌倉幕府創業者の死が「落馬して死んだ」の一言で済まされるのはあまりに不自然です。前後に記述もないのです。ただ、「落馬して死んだ」のみ。他の資料には病死から平家の怨念を見て死んだまでいろいろありますが、共通しているのは「一致した見解がない」ということです。 また、源氏の血筋は三代目源実朝が暗殺されることで途絶え、北条氏の時代となります。このとき実朝を暗殺したのが源公暁という人で、この公暁、二代将軍源頼家の次男でございまして、つまり将軍家の血筋なんです。実朝が暗殺され、その暗殺犯がよりにもよって将軍家の血筋で、公暁も追われてすぐに討たれてしまっているので、これで源氏の血筋が絶えてしまったのです。 なんだか出来過ぎな気がしますでしょう・笑?

noname#205122
質問者

お礼

ご丁寧な回答ありがとうございました。 遠い過去にさかのぼらなくても、生存説、替え玉説の種が尽きることはないのですね。ご回答から「歴史の楽しみ方」というのを学んだような気がします。 『「そういうこと」にしよう』という、才覚、度量が藤原泰衡にあったか、どうか?というのが、気になっています。 『そういうのを含めて楽しむのが「歴史ミステリー」です。歴史ミステリーにはラストシーンの崖ですべての謎が明らかになるということはありません。カタルシスなきモヤモヤ感を楽しむのが歴史ミステリーの楽しみ方なのです。』……「歴史にIFはない」ともいわれますが、私のような素人は、あまり力まないで、歴史のロマンやミステリーを楽しんでも良いし、IFを楽しんでも良いのだという気になってきました。 「なんだか出来過ぎな気がしますでしょう」……そうですよね。それに、「落馬して死んだ」なんて、……嘘を書くなら、もう少し信じてもらえるような嘘を書けばと思うのですが、むしろ「疑われる」ことを意図した上で書いたとしたら、と思いを巡らすと……。

回答No.4

義経が政治的に無能で弱虫 というのは 梶原景時が頼朝に宛てた 義経への讒言の手紙によって植え付けられたイメージもあると思います 義経と頼朝を対立させたのは景時です 彼は義経を恨んでいたので何とかして義経を消そうとしていましたね 私が思うのは 義経は衣川で難を逃れ 北海道に逃げた という説 北海道のアイヌの伝承に「海を渡って南方から来た大和人有り、大男と数人の家来に守られてピクポに参る」というような歌があります これは義経と弁慶の事を指しているのではないかと思うのです 衣川で義経が討たれた とされるあと 鎌倉に届いた義経の首は腐っていて判別不能だったそうです しかもその首はなぜか まっすぐ平泉から鎌倉には来ず あえて何ヶ月も時間を掛けて鎌倉に届けられたそうです と言う事は その首は義経じゃなかった可能性もあります それに衣川を襲撃した藤原氏の家来は 「持仏堂には九朗殿(義経)の亡骸は無かった」と記しています と言う事は やはり衣川を脱した可能性が高いのでは? 義経は襲撃の日の朝「どうやら泰衡が裏切るらしい」ということを家臣から聞いていたということです 事前に知っていたなら脱出も可能です また 別の資料では 「衣川にて襲撃を受けた義経は持物堂に立てこもるも、その前に武蔵坊弁慶が立ちはだかり義経を脱出させた」というものもあります 弁慶の「仁王立ち」という言葉はここから来ているわけで これは信憑性のありそうな気がします いずれにせよ 義経は衣川を脱して北へ向かった可能性は高いでしょう

noname#205122
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 「梶原景時の讒言の手紙」というのは、ある程度、資料として評価されているということですね。源氏というのは、「梶原景時の讒言の手紙」によって、滅ぼされたともいえなくもないですね。 ご回答に紹介されているような、アイヌの伝承歌というのがあるのですね。しかし、義経はともかくとして、弁慶まで出てくると、衣川での「弁慶の立ち往生」はどうなったの?というか、少し眉唾でないかという気がしてきます。もちろん「弁慶の立ち往生」も相当英雄視されていると思いますが。 私の2つの質問に的確にご回答いただきありがとうございました。義経へのロマンがかき立てられました。(*^_^*)

回答No.3

では逆に「義経が生き延びた」ということを示す確実な資料はあるのか、ということになります。 私が知っている範囲では「義経が生き延びた」という話が出てくるのは江戸時代以降、特に沢田源内が発行した偽書『金史別本』に「清・乾隆帝の先祖の姓は源義経であり、清和源氏から国号を清とした」という話が元だそうです。 義経が生き延びて北行したという話も鎌倉時代までさかのぼるような資料はなかったと思います。 また、室町時代の御伽草子『御曹子島渡』では義経が蝦夷が島(北海道)に渡った話やおとぎ話的な話が多く記述されていますが、それでさえ義経は衣川の館で死んだことになっているそうです。 これらのことを総合的に考えれば「義経は、吾妻鏡にあるように、衣川館の持仏堂で自害したと考えるのが妥当」となります。 歴史も「学問」ですから「信じる、信じない」ではなく「資料を検討して妥当性のあるものを研究時点での史実と捉える」のです。

noname#205122
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 『「義経が生き延びた」という話が出てくるのは江戸時代以降』なのですか?私の住んでいる北海道にも、義経神社があったり、義経伝説がありますが、それらも江戸時代以降なのでしょうね。もっとも、北海道の開拓が本格的に始まったのは、明治になってからだと思いますが。 私も、「義経は、吾妻鏡にあるように、衣川館の持仏堂で自害したと考えるのが妥当」と思いますが、やはり「しかし」となってくるのです。(*^_^*) 北海道に渡ってきたかどうかは別にして、生き延びた可能性は?となってくるのです。やはり、 「判官贔屓」なのですかねぇ。(*^_^*)

  • oska
  • ベストアンサー率48% (4105/8467)
回答No.2

>今どき、陳腐な質問で恥ずかしいのですが、皆さんのお考えを教えて下さい。 いえいえ。 歴史は、どの国でも「都合の良い様に、時の権力者が考えた物語」です。 反日民国や反日人民共和国の国定歴史教科書でさえ、他国では「単なる物語扱い」です。 自国の都合のいい歴史を、他国に押し付けるのは「その歴史に自信が無い証拠」らしい。 日本書紀は、中臣(藤原)鎌足一族の権威付けを目的とした歴史書ですよね。 藤原一族・天智天皇について都合の悪い事は、意図的に?抹殺しています。 >具体的な証拠には触れられていません。 伝承は、多くの場合「証拠」は見つけるのが難しいのです。 多くの場合、敗者の(身分を隠しての)逃亡ですからね。 証拠を残していれば、捕まって処刑されます。 高知県にある武田勝頼伝承・徳島県の安徳天皇伝承は、非公認ながらお墓・骨壷とか諸々の古文書が見つかっています。 これらは、非常に珍しい状況ですね。^^; >皆さんのお考えを教えて下さい。 判官贔屓という言葉が有るように、日本人の思想には「敗者に同情」する傾向があります。 「幕府としては、義経は死んだ!」と宣伝しないと、体制固めが出来ません。 「生きていて欲しい」と思うのが、判官贔屓の感情。 結局は、どちらを信じるか次第でしよう。 日本は、思想・信条・教育の自由があります。 教科書に「義経は、持仏堂で死んだ」と書いていても「異説を堂々と主張する」事が出来ます。 反日民国や反日人民共和国で異説を唱えると、抹殺されますよ。^^; 教科書の内容だけでなく、色んな伝承・異説を知る事も楽しい事です。 現に、安徳天皇は「宮内庁発表でも、安徳天皇陵墓参考地」が5か所もあります。 これなんか、「壇ノ浦で入水したのは影武者+実際は逃れた」という伝承が無視できないのでしよう。

noname#205122
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 隣国の国定歴史教科書については、全く知識がありませんが、『他国では「単なる物語扱い」です。』というのは、想像はつきます。 「敗者の(身分を隠しての)逃亡ですからね。証拠を残していれば、捕まって処刑されます。」というのは、わかりやすいですね。説得力があります。 「判官贔屓」も、結局は、「どちらを信じるか次第」ということとつながるところがあるようですね。 『安徳天皇は「宮内庁発表でも、安徳天皇陵墓参考地」が5か所もあります。』というのは、はじめて聞きました。ロマンが広がりますね。(*^_^*)

回答No.1

小生も「義経⇒チンギス・ハーン説」は如何にも眉唾、小説家の思いつきに過ぎないと思っています。 鞍馬山での修行から武蔵坊弁慶との出会いなども、後世の付会が多いと思います。 源平合戦で戦功を立て、多数のファンが居たのは事実に近いでしょうが、義経の武勇伝も珍奇です。一軍の指揮者としての能力は、取り巻きにも支えられて絶大だったとしても、全ての戦闘場面で超英雄的に暴れ回る力は、とてものことに持ち得なかったで有ろうと。 朝廷との関係に一線を画して武士の支配体制を築きたかった頼朝と、朝廷からのお褒めにあずかろうとした義経、そこへ梶原景時の讒言、信憑性はともかくも、広範な武士達が次期政権を義経に、と期待した動きはあり得たでしょう。 幸か不幸か、頼朝も義経も、北条氏(実は平氏の流れ)から見れば宗家滅亡の大敵、平家の再興に利用されただけかに見えます。北条氏は、平家の宗家の地位を望んで、一時的に頼朝に手を貸し、それを実現したものかと。 吾妻鏡は北条氏の立場から書かれたもの、源氏一族は見せかけの英雄に過ぎません。 その後も平家筋の足利幕府へと繋がります。 義経を平家物語や吾妻鏡、後の講談のような大英雄とは思えません。

noname#205122
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 伝説が多いために、なにが史実なのか?それが分かりません。 私は、歴史については、まったくの素人ですが、やはり「平家の再興に利用されただけかに見えます。」ということなのでしょうか?私は、北条氏は、「平家再興」もあったかも知れませんが、背景は、「政権に対する欲」のほうが強かったのではないかと、推察しているのですが、なかなか賛同してくれる人はいません。(*^_^*) 吾妻鏡の位置づけなど、大変参考になりました。 最初の問いの(1)、(2)、(3)については、どう思われますか?差し支えなければ、お考えを教えていただければと思います。

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