- 締切済み
坂本龍馬暗殺はだれの指示なのですか
boke_monの回答
- boke_mon
- ベストアンサー率0% (0/0)
坂本龍馬を近江屋に襲って殺害したのは、京都守護職を務める会津藩に附属する京都見廻組。 そして、龍馬は寺田屋において拳銃で伏見奉行所の捕り方を射殺し逃亡した、いわゆるお尋ね者の咎で殺されたのであり、指示系統は伏見奉行を務める上総請西藩主林肥後守→京都守護職会津藩公用方・手代木直右衛門→京都見廻組与頭・佐々木只三郎。 幕府の諜者から龍馬が近江屋に潜伏しているという情報を得たものの、寺田屋の轍を踏むことを恐れた林が、剣客揃いの見廻組に出張ってもらえるよう取り計らってもらいたいと手代木に要請したのだと、このように私は見ています。 なお、一部の自称研究家が妄信している薩摩の西郷、大久保黒幕説と、土佐の後藤象二郎黒幕説はあり得ない。 まず薩摩藩黒幕説ですが、これは大政奉還を実現させたことで武力倒幕の邪魔をされたことを西郷と大久保が恨み、龍馬を殺したというもの。 しかし、西郷と大久保は土佐藩の後藤象二郎が龍馬の「船中八策」を基に提言したとされる大政奉還に賛同し、「薩土盟約」を締結しています。 西郷と大久保が幕府を倒す決意をしたのは、薩摩のお膳立てによって行われた長州藩の処分と兵庫開港問題を議題とする四候会議が、徳川慶喜の政略によりぶち壊された慶応三年の六月ごろ。 とはいうものの、西郷と大久保がまず考えたのは、兵力を動員した政変を起こして慶喜を将軍職から辞職させ、一大名の地位に引きずり下ろすことであり、いわゆる討幕をしようとしたのではありません。 これは、西郷が語ったこととして会談をした長州藩士柏村数馬が書き記しているので、間違いないでしょう。 さらにいえば、土佐の後藤も兵力を備えて大政奉還を迫り、慶喜が拒否すれば、兵力を動員すると述べた。 だから盟約を結んだのであり、後藤が兵を連れて土佐から戻ってくるのを待っているのだが、もし土佐が協力しないようなら、「時期をあい定め、薩摩一手にてことを挙げ候心得に御座候」とこう言い切ったとも、柏村は書いています。 ところが、山内容堂が武力をもって威嚇することに反対したことで後藤は兵を連れてこず、「それならば」と、薩摩も盟約を解消。 薩長芸の三藩で出兵協定を結ぶのですが、土佐に対しては、「大政奉還の建白書を提出していい」と伝えている。 慶喜が大政奉還を拒否すれば、それを名目に挙兵がしやすく、最終的に土佐藩も仲間に引き込める公算が大きいと読んだからですが、出兵そのものに反対する藩士が多く存在しているという御家の事情により、薩摩は計画そのものをを練り直さざるを得なくなり、後藤の大政奉還策を積極的に支援することになるわけです。 そして龍馬は、「土佐は薩長と協調すべきである」というのがそもそもの持論であり、武力倒幕論者の板垣退助の役割が大きくなると考え、オランダから大量の鉄砲を購入して土佐藩の武力倒幕派に引渡し、「大政奉還が名目だけのものになりそうな場合は、江戸の銀座を京へ移すという難題を持ちかけて時間を稼ぎ、急ぎ土佐に帰り状況を容堂公まで報告し、兵を派遣する用意をせよ」という手紙を、後藤に宛てて出している。 つまるところ、西郷と大久保が龍馬を殺さなければならない理由そのものが存在しない。 また、後藤黒幕説も、龍馬の「船中八策」を基に大政奉還策を考えたことについては口をぬぐい、自分の考えであるように山内容堂へ説明した。 その結果、容堂から褒められ、千五百石加増という大ボーナスをもらい、「船中八策」を基にしていることに口をぬぐったのがバレるのを恐れ、龍馬を殺したのだと云われています。 これを発表したのは推理小説家の三好徹であり、後藤が龍馬のアイデアを基にしたということに口をぬぐって言わなかったのも、どうやら事実のようです。 しかし、よく知られているように、もともと容堂は秩序派であり、軽輩の龍馬などは顔を見たことがないばかりか、その名前さえろくに覚えていなかったぐらいなので、ここで龍馬の名前を出したりしたら、話がこじれた可能性が高い。 だから「船中八策」については口をぬぐって言わなかったのだと見るべきで、もし千五百石の大ボーナスが不意になるのを恐れたのだとしたら、佐々木高行などを含め、殺さなければならない相手は一二に留まらないはず。 なお最後に付け加えれば、近江屋事件の一次資料である、龍馬殺害の嫌疑によって兵部省と刑部省が取り調べた元京都見廻組組士今井信郎の供述書には、龍馬ともども斬られた中岡慎太郎の名前はひとつもありません。 しかも、龍馬がかつて松代藩士佐久間象山門下だったことを調べ上げたからでしょうが、近江屋を訪れたさい「松代藩とか認めあるの偽名の手札」を差し出したということが書かれている。 したがってターゲットはあくまでも龍馬であり、中岡は側杖を食っただけと見るべきではないでしょうか。
関連するQ&A
- 坂本龍馬の人間性について
幕末に坂本龍馬は暗殺されましたがこれは幕府の保守派と薩摩長州の開国派との規制緩和との戦いではなかったのではないでしょうか。現在規制緩和のまっただ中、平成維新でライブドアとフジテレビの戦いと同じようなものではないでしょうか。幕末ではテロで暗殺されても仕方ないと思います。そこで、坂本龍馬は開国派で活躍しましたが本当に日本の国を思って動いたのでしょうか。最後に暗殺されましたが彼は海援隊という貿易会社を経営していたようですがどうも個人の繁栄のためではと思っています。本当に命を賭けて日本を救おうとしたのでしょうか。現在では龍馬は偉人になっていますがはたして当時はどう評価されていたのでしょうか。 皆さんのご意見をお聞かせください。
- 締切済み
- 歴史
- 坂本龍馬暗殺事件の犯人について
長文ですが、坂本竜馬暗殺について質問させてください。 私は歴史については素人ですが、興味があっていろいろ勉強している者です。特に幕末の坂本竜馬暗殺事件の犯人について興味があるのですが、私個人としてはやはり会津藩が黒幕で、松平容保が見回り組に指示して実行させたと思うのです。他にも紀州藩説や薩摩藩説、新撰組説などがありますが、以下の理由で違うと思います。 (1)紀州藩説 いろは丸との衝突事件で後藤象二郎や坂本竜馬との交渉で8万両もの賠償金を払わされた腹いせとの説ですが、大金には違いないものの、所詮個人の金ではなく藩の金なので暗殺するほどの強い理由があるとは思えない。記録を見ても紀州藩としては早く金を払って一件落着したい向きがあり、いろは丸事件をほじくり返すようなことはしないはず。 (2)薩摩藩説 武力倒幕派の薩摩としては穏便に解決したい坂本竜馬の存在が邪魔になって暗殺したとの説ですが、確かに坂本竜馬が邪魔だったとしても西郷隆盛と龍馬は個人的に親しい関係にあり、「殺してしまえ」とまではいかなかったと思う。それに薩摩藩は寺田屋事件の時にいち早く龍馬の救出に出向いており、薩摩藩と龍馬の関係は悪くなかったはず。 (3)新撰組説 暗殺の時に伊予言葉で「こなくそ」と言っており、伊予出身者が新撰組にいるからという理由と、新撰組行きつけの料理屋(瓢亭)の下駄が現場に片方残されていたという理由ですが、新撰組という殺しのプロフェッショナル集団が、そんな間抜けな証拠を残すはずがなく、これは新撰組の仕業にしようとした意図がみえみえだと思います。 少なくとも実行犯が京都見回り組だと仮定すると、やはりその直属の上部組織である会津藩がテロリストとして認識していた危険人物の坂本竜馬暗殺の指示をしたと考えるのが一番自然だと思います。そもそも新撰組の芹沢鴨暗殺を命令したのも松平容保であり、邪魔者は排除しようとした思考回路があったのではと思います。 それと決定的なのは、黒幕が紀州藩にしろ薩摩藩にしろ、見回り組が会津藩以外の藩の命令など聞くわけがないと思います。紀州や薩摩が黒幕だとしたら見回り組に暗殺を依頼したわけで、そんな依頼など断っていたはずです。「そう思うならそちらで勝手にやってくれ」と回答していたはずで、「はいそうですか」と簡単に請け負うはずがないのです。 あくまで私個人の見解なので専門家の方たちにはいろんな意見があると思いますが、私の考え方は方向性が間違っているでしょうか。龍馬暗殺の真相は新しい史料でも出てこないかぎり永遠の謎だと思いますが、私の考え方への意見をいただければ幸いです。よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 歴史