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哲学的に善悪とは何?

nabayoshの回答

  • nabayosh
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回答No.5

善悪については、哲学の大御所達が語ってきました。 その限りにおいては、行動の基準となるもの、と言えるかもしれません。 善悪が定められていないことについては、どう振る舞うことも自由ですが、その代わりどれかを選ぶということはできなくなる。しかし生きている限りは選択を迫られるので、何かしらの理由をつけてどれかを選ぶしかない。その時に設定される「行動の基準」が善悪である、と私は解釈しています。 しかし、ニーチェが登場してから、その様相はがらりと変わります。 善悪はどうやって生まれたか、とか、善悪を超越した彼岸について語られはじめたのです。 これは現代に大きな影響を与えています。 その後20世紀は、「善悪を抜きにした学問」として科学技術が進歩しましたが、大きな戦争や公害をもたらすことになりました。その反省を踏まえてモラルが問われる時代になったのが今です。 私が尊敬する思想家のウィトゲンシュタインは、善悪のようなものは「語りえぬもの」であるとし、それについては「沈黙しなければならない」と述べています。彼は善悪は哲学の問題ではない、と言い切っていますね。 私たちが「善悪」と日常使う時、どうしてもその局面に応じて判断された善悪のことを指します。将棋に例えれば相手の駒を取ることは目先の善ではありますが、その結果負けてしまってはなんにもなりません。目先の善悪に惑わされると、最終的な目標を見失ってしまうことが多いのです。 善悪を語ることは、賢慮の欠如なのかもしれません。

pas26
質問者

お礼

>生きている限りは選択を迫られるので、何かしらの理由をつけてどれかを選ぶしかない。その時に設定される「行動の基準」が善悪である なるほど、確かにそんな気がしますね。 >善悪のようなものは「語りえぬもの」であるとし、それについては「沈黙しなければならない」 そんな見方もあるんですね。 >善悪を語ることは、賢慮の欠如 確かに、目先の善悪に惑わされて本質が見えなくなるのは、賢慮の欠如かもしれないですね。 詳しいご回答どうもありがとうございました!

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