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善悪って相対的なもの?
法定犯と自然犯って考え方があります。 殺人、傷害、窃盗など普遍的に悪いともいえますよね。 また倫理の科目編集ですが、人類が宗教や哲学などでつみあげたものとあるいはその文化で倫理としてきた事柄ってあると思います。 善悪を時代や文化で違ってしまうとすれば、なんでもよいことになったりするのでは? もしその場合でもある文化ではある倫理があるとして、それを大切にすべきなんでしょうか?
- 哲学・倫理・宗教学
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>善悪を時代や文化で違ってしまうとすれば、なんでもよいことになったりするのでは? そのとおりだとおもいます。 >殺人、傷害、窃盗など普遍的に悪い これは「悪い」とする国が多いからに他ならないのでは。
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- kurinal
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pkuobe99様、こんばんは。 >「法定犯と自然犯って考え方があります。」 法定犯しか、馴染みがありませんでした。 >「殺人、傷害、窃盗など普遍的に悪いともいえますよね。」 やれやれ。「有無を言わせぬ」とは、民主的ではありません。 (「殺人」ですら、ケースによっては、情状酌量がありますよ) >「善悪を時代や文化で違ってしまうとすれば、なんでもよいことになったりするのでは?」 ・・・おそらく、ここからがご質問の佳境、ですね。 一つ、言えるとすれば、 「(民主的に制定された)刑法において、「構成要件に該当し、違法で、有責な行為」しか、罪に問われない」というのが、ありますか。 >「それを大切にすべきなんでしょうか?」 残念ながら、民主的な態度とは言えないのではないかと思います。
- hekiyu
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善悪、という概念は人間が作ったモノです。 月や太陽が存在するのとは意味が異なります。 人間は独りでは非力です。 しかし、人間が集団化、組織化されると、神も 驚く力を発揮します。 ヘーゲルも、これを神と考えたほどです。 集団化、組織化するためには秩序が必要です。 この秩序を維持するために、善悪という概念が 出てきたのです。 つまり、秩序を維持するモノが善、秩序を破壊 するモノが悪です。 つまり、これは人間の約束事です。 だから欧米諸国の秩序を破壊しようとする イスラム国は欧米からは悪だということに なります。 しかし、イスラム国からすれば、ムスリムの秩序を 破壊する欧米こそ悪、ということになります。 このように、善悪という概念は本質的に相対的な ものなのです。 ”善悪を時代や文化で違ってしまうとすれば、なんでもよいことになったりするのでは?” ↑ その通りで、事実国際関係は何でもありでは ないですか。 大量破壊兵器を口実にイラクを侵略し10万殺した 米国大統領は裁かれましたか? ”もしその場合でもある文化ではある倫理があるとして、 それを大切にすべきなんでしょうか?” ↑ 秩序を維持しないことには、人間は人間に なれません。 だから、それは当然のことです。 ”殺人、傷害、窃盗など普遍的に悪いともいえますよね。 また倫理の科目編集ですが、人類が宗教や哲学などでつみあげたものと あるいはその文化で倫理としてきた事柄ってあると思います。” ↑ どこの世界でも、秩序を維持するためには、殺人、傷害 窃盗などを悪として禁止、抑圧する必要があったからです。 だから悪になりました。 倫理などは、複雑な場合に善悪を定める為に発達 したものです。 例えば、正当防衛で殺人した場合をどうするか などです。
- urigadai2013
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世の中にある概念には、対立によって成り立っている概念がいっぱいあります。 対立にも4種類あり、 (1)相互関係・・・・・相互に相手を規定しあう対立。 たとえば「上・下」「左・右」「凸と凹」「初めと終わり」「多と少」「大と小」「高と低」など。 (2)反対物(二項対立)・・・・・いずれかにしか定まらない対立。 たとえば、「自己と他者」「主観と客観」「主体と客体」「男と女」「生と死」「主人と奴隷」「善と悪」「心と身体」「有と無」「美と醜」「優と劣」「明と暗」など。 (3)欠如と所有・・・・一方に対して他方がその要素を持っていない関係。 たとえば「内容と形式」など。 (4)肯定と否定・・・・矛盾のこと。 たとえば「必然と偶然」「有限と無限」「同一性と差異性」「肯定と否定」「原因と結果」など。 「善と悪」は上の4つの分類のうち、第二の「二項対立」に属し、二項対立の場合、一方があり、他方があるのだから、互いに相対的な関係にあり、それ単独では存在しない。 つまり、絶対的に善というものもなければ、絶対的に悪というものも存在しない。 何を以て善となし、何を以て悪となすかには、普遍的な基準がまったくないわけではないとしても、時代により、社会により、状況により、その基準は絶えず変動する。 平和なときは人を殺すことは悪でも、戦争の時は敵兵を殺すことは悪ではない。 アメリカなどの西欧諸国では自己の信念に基づく行動は善だけど、日本では他人に迷惑を掛けない行動が善で、必ずしも自己の信念を貫くことが善ではない。 西欧は「良心」を重んじ、日本は「恥」を重んじる。 善悪の基準が違う。 「善悪を時代や文化によって違ってしまうとすれば、何でもよいということになったりするのでは?」というけれど、何でも良いということにはならない。 ただ、善悪の基準が違うというだけ。 だから、時代が違っても、その時代の善悪はあり、また文化が違っても、その文化の善悪の基準はあり、善と悪の区別はある。 何でも良いという「アノミー」にはならない。 西欧人には西欧人の守るべき道徳律があり、日本人には日本人の守るべき道徳律がある。 普遍的な道徳律は西欧人も日本人も守るべきだけど、同じように西欧人にも、日本人にも独自に守るべき道徳律がある。 日本人はかつて聖徳太子の十七条憲法の冒頭でいう「和を以て尊しとなす」という自分のことよりも他人との調和を良しとする民族固有の道徳律があり、西欧には神の前に恥じない、「罪」を犯すことを何よりも恐れる固有の道徳律がある。 日本人の道徳律は他律的、西欧人の道徳律は自律的。 日本人の道徳の基準は他人にあり、西欧人の道徳の基準は自己にある。 日本人である限り、また普遍的な道徳律に矛盾しない限り、民族固有の道徳律は今後もそれを尊重してゆくべきだと思います。
- kohichiro
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>善悪を時代や文化で違ってしまうとすれば、なんでもよいことになったりするのでは? それをやって世界中から顰蹙を買っているのがタリバンとかIS でしょう。 >でもある文化ではある倫理があるとして、それを大切にすべきなんでしょうか? 一般的には、そういうことだとおもいます。 でも、いずれ イスラム教の特殊性はすり合わせが必要になるでしょうね。 人間性からずれているような気がするんですが。たとえば美味しい豚肉が食べられないとか。 こんなことを書いたらテロに狙われるかな。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 《やましさ反応》というコトがあります。 おこないに移す前にも そのことを頭に思っただけでも 胸が高ぶり顔が赤らみ冷や汗が出る。 このやましさ反応によって ひとはたいていのことについて良し悪しを判断しています。あるいは しようと思えば出来るはずです。 ただし ふとヒトゴロシを思い浮かべたときやはりヤマシサ反応を持ったとしても もしその相手に対する思いが まったくの勘違いや誤解によって成り立っていたとしたら ヤマシサ反応はウソをつかないコトであったとしても 土台が間違っています。 つまり ひとの思いや考えと行動は あやまちうるものですから このヤマシサ反応にまつわる人間の判断も 全体から見てマチガイがあり得ます。そういう意味で 倫理も慣習も あくまで相対的な内容を持つものでしかありません。 あとは そのつどお互いに事実認識を共通のものとしそれぞれが思考を重ね 話し合いをつうじてことを決め合って行く。ことになるのでしょうね。 とうぶんのあいだ妥当なものとして通用すると考えられ決められたことは 法律として掲げられ共有されます。(思索済みであり取り決め合い済みだと いちおう成ったかたちなのでしょう)。
- 雪中庵(@psytex)
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「相対的」というのが、一個人の内面の話であれば否です。 たとえば一神教の神を信じる上で、それを相対化すると 意味を失います。 ただし、その外の人間にとっては、どの「一神」を信じる かは相対的な問題になります。 それは、善悪は社会的な必要(自己中心的な傾向を持つ 意識に社会性を与える)に応じて生じた、二次的な価値 だからです。 その意味で、社会を運営するための方便ではあって、 実用上尊重すべき面もあります。 ただし、その「自己チューさ」を根本的に解決するため に認識を深める方が肝心な、必要悪だと言える。
- soutoshisou
- ベストアンサー率0% (0/5)
人間という少々知恵の回る動物、この知恵のために大変不幸な運命を背負っている動物とおもっています。 自分で作った神という偶像のための殺しあい、一億円持ってもまだまだ足りないという餓鬼心のあさましさ。 文明が人を豊かにするなどという甘言に躍らされた不幸な機器の開発。 文明の機器の元で結局は何が得られましたか。 氾濫するポルノ、これを見すぎて狂ってしまったおとなたち。 防衛、防衛といいながら拡大していく殺人機器。 海のなかに国境を引きここはわが国などと言っている鯨やイワシやまぐろがいますか。 ここからここは隣の庭等と言っているいぬ猫がいますか. 人間以外の全ての動物が自然の摂理の中で生きている。 人間にもそれができればと思います。 それこそが無の境地と思います。 自然の摂理の中では善も悪も相対的なものも何もない世界と思います。
- miffymerany
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あなたは、時代や文化によって善悪の基準が異なることで、その時代の倫理を大切にするべきなのかとお悩みなんですね。 その前提でお答えします。 外部刺激(出来事)に対しての反応は刺激を受けた個人によって意味づけが変わります。それは、個人の過去の記憶情報を元に、意味づけをしているからです。 ですが、その意味づけも外部刺激(出来事)に対する前提によって大きくかわります。 ・戦争は善か悪か? と聞かれてあなたはどう答えますか? おそらく、多くの人が悪と答えるかもしれません。 しかし、今が1945年の太平洋戦争末期の日本だったとしたら、同じ問いにあなたはどう答えますか? 出来事の意味づけは全て前提によって変わる。 その前提が時代や文化に当たるのではないでしょうか? そして、出来事に対しての判断は前提によって変わるのであれば、善悪ではなく効果性を重視すると判断しやすくなります。それも目標設定がしっかり出来ていないと意味がなさないので、私達は普段から目標設定をしっかりする必要があると言えます。 世界が平和になるにはどう行動すれば効果的でしょうね。
- Key_A
- ベストアンサー率9% (55/603)
もう少し考えを整理する事から始めましょう。 まず犯罪と法律に関して言えば、これは善悪とは関係ない。国益という 「正義」に適うかどうかの問題であり、既存の言葉を用いると「正邪」の 問題なのです。手塚治虫の「火の鳥」にも似たような言葉があります。 結局、価値観の問題なのです。普遍的な価値観を求めるならば、 それは誰もが持つ共通項を見いだす事から始めないといけない。 結局、それは人が生きるという事からでしょう。 善悪と正邪の区別ができる事が重要なのです。
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