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神っているの?当然いないよねー。
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- wa-chan
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約3年前に回答させていただいた#21のwa-chanです。 お久しぶりです。というかまだこの質問締め切ってなかったのですね(笑 私はこの3年の間に大学生になりました。そしてバプテスマを受け正式にクリスチャンになりました。(バプテスマはキリストを信じたことを教会のみんなに報告し、牧師が私を浴槽?の水につける儀式のようなものです) 最近はますます神の力を感じますね。ほんとに至るところで神の働きを感じます。最近何かあるとすぐ祈ってます。するとしばらくして解決がちゃんと与えられるんです。 んなことあるわけない!と思われるかもしれませんが、本当の話です。解決が難しいような問題にも神はちゃんと応えてくれました。 ん~でも今思ってみると、確かに最近祈る時って苦しい時ですね。苦しい時の神頼み的な祈りをしている・・・しかし本当は苦しくない時に祈るべきですよね。なぜなら、苦しみがなく平安に暮らして行けるという事が一番感謝な事だから。神に感謝の祈りをささげるべきですね。 前の時と同様にまたまた意味不明な文章になってしまいました(笑 最後に最近ずっと心がけている聖書の言葉を書いておきます。 『何も思い煩わないで、あらゆる場合に感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願いを神に知っていただきなさい。そうすれば人の全ての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリストイエスにあって守ってくれます。』
- beraboume
- ベストアンサー率0% (0/0)
極端な話、犯罪しないを選択すると神にたどりつき犯罪するを選択すると無神論にたどりつくと思ってます。 「僕は超無神論者です。」これって何が正しくて何が間違っていることなのか自分では判断ができないと言っていることと同じです。ちゃんと判断できるのでしたら、「超無神論」であるとは思わないです。自然に神様が心の中にいるのだと思います。「無神論」ってあれも正しいこれも正しいっていうことになってどれが正しいのかわからない状態ですよ。危険だと思いませんか? ちなみに、存在するを選択すると神に近づき生きることができ、存在しないを選択すると無神論に近づき死ぬことになると思っています。 存在していることは犯罪しないから存在できるんです。犯罪の基準は十戒で、真理はひとつ(第一戒)でそれが神様になると思ってます。
- ikada6
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例えばいすを解体してみます。 木の棒と木の板になってしまいます。 では「いす」はどこに行ったのでしょうか? それは以前のあなたの心の中にあったのです。 その存在が神です。
神は、自他同様、自由へと、呪われて居る。 だから、皮肉な事に神の本質、は、不自由なのさ。
神スレや神レスならありますよ。 神って言うのは細部に宿るんです。
サルトルもいないって言ってるし、質問者さんと同じでおいらも神様はいないと思うな(超無神論者ではない)。 けどね、おいらはね、「神なんていなのさ」なんて言ってると後で酷い目に遭いそうだから、ちょっとビビリながら、「神様はいない」と思ってるね。 で、個人的につじつまを合わせる為に、おいらは困った時には「神様」にお願いするんじゃなくて、「ご先祖様方」にお願いしてるよ。苦しいときの先祖頼みだな。
- biginer
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>イスラムは確か偶像崇拝は禁止してたり、 仏教でも釈迦の存命中は偶像崇拝を禁止していたはずです。 仏像が建立されるようになったのは釈迦の死後です。 >思ったよりも異常な回答が無くてちょっと残念って感じですね。 私の意見は他ではあまり見かけないように思っていたのですが、、、。
- gokurakuyama
- ベストアンサー率30% (74/241)
哲学者ではありませんが宗教家です。 でも敢えてrichanさんには、通り一遍の答ではダメでしょうからこういう考え方もあるという事で・・・・。 神様がいようが、いようまいが、どっちでもイイじゃないですか? 一宗教家の意見としては変ですかね?変でしょうね? >僕は絶対、神さまはいないと思う。僕の神様はどーしてもつらいときだけ存在します。苦しいときの神頼みですね。それ以上ではなくそれ以下ではない。 それでイイじゃあないですか。 私はあくまでも宗教っていうのは、一個人として自身の中にあればそれでいいと考えます。 もちろん自分勝手に宗教を理解するという事とは違いますよ。 どう違いますかって? 宗教は自分自身で必要としない限り意味はありません。 仏教でいう悟りも神道でいうご加護も、自分自身のものでないと何の意味をなさないからです。 仏教の話で恐縮ですが例を上げますと、鎌倉時代のえらいお坊さんがある人からこんな質問をされました。 私は生まれつき「無信論者(無宗教者)ですが宗教を信じないこんな私でも、宗教(仏教)によって信じる事が出来るでしょうか?(救われるでしょうか?)」 そのお坊さんはこうお答えになりました。 あなたが夜道をイヤイヤながら歩いていたとする。 しかし、10分も歩けばあなたの知らない内に夜露や霧で着物がしっとりと濡れてくるように、宗教のその教えも知らぬまに身体の隅々から入っているものです」と。 神様もその人(自分)の中に存在する人はそうでしょうし、存在しない人はそうなんでしょう。 要はその人本人(個人)の範疇の問題だと思います。
神様っていますよ。排せつした時お尻を拭き取る紙として。
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