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戒と律の違い

sinken_sanの回答

回答No.1

戒とは修行完成のために守る目標です 野放図に生きずに自らに課題を課してやりきる、そこに精神の向上が顕れます。簡単な例をいえば、健康のために毎日一万歩歩く、とか、メールは一日30分以上しないようにしよう、とか自分に課すわけです。すると一万歩ならそれを続けると健康になることはもちろん、「面倒だな」と思ってもやり抜いた意志の力・精神力が養えるわけです。自分で決めて自分でするから向上するので人にいわれてするのでは悟り(=智慧、=喜び)にはなりません、それは営業のノルマの強制と同じになってしまいます。悟りの喜びを味わってほしいというのが仏陀の願いですから罰則を与えて強制するようなことはしませんでした 律とは出家者の集団生活のルールです 当時は出家者がその名の通り家を出て集団で生活していました。集団で生活するとそこに何らかの規則、つまり他人の修行の邪魔をしないというルールが必要になってきます。現代でいえば学生の独身寮を考えれば分かりやすいでしょう、勉学を修め世に有為な人物となることが全員の目標とすれば、寮では、夜騒いではいけない、とか、アルコール類禁止とかの規則ができてくるわけです 具体例としては、教団のものを勝手に自分のものにして持っていってはならない、とか、「制服」の所有は何枚までOK、とか、一人だけふかふか布団をお布施してもらってはいけない、とか、山林修行の際、女性は男性の目の届くところにいること、とかいろいろあります 要は自分を律し他人の修行の邪魔をしないというのが戒律の精神です 悟りを求める人々が集い、理想郷をつくり、その光で世を照らして行くことが仏陀の願いだったのです

noname#17295
質問者

補足

どうもありがとうございます。 もう少し教えてほしいんですが、そうすると「殺生してはいけない」という決まりは「戒」なんでしょうか? これは個人のことなので「戒」だけど破っても罰則はないということになるんでしょうか?

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