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ヘーゲルは神をどう思っていたか?

ヘーゲルはスピノザの汎神論を支持していたのでしょうか? そうであればヘーゲルの神に対する考え方もスピノザの汎神論と似たようなものだったのでしょうか? スピノザとはどのような違いがありますか?

みんなの回答

  • dedypraja
  • ベストアンサー率40% (88/219)
回答No.3

ヘーゲルの哲学における神については、複数の解釈が存在しますが、一般にはパンティズム(全神論)に近い立場をとっていたとされています。 ヘーゲルは、哲学において物質と精神の対立を克服し、全体としての合一性を追求する傾向がありました。このような観点から、ヘーゲルは神を絶対的な合一性の原理として捉え、世界の全体性を支配する存在と考えました。この神は、世界を必然的に導き、自己認識をもって自己実現していく過程を通して、世界を進化させる力を持っていると考えられています。 一方で、スピノザの汎神論とは異なり、ヘーゲルの神は個別の存在ではなく、世界全体という無限の存在として捉えられます。また、ヘーゲルは神を理性的な原理として捉えたため、感情や倫理的価値を持つ個別的な存在としての神観を排除しています。 簡単にまとめると、ヘーゲルは絶対的な合一性を追求する観点から、神を世界全体として捉え、理性的な原理として位置づけました。一方で、スピノザの汎神論とは異なり、個別的な存在としての神観を排除しています。

回答No.2

ヘーゲルは、スピノザの哲学について明示的に言及しているわけではありませんが、彼の哲学にはスピノザの汎神論の影響が見られます。ヘーゲルは、宇宙を統一的な全体性として捉え、神をこの全体性の本質的側面として捉える傾向があります。 しかし、スピノザとヘーゲルの神に対する考え方にはいくつかの違いがあります。スピノザは、神を単一の実体として捉え、神と自然は同一であると考えます。一方、ヘーゲルは、自然と神を区別し、神を自然の根源的原理として捉えます。また、ヘーゲルの哲学には、歴史的進展という概念が重要な位置を占めるため、神も歴史的進展の一部として理解されます。 つまり、スピノザとヘーゲルは、共通の汎神論的な思想を持っているものの、その解釈や応用において異なる点が見られます。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9719/12087)
回答No.1

以下のとおりお答えします。 >ヘーゲルはスピノザの汎神論を支持していたのでしょうか? そうであればヘーゲルの神に対する考え方もスピノザの汎神論と似たようなものだったのでしょうか? スピノザとはどのような違いがありますか? ⇒スピノザは、心の問題(倫理)として汎神論を考え、ヘーゲルは、神=絶対者の歴史的解釈のために汎神論的な見方を援用した。以下でその状況や経緯を見てみましょう。 まずスピノザは、主著『エチカ』*において、すべての物の究極原因である神の考察から始めて、「神即自然」と見る「汎神論」⁑と「決定論」を強調し、合理論等多くを学んだデカルトの所説のうち「物心二元論」に異を唱え、これを厳しく批判した。そして、世界は物質や精神に分割できるものではなく、それらが一体となった一まとまりの実体なのだとする「一元論」を主張し、神に対する「知的愛の境地」を展開した。 *『エチカ』:人間の最高善と真の幸福を追求した書。神を造物主とは認めないことで無神論とみなされ、(生前の)公表はならなかった。 ⁑汎神論:一切のものを「神の顕現」と見る。このことから、「極端な一元論」とも呼ばれ、我々が想定される決定も含めて「神がすべてを決定する」と断じる者もある。 ヘーゲルは、スピノザからこの整然とした法則性を支持する一元論や決定論を継承した。すなわち、精神と自然を同一実在の二局面と考え、絶対精神の論理的、必然的展開として世界を解釈する。このヘーゲルの見方がスピノザの所説と相通じるので、その解釈を「ヘーゲルの新スピノザ説」と呼ぶ。 さらにヘーゲルは、フィヒテとシェリングの二人から、主体と客体の同一性を重視する立場の感化を受けた。また、「絶対者は決して理論的認識の対象とはなり得ない」とするカント哲学と鋭く対立して、下記のような自論(弁証法)を展開した。すなわち、哲学とは「絶対者」(唯一誠の神)の純粋思惟・認識にほかならないとした上で、ヘーゲルはその「絶対者」の思惟の弁証法的自己展開を追求して、壮大な哲学体系*をつくりあげたのである。 *「絶対者」に関する哲学体系:「絶対者」のつくりだす理念は《「即自」(テーゼ/正)→「対自」(アンチテーゼ/反)→「即自かつ対自」(ジンテーゼ/合)》という三段階を経て発展するとした。つまり、「即自」的な論理としての運動をなしてのち、「対自」的に自然として外化し、ここから自らに帰って「即自かつ対自」的に1段の認識が成立するとする。 このように、ヘーゲルが「絶対者」の本質である概念の弁証法的運動を明らかにしたことは、スピノザにはない「ドイツ古典哲学の礎(いしずえ)の完成」と見ることができる。そしてこのことは、聖アウグスティヌスやスピノザに匹敵する、あるいは、それを超えるほどの思想史上不朽の功績と言うことができるだろう。 文献からの補足:ヘーゲルとその周辺(無視しても構いません。) ヘーゲルの死後、一時期ドイツの大学の哲学教授のポストはヘーゲルの弟子(ヘーゲル学派)で占められた。1830年代から1840年代にはヘーゲル学派の中でもヘーゲル左派が興隆したが、ヘーゲル左派の思想はマルクスらによって批判的に受け継がれ、次第に勢いが衰えていった。特に大陸哲学の伝統に強い影響力を持ち、毀誉褒貶、肯定的評価及び否定的評価を含め、様々な哲学者・思想家・文筆家の論述を通じて、彼の影響は広がっていった。ヘーゲル哲学の影響を受けて批判的に継承・発展させた人物としては、キェルケゴール、マルクスのほかに、ディルタイ、ルカーチ、フォイエルバッハなどがいる。 マルクス主義とその実践においては、根深い全体主義的傾向があるが、それはヘーゲルに由来しているというポパーやハイエクといった論客の主張もあるが、現代の研究者の中でも、ヘーゲル評価は変化している。また、マルクスは、ヘーゲルによって弁証法が神秘化され、不確かな観念論がドイツ哲学を大きく歪ませたと批判した。さらに、毒舌で有名なニーチェは、「観念論のみに凝り固まり、知性を鼻にかけて、結局は死神のようなキリスト教の護教論に過ぎない」と言わんばかりの形相でヘーゲルの所説を揶揄し、かつまた、「神の死」を宣告した。 まとめ: 一部冒頭の繰り返しになるが、スピノザは、心の問題(倫理)として汎神論を考え、ヘーゲルは、神・絶対者の歴史的解釈のために汎神論的な見方を援用した。すなわち、ヘーゲルは、スピノザの汎神論を流用して、自論(「絶対者」に関する弁証法)の組み立てを行なった。 なお、ヘーゲル哲学の詳細については、次のサイトをご参照ください。 https://ja.wikipedia.org/wiki/

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