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ヘーゲルの《神は死んだ》

 これをヘーゲルは宗教哲学講義の中で触れている。その紹介がネットにあった。イェシュケ編集の講義選集( Vorlesungen )から引用されている。  ▲(岩波哲男:ヘーゲルの「神は死んだ」) ~~~~~~~~~  1. 神的理念の最高の外化(* =表現)は すなわち・・・それ自身の外化として 以下のことを表明する。   神は死んだ( Gott ist tot. )。神自身が死んでいる。  2. ――これはこの表象に先立って分裂の深淵をもたらす 途方もない恐るべき表象である。  3. しかしこの死は同時にその限りでそのうちに最高の愛がある。  4. ――まさにその愛は神的なものと人間的なものとの同一化の意識であり――そしてこの有限化(* =肉化)はその極端にまで すなわち死にまで駆り立てられる。  5. したがってここにその絶対的段階における統一観 すなわち愛についての最高の観方がある。  6. ――というのはその人格 所有等々を放棄するという点での愛は行為という自己意識だからである――他者において最高に〔自己〕放棄するという点で――まさに死 すなわち 生命の制約を絶対的に代表するものというもっとも極端な他在において。  7. キリストの死はこの愛そのものの表象 Anschauung である。  8. ――他者のための 他者を巡る愛ではない――そうではなくて他在 すなわち死とのまさにこの一般的同一性における神性である。  9. この絶対的な極端との恐るべき合一が愛そのものである――思弁的な表象である。(以上 Vorl. vol.5 p.60 )  (岩波哲男:ヘーゲルの「神は死んだ」という言葉  https://www.jstage.jst.go.jp/article/studienzuhegel1995/2000/6/2000_6_2/_pdf  p.4 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 10. わたしはこのような思弁的表象が好きくありませんが それは 何がしかのインパクトを与え そこにとどまるのではなく やはり何がしかのヒラメキやさらには思索へとみちびくものがある。とは 感じました。  11. それは ただの死であって しかも他者のためにする行為などではなく やはり単なる死であった。  12. ただし 人間としてのイエスは 大泣きに泣いてその行為を好まなかったが キリストとしては みづからすすんで世の中としての人びとの手に身をゆだねた。  13. それでもただの死が 存在が他在するというかたちを示したと言う。  14. 《他在》というこの表象も おそらくどうでもよい。けれどもそこに メッセージがあるかどうかが 問題だ。  15. みづからすすんで磔の刑を受ける阿呆か。あるいは ヘーゲルが見たらしい愛なるメッセージがあるのか。その愛は むしろ阿呆の内にあるのか。

みんなの回答

回答No.4

Bragelonneさん こんばんは。 お久しぶりです。 Anschauungなんていうドイツ語を使って難しそうに質問していますが。 Anschauungは「直観」で、Vorstellungenが「表象」ではないのですか? そして現代語に訳されている哲学書は、すべてドイツ語を「直観」と訳し、ひらめきのような意味を含む言葉ですが、現代語の直観は、昔は「直観」と「直覚」に区別され、 直観は「観ること・文字を媒介しない、物事の本質を見抜く力」 直覚は「いわゆる現代語の第6感」 と、哲学科の名誉教授に教えてもらいました。 Bragelonnさんの「非思考の庭」とやらは「直観」なのか「直覚」なのか? それに、神を持ち出していますが、bragelonneさんの神は、アリストテレスの第一原因のような世界に介入しない神や、スピノザの人格のない理性ですべてを理解できる、哲学的な神を追究しているのですか。 宗教的神は、人間の理性には限界があり、その先は霊的導きがないと神を知ることは出来ないと神学科の名誉教授は言っていました。 最近修行で忙しく、哲学カテに投稿する気力もないほど疲れています。 では、またいつか。

bragelonne
質問者

お礼

 あぁ こんばんは。しばらくです。ご回答をありがとうございます。  ★ Anschauungは「直観」で、Vorstellungenが「表象」ではないのですか?  ☆ これは 岩波哲男の原文にそうあるものです。  ★ そして現代語に訳されている哲学書は、すべてドイツ語を「直観」と訳し、ひらめきのような意味を含む言葉ですが、  ☆ そうでしょうね。ただし 《直感》も ヒラメキを意味し得ますから 《直観》は 或る程度理論的な――さらには体系立った-―内容を伴なうものかも知れないとは思っていました。  ★ ~~~~~~~~~~~  現代語の直観は、昔は「直観」と「直覚」に区別され、  直観は「観ること・文字を媒介しない、物事の本質を見抜く力」  直覚は「いわゆる現代語の第6感」  と、哲学科の名誉教授に教えてもらいました。  ~~~~~~~~~~~  ☆ そうなんですか。《直覚》のほうは ブディズムでの用語だと 単純に思っていました。  《第六感》と言えば 《直感》の場合に含まれるようにも思います。  ★ Bragelonnさんの「非思考の庭」とやらは「直観」なのか「直覚」なのか?  ☆ 一般に《ヒラメキ》と言っています。そして おのれの思考を経ていないイメージや何らかの言葉の喚起のことをすべて含むとしています。  あるいは・ちなみに 顔を赤らめ胸の動悸を高ぶらせるヤマシサ反応を起こす――つまり やはり感性として現われ出る何かを伴なう――こととして 《良心》のハタラキをも 非思考の庭は もたらします。  ★ それに、神を持ち出していますが、bragelonneさんの神は、アリストテレスの第一原因のような世界に介入しない神や、スピノザの人格のない理性ですべてを理解できる、哲学的な神を追究しているのですか。  ☆ これは いいえです。信仰が 非思考の庭〔なる動態〕ですから そしてこれは 《神とわれとのカカハリ》のことなのですから 《非思考》と言うからには 神は 思考を超えています。  つまち 知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾとして 《非知》と呼んでいます。  《理性》を超えています。  《第一原因》と言うのは 《神とわれとのカカハリ》において 神のほうからのハタラキカケがあると想定したものです。  先ほど ヒラメキや良心というハタラキが 非思考の庭から得られると見ましたが そのようなハタラキカケを そうとすれば 想定しています。  ★ 宗教的神は、人間の理性には限界があり、その先は霊的導きがないと神を知ることは出来ないと神学科の名誉教授は言っていました。  ☆ 《宗教》を《信仰》に代えて そういうことなのでしょうね。  ★ 最近修行で忙しく、哲学カテに投稿する気力もないほど疲れています。  ☆ それはそれは。長いですね。いや ふつうでしょうか それくらいの長期は。大学〔院〕かどこかに入ったんですかね。  がんばってという言葉は あまりわたしは使いません。あたらしいうステージへ 互いにまいりましょう。  ★☆ では、またいつか。  ☆ ですね。

  • kikiooo
  • ベストアンサー率0% (0/1)
回答No.3

他人に聞いても あなたは同じ質問を繰り返す・・ そりゃあ そうだよ・・ だって 正解 不正解を あなたが独断で決めるだけの遊び・・ あなたが知ってる事が正解になるだけ・・ ならば どんなに正解が書かれてたって あなたが不正解と見なせば それは あなたから見た場合 不正解の回答にしか ならない・・ つまりは 此処で どんなに聞いても あなたの疑問は晴れる筈は無い・・ 何故 そんな単純な事に 気づかずに 何時までも質問するのかな?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  もし過去のやり取りを知っているのなら 哲学として問い求めていることは 明白でしょう。  結果として現われる場合というのは 次の三つほどでしょう。:  1. 無知ゆえ尋ねた場合。最終的には ほかの資料や解説で確認しつつ わたしが判断し 教わりましたとお礼を言います。  2. 必ずしも答えの出がたい質問の場合。有望な回答をいくつか選び その回答者とさらに互いに問い求めつつ 最終的には 質問者が判断します。  3. かなりの程度においてすでに質問者ながら 尋ねている趣旨について妥当であるという自信を持っている場合。(しかも 常識や定説とは異なる内容であり それらの批判をおこなう場合)。  ――このときには もらった回答について根掘り葉掘り尋ねつつ よりよき〔ひとつの・またはその時点での最良の〕答えを選びます。互いに問い求めるという姿勢に変わりはありません。  ☆ 今回のは 現時点で(2)です。  主題――《神は死んだ》――については 長く扱って来ましたがこのヘーゲルの説というのは 具体的には初めてです。それについてのわたしのコメントは ほっかほかで湯気が立っています。ですから (2)の場合の質問になります。  もっとも それについての定説や常識を知らないので どう批判になるかは この場合分かりません。  質問について考え 回答を寄せたら どうなんだ?   寄せられた回答群からよきものをえらぶのは 質問者だということは 誰が質問者であろうと 同じである。  ききおおおくん 頓珍漢なことを言ってるんぢゃない。

回答No.2

神殺しの剣!魔剣鉄ムカデ! そはまさに神を喰う者! 滅びよ!永遠なる罪業の道を歩む者よ! ルーンの導きに従いて、我は7度御劔を振るうであろう。 一つ、2頭の子山羊と戯れる赤子の旁で 一つ、コッヘルを穿つ老兵の住む山小屋で 一つ、ペテルギウスの輝く宵闇の街路樹で 一つ、最も深き谷に掛けられた吊り橋の上で 一つ、バトゥーゾフの画かれた三角の絵の下で 一つ、3人の兄弟から放たれた野兎の眠る丘で 一つ、今まさに滅びを成さんとするあなたの後ろで 讃えよ。滅びを。 汝の神は死んだ

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。事実関係と照らし合わせつつ 理論を築く。あるいは そのための資料を集めておくこと。  文学は ひょっとしたら 何らかの理論のもとに表現されているかも知れませんが・つまりあるいは 理論を築くための要素が描かれているかも知れませんが それを取り出して 自己の見解として述べる。  こういういとなみが 哲学です。よ。

回答No.1

ちょうどよく落書きをしてくれたね。 古代のシャーマンの復活に取り組む立場からの土産話だ。 古代語で、「ミコ」が神職系で「ミカド」は元祖大将軍様のようだよ。 日本の有史以降も同様の構図が繰り返されたんだろう。 伝統だったり風土だったりするが、君が普段こねくり回すスサノオとかいうやつは何者なんだろうね。 まあ、土産は後々に預けた方がいいだろうね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  世界とわれとの間が未分化な心性 それは 原始心性だよ。    世界の何ものにも・何ごとにも 寄り付く⇒依り憑くような心性は アニミズム。なにごとにも精霊がいて 人の心もそれに憑く。  この依り憑く心の状態からさらに進んで 忘我の境地にまで到る場合。すなわち みづから進んで意識をそちらのほうへ持って行こうとする。  またそこから 何かの問題を解くカギを得て来るという場合。  これらが シャーマニズム。

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