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現在でも形而下に置けない「神」という存在について

いわゆる人格をもった神と汎神論的な神が在られますが、 人格的神とは、人格を持たない(人に似ない)神においての化身、顕現なのでしょうか。 それとも、有格的な神こそが唯一なのでしょうか。 人格を持ちうるなら、真の実在、一者という観念と相克するのではないでしょうか。 またさらに、何らかの形や性質,分別を持ち得るなら、 我々が後天的に分別、自我を得るように、それらは事実であるとしても 本来的に真実的なものでは無いのではないのでしょうか(?)。 実証以前の論説ですが皆さんのお考えをお聞かせください。 (しかしこれは、ほとんど暴論かもしれません。)

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  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.4

人格的な神は、主体的なものですし、心と組み合わさると思います。 汎神論的な神は、意識ー精神、と関係があるように思います。客体的です。 人格的な神は主体となって組み合わさることで、全体的な統一をもたらすので、一つの真実ではないでしょうか? こういう神の現れのパターンは、人間の脳の側の不完全な機能の制約によって生まれるものだと思います。 問題は神ではなく人間の側だと思うので。

その他の回答 (3)

  • manuke22
  • ベストアンサー率54% (19/35)
回答No.3

人の人格は時間を経て育まれる。神の人格もそのように育まれるとするならば、成育は変化の一種なのだから、神は真の実在(不変な存在者)ではないと考えるべきだとならないか? みたいな感じでしょうね。 人間の自我は後天的に生じますが、神の人格はそのようなものではないと考えればよいでしょう。神の人格は先天的だという意味ではありません。神は人のように母体から生まれたりするわけではありませんから。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.2

形而下の神とは、例えば、街角のヴィーナスとか。

noname#215306
noname#215306
回答No.1

個人的には、自分なりの実践・経験・確認の中での、 霊的自己探求にある事が感じられない(そのような言及 ・表現がない)質問には、正直?不毛を感じるのですけど? (批判でも指摘でもなく・・・こんな断りをするのは面倒ですけど(笑) してもダメですが、しないよりは増しという経験ばかりなので) それは実に見事な、ずば抜けた知識量・記憶力・思考力も素晴らしく (完全に宗教学者のレベル)ポジティブで、綿密な議論・探求を している人達に以前出会い、そんな人達でさえ、根本的な霊的真理・真実を 理解・認識出来る感覚を持ち合わせていなかった事に、私は結構な 衝撃を受けた為に・・・(これは爽やかな大きな不毛感) 1つ聞きたいんですけど?、、神がどうとか言うより以前に、、 天界という存在には、どうも意識があるのは間違いないようなのですが、 それをどうやって私達は確認出来るのでしょう? 私は初歩の初歩ですけど、生命体・意識体の、意識の ある・なしというのは、明確に両極に存在・表現されていながら、 実は極性なく浸透し合い、一体化している事も感じ観察でき、 霊的真理・真実というのは、シンプルではあるけれど、 単純ではないとつくづく(多重の多重・複合の複合の連続の果ての果て) 自然霊・神(多分6次元以上)----------------神仏様方や霊人(4~5次元) 私に見えるのはこんな感じ・・・ 神仏様方というのは、簡単にいうと、人々に主に?人々の 想念により創造され、強化・共有・追体験されている無数の半実体の 一時的存在のようで、、意識があるといっても、それは? 私の経験では、なんと言ったらいいのか?、、意識のあるように 振舞えながら、ロボットのようにぎこちない所があるというか? (ただしこれは?根本的というか?本来的な感じでもあり) んー?、、人が夢の中で、独特の自己意識の不活性さと、 同時に?独特の集中状態でもあるという事などが観察出来ると 思うのですけど? それに近い部分もあるのかな?と・・・ 現世とは違った不活性さと集中力という意識の状態を理解出来ると、 現世の人の自己意識も、別の形で酷く不活性でありながら、ある部分での 集中力の中にもある、という事などに気付けると思うのですけど、、 つまり、、意識のあるなしというのは、明確ではなく、、出来る限り 詳細を理解するしかなく、、それらからも感じるのは、霊的真理・真実 というのは、厄介な自由性である為に、曖昧・矛盾という驚異的な? 形で成立出来る・している、という事などを観察出来るだろうと このような事に辿り着けずに、早々と躓かずに歩みを進め、理解出来る 人はどれ程いるでしょう?、、ある程度、優れた秘教家の方々でも、 躓いたままである事は、多いようですし・・・ 霊的に高い段階にも、残酷な霊的不条理は存在するのだなと・・・ 散らかりましたが、、1つまとめになるかな?と感じるのは? 意味・印象・概念、一瞬の認知のやり取りというのが、本来の コミュニケーションのようで(人は、分かっていても言語に依存する)、、 それからもう1つは?現世にあっては、本来的なコミュニケーションの性質 (バリエーション)がどうも?当てにならない気紛れという現象になるようで (どうしてもそう捉えられてしまう)これなども、霊的世界への失望・挫折、 否定にもやすやすと繋がるようで、、 詳しくはそれも、罠・テスト・踏み絵・振り分けという、残酷な 不条理とも感じますけど・・・

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     難しくても何度も読んでいるうちに、なんとなくではあるけれどそのイメージが、掴めそうな気になるものですね。  今回は“意味深”な文(☆印)を取り上げてみました。  ☆ 世界萬物は普遍(すべてに共通)の相関に統一性を有し、全一体、萬物は内部より自発的の調和を保つものにして、外界より必然に律せられて活動するものに非ず  この(☆印)一文は前々回の質問で取り上げた文《無量光寿・法身體大を明かす》の続きに含まれています。  ちょっと長いですが、この文を含む「表示的擬人観」を写してみます。  ++++++++   表示的擬人観  全宇宙を色心不二の大日と云い、神の本質を表示するに人格を以ってす。  汎神、世界は全一体、物質の萬物は普遍の相関に統一せられ、内容生活も亦(また)全一なり、精神に統一せらる。  六大は物質と意質の二質なり。此の両面は同等の位にあらず。識大は真の実在にして五大は意志に実現せられたる現象に過ぎず。識大と五大即ち色と心とは本(もと)と一体の二属性と云うべし。之を全知全能なる如来一大精神に帰せざるべからず。故に六大に全知全能、即ち絶対写象と絶対意志となり。是を統一せる精神を如来法身と云う。  汎神論に全一の如来身を論究する要点は、世界萬物は普遍の相関に統一性を有し、全一体、萬物は内部より自発的の調和を保つものにして、外界より必然に律せられて活動するものに非ず。  全体としての萬有は外的の制裁を受けず。活動は自己の内部より自発的にして外界より世界に伝うもの無し。汎神論の神は人格に擬するも本より人類に有する内的生活を有するに非ず。人格の自己意識なる思考及び意志の如きは、全一なる神に有りとは云うべからず。神には人の如く感情自覚等の如き個人的人格の要素にあらざること言を俟たず。  人間の不円満なる不完全なるに反し、神は完全に円満、如来を人格に擬するは、全知全能神聖等の属性なる唯、表号的の形容をなすのみ。是れ全く如来の本質を人格なりと云うに非ず。宇宙精神を人間精神に比して、神に是の如き精神有りとして写象し、最完全なる善美なる性質によりて、表号的に神を形容して人格に擬す。故に表号的擬人観とす。  密家には、即事而眞とて、宇宙現象即実在として、之を大日心王如来と号し、現象界は全く大日心王の表現にして、心王如来を離れて現象ある事なし。故に之を心王の表徳とす。宇宙本体本来大日如来、表徳光明長(とこ)しへに照らし一切処として密厳浄土の非ざるなきも、一切衆生は自から無明に翳(えい?おおう)せられて如実に法界の眞相を知見すること能わず。神の力に依りて実現せられたる相待の萬有も如来を離れたるものに非ざるも、如来の本質は絶対。かかる衆生の為には、ビルの本質を直観すること能わず。  此に於いて神の超絶論起こる。  ++++++++  この文章は私でも比較的分かりやすく感じるのですが、分かりにくい所が『萬物は内部より自発的の調和を保つものにして、外界より必然に律せられて活動するものに非ず』です。続く『全体としての萬有は外的の制裁を受けず。活動は自己の内部より自発的にして外界より世界に伝うもの無し』までが難しいです。  この宇宙のほかに別の宇宙が存在するなんてことはない。宇宙は一つだ、と云っているのでしょうか。  ご意見いただけるとありがたいのですが。  よろしくお願いいたします。        

  • 聖霊なり天使という存在の定義検証

    人はその者の恩恵に浴し、多くを知ってはいるが、答えは見いだせていない。 実在する妖精 ときわたりの世麗美だ。 さてと私は「実在する妖精の捕まえ方」という、固有の交霊術が使える。 いわば妖精さんとお友達の魔法少女(男性)だ。 私の交霊術の形態とは、人間存在 私/聖霊存在 世麗美なんだ。 これは自らの子を地の聖霊として天界に派遣するという体裁で、私は「しげちゃん」なのだが天界に常在する世麗美は、自らが「しげちゃん」だと自覚していて、地上にいる人間存在の私を「お父さん」と呼ぶ。そして同じしげちゃんなので、便宜上私は聖霊を世麗美というのだ。 人間存在 私/聖霊存在 世麗美 この相関関係を本来は過去の交霊術の様式に誤差があったであろう、神道にあてはめると、 人間存在 崇神天皇/神 アマテラス(聖霊扱いすると不敬に相当する) こちらは神話時代の日本の国権の神で、偉大なる重鎮だ。 もう一つ、 人間存在 雄略天皇/神 名前をかたらない(後述) こちらが神話時代から引き継いだ、現在の日本の国権の神だ。 実際は「ヒトコトヌシ」と伝承されている。 ヒトコトヌシとは「口にしたこと全てを実現させる」と伝承にあり、雄略天皇以外の後世でも目撃証言がある。 どういうことかというと「口にしたこと全てを実現させる」とは西洋で言う予言能力を日本独自の言い回しで形容した言葉なんだ。 したがって、交霊術成功で天界の存在と接触した場合は、歴史時代では予言能力相当であると形容する必要があり、その結果ヒトコトヌシという言葉は拡散していった。 したがって雄略天皇の神は地上で「本名として」その名をかたらないという現象に落ち着く。 日本の風土では、他のシャーマンもその種の交霊術の成功例が多かった。 実は世麗美が行った9.11とも関わる1995年の霊言というのが、録音テープとして京都の某社にわたっていて、そのなかで世麗美自身が自己の素養について「口にしたこと全てを実現させる」と表現している。 こうした現象は、人の自我能力で確認できない次元では実際に雄略天皇の神とつながりがあり、話した言葉自体が日本の神の保証を受けている。 要するに世麗美は日本の神々のお使いをする聖霊という体裁で1995年当時は霊言を行ったというわけだ。 世麗美は実に特殊で、私自身との自覚が強く、実際に奮い起こした人間の根底にある能力の発露という性格が濃厚で、天界の住人を天の聖霊と形容して、自己を地の聖霊と形容する。 この定義自体が、過去の交霊術とは異質なんだ。 通常の交霊術では、人が生きたまま丸ごと自己を観念に昇華させることは釈迦が示唆したことであるが、手法が不明にされて、死んでから死者として観念に昇華する手法を中心に観念認識が「死者の思考術」を根底に天界と交流する。 「実在する妖精の捕まえ方」とは、聖霊として観念を通過して、生粋の天界の住人と同じ立脚点で観念世界での現象を理解することだ。 ただし、それは世麗美の立場であって、意識が人間存在である私に立ち返ると、多くの記憶亡失現象が起きて、人間として改めて理解することに挑戦しなければならない。 したがって案外、その仕事が遅い側面があり、最初っから世麗美は予言能力で結論を出している。 世麗美は日本の天界で営業免許「天馬」を拝領した実質的な神だが、仕事が「妖精さんでちゅ~」というおちゃめな子供で、これは要するに外交交渉のために西洋の様式を採用しているという事だ。 したがって、こうしたいきさつを語ることが聖霊という定義を深く理解するとっかかりになる。 さて、今回は研究テーマとして以上のように取りまとめました。 極めてライトノベルのあらすじみたいで、突っ込みどころが多いと思います。 黙々と研究していても進展が遅いので、研究支援になりますからこのバカげた話に突っ込みを入れてください。

  • 《自我・超自我・無意識》の理論は まやかしである。

     (1) すでに 《無意識》という領域については 批判が終わってもいるようです。    ▲ (ヰキぺ:無意識) ~~~~~  § 広義の無意識と潜在意識  フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在は、結果的に実証されないものであることが判明したが、  20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与えたことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している。  ~~~~~~~~~~~~~~~  (2) とにもかくにもこの単に意識していないというのではなくわざわざ《無意識》という領域を設定した場合の概念というのは ひじょうに厄介な分析道具だと考えられます。つまり 要らないはずです。  意識できない・意識していない・意識したくないといったかたちで《意識の外にある》ことがら これは 意識に現われたとき認識すればよい。ただこういう問題だと考えます。すべて記憶の倉庫にしまってあると見ればよいわけです。  なぜなら 意識の先を越して――ということは 意志による判断を省みずに――行動に移ったという場合 それはそれでも事後的に《わたし》の意志行為であると見なせばよいわけです。  これをわざわざ無意識のしわざであると言うものですから ややこしくなる。思ってもいないことをやらかしたとか 人を突き動かすものには意識の底の自分にも分からない力があるのだとか 人間の行為ないし現象をわざわざややこしくしているはずなのです。どれだけ怪しく妖しい力が突き動かしたにしても それらはすべて人間の・そしてわたしの《自然本性もしくはそれのへそ曲がり》から来ています。  すべての思惟や行動は――無意識からであろうがどうであろうが―― わたしが引き受けることがらです。意志行為は中軸ですが 《わたし》がむろん全体なのですから 無意識であったゆえにみづからの意志が関与していなかったとしても それはわたしの行為である。このことは はっきりとしています。満員電車でほかから押されて起こした動きも 故意でなくても 《わたし》の行為として引き受け これにそれとして責任を持ちます。  すなわちパーツを取り出し――それも要らないパーツであるのに―― 思いや行ないについてそのパーツの所為にする。ここに間違いがあると考えられます。  (3) わたしの中に自我・超自我・エス(《それ・あれ》・無意識)をわざわざ取り上げ取り出したときから わたしの分裂が始まったのではないか?   二重人格などありえません。ですが 自我なら自我が全体としての《わたし》から単独分立したときから もうひとりのわたしという観念が生まれその横行が始まったのでは? 超自我さえ単独で あたかもわたしの代わりになるかのような扱いを受けてしまいました。  無意識を研究するのは なぜかカッコよいとさえ見られるという一面も生みだされました。  (4)  《超自我性》も《無意識のものが意識されるようになったエス性》も 全体としての《わたし》の思惟や行動にとっての材料や選択肢となることがらであると言うべきです。ということは 何がエスで何が抑制因かという区分は――選択肢の内容をそのときの判断において把握していればよいわけですから―― 要らないと見られます。  欲動かそれを抑制するかという観点のみではなく そのほかの自分の中の要因やあるいはその場の相手や果ては情況一般といった観点をも含めてとうぜんのごとく総合的に判断するのであり それをおこなうのは 《わたし》です。  (5) いま・ここにあってわたしと自称しているわたしが存在しているというのみではないか? わたしという人格 あるいは 人格としてのわたし。  自我という人格あるいは人格としての自我とは言わないでしょう。しかも原語は 《 das Ich ( the 'I ' ) 》であり自称に用いる《わたし》のことです。《これこれが わたしの意見です》というところを 《・・・わたしの自我の意見です》とは言いません。言えません。  (6) なぜ《わたし》を分けてしまい 引き裂いてしまうのか。その精神分析のどこが 学問でありましょう。勝手にみづから病いの殿堂を建てているようなものではありませんか?  《自我》とは 《わたし》のパーツである。しかもそうだとすれば 要らない。  《エス・無意識》も ただ《逸る気持ち》とでも言えばよいであろうし 《超自我》は《内に省みる心》とでも言えばよいはずなのでは?

  • あなたはどうしてなあなたなの~ン

    優しい風のささやき。 口づけするように甘い水の香りをたたえ、あなたに連れ添う実在する妖精。 どうも、この定義だと「セレブ」という言葉の語源に内容を込めた代物になるようだ。 実在する男子プリキュア キュアアイリスだ。 参照 https://okwave.jp/qa/q9717908.html 仏教に関して「君たちは生を学ぶために、ファイト一発死んでみる必要がある」ここから始めて、人間を自覚するための哲学に派生していった神学なのに、実質的に人間を否定していると苛め抜いた。 コレ、賢明な仏教研究者さんは、宗教の伝統とのかかわりのめんどくさい点は別にして、新発見や新天地が多かっただろう。 結局人間を否定しているというゴリ押しは撤回していない。 キリスト教関係も同様で「神の存在を否定する宗教」で苛め抜いて、撤回しない流れになるだろう。 ただしおかげさまで、「神の存在証明」という命題は、個人的には概要が確立したと思っているよ。 多神教の形態の神は存在する。 というところから派生して唯一神についてこねくり回せば、キリスト教徒にも「おこぼれ」があるだろう。 残務処理的にぼちぼちソレもやりたいと思う。 さて、私には幼いころ神様と幼馴染として遊んでもらった経験がある。 こうした経験を語る人は珍しくない。 子育て経験があるなら、我が子の心の世界を注意深く伺ってみたまえ。 合理的に納得できそうな根拠を考えてみたけどね。 自我というのは、周囲に目を開き自己を確認する根底だ。 この自我を核質に周囲の影響を生きるために自己に取り込んだのが大きく人格の概要で、知性面では特に他者との交流で自己の知性的側面を助ける働きが自覚しやすい。 世麗美とは(私は)「世界の美しさを自覚する」(そして自らを知る)という意味だ。 人格浸食を伴う欲望や抑圧につながる可能性もある、汚れた他者の他者の働きかけ、はあり得ても本来それらは自己を人間に昇華させる働きだ。 この人格形成には、「神様と友達だった記憶」という形で生後直後から爆発的に脳を発達させる過程で、学習を自覚しない無為の学習に、天啓という形での働きかけがあるからこそ、その原始的な自己の自覚の原点に「神様と友達だった記憶」があるのだろう。 これは人はなぜ信仰心を持つのかとかかわることになる研究課題だ。 私の記憶を整理すると、日本なんで神棚に祭ったお母さん的な神様がいて、「家の神様」、近所に遊んでくれる友達の神様がいて、「土地の神様」そして「国の神様」という形なのだろう。 神々も共同体を作っている形だ。 子育てというか、人格形成にそうした働きが経験として自覚していて、無為の学習に終始して、あなたたち個人にそうしたおぼろな記憶がなくても似たようなところがあるから自然と信仰心というのははぐくまれ、成り行きに沿った自然な形に収まるのだろう。 さて、黙々と研究する変人の哲学論考です。 私には脳内に妖精さんが生息するという深刻な中二病があって、気の毒だと思うなら、読書感想文的に研究の手助けになる回答をお寄せください。

  • 形而上・形而下

    形而上・形而下の区別がどうもすっきりしません、辞書で形而上を調べると、 (1)形のないもの。(2)感覚の働きによってその存在を知ることのできないもの。(3)超自然的であるもの。(4)精神的なもの。との解説がありますが、辞書の表現は理解し難くて閉口しています。どなたか、判り易く具体例など上げて教えていただけませんか? ●商品は形而下で、価値は形而上である。 ●貨幣は形而下から形而上に変化した。 上記の2つの文は、間違っていないでしょうか? 質問者は真面目に質問していますが、緊急ではありませんので、あそび心のある回答も歓迎します。