表示的擬人観とは?宇宙の内部から自発的に活動する全一体の世界

このQ&Aのポイント
  • 表示的擬人観とは、全宇宙を色心不二の大日とし、神の本質を人格化する考え方です。
  • 全宇宙は一つの統一された相関関係を持ち、内部から自発的な調和を保ち、外界によって制約されるものではありません。
  • また、宇宙は一つであり、別の宇宙は存在しません。宇宙の活動は内部から自発的に行われ、外界へ伝わります。
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 表示的擬人観

 難しくても何度も読んでいるうちに、なんとなくではあるけれどそのイメージが、掴めそうな気になるものですね。  今回は“意味深”な文(☆印)を取り上げてみました。  ☆ 世界萬物は普遍(すべてに共通)の相関に統一性を有し、全一体、萬物は内部より自発的の調和を保つものにして、外界より必然に律せられて活動するものに非ず  この(☆印)一文は前々回の質問で取り上げた文《無量光寿・法身體大を明かす》の続きに含まれています。  ちょっと長いですが、この文を含む「表示的擬人観」を写してみます。  ++++++++   表示的擬人観  全宇宙を色心不二の大日と云い、神の本質を表示するに人格を以ってす。  汎神、世界は全一体、物質の萬物は普遍の相関に統一せられ、内容生活も亦(また)全一なり、精神に統一せらる。  六大は物質と意質の二質なり。此の両面は同等の位にあらず。識大は真の実在にして五大は意志に実現せられたる現象に過ぎず。識大と五大即ち色と心とは本(もと)と一体の二属性と云うべし。之を全知全能なる如来一大精神に帰せざるべからず。故に六大に全知全能、即ち絶対写象と絶対意志となり。是を統一せる精神を如来法身と云う。  汎神論に全一の如来身を論究する要点は、世界萬物は普遍の相関に統一性を有し、全一体、萬物は内部より自発的の調和を保つものにして、外界より必然に律せられて活動するものに非ず。  全体としての萬有は外的の制裁を受けず。活動は自己の内部より自発的にして外界より世界に伝うもの無し。汎神論の神は人格に擬するも本より人類に有する内的生活を有するに非ず。人格の自己意識なる思考及び意志の如きは、全一なる神に有りとは云うべからず。神には人の如く感情自覚等の如き個人的人格の要素にあらざること言を俟たず。  人間の不円満なる不完全なるに反し、神は完全に円満、如来を人格に擬するは、全知全能神聖等の属性なる唯、表号的の形容をなすのみ。是れ全く如来の本質を人格なりと云うに非ず。宇宙精神を人間精神に比して、神に是の如き精神有りとして写象し、最完全なる善美なる性質によりて、表号的に神を形容して人格に擬す。故に表号的擬人観とす。  密家には、即事而眞とて、宇宙現象即実在として、之を大日心王如来と号し、現象界は全く大日心王の表現にして、心王如来を離れて現象ある事なし。故に之を心王の表徳とす。宇宙本体本来大日如来、表徳光明長(とこ)しへに照らし一切処として密厳浄土の非ざるなきも、一切衆生は自から無明に翳(えい?おおう)せられて如実に法界の眞相を知見すること能わず。神の力に依りて実現せられたる相待の萬有も如来を離れたるものに非ざるも、如来の本質は絶対。かかる衆生の為には、ビルの本質を直観すること能わず。  此に於いて神の超絶論起こる。  ++++++++  この文章は私でも比較的分かりやすく感じるのですが、分かりにくい所が『萬物は内部より自発的の調和を保つものにして、外界より必然に律せられて活動するものに非ず』です。続く『全体としての萬有は外的の制裁を受けず。活動は自己の内部より自発的にして外界より世界に伝うもの無し』までが難しいです。  この宇宙のほかに別の宇宙が存在するなんてことはない。宇宙は一つだ、と云っているのでしょうか。  ご意見いただけるとありがたいのですが。  よろしくお願いいたします。        

質問者が選んだベストアンサー

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  • dropyork
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回答No.1

萬物は内部より自発的の調和を保つものにして、外界より必然に律せられて活動するものに非ず ↓ 万物不変の法則 全体としての萬有は外的の制裁を受けず。活動は自己の内部より自発的にして外界より世界に伝うもの無し ↓ 作用・反作用、応力

yy8yy8az
質問者

お礼

 万物不変の法則、を万物流転の法則と読み替えました。  思うところあって(勉強中)この回答をいただきました。  ありがとうございました。(2013/09/04 10:15)

その他の回答 (3)

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.4

yy8yy8azさん、こんばんは。 >「汎神論に全一の如来身を論究する要点は、世界萬物は普遍の相関に統一性を有し、全一体、萬物は内部より自発的の調和を保つものにして、外界より必然に律せられて活動するものに非ず。  全体としての萬有は外的の制裁を受けず。活動は自己の内部より自発的にして外界より世界に伝うもの無し。汎神論の神は人格に擬するも本より人類に有する内的生活を有するに非ず。人格の自己意識なる思考及び意志の如きは、全一なる神に有りとは云うべからず。神には人の如く感情自覚等の如き個人的人格の要素にあらざること言を俟たず。」 別に、難しい事は無いと思います。 「全ては「神」(の御意志)」である(が、それは個々の(人間の)何か)であったりしない」 ・・・当たり前ですね。 いずれにしても、「宗教」には限界があります。・・・当たり前です。

yy8yy8az
質問者

お礼

 回答に使われた言葉「宗教には限界がある」について、考えて見ましたが、私の頭には思考の深度に“限界”があって、よく解りませんでした。  ここ哲学カテでの皆さんの思考レベルと“比較”すると浅すぎますね。  宗教の限界が何を指しているのか今は分かりませんが、そのうち気づくときがあるだろうと思います。  回答ありがとうございました。(2013/9/4 08:20)

  • dropyork
  • ベストアンサー率15% (13/85)
回答No.3

膜宇宙と思っている者その他一人。 重要なのは、見た人は、精神界を見ている。精神界を実在とみている。物質界のことは、彼らにとってどうでもいいことなのてす。衆生を救うとかウンタラは、もともと悟る前に持っていたものなのです。

yy8yy8az
質問者

お礼

 “彼ら”は精神の力、が物質を「現象」させていると観ているんです。  人間も物質からできていますが、そこに心があります。  “彼ら”は物質+精神と云うものにとても関心を持っているんだと思います。  決してどうでもいいことではないのです。  それどころか、それこそが最重要なんです。  膜宇宙。  これは科学の世界。    仏教は、けっして科学を否定するものではありません。  膜宇宙とは、我々の住む宇宙の事を言っているんですよね。  それとも、われわれの住むこの宇宙のほかにも宇宙が存在する可能性を示した“宇宙論”なのでしょうか。  回答、期待しています。  ありがとうございました。

yy8yy8az
質問者

補足

 膜宇宙、についてYouTubeで知りました。難しいですね。物理学者の飽くなき探求心がすごいです。  科学者は何とかしてこの世の現象を、すべて物理的に解明し、そして説明したいのでしょう。  そうした探究心、求める心「精神」、の存在がまた不思議です。  宗教はそうした不思議な「精神」、心の世界、を探究してきたんでしょうね。  科学者が物理的に解明しようとした究極の世界を、宗教の世界では釈尊が「精神」を以って“無始無終”を著したのが「般若心経」だと思うのですが。  YouTubeの映像では結論的には膜どうしの衝突が“物質”を生みだしているのではないか、ビッグバンの発生元ではないか、と云った説明でした。そしてビッグバン以前にも時間が存在していたら、膜宇宙があったなら、なんて言葉も聞かれました。  やはり、「始まり」を特定しようとしても、それではその前は?となってきりがないですね。  釈尊が「始まりと云うものは無く終わりと云うものも無い」と云ったのを私なりのイメージで表現すればそれは“球体の表面”になります。  始まりがどこで終わりはどこと、特定できないからです。  ☆ 膜どうしの衝突が「何か」を発生させている。誕生させている。    生物も“雌雄が衝突”して新たな生命を生み出す。    不思議です。    質問で取り上げた私の疑問は、今回のいただいた回答からは解決しませんでしたが、これで締め切ることにします。(2013/09/04 10:05)  

  • dropyork
  • ベストアンサー率15% (13/85)
回答No.2

すみません。訂正します。 万物不変の法則 → 万物流転の法則 申し訳ない。

yy8yy8az
質問者

お礼

 回答、そしてその訂正ありがとうございます。  正直、ちょっと物足りないです。  いただいた回答には、外的、外界、と云った要素?が含まれていないように思います。  この外的、外界、をどう解釈するかについて回答をいただきたかったのです。  我々のこの宇宙のほかの宇宙の事を外的、外界、と云っていると受け止めてよいかどうか、お考えを聞かせていただけることを願っています。  よろしくお願いいたします。

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