古代の日本人は無い神を信仰していたか

このQ&Aのポイント
  • 日本古代人はむしろ無神論という信仰をいだいていたのではないかという暴論を試みます。
  • 日本語の「かみ(神)」は唯一の存在ではなく、漂動し、ときに神憑りする存在であり、それぞれの場所や物事を領有し支配する働きを持っていたことが分かります。
  • 日本古代人は神々が具体的な姿を持ち、超人的な威力を持つ存在として信仰していたのか、それとも目に見えない神を信仰していたのかは明確ではありませんが、無神論ではなく一段高いところに立って再び神憑りを採り入れた可能性があります。
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古代の日本人は 《無い神》をいだいていたか

 1. 日本古代人は むしろ無神論という信仰をいだいていたのではないかという暴論を試みます。  2. 大野晋によると 日本語の《かみ(神)》は文献や民俗学等々で分かる限りでは 次のような意味を持ったと言います。  ○ かみの原義 ~~~~~~~~~~~~~~   (あ) カミは唯一の存在ではなく 多数存在している。   (い) カミは何か具体的な姿・形を持っているものではない。   (う) カミは漂動・彷徨し ときに来臨して カミガカリ(神憑り)する。   (え) カミは それぞれの場所や物・事柄を領有し 支配する働きを持っていた。     〔産土(うぶすな)神・山つ霊(み)・海(わた)つ霊〕   (お) カミは――雷神・猛獣・妖怪・山などのように――超人的な威力を持つ恐ろ     しい存在である。   (か) カミはいろいろと人格化して現われる。     〔明(あき)つ神・現人(あらひと)神〕  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この(か)の《神の顕現 ないし 人格神》は (う)の《神憑り》を一段高いところに立って再び採り入れたものと考えられます。  4. 神がかりとは いわゆるアニミズムであり すなわちものごとに寄り憑く原始心性のことでしょう。それに従えば ほんとうは《見えない》〔つまり(い)〕けれど 仮りに姿を見せたという捉え方および表わし方をおこなった。  5. つまりすでにこのように問い求めた定義からすれば われらがおや(祖先)たちは 《超自然・非経験》の領域を 何も表わさなかった。つまり強いて言えば《無い神》を立てていた。  6. 古事記の初めには アメノミナカヌシ以下三神が登場しますが これらは《独り神となりまして 身を隠したまひき》とあります。一般に思われているアマテラスオホミカミは もっともっとのちの神です。  7. どうもこのように――わざと 無神論を見ようと――して来ると 日本人には《表わさない》=《言挙げせず》という基本線があるのかも知れません。  8. 朝 日向かしの空より昇る真っ赤なおてんとさまを見て あるいは西の山の端に沈みゆく夕焼けをながめて   ――あはっ。(ああ! Ah ! Oh ! )  と口をついて出た。そこに 絶対の神を見たのかも知れません。見なかったかも知れません。  9. これが言われている《ものの〈あは〉れ》であり《随神(かんながら)の道》なのだとも思われます。《隠れたる神 Deus absconditus 》。  10. ▲ (柿本人麻呂 万葉集 巻三・235番) ~~~   おほきみは 神にしませば   天雲の いかづちの上に 廬(いほ)らせるかも   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  という歌には 思想もしくは信仰が現われていると考えます。つまり 《世の中の通念は 大君が神であると言う。なるほどそれゆえ 雲の上・雷の丘の上にお住まいである。そうかもね》と。  11. 人麻呂は神について絶対の概念をとおして思っていたからではないですか。《通念は・人びとは 絶対の神とそして相対の神々とを混同している》と述べていませんか。  12. 人麻呂にとっては 神が《目に見えない。しかも心の目にさえ見えない》ことは当然のことだったのでは? 精神論でもないと。  13. ただし 外(と)つ国へ出かける友に向けては 別れのあいさつとして言挙げぞすると言っているようです。  14. 表題について問います。

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回答No.3

Bragelonneさん こんばんは。お久しぶりです。 私は、bragelonneさんの考えに真っ向から反対します。 自然豊かな日本では、汎神論のアニミズムは、むしろ根付きやすく、古来、日本の人々は自然に超越した神を見出していたと思われます。 美術的見地からアプローチします。 熊野古道は、古くから自然崇拝の場所として有名でした。 鎌倉時代のものですが、東京の表参道にある根津美術館には下記のような国宝の絵画があります。神道に結びつくと思います。 http://www.nezu-muse.or.jp/jp/collection/detail.php?id=10001 さらに、細川家の宝物を管理する永青文庫には、下記の絵画があります。 http://www.eiseibunko.com/collection/chusei3.html 解説にあるように、これは雪舟の原画を模写したものだそうですが、富士山の頂上を見てください。3つに分かれています。これは、真ん中にお釈迦様である如来がいて、両側に観音様がいるという、古来の富士山の頂上の伝統的描き方だそうで、仏教とも結びつきます。無論、雪舟は室町時代の人であり、平安時代の伊勢物語の在原業平の「東下り」では、京の都から離れ、ほとんど目にすることのない富士山の大きさには驚いたことが書かれているそうで、当時は富士山への山岳信仰はなかったかもしれません。 しかし江戸時代になると葛飾北斎は富嶽三十六景の「諸人登山」で下記のような浮世絵を残しています。 http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/175177 浅間神社も山岳信仰で、さぞ栄えたと思われます。 一方西洋美術に目を向けると、古典的な美の基準であった、調和や均斉といった美に対し、「崇高」という美の概念が17世紀後半から18世紀に、アルプス山脈の登山を通して、確立していきました。これは、エドマンド・バークの「崇高と美の観念の起源による哲学的研究(1757)」によりまとめられ、大陸に渡りカントの哲学に影響を与えますが、バーク以前のアルプス登山における大自然を前にした体験論として、「歓喜に満ちた恐怖」「恐怖に満ちた喜び」などという「快」と「苦」が伴なった二義的な感情を述べる人や、創造というより破壊を感じるが、そこにこそ精神的高揚感が生まれ、神への畏敬の念を感じ、感情を神へと昇華するという記述が残っているそうです。 18世紀においてやっと西洋では「崇高」という美学が生まれましたが、日本人にとっては、「崇高」なる概念は、当たり前で、台風、地震、津波など、人間の力ではどうすることも出来ないが、生活の糧として恵みをも、もたらす二面性を持つ自然と共存し、さらには超越したエネルギーとしての自然に神を見たのではないでしょうか。 では、そろそろ寝ます。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  お互い 長い空白がありましたね。  ★  古来、日本の人々は自然に超越した神を見出していたと思われます。  ☆ あまり生産的な議論にならないように思われますが――つまり 対立点はほとんどないと思われるのですが―― 捉え方の違いとして ひととおり述べてみます。  すなわち・つまり:  ☆☆ 5. つまりすでにこのように問い求めた定義からすれば われらがおや(祖先)たちは 《超自然・非経験》の領域を 何も表わさなかった。つまり強いて言えば《無い神》を立てていた。  ☆ ということですので 《自然に超越した神を見出していた》と言うか それともそのような神は 特に何とも表わさなかった。だから 《無い神》であったと言うかの違いであるように・・・。  ★ 18世紀においてやっと西洋では「崇高」という美学が生まれましたが、日本人にとっては、「崇高」なる概念は、当たり前で、台風、地震、津波など、人間の力ではどうすることも出来ないが、生活の糧として恵みをも、もたらす二面性を持つ自然と共存し、さらには超越したエネルギーとしての自然に神を見たのではないでしょうか。  ☆ そうですね。  《崇高》って 日本語で何と言ったのですか? 神さび。こうごうしい(かうかうし < かむ(神)かむし)?  西欧人は 崇高という美学を 遅れて遅くに持ったんですか? ううーん。  ペトラルカが 何とかいう山に登っていますね。その登攀記を書いています。小品で 何となく面白かった覚えがあります。  わるいけど しゃれた応答が出来ずじまいだった。  富士山のてっぺんが 釈迦三尊像なんですか?

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  • SPS700
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回答No.2

 古代の日本人は 《無い神》をいだいていたか  はい。   どこにでも居る神ですから、どこにも居ない神と同じ、ですから(行頭に戻る)

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ どこにでも居る神ですから、どこにも居ない神と同じ  ☆ 神は 普遍神であるなら 遍在します。有る神も無い神もです。  ゆえに  ★ どこにでも居る神です  ☆ けれども それは 経験世界を超えているという想定から発して 経験世界にも来ていると言い得る。という意味です。  それゆえ  ★ どこにも居ない神と同じ  ☆ という推論は どうでしょうか。  経験世界に来ている神というのは 神本体の仮象つまり依り代ないし補助線としてのものごとである。とは言えると考えます。  つまり 補助線ばっかりであって 神は ほんとうには 《どこにも居ない》という論理でしょうか。  このあたりの議論は 特に繊細であり 厳密を期して説明すべきと考えます。

回答No.1

それよりも あなた・・・ 神って 一体 何だと思ってますか? ・・・・・・・・・・・・・・・・無神論者だろーと 有神論者だろーと 理解出来なきゃ「神」では無いのです・・ それが可能な事は この世に古くから存在してますよ・・ だから 人類は代々命を継いできた・・

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     1. ひとつには 無神論もひとつの信仰だと思いますので人は 得があろうがなかろうが・人間であるなら誰もが否が応でも 信仰を持つとは考えます。  2. ひとつには きみは真理を知ることができる。真理を知れば きみたちは自由になる。と言われる得がある。  ☆ ただしこれだけでは 話がすすまないでしょうから 信仰とは何か? から始めるたたき台の考え方を述べます。  A 有神論も無神論も 信仰(すなわち 非思考の庭)である。  3. 人の能力は限りあるものゆえ 限りを超えたところのナゾについては 一般に《かみ》と呼ぶようである。  4. このカミを カミは存在すると捉えて《神》と呼ぶか それとも存在しないと捉えて《無い神》と呼ぶかは 互いに同等のコトである。ナゾゆえ。  5. 前者の神を ヤハヱーやらキリストやらアッラーフやらあるいはブラフマンやらアミターユス(阿弥陀仏)やらマハーワ゛イローチャナ(大日如来)やらとそれぞれ呼んでも 有限世界を超えたところのナゾであることに変わりない。  6. それと同じように 《無神ないし 無い神》と呼んでもまったく同じである。  7. われわれ人間の知り得ないところのナゾは したがってほんとうには有るとも無いともわれわれは知り得ない。ゆえにである。  8. ということはこのナゾに対してはわれわれはその心に窓があるかのごとく その窓で触れられているかにも思われる。  9. 無い神をとなえる場合には この心の窓を閉じたように思うかも知れないが じつは《無い神》と捉えて(想定して)開いている。  10. そのように われわれとカミとのかかわりは おのれの心の明けもしくは伸びとして考えられる。心があたかもひらいている。つまり閉じていない。この《閉じていない》ということが肝心であろうと思われる。  11. むろんこの心の窓におけるカミの有る無いの想定は いづれも最終的には思考の問題ではなくなっている。推論の道筋を超えている。あたかも賭けのごとくに どちらか一つに人は判断し決めることになっている。これが 信仰である。  12. したがって 信仰は 非思考の庭がわが心に成ることを言う。成ったあとの持続する動態をも言う。その持続が切れたというのは ほんとうには無神論が有神論に成り変わったか それともその逆かである。  13. もしくは 一般に何か(たいていは いろんな意味でのアイドルであろう)をあたかもカミとしてのごとくただ思いこんでいるかたちでの有神論であったり無神論であったりする。そのような曖昧な信仰という形式の場合が考えられるのみである。  B 信仰は真理を知ることができると言うのは どういうことか? そこにどんな得があるか?  14. 思考に非ず。経験世界をあたかも超えようとする。しかも経験存在としての人間つまり《わたし》がそのナゾすなわちカミ(神および無神)とのかかわりを たとえば畏れとしてのように持つ。  15. おそらくそこでは ヒラメキが得られる。その中身がまだあいまいで混沌としてさえいる直感としてのヒラメキもあれば 或る程度ものごとの本質を見抜くまでに到る直観としてのヒラメキもある。  16. ヒラメキは インスピレーションないし霊感とも呼ばれる。  17. 煮詰めた議論としては このヒラメキにおいて《わたし》は真理に触れ得たと思われることである。むろん主観である。  18. このヒラメキがわたしにあたかも与えられることが おそらく経験思考を超えていて――もしくは経験思考をゆたかにしてくれる内容を持ち得ていて―― 効用を成す。その意味で《現世利益》である。  19. もしここまでの筋道に大きなあやまちがなければ あとは このヒラメキ主観はその内容をどこまで普遍的なこととして明らかにされ得るか。ここに焦点があてられよう。  20. ということは そのためには 対話ないし交通(まじわり)が肝要である。特に主観の見及んでいないところを互いに指摘し合う批判 これが大事である。  21. 一にも対話 二にも対話。三四も対話 五にも六にも対話 対話・・・ということではないだろうか?  22. 信仰の認識ないし自覚がなくても ひとは交通においてコミュニケーションをとるが そこにおいて対話や批判が肝要であることをさらに自覚するのは 信仰という非思考の庭の存在からではないか? おのれの主観が 互いに 問題になっていると知るゆえである。  23. その意味では カミさんはそっちのけで 経験思考で分かる中身としての互いの対話が必要不可欠であろう。カミをそっちのけに出来ることも――しかもヒラメキ霊感において保ちつつということだが―― 信仰の効用であるだろう。  さていかがでしょう

  • 第四章 非経験の場なる神が どうして知られるのか

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論  第四章 非経験の場なる神が どうして経験存在である人間に知られるのか  § 1 《非思考の庭がわが心に成る》そのいきさつについて  (あ) 神とはなんぢゃい? とワタシは いぶかったり うたがったりする。  (い) 分からんと結論づける。《考えても分かるか分からないかが分からないナゾの何ものか》であると 想定し 定義づける。  (う) 《かみ》もしくは《何々の神》といった名は 神を示す仮りのものであり シルシであり 補助線であるとみとめる。  (え) ということは それでも或る日或る時 何ものかがわが心の窓をノックしている。と感じた。ということが起きたとき 主観としてその単なる感覚で これは神であるかも知らんと思って その雲をつかむような何ものかを心に受け容れた。(または そんなものは知らんと言って 棄てた)。  (お) このとき わが心なる非思考の庭が 成る。維持し持続するとき それを 動態としての信仰と呼ぶ。  § 2  《神を知る》という表現は――神という言葉からして そうであるが―― 精確ではない。  (か) ただただ その名前を心に受け容れただけのことだ。ブラフマンにせよ アミターバ・タターガタにせよ キリストにせよ あるいは単なるカミにせよ さらにはまた《無い神》にせよ。  (き) あとは 人間という存在の社会性――つまり生活の共同性 そしてそこから関係性(つながり・きづな または ときには不倶戴天の敵対関係)――をつうじて そのマボロシなる神の名が あたかも意味を持って来る。言いかえると 何が何だかワケの分からないナゾの何ものかであるということ――非経験の場とでも名づけるべきものであること―― ここから意味が出て来る。  (く) おのれの心の中で・おのが主観において 《絶対なる神と相対なる我れとの関係》が成っているというとき それは 神がこの経験世界を超えているからには・そしてそれは 非思考であり 何ら中身はないと言ったほうがよいからには 神は同じ次元ではありえない。  (け) つまり中身はからっぽである(つまり 非思考の庭である)ところへ しかも それが何であるかが知りたさに いろいろ考えることをも為す。つまり 補助線を引いて 《こたえ》を探りにかかる。  (こ) 手掛かりがないわけではない。それは 非思考であるにもかからわず(または 非思考であるがゆえに) ひとにはヒラメキという出来事があたえられる。そこから 観想・瞑想が得られることがあり 神についての仮りの説明とすることが出て来る。そういう《意味》が現われる。  (さ) ここから やがて オシエという代物も現われる。うんぬん。・・・  § 3 《神を知った》わけではなく 《神とわれとの関係》を 何とか経験思考において表現してみたものが 人間には持たれて来る。たとえば不老不死を願うところから 神については 永遠の生命といった当てはめが持たれる。知ったような感じになるということなのであろうか。  (し) ところで神は この経験世界に介入するか?   (す) 分かるわけがない。ただし ひとりの人間の主観内では 如何ようにもと言うほどに 説明書きが持たれる。それを共同化することは 出来ない。出来たら ほんとうに神は何であるかが分かったときだから。  (せ) 信仰は 非経験の場を マボロシとして心に受け容れるその受け容れることとしては経験的な意志行為である。そういう人間の特殊な現実である。  ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~    普遍真理(非経験)――信じる    世界事実(経験)――考える    主観真実――《信じる》+《考える(感じる)》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  § 4 介入はしないが 神は人間とその世界にお節介を焼くのだろうか  (そ) 初めは 神とは何ぢゃい? と問うに過ぎなかった。それは なぜなら 《かみ》という言葉をわれわれは持って使っているからである。  (た) おそらくこの言語習慣という社会関係性がかかわっている。はずだ。コトバとしての事実が 《かみとわれとの関係》を どこかで成り立たせることになるのかも知れない。  (ち) ナゾの何ものかについて それでも それが何であるかを探り始めると言ったとき 説明として《絶対・無限・不可変性》などの概念が挙げられるのは それとして分かりやすいものと 大方の人は受け取るのではないか。  (つ) そこからは いろんな説明やら果ては神学体系やらが 繰り広げられて行く。     《〈わたしはある〉 それがわたしである》(エフエー アシェル エフエー)  こういう説明もある。これが 神のことだという。つまりコトバとしてはすでに 存在として受け留めた表現例である。  (て) はじめの想定も そこから無理にでも概念化して捉えることも その概念からさらに神論として説明を繰り広げるのも すべてすでに 非思考ではなく 思考の緑野における人間のしわざである。基本としては 思考(考える)と非思考(信じる)との区分がなされており このような思考におけるこころみは 限界のあることも分かっている。  (と) けれども ときどき このような神論を弄んで しかもその補助線こそが絶対だと錯覚して――または 自分はそうではないのに 錯覚したい人たちがいると見込んで その需要に応じるとうそぶくかたちで―― カミの商売を展開するヤカラも出て来る。不届き者があとを絶たない。  (な) つまり この不届き者が 組織宗教である。すでに信仰ではなくなっている。もぬけの殻であり この蛻の殻が けっこう好まれるようでもあるのだ。その内実は ムレタガリ症候群であろうか。  § 5 信仰は 心の解放をもたらすか  (に) 《心の解放》は 初めの神の――想定としての――定義の時点では 何の関係もない。  それでも 神は 社会の生活共同やその言語習慣とかかわりを持つと見た点にかんがみれば やはりいづれかの――神論の《発展》の――時点で この《心の解放》ともかかわりを持つということになるだろうか。  (ぬ) 言いかえると 主観内面における《神とわれとの言わばタテの関係》は けっきょくのところ社会における《人と人とのヨコの関係》と ほぼひとしいという様相を呈するようになる。こういうかたちで 心の問題が捉えられるし 扱われて行く。  (ね) いかにか? 《真理》も 説明書きのシルシであり 究極においては ナゾの何ものかは 何が何だか分からないのだから 神という言葉にしても真理にしても その他その他にしても みな 単なるシルシであり 補助線である。  (の) つまりすべてはシルシであるから 《何者かが存在している》ことも《介在している》こともないと言えばない。そして シルシとして・コトバとして 存在があると言えばあるし 介在していると言えば言えるかも知れない。  (は) 真理だから それに依拠するのだとか 神だからその存在は うるさいとか 感じるかも知れないとしても それは 問題にはならない。シルシをあやまって受け留めただけのことだ。そして しかも すべては 単なるコトバの問題として マボロシが介在していると見られるのかも知れない。  (ひ) 神にしてもその真理なり絶対なりの概念にしても その他その他の説明書きにしても みな コトバの世界である。かみというコトバが ナラワシとして流通しているから これを尋ね求める。その結果としても ただ《神と我れとの関係》というようなやはりコトバの問題に行き着いてしまう。――そして ただし その神とのタテの関係は 人とのヨコの関係にひとしい。どうしてそうなるか?  (ふ) このコトバの問題が 人間的現実であると捉えられるかぎりで 神がわれわれのあいだに・またとなりに 存在している。ここに もしそうとすれば《心の解放――こころがやわらげられ もともとの心に立ち帰る――》という主題が持たれるのか。  § 6 神は コトバの問題か。コトバがどうして心を解放するのか。  (へ) 《ナマス・テ》というあいさつが もし《わたしは あなたに帰依する》という意味であるのならば それは やはり《あなた》の内なるブラフマンなりマハーワイロ―チャナ・タターガタなりアミターバ・タターガタなりの神に帰依すると言っているのであるらしい。  (ほ) かくのごとく わが心なる非思考の庭における神とわれとのタテの関係は わたしとわたしの身の周りの人びとそれぞれとのヨコの関係と相い携えて 互いに入り組んでいる。互いにひとしい。  (ま) あるいはつまり あらゆる生命に ブッダター(仏性)がやどると言う。神の霊がはたらくと言う。  (み) 非経験の場なる神が その補助線としての説明表現つまりコトバをつうじて すでに経験現実にあたかもその影をひびかせている。か?  (む) そして神は 世界中でいかにその名が違っていても すべて同じひとつの非経験の場である。  (め) これが 神および信仰ならびに信仰の偽造物たる宗教にかんする一般理論である。としてよいか?  (も) かくしてわが日本のルネサンスが成れば――万葉集 いな 億葉集なる一人ひとりのウタが鳴り響くようになるならば――世界もめざめるか?

  • 神っているの?当然いないよねー。

     哲学家の皆さまに質問です。僕は超無神論者です。  めっちゃ自分の中に閉じこもっているDEEPな方のご意見が聞きたい、今はそんな気分です。  僕は絶対、神さまはいないと思う。僕の神様はどーしてもつらいときだけ存在します。苦しいときの神頼みですね。それ以上ではなくそれ以下ではない。  皆さまの回答はできるかぎり読みますが、あまりに読みづらいのは勘弁してください。僕は本当に超個性的な方を待ってます、どんな考え方しているのかちょっとでも知りたいです。

  • 女性は日本の神の一柱として数えられるでしょうか?

    女性は日本の神の一柱として数えられるでしょうか? 渡部 昇一「日本史から見た日本人 古代編」に書いてある事に疑問があります。 一部引用しますと、「勃起した男根、その精液、さらにその連想から生ずる柱や巨木に対する信仰は、シャーマニズムにとっては本質的なものであった。だから、日本ではカミを一柱、二柱と数えるのである。」 神の数え方(○柱)の柱は男根に起因するのではないかという記述があって、それでは女性は死んだ後に神として数えられないのか、という疑問があります。 (あるいは今は数えられるが、日本神道がシャーマニズムとして形成された頃は数えなかったのかと) 更に言えば、別天津神と神世七代の内の最初の2代は「性別が明らかではない独り神であり」、残りは男女の対で一代と数えているようで、こちらも混乱しています。 一代とする神様は一柱としている神様とは別ものなのでしょうか?