神は補助線である

このQ&Aのポイント
  • 《神》は時空間ないし世界という存在に先行するものはあるか?ない。つまりあるかどうか人間には分からない。
  • 《かみ》という補助線をじんるいは考え出しこれを引いた。《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》はカミという言葉で交通整理して捉えあおうと。
  • 世界はそれを生み出すチカラがあったとしてもそれはいわゆる《自然》としてのあり方であるしかないと捉えるなら自然が神となる。
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《神》は 補助線である。

 1. 時空間ないし世界という存在に――時間的にも考え方の上でも――先行するもの は あるか?  2. ない。つまり あるかどうか 人間には分からない。分かるか分からないかが分か らない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》は カミ という言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としての あり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。  5-1. 山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身である。分身も神ので あると言っても それぞれ《神の依り代》と呼ばれる補助線である。  6. 世界をつくったチカラが別にあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその 中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無 神論である。  8. このような《自然神 / 創造主神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分か らないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによ って(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉 で――けっきょく人間が――引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの神を意識するときにはおのれの内面に おいて この神と(つまりは 神という補助線についての己れの意識と)しばしば向き合 うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動 態としてあり得て―― 信仰とよばれる。  11-1. 信仰は 神を意識している限りで 人間のただの思念である。と同時に そ の神は もともと《非知なるナゾ》であるなら 人間のコギトを超えている。《非思考の庭》 として ひとの自然本性の内にあると想定される。  11-2. ゆえにしばしば人びとは このナゾのことを《霊》とも呼び 《アートマン(霊 我)》や《ブッダター(仏性)》や《アニマ・ムンディ(世界霊魂)》などとして呼びならわして いる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界のあり方を見ればそれはむしろ 神と して立てているナゾの内容とは――人間の持つ《のぞみ》という考え方において――対 立していることが少なくない。よってこの種の神を否定しようとする場合がある。むろん  無神論となる。  12-1. これは・これも 《無い神〔としての非知なるナゾ〕とわれとの関係》を内容と する信仰である。無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》 と証明しなければならない。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ 理由も必然性もどこにもない。非知なのであるから。風車に向かって突撃するようなも のである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・また人びとそれぞれわが心な る《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち 足りている。(と推測される)。  ご教授ください。

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回答No.4

十分だよ。 よく出来ている。 もっと読み物として面白ければさらによい。

bragelonne
質問者

お礼

 《読み物》かあ。  たぶん そうなんだろうねぇ。  話をするという手もあるんだけれど これっばかりは わたしは苦手。  恥づかしがり屋。  いっそのこと 芝居にするとかドラマにするとか。  あんたのほうは どうだい?  褒めてくれて ありがとう。  ご回答をありがとうございます。

その他の回答 (3)

noname#212567
noname#212567
回答No.3

まず・・ 神の存在を認めないと 答えは絶対に出ないのです・・ あなたが 神の存在を否定している間は あなたの思う様にして下さい・・ 必ず 神と対面する時が来るので・・

noname#212561
noname#212561
回答No.2

20. つまりは この善なる心にその心じしんが逆らっておこなう思惟や行動は 善の反対であり 善を傷つけるものであると。  21. つまりは 悪は 負の善である。マイナスである。つまりは 正の善があって初めて 負の善としての悪が起きる。それだけの自由度を 自然本性の心にもそなわっていると。  22. つまりは 悪は それ自体で存在するものではなく 善に寄生して善にさからう動きとして起きるだけのものであると・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・←なるほど・・理屈は通りますね・・ しかし 悪が何であるかも知らない時には どうしてたんだ・・?って疑問が浮かばないかな? 今でこそ これが善 これが悪と決めつける事も出来る・・ けれど 果たして 本当に決めつけて良いものなのかな? 誰もが悪と見なしてるものにも善があり 善と見なしてるものにも悪があるのでは? そして 善悪の区別も判らない少年期 青年期に どうやって最初から善悪を見分ける術を持ってるの? まっ あなたの思ってる事が 根本から間違ってるので 直しようが無いので此処まで・・ 何れ 全て解かる日が来ます・・

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  26. まづ ヤマシサ反応を受けて逆らわない善と逆らう負の善(つまり悪)とがある。という定義があります。  27. つまり ここまでは あくまでも個人の問題であり 《わたし》にのみかかわるものです。  28. ただし ヤマシサ反応が起きるのは いちおう普遍的な人間存在のあり方だと見なされているとすれば その限りで 個人にかかわる善と悪の見方が 誰にも当てはまる見方であるとなるようです。  29. 抽象的には そのようにだいたい善悪論は決まっているかと思います。  30. ということは  ★ 誰もが悪と見なしてるものにも善があり 善と見なしてるものにも悪があるのでは?  ☆ という見方には 一般にはならない。とは考えます。  31. ★ けれど 果たして 本当に決めつけて良いものなのかな?  ☆ 煮詰めた議論としては だいたいにおいて ヤマシサ反応にもとづく個人としての善悪論が一般論であると見なされるのではないか。  32. あとは 個別の問題について しっかりと認識し理論づけて行くことになると思います。  33. ★ そして 善悪の区別も判らない少年期 青年期に どうやって最初から善悪を見分ける術を持ってるの?  ☆ やはり ヤマシサ反応が鍵であり だとすると そうだとしても マチガイも生じるのではないかと問われます。  34. じっさいマチガイが 個人ごとに生じ得ます。大人であっても あやまち得ます。  35. これは みんなで一般論を作り直して行くことであり それは 互いに試行錯誤をして行くことだと思います。  36. あとは 精神錯乱からのご発言です。

noname#212557
noname#212557
回答No.1

進化論を肯定するなら 何故 人間は善なるものを良し 悪なるものを追放しようとするのか・・の答えが出ない・・ 善なるものが創造した人間だから善を追求するのでは無いの? 神が何か等は 神には関係ない・・ 人間が人間の力だけで この地球を・・宇宙をより良い環境にすれば良いだけ・・

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  15. 行替えがまづいことになってしまいました。  16. 善悪論は 成功しているかどうかを別として もしそうだとすれば あんがい単純で理論もかんたんなんだとは思っています。  17. 思いや振る舞いとしてそれを意識したとき もし胸がドキドキし顔が赤らむなら それはヤマシサ反応であると見ます。つまりは このヤマシサ反応〔が指し示すようなわが心や意志〕に逆らって行為を為すこと これは 悪であると。  18. ただし この悪は ヤマシサ反応を破っておこなうことですから その破らない状態としての心と意志とがあります。これを 単純に善と呼ぶのだと。  19. 言いかえると ふつうに生まれたときからの自然本性としての心に従う心(意志)が よいことであり善だと。  20. つまりは この善なる心にその心じしんが逆らっておこなう思惟や行動は 善の反対であり 善を傷つけるものであると。  21. つまりは 悪は 負の善である。マイナスである。つまりは 正の善があって初めて 負の善としての悪が起きる。それだけの自由度を 自然本性の心にもそなわっていると。  22. つまりは 悪は それ自体で存在するものではなく 善に寄生して善にさからう動きとして起きるだけのものであると。  23. ★ 人間が人間の力だけで この地球を・・宇宙をより良い環境にすれば良いだけ・・  ☆ というお考えの基礎としては いま上に述べた善悪論があるのではないか。  24. つまりそうだとしたら その限りで《神》は 登場願わなくても済むようだと見られます。  25. つまりは 神はあるとしても まだその《ある》という言葉や概念は なお仮りのシルシであり言わば補助線である。と言えると思います。

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    ※信心深い方は、お読みにならないでください。 人間はなぜ、神や悪魔のようなものを創り出したのですか? 科学がまだ未熟だった(というか、皆無に近かった)大昔から、 人間はどこの国のどんな人種でも、 神々や悪魔、鬼、 場合によっては一神教の神様などを必要としてきたのでしょうか? 暗闇や天変地異、病気や死、恨みつらみなど等、 色々なものに恐れを抱き、苦しめられてきたのは、今も昔も同じ。 今は様々な分野の研究が進み、医学も日進月歩、 月だけでなく、常時、宇宙空間に人間が常駐している時代、 太陽系だけでない、広い宇宙のことも、徐々に分かってきている。 そんな時代でも、信仰心は忘れたくないものですが。 たぶん、ほとんどの人が、神や神々が大地や空、月や太陽、 星々を創った、なんて信じていないと思います。 アマテラスオオミカミも神話の世界だけで、 ギリシャの神々も神話の世界の住人です。 キリスト教も、神話という形をとっていませんが、 旧約聖書の創世記は完全に神話です。 必ずと言って良いほど、どこの地域のどの民族も、 何かしらの神を「創造」し、祀ってきました。 神が人間や世界を「創造」したというより、 人間が「神々」や「神」を「創造」したのでしょう。 宇宙には何か計り知れないものがありますし、 私も無神論というよりは、不可知論者なので、 自分なりに色々考えてきましたし、 何か偉大なものへの畏怖の念や信仰心のようなものもあります。 ご意見、ご回答をいただけますと嬉しいです。

  • 神論のエセンスは これだ

    0. 標題のごとくに自負して考えるのですが なお仮説ですので よろしくご教授ください。 疑問については是非ぜんぶお知らせください。 神論は その問い求めによって 世界におけるわれわれ人間の立ち位置が現実によく分かるようになるのだと思いますが どうでしょう。 神の世界に相い向き合うからだと思われます。 1. 神は 《人間の知性を超えている》。 2. 人間の知性で分かったと主張するその神は 人間がつくった――観念の――神に過ぎない。 2-1. そもそも その《分かったということ》は証明し得ない。その否定も じつは証明し得ない。 3. 人間の知性で分からない(不可知だ)と説く神は これも 人知でそのようにつくっている(決めつけている)。 3-1. 不可知とは 知り得ないと証明し得て初めて言えるもの。知り得ないと証明し得たなら 或る意味で人知の範囲内だ。 4. 人知を超えたところとは 《知り得るか知り得ないかが 知り得ないナゾ:非知 incomprehensible incomprehensibility 》です。 ・ 可知(既知&未知)&不可知 に対して 非知 5. 非知なるものは 非経験(その場ないしチカラ)であり 絶対性および無限である。 ・ 経験    に対して 非経験   (自然および経験)  (超自然および超経験) ・ 相対性   に対して 絶対性 ・ 有限    に対して 無限 6. 無限とは 二で割っても三で割っても 商はもとのままの無限であることを言う。 6-1. 一神教か多神教かまたは汎神論かの――神の数にかんする――問いは 無意味である。 6-2. すべては――やほよろづの神々はみな――《全体として一つの神・ただ一つの柱で全体をふくむ普遍神》の分身であるゆえ。 7. 絶対性とは 《何ものにも拠ることなく ひとり満ち足りているもの》を言い それと相対世界とは 絶対のへだたりがある。 8. 非経験は たとえば《有るか無いか》という規定が適用される経験的な事象(事物および現象)を超えている。 8-1. 《有る》と《無い》とを超え しかも両状態をおおいつつむ。 8-2. 《有ると無いとが つねに――つねにである――重ね合わせになっている》。 9. 事物が有るか無いか つまり 現象が起きたか起きていないか つまり ものごとの因果の関係として捉えられること(そして その知性)を超えているのが 非経験・絶対性・無限である。 10. 人間は このように《人知を超えているものを人知で推し測っている》。 11. 人知で捉え得たと思っている神について ひとはいろいろ忖度する。 11-1. 余計なことはやめろと言われても 余計か本計かを究めあぐねる。 11-2. 忖度するような対象ではないと考える向きは 端的に言って《無い神〔という神〕》が 心にいだかれている。cf. [8-2]。 12. 忖度のいろいろは こうだ: ① その属性として:    〔つねに真偽をまぬかれない人間の主観真実を超えた〕真理    〔善悪を超えた善悪の彼岸としての〕至高の善(スムム・ボヌム)    〔相対的な美醜を超えた〕美    〔愛憎を超えた〕愛(アガペー)    〔真理がすべてにおいてすべてであることを実現させる〕全知全能 ② 絶対性からそれを擬人化して:絶対者 ③ 全知全能なる絶対者を物語化して:創造主(非経験と経験世界とは絶対の                   へだたりがあることを言っている) ④ 創造主のチカラのおよぶところとして:摂理(因果律を超えているチカラ                      による人間への因果応報なる説) 13. 神についての忖度は すべて おのおの心の内面に主観真実としておさめている限りは 自由である。良心・信教の自由。 13-1. 神についての忖度――神観――が 良心・信教の自由のもとに自由であり それとして主観真実におさめられることを 《特殊絶対性》と言う。一般性とは別次元にある。 13-2. 忖度に成る神観を成るたけ避け一般性を問い求め得た神論は 《一般絶対性》なる理論であり これを個人として抱くゆえ 《個別絶対性》とよぶ。 13-3. 神観が 或る種体系的な神学となりこれがオシへとされ得る。さらにしかもオシへが神と同等のものだと説く場合がじんるいの歴史にあった。そのような神学ないし自称神論はアウトである。人間が神をこしらえている。《文字もしくは聖なる書》という偶像が建立される。 13-4. オシへを神と説くシュウキョウというシュウキョウは その説くという発想が無意味であり ぜんぶアホンダラ教である。 14. なお《一般絶対性かつ個別絶対性》の具体的なあり方は 次のように図示できるはずだ。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我(生命性)   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀仏)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如(生命性‐生命体一如)    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如    霊:かみ(超自然および〔その依り代としての〕自然)    霊:われ(自然本性 + α )   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   I. タオイズム:道人一如    道:タオ(?)    人:われ 14-1. 個別絶対性とは 信仰である。《非知なるナゾを 無条件で無根拠にてわが心に受け容れること》を言う。 14-2. 《信じる》は 《感じる・考える》を超えている。言いかえると 《信じている》ときに《感じ考える》ことを同時におこなえる。無思考や思考停止ではない。 14-3.  【梵・仏・霊】  :信じる(生命性):非思考の庭 ------------------------ 【我(霊の分有)】:考える(知性) :思考の緑野           感じる(感性) :感性の原野

  • 一般および個別絶対性理論:普遍神およびその信仰

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知(間違いだったと分かることもある)        未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)      不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。未知や不可知と一線を画す)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。    【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心    -------------------------    【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト     【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  5. したがって 非経験の場 ないし 非知なる神は そのまま普遍神である。名が違うのみである。また それら有神論に対して 《無い神》と名づける無神論も いづれも普遍神についての互いに同等の説明である。  ――これが 一般絶対性である。  6. 個別絶対性とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐっての説明となる。  7. というのは 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。  8. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。また それとして とうとばれる。  9. ちなみに 信仰から得られた観想を 倫理規範としまた世界観としたのは 宗教のオシヘである。一般にこのオシヘをかかげ 無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く宗教は いまのこの理論の外である。オシヘは 思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》とは 何の関係もない。  ☆ 以上が 標題についての仮説であり 問い求めのためのたたき台です。吟味・検証しつつさらに推し進めて行ってください。自由なご批判をどうぞ。

  • 《分かるか分からないかが分からないナゾ》が 神。

     たたき台を述べます。その当否を問うています。  《分かるか分からないかが分からないナゾ》 とは《非知》と呼ばれる。  それは 《非経験の場》である。  すなわち 図示しますが:  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》というのは 個人が信仰にあって得られたヒラメキを観想(テオーリア)としてコトバに表現したところに発する。すなわち その観想を表現したものを オシエとするところからである。  オシエのもとに群らがり始めたら それは個人の信仰を去って その抜け殻としての宗教に変身したことを意味する。そこは 《信じる》の問題ではなくなり 《考える》をとおして理解した人間のあたまの中の観念の神へと変わる。  けれども 神は 非知なるナゾである。    人間は いのちのもとにあるから・そして命のつづくことを欲し・また良くつづくことを志向するから このイノチのみなもとなる神を 善と見る。至高の善という属性を 神に付与する。じっさいには 善悪の彼岸としてのナゾの場である。  同じようにして この上ない愛・慈悲・また 義あるいは真理とも呼ばれるようになる。愛憎をふくむ愛 あるいは 相対的な主観真実における義不義や真偽を超えたところの真理。  神が この世界を見守るというようなイメージにまで人間の想像が及び これは 摂理というコトバで呼ばれる。そこから ダルマまたは宇宙の法則などとも呼びたくなり呼ぶ場合もある。  ところが 《非知:すなわち 人間の能力では分かるか分からないかが分からないナゾ:つまり非経験の場》のことを想像し思ってみたとき そこにすでに神に触れた感覚(予感)が得られるのではないだろうか。  これを 《考える》ではなく 《信じる》と呼ぶが この信じるは 信じないと言っても 同じコトになる。信じないと信じたことになる。《非知に触れた感覚》 これが神と接した体験である。

  • ニーチェは死んだと 神は言った?

    神は死んだとニーチェは言いましたが 今でも神はキリスト教徒の中に息づいています 人間は神じゃないですが、人間は宇宙の一部です。人間の意識は宇宙の意識でもあるのです 人と人の間 人間の繋がりの中に宗教があり神が性質として在る以上 無神論者の考えが尊重されるように有神論者の考えも尊重すべきではないでしょうか? 宗教と一緒に道徳も荒れています 今こそ哲学は神とは何か、そして神を信じる人達を弁護しなければ 思想信条の自由がおびやかされているのではないでしょうか? 私は無宗教の家に育ち、無神論者でしたが、今 神に興味があります。 人間の意識に神がいるのなら この宇宙に神はいるではないですか? 世界では1万という宗教が有り、それに近い神がいますが(多神教もあります) 仏というのも神と似ています。この宇宙の真理を会得したら 神の子 では?ないですか? この宇宙を変えることが出来るのですから。何かを創造することができるのですから。 どうでしょうか? 神をどう思いますか? 神ってどの様な存在でしょうか?