- 締切済み
御前
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
みんなの回答
- Nakay702
- ベストアンサー率80% (9726/12098)
>平安末期の女性には「由良御前」「常盤御前」「静御前」など「御前」と呼ばれる女性と、「平時子」「北条政子」など、「御前」を付けて呼ばれない女性がいますが、この二つの違いは何でしょうか。 ⇒以下のとおりお答えします。 「御前」とは、もともと貴人の面前・貴人の前駆を表す尊敬語でしたが、その後、単なる貴人・貴婦人に対する敬称になりました。 お書きの「〇〇御前」は(ついでに、「巴御前」も含め)、いずれも世が世であれば、「(北の)政所」とか「~門院」などと称されたかも知れない女性ばかりで、どのお一人を見ても「悲劇の女王」と言えそうな観がありますね。ちなみに、「平徳子」は、建礼門院と称され、「北条政子」は尼将軍と称されました。これらの方々は、お若いころには「御前」と呼ばれた時期があったかもしれませんが、長じてそれよりはるかに身分の高い位置についたので、「御前」を付けては呼ばれない、ということでしょう。他方、「由良御前」「常盤御前」「静御前」「巴御前」などの皆さんはその位置どまりで、それ以上の地位につくことはなかった、ということを暗示していますね。
- toratora(@aasjetto)
- ベストアンサー率16% (100/620)
子は お殿様の子供 という意味で 高貴な女の子につけられた名前 御前は奥さん 女史 的な敬称
北条政子と呼び捨てにされるのは、政子が悪女として伝わっているからじゃないでしょうか?現に、尼御台として頼朝亡き後は呼ばれていたそうですから。それに反して、静御前など「御前」として呼ばれるのは庶民にとって悲劇のヒロインだからだと思います。
- もこ猫ミクにゃん(@miku-chi)
- ベストアンサー率31% (3093/9822)
その女性の身分(位)の違いかと。 「平時子」「北条政子」などは彼女ら自身に三位以上の位を所持しており、「位記」など文書に記載された名前です。 「北条政子」は「位記」などに記載するために急遽付けられた名前で、本名は伝わっておりません。 由良御前は「身分が高い」と言われていましたが、「位記」に記載されるほどではなかったそうです。 上西門院の女房説があるため、九条院の雑仕女だった常盤御前よりは身分は高かったのですがね····· 静御前については「吾妻鏡」の創作説があります。 実在していても本当に身分が低かったとしか。 源義経の本妻は「郷御前」で本名は「河越萌子」または「郷子」と伝えられています。 また平時忠の娘(本名不明)も娶っており、「蕨姫」と伝わっています。
関連するQ&A
- 歴史上の女性の姓(または苗字)
もちろん一部に限られるのかもしれませんが、平安時代には名家の女性は姓があったようです(平徳子、北条政子など)。 室町時代になってもそれは変わらなかったようです(赤橋登子、日野富子など)、 幕末になると、夫の姓を名乗るようになったようですが、これはいつからなのでしょうか。また、戦国時代の女性は名前が知られている、お市、浅井3姉妹、千(家康の孫で豊臣秀頼の妻)などはいずれも姓が出てきませんが、本名には有ったのでしょうか。
- ベストアンサー
- 歴史
- 清盛も頂点に立ったのになぜ頼朝から「鎌倉時代」
初歩的な質問でしょうか。平清盛も武士として初めて頂点に立ったのに、なぜ頼朝から「鎌倉時代」と時代の区切りになっているのでしょうか。 もうひとつ、北条政子は頼朝と結婚していたのに、なぜ苗字が北条なのでしょうか。
- ベストアンサー
- 歴史
- 平「の」清盛・・など
平清盛にしろ、源義経にしろ、菅原道真にしろ、昔は「○○の○○」という名前が多かったのですが、北条政子のへんから、「の」をいわなくなったように思います。このへんの時代背景はあるのでしょうか。
- ベストアンサー
- 歴史
- 女性の名前に「子」がつくことについて
歴史に疎いので質問させてください。 本日、NHK大河ドラマ「義経」を見ていてふと思ったのですが、 女性の名前に義経の時代は「子」がつくことが多かったみたいです。 例:平家の「時子」「能子」、その他大勢。「北条政子」など。 しかしついていない人もいます。 例:義経の生母「常盤」、義経の想い人「静」など。 義経の時代は「子」がついていますが 江戸時代になると「お○」という名前が多くなり、 「子」がつく名前はあまり無かったのですよね? 昨年の「新撰組!」ではたしか女性は殆ど「お○」という名前でした。 これまたテレビのドラマの話で恐縮なのですが フジテレビの「大奥」でも「お万の方」「お楽の方」など「お」がついた名前が多かったような気がします。 「子」のつく名前があった時代があり、 またあまり使われなくなった時代もあったようで、 そして現代は復活しています。 何故なのでしょうか? 詳しい方、宜しくお願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
- 北条政子は言われるように悪い女でしょうか?
こんばんは。 何でしょう、人間が古いのでしょうか? 別にそんなに酷く言わなくてもいいのにと思うのですが、 皆さんも北条政子さんはやはり悪い女性ですか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 平安~鎌倉時代の女性気質
源義経の死に関して、「吾妻鏡」に「予州持仏堂に入り、まず妻(22歳)、子(女児4歳)を害し、次に自殺する」とあるそうです。……義経のことだと思うのですが……(*^_^*) 義経には、有名な愛妾「静御前」がいるし、確か、「正妻」もいたはずだと思い、義経には、どんな女性が、何人くらい……静御前と、正妻と、平泉で亡くなった女性と、少なくとも、3人は……関係していたのだろうかと、調べてみて驚いたのですが、平泉で死んだ母娘というのは、もともとの正妻で、河越重頼女だということでした。しかも、この女性とは、離縁し、故郷に帰したとのことでした。 このとき、ふと想い出したのが、「北条政子」でした。当時はとらわれの身とはいいながら、敵方の頭領である頼朝のもとへ「暗夜をさ迷い、雨をしのいで貴方の所にまいりました」という、鎌倉時代?の女性の気持ちと、離縁されたにもかかわらず、東北・平泉……当時は、気が遠くなるほど、遠かったのではないか?と想像するのですが……まで、追いかけていった「河越重頼女」とに、女性としての生き方に何か共通点があるのではないか?と思い質問しました。 「平安~鎌倉」という時代背景があるのでしょうか?あるとすれば、女性の生き方にどんな影響を与えていますか? あるいは、そもそも女性の生き方というのは、時代を問わず、こんなにも激しいものなのでしょうか? 私の場合は、優劣付けがたいと自分で思うご回答が2つ以上あると、BAを選ばないで締め切る場合があります。それでもよろしければ、お考えを教えて下さい。
- ベストアンサー
- 歴史