卑弥呼は天照大神であるか?

このQ&Aのポイント
  • 邪馬台国こそ大和朝廷だと思います。東遷説が有力で、遷都の時期は崇神天皇の時だと思います。
  • 卑弥呼が紀元前に生きた可能性があると思います。魏志倭人伝に書かれたことが三国時代の頃に限られていないということも聞きました。
  • 邪馬台国は九州北部にあったと思います。海洋貿易の中心地であって、西洋のアテネが疫病で苦労したようになったかと。
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卑弥呼は天照大神であるか?

 こんにちは、K国人です。  最近、ユーチューブで日本の古代史に関して色々見ております。  偶然に卑弥呼は天照大神なのかっていうことを目にしました。  私は邪馬台国こそ大和朝廷だと思います。東遷説が有力で、遷都の時期は崇神天皇の時だと思います。その頃、大勢の民が死んだというから、疫病の避けて機内への大規模な移動がおり、肇国したのではないでしょうか。そして九州をおさめた昔の指導者たちを「神」とし、機内で先に住んでいた人々に「我々は天孫じゃ」とかしたのでは?  そうなると神武天皇は何故神とならなかったかという質問が出来ると思いますが、神武天皇は「建国」したから、崇神天皇の頃には民衆に偉い大王さまと知られていたんだとしたらいいかと思います。  私は個人的に卑弥呼が紀元前に生きた可能性があると思います。魏志倭人伝に書かれたことが三国時代の頃に限られていないということも聞きました。魏の頃じゃなく、実は前漢や後漢の時にすると良いかと思います。どこかで崇神天皇の頃に前方後円墳が立てられ始めたとして、崇神天皇が約3世紀ぐらいの人物であるというのが、学会の一般的な見解であるとか?そんな話を聞きなしたが、それを既存としてもいいかと思います。  或る者は、魏志倭人伝を基準としたら、その頃に起きた日食が日本の九州からは見られなかったから、卑弥呼とアマテラスは別人であるという話を聞きましたが、前述したように、実は紀元前の人であったとしたらいいかと。だったら和暦に近接する。  卑弥呼が巫女の力で人々を安心させた?ように、神武天皇は米の貯蔵庫を作って(ミヤコを置く)人々を楽に住ませたと思います。  仁徳天皇ぐらいまで天皇の姿に龍の特徴がいたというのは、天孫であるからだと。昔には一般人が天皇の姿を見るのは難しいかった?から、  まぁ、こんな風に考えていますが、どう思いますか?  邪馬台国は九州北部にあったと思います。海洋貿易の中心地であって、西洋のアテネが疫病で苦労したようになったかと。九州北部の地名と機内の地名の間でその類似性が証拠だと思います。まぁ、九州北部には山が多いから疫病が人口の半割以上の亡くせるように広まる環境にはならないかとは思いますが。  こんな風に思っていますが、どうでしょうか

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  • oska2
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回答No.5

>私は邪馬台国こそ大和朝廷だと思います。 旧唐記・新唐記を信頼すれば、その通りですね。 「倭国は、委奴国(九州地区)である」 「倭国と別に、日下国(近畿地区)が存在した」 「倭国は大国・日下(ひのもと)国は小国」 「委奴国は、その名を嫌い日下を(攻撃し)併合し国号を日下と改めた」 大和朝廷か否かは別ですが・・・。 九州地方の倭国は、瀬戸内海を渡って日下を占領した様ですね。 俗にいう「東征」です。 >遷都の時期は崇神天皇の時だと思います。 何故か、文科省は大々的に公表していませんが・・・。 崇神天皇の時代の(纏向)遺跡よりも数百年古い「カラコ遺跡」が存在します。 遺跡の規模から、ここにも別の国があったのは確かな様ですよ。 これを、時代的に神武東征と説明する古代史愛好家も多い様です。^^; >こんな風に思っていますが、どうでしょうか 面白い考察ですね。 が、ヒミコとアマテラスを同一視するのは・・・。 天智天皇(当時は大王)から武力で地位を奪った天武天皇でも、古事記・日本書紀に「ヒミコ=アマテラス」とは記載していません。 まぁ、箸墓古墳が卑弥呼の墓!?という説は有名です。 宮内庁が管理する墳墓の多くは、誰の墓か不明ですよね。 一人の天皇の墓が、全国各地に複数あり「候補地」としても宮内庁が管理しています。 科学的な調査が出来れば、謎は解決するのですがね。 余談ですが・・・。 文科省は「魏志倭人伝を信用して、旧唐記・新唐記は意図的に信用していない」様です。^^;

mrym26
質問者

お礼

お礼が遅くなりましたが、ありがとうございました。

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その他の回答 (4)

  • eroero4649
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回答No.4

邪馬台国は、奈良県にある纏向(まきむく)遺跡が有力視されています。私も、そう考えるのが一番説得力があるなと思います。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%92%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1 この纏向遺跡には今確認されている中で最も古い前方後円墳である箸墓(はしはか)古墳があり、これが(宮内庁は倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓としていますが)卑弥呼の墓ではないかといわれています。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B8%E5%A2%93%E5%8F%A4%E5%A2%B3 また最近の研究では、卑弥呼とは個人の名前ではなく「大王」「天皇」のような役職の名前ではないかという説もあります。日本では古来から「第十八代中村勘三郎」みたいに名前を継ぐ伝統があるので「魏に使者を送ったのは三代目卑弥呼だった」という可能性も否定できないと思います。 また最近は、古事記や日本書紀の内容から古代史を研究するのではなく、遺跡などの歴史的事実を優先するという流れになっていますので「日本書紀にこう書いてあったから正しい」というふうにはならなくなってきていますね。 この20年くらいで日本古代史は革命的な発見が相次いでいますから、通説がこれからもどんどん変わる可能性があると思いますよ。

mrym26
質問者

お礼

勉強になりました! 詳しく低寝なご説明、 本当にありがとうございます。

noname#252298
noname#252298
回答No.3

他国の歴史を学ぶことって面白いですよね。 ただ卑弥呼は天照大神ではないです。 天照大神は神です。卑弥呼は違います。 子供の頃、学校で学ぶのに天照大神は出てきません。 卑弥呼は何度か出てきたと思います。 戦後に神を教育の場で崇める事はしないでしょうし 出来ないでしょう。 長年の時、古くから奉られ言い伝えられて人々の心にあるもの。 それが神かと。

mrym26
質問者

お礼

ご返答ありがとうございます... 他の方々も非常に戦前の学校教育を例とあげてくれましたが、私はただ「神々のモデル」が実在した人物(王)に由来しているのではないかと考えてみただけで、なにかを神格化するつもりではございませんでした。

  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2589/17102)
回答No.2

ヒミコは「ただの巫女」だったという説を信じるね。魏の国からの使者が崇め祀られているのを見て勝手に「女王」だと思い込んでいたにすぎない。

mrym26
質問者

お礼

かもしれませんね

noname#259815
noname#259815
回答No.1

天照大神は神様なので、歴史上に実在する人物ではありません。 戦前の日本では、天皇は天照大神の子孫である、つまり天皇は「現人神(あらひとがみ:人の姿で現れた神)」であると学校で教えられていました。 しかし、現在では、そのようなお話は日本の神話の1つとして扱われるにすぎず、科学的な史実としてみなされていません。 ただし、天照大神のモデルと考えられる人物については何人かの候補がいて、すべて歴史上に実在しています。 たとえば聖徳太子を摂政とした「推古天皇」や、天武天皇のあとを継いで日本の律令を整えた「持統天皇」など、女性の天皇が候補としてあげられています。 邪馬台国の女王だった卑弥呼も、こうした候補の一人に挙げられているという事です。

mrym26
質問者

お礼

非常に参考になりました、ありがとうございますー

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