ok9608 の回答履歴

全294件中81~100件表示
  • 重力子と時間軸

    日々重力子と時間軸の関係について頭の中で考察が行きかっているので、いろんな方の いろんな考え方、意見が聞ければ最高です! ----------------------------------------------------------------------------- ここから勝手な自分の妄想です。 この時間と空間に存在するもののすべては、重力子が引き金なんじゃないかと思っています。 重力子が素粒子が消滅せず残れる理由なんじゃないかと想像しています。 〔発想の起点〕 重力子は時間軸がほかの素粒子と違うと思ったことからはじまり、重力とは時間をひきもどす ようなちからなんじゃないかと思いました。 ブラックホールの特異点は時間が止まっているといいますが、むしろ観測者から見たら 虚無時間は絶対観測できないと思いました。 もうひとつの〔発想の起点〕 ~ 空間と時間の関係 ~ テーブルの上にリンゴが置いてあるとします。 そのテーブルの上に同時に別のリンゴを同じ場所に存在させることはできません。 どかして置き換えれば可能です。 簡潔に述べると時間と空間の関係で "同時間にある場所に2つ以上のものは存在できない" が時間が違えばそれらは交差することはなく存在できます。 この考え方をもとにブラックホールが何故あれだけ有限だった物質を1点に集約できたか 想像すると、この時間軸とは違う虚無時間に向かって進み始めているから 今の時間軸の進み方からは目に見えないだけで存在はするけど交差はしないと勝手に思いました。 (ちょっとうまい説明にはなってないないと思うんで批判が欲しいです。) でこーゆー事を勝手に想像した結果 有と無の関係を生んでいるのは時間軸が一番の要因なんじゃないか?と思ったわけです。 ありとあらゆるものの時間軸が一様に同じという考え方は、逆に説明するほうが難しいと 思ってますが、時間軸と係わり合いがある素粒子が重力子と思いました。 (余談) 大型ハドロン衝突型加速器で陽子同士を衝突させた瞬間、エネルギー総和が保たれない 場合、この世界は多次元だと証明されるという話を聞きましたが今どうなってんでしょう? 気になります。 ----------------------------------------------------------------------------- あなたまの中で整理がつかないのでみなさんにもいろいろ意見を聞きたいです。 仮に重力子の時間軸が違うなら何故同じ時間軸に存在しうる重力子もあるのか? ここは考えても考えても理由が浮かびません。 ほかの素粒子との係わり合い、たとえばいくつかの素粒子と合体してひとつの ものができるとその周りの素粒子の影響で時間軸が変化するとか? ここが頭の中の妄想がゴチャゴチャになってます。 すごい乱雑な文で申し訳ないのですが、是非この妄想にお付き合いください。m(_ _)m よろしくお願いいたします。

  • 新約聖書の真実性 皆さんは何も思いませんか?

    新約・旧約聖書などに書かれる信じがたい奇跡、皆さんは信じますか? もしも魔法や奇跡が誇張して書かれてたら、真実版の聖書って必要じゃないでしょうか? 聖書の世界観は大好きです、歴史の史実も大好きです。 そんな私の悩みです。 旧約37章の出エジプト記のダビデ以前は創作が強いとの事なので私はあまり関心がありません。 (とは言っても旧約関連もウィキペディアでついつい読みふけってしまいますが・・・笑) 皆様はいわゆる「預言者」の伝承や奇跡は正しいと思いますか? 私は読んでいて歴史がわかって楽しいし、初めは真実か否かなんて関心がなかったのですが。 色んな本やWEBを読みあさってる内に色々モヤモヤしだしたのです。 ・四大聖書の食い違い ・キリスト存命当時から、ルカやマタイや書記班の全員はQ資料から照らしあわせて聴きづてで情報を集めて書いていたとされるらしい。 ・そもそも現在読まれてる福音書そのものも写本であって真実かどうかは疑問。 ・パンと魚が増えたのは「説法」をして人々の心を満たして空腹を和らげたんじゃないか。 ・紀元後直後のローマではキリスト教は誰の目から見ても迫害されてたが、正義として書かれてるのはなぜか。2000年も経つと常識は覆されるのでしょうか? ・キリスト本人は本当に神からの声が聞こえたのか。 ・今現在、見て取れる聖書のストーリーのイメージは、14世紀以降ルネッサンスの影響であって。実在の表情や背丈、身成などは当然全くの別人。キリストのロングヘアーも疑問視されてると聴きました。 ・マグダラのマリア架空人物説(三人の女声がモデル)を読むと人間なんだなって思う。 .・最後の晩餐までにキリスト本人に逮捕のリークがあったのではないか。イスカリオテのユダは隠しきれなかった。 ・キリストの試練や死に至る苦難の悲しいストーリーは、人間の価値観的(文化人類学)に考えれば当時のイスラエル市民にとっては逮捕された違法論者にしか見えなかったのではないか。(2012年現在では犯罪者でも未来には伝説になってる人も!?) 私は「過去の偉人達が起こした魔法がまさしく真実」だとしたら・・・ それはまさに奇跡で涙をながすかもしれません。 きっと私は感動し、聖槍を突いたロンギヌスのように改心するかもしれません。 しかし信じられません。 なぜこの2012年には奇跡が怒らないのでしょう? 私達には試練ばかりです。 過去の人間が預言や特別な力を持っていたら、現在の私達の時代も何百年に1人は目を疑うような奇跡を起こす人が生まれてもいいのではないでしょうか? そこで私は無い知恵を絞って考えました。 人間はテキストを残す力を得、どんどん文字で詳細を残す技術を高めました。 その結果、モヤモヤも残らないほど奇跡のからくりが科学の進歩によって謎が解明され、それすらもテキストで確認できるようになりました。 2012年現在の歴史は、未来1000年以降も正確に伝承されると思います。 文字で正確に文化を記録し後世に残す技術がなかったので魔法のような、またSF映画のようなストーリーが聖書として残ってるんじゃないかと思うようになりました。 ましてや冒頭で触れた旧約聖書37章 出エジプト記以前のストーリーはまるでファンタジー映画を見てるような感覚です。 旧約では簡単に人が神と会話をして何百歳も生きて神の息吹で生きもし消えもする。 神が考えたものは具現するし7日で全てが完成した。 しかしいま現在でもアメリカの大きな都市や州でも学問としてのチンパンジーからの進化論ではなく「旧約聖書を史実として信じてる」場所も少なくないそうです。 国が何億円も掛けて子供たちに見せる天地創造博物館が在るぐらい本気です。 私は普通に日本で生まれ日本で育ち、それなりの生活で、それなりの友達、それなりの悩みを持ってます。 宗教に関しては正直親が亡くなった時にお寺で初めて知ったぐらい全く無頓着でした。 しかし映画がキッカケで聖書や歴史、考古学に興味を持ちました。 全世界の映画を見ていると、バックグラウンドに聖書が絡んでるストーリーって多いですよね? パゾリーニ監督のテオレマやリンチ監督の訳の分からないクレイジーな内容の映画も聖書的な構成だったりエレファントマンには衝撃を受けました、アニメでもエヴァンゲリオンなんかも使徒が出てきます(正確には戦艦がストーリーの骨格らしいですが)。 今こうして私達が昔の7世紀からある教会のモザイク画で古い人間の容姿、表情、服装、文化を調べて見てるように、今のCG技術やルネッサンスの受け売りで偶像していけば1000年後にはまた全く違うキリスト像が生まれるのではないか、それでは元々の史実とは異ならないか? と思ったわけです。 復活したメシアは使徒トマスではないのか? 湖の水面を歩いて来たのは水面が凍っていたのではないか? そもそもイエスは本業は建築工。なぜ急にこのような才能に恵まれたのか。 なぜこれほどの人が生まれた時から奇跡を起こしていたのに、2歳から16~7歳までの記録が全く無いのでしょうか? ヘロデ大王からの条例逃れで隠れていたにしても、これ程の人物の行動を見失うものでしょうか? また、この謎の青年期は世界各地で同時間軸に「うちの国にいてましたよ」と謳う国が後を絶ちません。 日本では青森でキリストの様な人物がいたのではないかとの伝承があるそうです。 もちろん青森や世界各国での話はは聖典でも外伝にすら乗ってないそうです。 これではまさに宗教とはなんぞや? 疑ってしまった気持ちを恥ずかしく思いつつ、ずっと感じてたこのモヤモヤを話してみました。 人類は解ってるだけでも数万年前から壁画や石を積むだけでも何かを残しています。 自然の山を見ては蛇に例え、星を見れば動物に例え、何かしらの伝承が何万年も前から残ってるわけです。 元を辿れば大昔にどこかの誰かが道具を使い始めたのが名残でここまで進化したのなら、ほんの2000年ぐらいで人の記憶は消えるよう脳が仕組まれてるのでしょうか。 石器時代の人間もきっと同じ月を見て綺麗だなって、同じ気持ちになったのかなと思うとワクワクします。 と同時にルネッサンス絵画を数億円で取引してるのを見て、第二のマルティン・ルターが現れないか心配です。 ■まとめるとこれが質問です■ みなさんは信じるものが事実でも嘘でもどっちでもいいですか?なんとも思いませんか? 今現在は犯罪者扱いされてる人が、2000年後には崇められるような人物は現代にいますか? 余談ですがマイケル・ジャクソンは数百年後再評価されたとき未来人に驚かれそうですよね(笑)

  • 観測可能な宇宙の総質量?

    観測可能な宇宙の総質量は有限でしょうか、それとも無限の質量をもつのでしょうか。 Wikipediaの記述などを呼んでいると、両説が併存しているようです。 [質量有限説] ・観測可能な宇宙内の星の推定総数は9×10の21乗(=90垓)個となる。 ・太陽の質量(2×10の30乗 kg)を平均太陽質量(矮星の多さと、太陽より質量の大きな星の数はつりあっているとする)とし、星の総数を10の22乗個とすれば、観測可能な宇宙の星の総質量は3×10の52乗 kgとなる ・観測可能な宇宙の総質量の5%未満が星などの可視的な物質で構成されており、残りは暗黒物質やダーク・エネルギーが占めていると予測される。 ・つまり5%が3×10の52乗 kgだから、観測可能宇宙の総質量は3×10の52乗 kgの20倍ほどの有限値と理解される。 [質量無限説] ・観測可能な宇宙の中にブラックホールがあると考えられる。 ・ブラックホールの中心は密度が無限大と考えられる ・密度=質量/容積において、容積はゼロを取れないので、質量が無限であることを示す。 ・ブラックホールが質量無限であれば、そのブラックホールを含む観測可能宇宙の質量も無限である。 御見識のある方々より、観測可能宇宙の質量有限説、あるいは質量無限説のいずれかをご説明いただけるとありがたいです。

  • ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。∽《聖なる甘え》

      ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  あるいは   ( b ) 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。  これらのハ格およびガ格のはたらきについての探究です。あるいはさらにこの《A‐ハ B‐ガ C》なる構文の持つ意味について問い求めます。      *  作業仮説です。  (あ) 始原的な自己表出について。   (α) A B C なるぞれぞれの語を 裸のまま 繰り出すことにおいて ひとは始原的な自己表出をおこなっており これは いわゆる《聖なる甘え》につうじているのではないか?    ( a-0 ) ぼく・・・〔注文〕・・・うなぎ    ( b-0 ) 象・・・鼻・・・長い  (い) これらの幼児のごとき表現のかたちが ひとの始原的な自己表出につうじており それは 人びとを理性ないし論理の一辺倒に落ち入る罠からすくっている。のではないか?    (う) 語をその裸のままの姿で何らかの意思表示(つまり 文)に用いるのは あたかも絶対値として捉えているようであるゆえ 《絶対格》とよぶ。格活用していない《無格》の語のありさまを 絶対格に活用していると見なす。  (え) つまり ハ格やガ格は 取り消しても よい。つまり なくても あたかもなお文(判断もしくは意思表示)を成すかに見える。  (お) そうして ほかの見方からすれば むろんそれでいて     (ω) 論理的な意味連絡  をも示すことが出来る。そこから 意味として《ぼくは うなぎを 注文する。⇒ S-V-O. の文型》にまで伸びる。  (か) まとめて次のようです。    ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  について見れば:           ( a‐α) 《ぼく》も《注文》も《うなぎ》も みな 話題として単純に推し出された恰好である。       つまり あたかも幼児ことばのごとく 主題の羅列である。       ただしこれが全体として 文=意思表示であるなら そこに話し手の判断があり意味がある。すなわち 次のような文意を示すことも出来る。      ( a‐ω) 示し得る論理的な意味連絡として:        ( a-ω‐1 ) 〔ぼくについて言えば〕 ぼくが注文するのは うなぎだ。        ( a-ω‐2 ) ぼくの注文は うなぎだ。        ( a-ω‐3 ) ぼくは 注文する。うなぎを。(⇒ いわゆる S-V-O の文型)  (き) すなわち 幼稚とも見える始原的な自己表出を思わせる《A‐ハ B‐ガ C》構文は それと同時に すでに語のあいだの互いの論理連関を示す仕組みにも成っている。同時にそう成っているというところが ミソである。  (く) 言いかえると 日本語文は 英文などの《S-V-O》文型をも ふくみ持っている。  ぎゃくに言えば 英文の用いている文型というのは (ω)の線形による論理を示すような意味連絡のみを示すかたちに成っている。  (け) 欧米の文型では 裸の自己表現がほとんどない。絶対格における語の羅列が ゆるされがたく 裃をつけていないと文としての表現とは成り立ちがたい。  (こ) これは 日本文や韓国文に見られる・ことばのナラワシの始めにおいてじんるいが有したと思われるような《聖なる甘え》を削ぎ落として来たかたちなのではないか?      *  参考までに いまの仮説をなるべく理論的にのべます。  1. 日本語は 次の基本構文として成るというのが 骨子である。     A‐ハ  B‐ガ  C‐ナリ。 / C‐スル。  2. A・B・Cは 話し手が話題にしたい主題です。文が問答だとすれば Aが《問い》としての主題であり Bは そのAに関連することがらとして引き出された主題であり それらの筋道を経てCという《答え》を 話し手は――おのれの主観として――提出します。  3. 問いと答えで ひとつの文において話し手の思想ないし意思表示が――最小の単位としてのひとまとまりとなって――表わされる恰好です。  4. 《答え》も それは《問い》に対する論述を構成しますが 論述主題です。  5. したがって 日本文は すべて主題を提示する(提示し続ける)というかたちで文をつくっていると見られます。これが 基本構文でありその成り立ちだと見ます。  6. この日本語の構文は もし英語で S-V-O 型式がその基本文型だとしますと この文型を内蔵している。こう見ます。  7. 文例( b ): 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。 について《論理直接的な》意味連絡を捉えるならば 次のようになりましょうか?   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ガ〔持つ〕 鼻すなわち長いそれ‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  8. 単純な比喩としては 和文は 非線形の構文であり 英文は 線形の文型である。  9. 非線形というのは あたかも主題の提示を尺八の音を一つひとつ響かせながら重ねて行くような姿を言う。  こうして成った基本構文が S-V-O 文型という線形の意味連絡による成り立ちへと みづからを保ちつつしかも相転移していくことになるのではないか。(α)のアソビと(ω)の筋道とを同時にふくむ。  10. 和文における論理――語句のあいだにおける論理直線的な意味関係(ω)――は その超論理(α)の宇宙の中に潜在性として内包されていたのだ。尺八のひと吹きごとにつくられて行く。    11. 《ぼく‐ハ》と言ったそのとき ひとつの小宇宙が現われ 《注文‐ガ》と継いだとき もうひとつの小宇宙の現われとともに それらの意味連関がつくられて行く。《うなぎ‐だ》と締めて それまでの宇宙遊泳を 何がしかのキヅナでつなげた。     *  果たしていかに?  自由なご批判をあおぎます。

  • 観測可能な宇宙の総質量?

    観測可能な宇宙の総質量は有限でしょうか、それとも無限の質量をもつのでしょうか。 Wikipediaの記述などを呼んでいると、両説が併存しているようです。 [質量有限説] ・観測可能な宇宙内の星の推定総数は9×10の21乗(=90垓)個となる。 ・太陽の質量(2×10の30乗 kg)を平均太陽質量(矮星の多さと、太陽より質量の大きな星の数はつりあっているとする)とし、星の総数を10の22乗個とすれば、観測可能な宇宙の星の総質量は3×10の52乗 kgとなる ・観測可能な宇宙の総質量の5%未満が星などの可視的な物質で構成されており、残りは暗黒物質やダーク・エネルギーが占めていると予測される。 ・つまり5%が3×10の52乗 kgだから、観測可能宇宙の総質量は3×10の52乗 kgの20倍ほどの有限値と理解される。 [質量無限説] ・観測可能な宇宙の中にブラックホールがあると考えられる。 ・ブラックホールの中心は密度が無限大と考えられる ・密度=質量/容積において、容積はゼロを取れないので、質量が無限であることを示す。 ・ブラックホールが質量無限であれば、そのブラックホールを含む観測可能宇宙の質量も無限である。 御見識のある方々より、観測可能宇宙の質量有限説、あるいは質量無限説のいずれかをご説明いただけるとありがたいです。

  • ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。∽《聖なる甘え》

      ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  あるいは   ( b ) 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。  これらのハ格およびガ格のはたらきについての探究です。あるいはさらにこの《A‐ハ B‐ガ C》なる構文の持つ意味について問い求めます。      *  作業仮説です。  (あ) 始原的な自己表出について。   (α) A B C なるぞれぞれの語を 裸のまま 繰り出すことにおいて ひとは始原的な自己表出をおこなっており これは いわゆる《聖なる甘え》につうじているのではないか?    ( a-0 ) ぼく・・・〔注文〕・・・うなぎ    ( b-0 ) 象・・・鼻・・・長い  (い) これらの幼児のごとき表現のかたちが ひとの始原的な自己表出につうじており それは 人びとを理性ないし論理の一辺倒に落ち入る罠からすくっている。のではないか?    (う) 語をその裸のままの姿で何らかの意思表示(つまり 文)に用いるのは あたかも絶対値として捉えているようであるゆえ 《絶対格》とよぶ。格活用していない《無格》の語のありさまを 絶対格に活用していると見なす。  (え) つまり ハ格やガ格は 取り消しても よい。つまり なくても あたかもなお文(判断もしくは意思表示)を成すかに見える。  (お) そうして ほかの見方からすれば むろんそれでいて     (ω) 論理的な意味連絡  をも示すことが出来る。そこから 意味として《ぼくは うなぎを 注文する。⇒ S-V-O. の文型》にまで伸びる。  (か) まとめて次のようです。    ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  について見れば:           ( a‐α) 《ぼく》も《注文》も《うなぎ》も みな 話題として単純に推し出された恰好である。       つまり あたかも幼児ことばのごとく 主題の羅列である。       ただしこれが全体として 文=意思表示であるなら そこに話し手の判断があり意味がある。すなわち 次のような文意を示すことも出来る。      ( a‐ω) 示し得る論理的な意味連絡として:        ( a-ω‐1 ) 〔ぼくについて言えば〕 ぼくが注文するのは うなぎだ。        ( a-ω‐2 ) ぼくの注文は うなぎだ。        ( a-ω‐3 ) ぼくは 注文する。うなぎを。(⇒ いわゆる S-V-O の文型)  (き) すなわち 幼稚とも見える始原的な自己表出を思わせる《A‐ハ B‐ガ C》構文は それと同時に すでに語のあいだの互いの論理連関を示す仕組みにも成っている。同時にそう成っているというところが ミソである。  (く) 言いかえると 日本語文は 英文などの《S-V-O》文型をも ふくみ持っている。  ぎゃくに言えば 英文の用いている文型というのは (ω)の線形による論理を示すような意味連絡のみを示すかたちに成っている。  (け) 欧米の文型では 裸の自己表現がほとんどない。絶対格における語の羅列が ゆるされがたく 裃をつけていないと文としての表現とは成り立ちがたい。  (こ) これは 日本文や韓国文に見られる・ことばのナラワシの始めにおいてじんるいが有したと思われるような《聖なる甘え》を削ぎ落として来たかたちなのではないか?      *  参考までに いまの仮説をなるべく理論的にのべます。  1. 日本語は 次の基本構文として成るというのが 骨子である。     A‐ハ  B‐ガ  C‐ナリ。 / C‐スル。  2. A・B・Cは 話し手が話題にしたい主題です。文が問答だとすれば Aが《問い》としての主題であり Bは そのAに関連することがらとして引き出された主題であり それらの筋道を経てCという《答え》を 話し手は――おのれの主観として――提出します。  3. 問いと答えで ひとつの文において話し手の思想ないし意思表示が――最小の単位としてのひとまとまりとなって――表わされる恰好です。  4. 《答え》も それは《問い》に対する論述を構成しますが 論述主題です。  5. したがって 日本文は すべて主題を提示する(提示し続ける)というかたちで文をつくっていると見られます。これが 基本構文でありその成り立ちだと見ます。  6. この日本語の構文は もし英語で S-V-O 型式がその基本文型だとしますと この文型を内蔵している。こう見ます。  7. 文例( b ): 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。 について《論理直接的な》意味連絡を捉えるならば 次のようになりましょうか?   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ガ〔持つ〕 鼻すなわち長いそれ‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  8. 単純な比喩としては 和文は 非線形の構文であり 英文は 線形の文型である。  9. 非線形というのは あたかも主題の提示を尺八の音を一つひとつ響かせながら重ねて行くような姿を言う。  こうして成った基本構文が S-V-O 文型という線形の意味連絡による成り立ちへと みづからを保ちつつしかも相転移していくことになるのではないか。(α)のアソビと(ω)の筋道とを同時にふくむ。  10. 和文における論理――語句のあいだにおける論理直線的な意味関係(ω)――は その超論理(α)の宇宙の中に潜在性として内包されていたのだ。尺八のひと吹きごとにつくられて行く。    11. 《ぼく‐ハ》と言ったそのとき ひとつの小宇宙が現われ 《注文‐ガ》と継いだとき もうひとつの小宇宙の現われとともに それらの意味連関がつくられて行く。《うなぎ‐だ》と締めて それまでの宇宙遊泳を 何がしかのキヅナでつなげた。     *  果たしていかに?  自由なご批判をあおぎます。

  • 別の宇宙があれば、別の時間が流れている?

    今我々の住んでいる宇宙と全く別の宇宙があれば、別の時間が流れている可能性がありますか? 例えば、電波時計を持ち込んで、今住んでいる宇宙で1時間だったのが、 別の宇宙では1時間30分だったりする可能性はありますか? また、質問を変えて、光の速度が違ったりする可能性はあります? 質問の仕方が簡単で逆に分かりにくいかも知れませんが、感じたことを回答いただいて結構です。 宜しくお願いします。

  • 宇宙の中心はどのあたり

    宇宙は膨張しているそうですが、 その中心はどのあたりにあるとかはわかっているのでしょうか? また宇宙は、1点を中心に360度の空間に一定の速度で膨張していると考えられているのでしょうか。 よろしくお願いします。

  • 私たちの宇宙

    私たちの宇宙を包むマルチバース。マルチバースを包むメガバース。メガバースを包む極大バース極大バースを包む極極大バース以下無限に続く。しかしこの階層構造は1より大きい2、2より大きい3と以下4567と言うようにひとつの法則しかありません。しかし世界はそんな単純な者でしょうか。事実は小説より奇なりと言うように、世界は無限法則、無限パターンの世界観があり、私たち3次元じは理解不可能な世界の構造もある可能性がありますか。

  • 最後は原始に帰るのです

      最近悟ったこと。 如何なる神も要らず、 如何なる仏も要らず、 如何なる本尊も曼荼羅も要らず、 また如何なる経典もお経も必要とせず、 全く何ものも必要とせず行うことの出来る祈りとは何か。 それは死んだ親や祖先に対する祈りである。 宗教であれ哲学であれ、最後は原始に帰るのです。 これが一番正しい。  

  • 何故なお神を勘違いしたままでいるのか?

     人はなぜ 神を勘違いしつづけるのか?  A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜその《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?  D-2 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。ただの心の表層の心理でありその共同化であるに過ぎない。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象してつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神とは何か?) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • 何故なお神を勘違いしたままでいるのか?

     人はなぜ 神を勘違いしつづけるのか?  A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜその《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?  D-2 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。ただの心の表層の心理でありその共同化であるに過ぎない。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象してつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神とは何か?) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • 何故なお神を勘違いしたままでいるのか?

     人はなぜ 神を勘違いしつづけるのか?  A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜその《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?  D-2 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。ただの心の表層の心理でありその共同化であるに過ぎない。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象してつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神とは何か?) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • 何故なお神を勘違いしたままでいるのか?

     人はなぜ 神を勘違いしつづけるのか?  A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜその《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?  D-2 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。ただの心の表層の心理でありその共同化であるに過ぎない。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象してつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神とは何か?) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • 天皇って平等とは相容れない存在なんじゃ?

    生まれながらに仕事が決まってて いろいろな自由・権利が奪われていて もちろん特権もあるのだろう そしてなぜかテレビでは一般人には使われない尊敬語を使われている その家に生まれたからってだけで特別扱いするのは論理的な整合性がないように思いますね 人間は生まれながらに平等で、同じだけの権利を有しているのではないのでしょうか 蛇足ですが、今の不況の日本で300億の税金を皇室関係に使うのは馬鹿げていると思います

  • 萬物その類多しと雖も動物、植物、鉱物の三類に過ぎず

     ある宗教者の書籍の中から写し書きしました。  生命一元  地球の萬物その類、多しと雖(いえど)も動物、植物、鉱物の三類に過ぎず。鉱物は金石空気の総称、即ち無機物なり。動植物は共に有機物に属す、各機関ありて生存生活、生殖生活を為す。故に生物と云う。    動物及び植物は高等なるものに至りては判然たる如(ごと)くなれども、其の原始に遡(さかのぼ)って見れば其の差別、弁じ難(がた)きあり。動植物は其の元(もと)一つの細胞なる、水中に一個の球形小粒体あれども独立の生活を為す、栄養し生殖す。【アメーバ?】此の物は原形質という。濃厚なる液体の如き物質、外に薄膜あり体の一部に球体あり。動物と植物と区別なき動物の原始なる最小の細胞にありては無生有生と称し難きあり。  生命一体とは、原始の最下等の動物より進化し分類し繁殖し、生物の身は個々に分かると雖(いえど)も一体より分身し、同一生命が分類し、又分身せざれば繁殖せず。分類し繁殖するは競争し進化せるなり。分類は進化の手段なり。個々の生命は自己は自己の目的と謂(い)い居(お)れど、一部は全部【全体?】の手段なり。一体が競争進化のために数多(あまた)に分類したる故、各個体は個体としての責任をなすべし。  横に数多に分類するは競争によりて向上せん為なり。竪(たて)に子孫に遺伝するは代々時間的に進化せん為なり。同一理性を真髄とする生命、進化の手段たる個人は、向上に努力して義務を盡(つく)すは、啻(ただ)【只・ただ】に個人の為めのみにあらず、一大生命の為なり。生命進化の階級は人類に至るまで甚(はなは)だ多し。原始単細胞生物より複細胞、水母形、脊椎、陸棲哺乳より人に至るまで同一生活の形式が漸漸(ざんざん、ぜんぜん)【次第に・徐々に】に進化して人類となる。生物生命の因果的相続は同一理性の則(そく)に基(もとづ)けるなり。  生物生命が進化の階級ありて其の類は種々に分かるれども、同一生命が相続し来る。無核蟲【が?】有核となれば生命は核にありて、核の外は生命を助くるに止まり、分殖作用は其の核が分かるるなり。核に含む生命が分かれて二つとなる。七八回分殖する時には生命【は】希薄となり、生命が雌雄の別あるに至れば、進める生物の生命は中核にあり雌雄の核を合して分殖す。  而(しか)して【そうして】生命は核中にあれば外包は度々代わるとも生命有る核は一系連綿として、養なうては分殖し、千萬代に萬億歳をも続きて連綿して生命一。  横に人類は一体の分身として、時間に空間に全世界と通じ、億萬年を徹して同一の生命にして同一の關聨(かんれん・関連)たることを知らば、同一理智は生物生命の理にも顕われしを知る。  ☆ ここ哲学カテの住人の皆さま、我々の“生命”の元は両親にあり、と頷けるのであれば地球に誕生した生命にも「元」があると考えるのが自然かと思います。  その考えを「生命一元」とタイトルして、生命の進化の不思議を宗教者の視点でとらえ、そこから「生命一元」を説いたものと思えば、この説明はいかにも完璧なように私には思えます。  だから、この説明に意義を挟む余地などないとも考えているのですが、どこか見過ごしている事柄がありますでしょうか。  【 】は、私が勝手に付け加えました。  自己チュー的になってはいないかと、少し気になってます。    

  • 生命体の存在理由

    生命体は なぜ子孫を残してまで 進化してまで地球で生きる必要があるのですか?

  • 新約と悪人正機

    律法を守ることの能力的限界感の解決が新約であり悪人正機だったのではないか? さらにいえば、律法もイデアに過ぎず(http://okwave.jp/qa/q7440020.html) 求めるべきはその姿勢であるにもかかわらず、精神が失われ形式化していった結果、「どうせ守れないんだし」ということで否定されたのではないか?

  • 真実はわからずとも

    http://okwave.jp/qa/q7433149.html の続きです。 言いたいのは 「真実はわからずとも、真実を追究する正しい態度は完成できる」ということです。 真実を追究する正しい態度とは よく観て、よく聞く。 論を一歩づつ積み重ねる。 検証をおこなう。 (これ以外にもあるかも) ただし、これらは態度(角度)であるから、これらが完全に行われた結果というものは地上にはない。 角度の指し示す点というものが永遠にないのと同じように。 ここにいたって、これらはイデアに近づいてきた。 公理の問題に戻ってきた。 結局、イデアは正しい、ただし現実には存在しないということか・・・ 「サンタさんはみんなの心の中にいます」のと似てますなあ・・・ サンタさんはいないけど、子供のこころには必要なんでしょうなあ・・・

  • ゴルゴムの総帥は歴史上実在した人物である その2

    かつての質問 悪の結社ゴルゴムの総帥募集中 の後を継ぎます。 http://okwave.jp/qa/q7348861.html これも役に立ちます。ゴルゴムの総帥は歴史上実在した人物である http://okwave.jp/qa/q7370565.html 哲学なのに何故仮面ライダーがテーマとして出てくるかと言うと、私は信仰の個人的尊厳とその伝統は汚すべきではないと考えますので、架空の例え話から初めて、それを哲学と結び付けることは可能かを問うています。 ゴルゴムとは創世王を頂点とする悪の結社です。 西洋で、この創世王に該当すると実際に敬虔な信仰を集めている人物が、歴史上に存在します。 パウロさんの事です。 イエスさんは利用されただけで、彼の死は無駄死にです。。 聖書登場するイエスさんの生きた時代と、彼の生き様とは、神に懇願し、生きる事が自らでかなわないと、自助を放棄した退廃的な時代に、我こそは神そのものであると、待望の救世主を名乗る人物としてイエスさんが現れた。彼はユダヤ教を土台としてその救世主であると主張することで、自らが神である事を信じさせようと寡作したが、当の敬虔なユダヤ教徒には偽物とされ、ユダヤ教の信仰を脅かす、世相を乱す危険人物として告発された、何を吹聴しても無罪である現代日本とは違って、生きる事の尊厳が信仰と密接にかかわり、それを冒涜する事が生死にかかわりかねない時代に、彼は正当な法の裁きにより処刑された。 それは必然である。 そのように犬か何かを遊びで打ち殺す行いに過ぎないイエスの処刑を、パウロは考えた。 もし彼こそが正当な神であれば、処刑は大罪であり、神への反逆であり、死を経過している以上償いはできないものだ。 そして、犬死に過ぎない哀れなイエスは、人間に呪いをかける道具として聖書に登場する。 聖書とは、抜きがたく人は呪われていると吹聴する偽りの神話である。 このいきさつを吹聴するほどに死による取り返しのつかなさをあがらえない意思薄弱人間は、イエスと言うほら吹きの死に真摯にならざる得ない。そのような知略の基に聖書は企てられた。それは偶然の産物としてのキリスト教の興隆では無くて、ゴルゴムの陰謀である。 ゴルゴムの創世王は世界を滅びへと向かわせる意図をはらんでいる。 哀れなイエスの無駄死には、パウロにとって、自らの信仰の滅びであったのだ。 その滅びは創世王にくみ取られ、かれはゴルゴムの世界滅亡計画の歯車として、当時の総帥に抜擢される。 犬死イエスの勝利はゴルゴムの勝利である。 いまも世界には滅びの予感が蔓延している。 その祈りを実現しようではないか。 このようにしてゴルゴムは滅びに為にこそ人を生かし、滅びにまい進させようとする、長き神との対話によって生まれた秘密結社である。 ゴルゴムが生み出した人間とは滅びのみに生かされゴルゴムと共に滅びるだろう。 このような完全なゴルゴムの計画に、彼らの望む完全なる滅びを与えようとするのが、仮面ライダーたる私の仕事だ。 君たちはゴルゴムの子供であり、滅びの子供だ。 出来そこないだ。 君たちに与える安らかな眠りこそが死なのだ。 安らかな眠りの中に終わりを迎えよ。 その点は、私は覚醒者であると言えるよ。 もう時間切れで、気にたちが命をつなぐ事はなさそうだ。 以上は仮面ライダーのマニアックな解釈です。 私はうそをついていません。 すなわち本気で言っていません。 しかし君たちゴルゴムの子供たちが私の言葉を信じるならば、とたんに私わ赦させざる大逆を犯した、イエスに等しい嘘つきになる事でしょう。 要するにからかっているだけだよ。 命を捨てて、大掛かりななんちゃって遊びそしたのがイエスさんさ。