ok9608 の回答履歴

全294件中161~180件表示
  • 現代物理学の哲学とは?

    現代物理学の哲学というのはあるのでしょうか? 今現在例えば、相対性理論や量子力学や素粒子などの哲学というのは取り組まれているのでしょうか? また、物理学を哲学するというのどういうことでしょうか? 素人にも分かり安く教えて頂けると助かります(笑)

  • 現代物理学の哲学とは?

    現代物理学の哲学というのはあるのでしょうか? 今現在例えば、相対性理論や量子力学や素粒子などの哲学というのは取り組まれているのでしょうか? また、物理学を哲学するというのどういうことでしょうか? 素人にも分かり安く教えて頂けると助かります(笑)

  • 現代物理学の哲学とは?

    現代物理学の哲学というのはあるのでしょうか? 今現在例えば、相対性理論や量子力学や素粒子などの哲学というのは取り組まれているのでしょうか? また、物理学を哲学するというのどういうことでしょうか? 素人にも分かり安く教えて頂けると助かります(笑)

  • 現代物理学の哲学とは?

    現代物理学の哲学というのはあるのでしょうか? 今現在例えば、相対性理論や量子力学や素粒子などの哲学というのは取り組まれているのでしょうか? また、物理学を哲学するというのどういうことでしょうか? 素人にも分かり安く教えて頂けると助かります(笑)

  • 現代物理学の哲学とは?

    現代物理学の哲学というのはあるのでしょうか? 今現在例えば、相対性理論や量子力学や素粒子などの哲学というのは取り組まれているのでしょうか? また、物理学を哲学するというのどういうことでしょうか? 素人にも分かり安く教えて頂けると助かります(笑)

  • アルケーの神は全てを知っている

       問う人: この世界で全知全能なるものは存在するか 「人の道」: 全知全能なるものは存在する、 アルケーの神がそれである、 アルケーの神は全知全能である、 アルケーの神は宇宙の全てを見てきておる、 この宇宙が無限であること、 この宇宙が創造されたものではないこと、 宇宙の創造主は存在せぬこと、 宇宙の法則は完全無欠であり正しいこと、 宇宙の法則は完全無欠であり正しいが故に不変であること、 地球上の人類が捉えている宇宙は、無限なる宇宙の中の小さなビー玉に過ぎないこと、 この無限なる宇宙の歴史の中で、現在ある地球や人類文明の類が過去に、数百億、数千億どころか無限に多くのものが現れては消え、消えては現れたこと、 宇宙は永遠に不滅であり、無限なる宇宙の歴史は永遠に続くこと、 アルケーの神はその全てを見てきており、 アルケーの神はその全てを知っている、 アルケーの神は全知全能である、 アルケーの神ほど偉大なものが他にあろーか、 皆はどー思う、 あ~、  

  • 哲学の考察-その2:哲学における方法論とは

      建築や土木では様々な工法が考えられ、実際に試されている。 工法は建築や土木における言わば方法論であり、最も重要な技術であり、生命線である。 では哲学においてはどーか。 哲学における方法論とは何か、 哲学に方法論は確立されていると言えるか、 どのよーな哲学の方法論があるか、 哲学において方法論は独立した考察対象なのか、 未来の哲学に新たな方法論が出現すると言えるか。  

  • 哲学の考察-その2:哲学における方法論とは

      建築や土木では様々な工法が考えられ、実際に試されている。 工法は建築や土木における言わば方法論であり、最も重要な技術であり、生命線である。 では哲学においてはどーか。 哲学における方法論とは何か、 哲学に方法論は確立されていると言えるか、 どのよーな哲学の方法論があるか、 哲学において方法論は独立した考察対象なのか、 未来の哲学に新たな方法論が出現すると言えるか。  

  • 哲学の考察-その1:哲学における検証とは

      科学や工学では理論を実験、観察を通して検証する。 科学や工学ではこれが当たり前であり、必須のプロセスである。 では哲学においてはどーか。 哲学では真理の検証はなされるのか、 哲学では真理の検証は可能か、 哲学では真理の検証はどのよーになされるか、 哲学における真理の検証は独立した考察対象なのか、    

  • 哲学の考察-その1:哲学における検証とは

      科学や工学では理論を実験、観察を通して検証する。 科学や工学ではこれが当たり前であり、必須のプロセスである。 では哲学においてはどーか。 哲学では真理の検証はなされるのか、 哲学では真理の検証は可能か、 哲学では真理の検証はどのよーになされるか、 哲学における真理の検証は独立した考察対象なのか、    

  • ビッグバン理論は一神教最後の砦となった

       ビッグバン理論は一神教最後の砦となった。 なぜなら一神教は創造主を必要とし、ビッグバンはそれを理論武装させるために創られたものだからである。 しかし、ビッグバンは途方もなく大きな矛盾を抱えていた。 ビッグバンは無から有が生じることを前提とするからである。 だがビッグバンは20世紀が生み出したギャグに過ぎないことが徐々に明らかになってきた。 これで一神教世界はビッグバンと共に頓挫する運命に置かれた。 一方、仏教は本来は一神教の世界とは無縁のはずであった。 しかし思想と理念を持たぬ仏教はいとも簡単に世の風に流され、安々とビッグバンの上に乗ってしまった。 仏教もまた愚かであった。 もはや仏教は救いよーのない安物になってしまった。 あ~、仏教は哀れであった。 ビッグバンの上に乗った仏教について、このよーに思うのはわし一人であろーか。 皆はどー思うか聞かしてくれ。    

  • 天皇に野心はなかったのか?

    先の大戦で、天皇に野心はなかったのだろうか? 戦争に勝てば世界の皇帝になれるかもしれない。と、 先の大戦はあまりにもずるずるいってしまっている。 東京大空襲、沖縄戦、原爆など、そこまでされる必要があったのだろうか? せめて硫黄島あたりで、いさぎよく負けをみとめる事ができなかったのか? はやくく戦争をやめていれば、日本が焼け野原になることも、原爆を 落とされることもなかったのに。 と、いう結果論的なことを責めているわけではない。 本土を攻撃されて、これ以上やると民間人の犠牲者が増えるのが わかっていたはずだ。 それなのに、なぜ戦争を終わらせようとしなかったのか? 戦争を終わらせる可能性がある唯一の人物が、天皇である以上、 本気で終わらせようと思えばできたのではないか? 現に最後は天皇の鶴の一声で終戦になったではないか。 それを、しなかったのは敗戦により自分の地位を心配したからではないのか? いやそれよりも、開戦のときに野心ははなかった、と、言えるのだろうか? ちなみに、この質問は歴史カテのほうがよかったのだろうか? みなさんどーおもいます?

  • ビッグバン理論は一神教最後の砦となった

       ビッグバン理論は一神教最後の砦となった。 なぜなら一神教は創造主を必要とし、ビッグバンはそれを理論武装させるために創られたものだからである。 しかし、ビッグバンは途方もなく大きな矛盾を抱えていた。 ビッグバンは無から有が生じることを前提とするからである。 だがビッグバンは20世紀が生み出したギャグに過ぎないことが徐々に明らかになってきた。 これで一神教世界はビッグバンと共に頓挫する運命に置かれた。 一方、仏教は本来は一神教の世界とは無縁のはずであった。 しかし思想と理念を持たぬ仏教はいとも簡単に世の風に流され、安々とビッグバンの上に乗ってしまった。 仏教もまた愚かであった。 もはや仏教は救いよーのない安物になってしまった。 あ~、仏教は哀れであった。 ビッグバンの上に乗った仏教について、このよーに思うのはわし一人であろーか。 皆はどー思うか聞かしてくれ。    

  • 哲学を退化させたものとは

      問う人: 哲学の進歩発展を阻害するものはあるのか。 「人の道」: 哲学の進歩発展を阻害し、退化させるものは昔からある。 それは次のよーな問いの中に潜んでおる。  自己は存在するか、  心は存在するか、  霊魂は存在するか、  世界は存在するか、     ・     ・     ・ これらは認識論とゆーて、如何なる価値も生み出さない不毛の問いであることが昔から知れ渡っておる。 しかし哲学と称してこれらの問いかけを続ける輩が今だに大勢おるが、全くの役立たずである。 また漬かると必ずこの認識論に拘ることも判っておる。 これらが長年にわたり哲学の進歩発展を阻害し、哲学を退化させた。 哲学における病巣とゆーてえー。 問う人: 認識論が何の価値も生まない不毛の問いであり、哲学を退化させた張本人ゆーこと、皆はどー思うか聞かしてくれ。  

  • 人間(現実)が変わる。

     まったくの空想ですとおことわりした上での問いです。  空想でも何がしかの哲学的意義があると判断されたなら ご見解をお聞かせ下さい。  たとえば 自由から逃避するホモ・サピエンスから 自由を享受するホモ・何と言えばよいでしょうか あたらしいヒト・ヒトになるという見通しです。    現代においてヒトビトは すでに自由を社会生活上かなりの度合いにおいて勝ち得ていると思われるのにこの自由を持て余しこれをむしろ嫌い要らないと言い出しこの自由から逃避する。  責任を取るのを嫌い わるいのは我れに非ずと 相手やほかの者に責任を負わせようとする。  ところが あたらしい人間は それはわたしが間違いました わたしに責任がありますと言う。そうするとほかの者たちが いえ わたくしにも責任の一端がありますとか これこれの点ではわたしにも落ち度がありました 責任の一端を負いますとか 言い出す。――自由を享受しているからである。  突然変異によってかどのようにしてか分かりませんが 人間(現実)が――前史から後史へ――変わる のではないか?  どうでしょう?

  • 人間(現実)が変わる。

     まったくの空想ですとおことわりした上での問いです。  空想でも何がしかの哲学的意義があると判断されたなら ご見解をお聞かせ下さい。  たとえば 自由から逃避するホモ・サピエンスから 自由を享受するホモ・何と言えばよいでしょうか あたらしいヒト・ヒトになるという見通しです。    現代においてヒトビトは すでに自由を社会生活上かなりの度合いにおいて勝ち得ていると思われるのにこの自由を持て余しこれをむしろ嫌い要らないと言い出しこの自由から逃避する。  責任を取るのを嫌い わるいのは我れに非ずと 相手やほかの者に責任を負わせようとする。  ところが あたらしい人間は それはわたしが間違いました わたしに責任がありますと言う。そうするとほかの者たちが いえ わたくしにも責任の一端がありますとか これこれの点ではわたしにも落ち度がありました 責任の一端を負いますとか 言い出す。――自由を享受しているからである。  突然変異によってかどのようにしてか分かりませんが 人間(現実)が――前史から後史へ――変わる のではないか?  どうでしょう?

  • 《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?

     1. 霊感・インスピレーションに限ったヒラメキについて 問います。  2. 特にもし量子論による答えがあるのでしたら おしえてください。  3. その昔アブラハムは 《父祖の土地を去って行け》というヒラメキを得て そのとおりに――どこへ向かうのかも分からずに――出かけたと言います。それは この地上における人間の生は 謂わば巡礼の旅であるということが示されたのだと捉えられています。定住の生活においても そうだという意味だそうです。  4. そこで このとき起こったことは 次だと思われる。     4‐1. ヒラメキは おのれに分からないところからやって来る。   4‐2. そのヒラメキを受け取りその中身を読み取って その指し示すところをおこなうのは 人間としてのおのれの成す意志行為である。   4‐3. すなわちこの《ヒラメキを受け容れた》というのは――それを《非思考において信じた》と言ってもよいと思われるが―― 最後の段階には 人間の意志行為が伴なわれており これはじつは経験思考にもとづく経験行為である。   4‐4. ヒラメキを得て そこに《去って行く》という言葉による表現を得るなら すでに思考をおこなっており その思考の結果 取るか捨てるかの意志決定がおこなわれている。   4‐5. この意志決定において《行く》か《行かない》か いづれをえらぶかは 人間の自由意志による自由な――あるいはおのれの心の恣にする自由な――行為だと言えるか?  5. あらためて 問いはこうです。   5‐1. ヒラメキを得てその指し示すコトを 受け容れるか拒むか これは 人間の側の意志行為だと考えられるが 果たして そのどちらをえらぶかは 人間の自由意志のよくするところだと言えるか?   5‐2. 言いかえると 《行く》をえらぶ場合も《行かない》と決める場合も すべて《わたし》の自由裁量に任せられているか?   5‐3. 言いかえると ヒラメキの指し示す行為を人間がどう受け容れるかは むしろヒラメキの側においてすでに決まっているのではないか?   5‐4. あるいはその決まっていることは 人によってそれぞれであろうか?   5‐5. いえいえ まだまだ舌足らずです。《わたし》が《行く》をえらぼうと思ったとしたら それは ただただわたしの自由意志による選択行為だとのみ言えるものか?   5‐6. ヒラメキが帯びるところの・人に選択をうながす力のほうが 人間の自由意志による決定力よりも強いのではないか?  6. あらためて 問いはこうです。わたしの自由意志は ヒラメキのちからに勝てない。のではないか?  7. この事態について 量子論による解明はありましょうか?  8. 違った角度から言い分があるという場合にも どうぞご回答をお寄せください。  * まだ熟さない感がありますが その点あらかじめおことわりしておきます。

  • 《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?

     1. 霊感・インスピレーションに限ったヒラメキについて 問います。  2. 特にもし量子論による答えがあるのでしたら おしえてください。  3. その昔アブラハムは 《父祖の土地を去って行け》というヒラメキを得て そのとおりに――どこへ向かうのかも分からずに――出かけたと言います。それは この地上における人間の生は 謂わば巡礼の旅であるということが示されたのだと捉えられています。定住の生活においても そうだという意味だそうです。  4. そこで このとき起こったことは 次だと思われる。     4‐1. ヒラメキは おのれに分からないところからやって来る。   4‐2. そのヒラメキを受け取りその中身を読み取って その指し示すところをおこなうのは 人間としてのおのれの成す意志行為である。   4‐3. すなわちこの《ヒラメキを受け容れた》というのは――それを《非思考において信じた》と言ってもよいと思われるが―― 最後の段階には 人間の意志行為が伴なわれており これはじつは経験思考にもとづく経験行為である。   4‐4. ヒラメキを得て そこに《去って行く》という言葉による表現を得るなら すでに思考をおこなっており その思考の結果 取るか捨てるかの意志決定がおこなわれている。   4‐5. この意志決定において《行く》か《行かない》か いづれをえらぶかは 人間の自由意志による自由な――あるいはおのれの心の恣にする自由な――行為だと言えるか?  5. あらためて 問いはこうです。   5‐1. ヒラメキを得てその指し示すコトを 受け容れるか拒むか これは 人間の側の意志行為だと考えられるが 果たして そのどちらをえらぶかは 人間の自由意志のよくするところだと言えるか?   5‐2. 言いかえると 《行く》をえらぶ場合も《行かない》と決める場合も すべて《わたし》の自由裁量に任せられているか?   5‐3. 言いかえると ヒラメキの指し示す行為を人間がどう受け容れるかは むしろヒラメキの側においてすでに決まっているのではないか?   5‐4. あるいはその決まっていることは 人によってそれぞれであろうか?   5‐5. いえいえ まだまだ舌足らずです。《わたし》が《行く》をえらぼうと思ったとしたら それは ただただわたしの自由意志による選択行為だとのみ言えるものか?   5‐6. ヒラメキが帯びるところの・人に選択をうながす力のほうが 人間の自由意志による決定力よりも強いのではないか?  6. あらためて 問いはこうです。わたしの自由意志は ヒラメキのちからに勝てない。のではないか?  7. この事態について 量子論による解明はありましょうか?  8. 違った角度から言い分があるという場合にも どうぞご回答をお寄せください。  * まだ熟さない感がありますが その点あらかじめおことわりしておきます。

  • 《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?

     1. 霊感・インスピレーションに限ったヒラメキについて 問います。  2. 特にもし量子論による答えがあるのでしたら おしえてください。  3. その昔アブラハムは 《父祖の土地を去って行け》というヒラメキを得て そのとおりに――どこへ向かうのかも分からずに――出かけたと言います。それは この地上における人間の生は 謂わば巡礼の旅であるということが示されたのだと捉えられています。定住の生活においても そうだという意味だそうです。  4. そこで このとき起こったことは 次だと思われる。     4‐1. ヒラメキは おのれに分からないところからやって来る。   4‐2. そのヒラメキを受け取りその中身を読み取って その指し示すところをおこなうのは 人間としてのおのれの成す意志行為である。   4‐3. すなわちこの《ヒラメキを受け容れた》というのは――それを《非思考において信じた》と言ってもよいと思われるが―― 最後の段階には 人間の意志行為が伴なわれており これはじつは経験思考にもとづく経験行為である。   4‐4. ヒラメキを得て そこに《去って行く》という言葉による表現を得るなら すでに思考をおこなっており その思考の結果 取るか捨てるかの意志決定がおこなわれている。   4‐5. この意志決定において《行く》か《行かない》か いづれをえらぶかは 人間の自由意志による自由な――あるいはおのれの心の恣にする自由な――行為だと言えるか?  5. あらためて 問いはこうです。   5‐1. ヒラメキを得てその指し示すコトを 受け容れるか拒むか これは 人間の側の意志行為だと考えられるが 果たして そのどちらをえらぶかは 人間の自由意志のよくするところだと言えるか?   5‐2. 言いかえると 《行く》をえらぶ場合も《行かない》と決める場合も すべて《わたし》の自由裁量に任せられているか?   5‐3. 言いかえると ヒラメキの指し示す行為を人間がどう受け容れるかは むしろヒラメキの側においてすでに決まっているのではないか?   5‐4. あるいはその決まっていることは 人によってそれぞれであろうか?   5‐5. いえいえ まだまだ舌足らずです。《わたし》が《行く》をえらぼうと思ったとしたら それは ただただわたしの自由意志による選択行為だとのみ言えるものか?   5‐6. ヒラメキが帯びるところの・人に選択をうながす力のほうが 人間の自由意志による決定力よりも強いのではないか?  6. あらためて 問いはこうです。わたしの自由意志は ヒラメキのちからに勝てない。のではないか?  7. この事態について 量子論による解明はありましょうか?  8. 違った角度から言い分があるという場合にも どうぞご回答をお寄せください。  * まだ熟さない感がありますが その点あらかじめおことわりしておきます。

  • 質問として成立する、成立しないは誰が決めるのか

      問い方は一つではないのではないか、 問い方にも様々な問い方があるのではないか、 問うにしてもその問おーとすることについて、全く知らずに問うことが出来よーか、 問うにしてもその問おーとすることの多くについて既にある程度の認識がなければ問いを発することさえ出来ないのではないか、 その問いを問いとして発するためには、問う者がその問いに対する自身の認識、既に知っておることを表明しなければ目的とする問いを伝えることは出来ないのではないか、 問う者が問いを問いとして発するために、その問う者が表明した既知の部分を指して、それは問いではないとゆーことが出来るのか、 語っておる本人が、わしは問うておるのであると言えば、その語りは問いなのではないのか、 語っておる本人が、わしは問うておるのではないと言えば、その語りは問いではないと言えるのではないか、 問いなのか問いではないのかは語っておる本人が決めることではないのか、 問うておる本人が、わしは問うておるのであるとゆーておるにも関わらず他者がそれは問いではないと決めることが出来るのか、 そもそもおよそ哲学として語る事柄であれば、その多くは問いではないのか、