ok9608 の回答履歴

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  • 最終的に破綻したものとは

       最終的に破綻したものとは何か、 また最終的に破綻するものとは何か、 それは、 中世錬金術であり、 永久機関の夢であり、 ビッグバン理論であり、 MBAビジネススクールの金融工学であり、 近代バブル資本主義経済である。 何故ならこれらはその発想において全て同質であり、 無が有を生むとする途方もなく愚かな考えに基づくものだからである。   これから生まれ出てくる同類も皆同様に破綻する運命にあることは明らかである。   全てアルケーの示すところであり、もともと結果は決まっていたのである。    

  • ゴルゴムの総帥は歴史上実在した人物である その2

    かつての質問 悪の結社ゴルゴムの総帥募集中 の後を継ぎます。 http://okwave.jp/qa/q7348861.html これも役に立ちます。ゴルゴムの総帥は歴史上実在した人物である http://okwave.jp/qa/q7370565.html 哲学なのに何故仮面ライダーがテーマとして出てくるかと言うと、私は信仰の個人的尊厳とその伝統は汚すべきではないと考えますので、架空の例え話から初めて、それを哲学と結び付けることは可能かを問うています。 ゴルゴムとは創世王を頂点とする悪の結社です。 西洋で、この創世王に該当すると実際に敬虔な信仰を集めている人物が、歴史上に存在します。 パウロさんの事です。 イエスさんは利用されただけで、彼の死は無駄死にです。。 聖書登場するイエスさんの生きた時代と、彼の生き様とは、神に懇願し、生きる事が自らでかなわないと、自助を放棄した退廃的な時代に、我こそは神そのものであると、待望の救世主を名乗る人物としてイエスさんが現れた。彼はユダヤ教を土台としてその救世主であると主張することで、自らが神である事を信じさせようと寡作したが、当の敬虔なユダヤ教徒には偽物とされ、ユダヤ教の信仰を脅かす、世相を乱す危険人物として告発された、何を吹聴しても無罪である現代日本とは違って、生きる事の尊厳が信仰と密接にかかわり、それを冒涜する事が生死にかかわりかねない時代に、彼は正当な法の裁きにより処刑された。 それは必然である。 そのように犬か何かを遊びで打ち殺す行いに過ぎないイエスの処刑を、パウロは考えた。 もし彼こそが正当な神であれば、処刑は大罪であり、神への反逆であり、死を経過している以上償いはできないものだ。 そして、犬死に過ぎない哀れなイエスは、人間に呪いをかける道具として聖書に登場する。 聖書とは、抜きがたく人は呪われていると吹聴する偽りの神話である。 このいきさつを吹聴するほどに死による取り返しのつかなさをあがらえない意思薄弱人間は、イエスと言うほら吹きの死に真摯にならざる得ない。そのような知略の基に聖書は企てられた。それは偶然の産物としてのキリスト教の興隆では無くて、ゴルゴムの陰謀である。 ゴルゴムの創世王は世界を滅びへと向かわせる意図をはらんでいる。 哀れなイエスの無駄死には、パウロにとって、自らの信仰の滅びであったのだ。 その滅びは創世王にくみ取られ、かれはゴルゴムの世界滅亡計画の歯車として、当時の総帥に抜擢される。 犬死イエスの勝利はゴルゴムの勝利である。 いまも世界には滅びの予感が蔓延している。 その祈りを実現しようではないか。 このようにしてゴルゴムは滅びに為にこそ人を生かし、滅びにまい進させようとする、長き神との対話によって生まれた秘密結社である。 ゴルゴムが生み出した人間とは滅びのみに生かされゴルゴムと共に滅びるだろう。 このような完全なゴルゴムの計画に、彼らの望む完全なる滅びを与えようとするのが、仮面ライダーたる私の仕事だ。 君たちはゴルゴムの子供であり、滅びの子供だ。 出来そこないだ。 君たちに与える安らかな眠りこそが死なのだ。 安らかな眠りの中に終わりを迎えよ。 その点は、私は覚醒者であると言えるよ。 もう時間切れで、気にたちが命をつなぐ事はなさそうだ。 以上は仮面ライダーのマニアックな解釈です。 私はうそをついていません。 すなわち本気で言っていません。 しかし君たちゴルゴムの子供たちが私の言葉を信じるならば、とたんに私わ赦させざる大逆を犯した、イエスに等しい嘘つきになる事でしょう。 要するにからかっているだけだよ。 命を捨てて、大掛かりななんちゃって遊びそしたのがイエスさんさ。

  • ゴルゴムの総帥は歴史上実在した人物である その2

    かつての質問 悪の結社ゴルゴムの総帥募集中 の後を継ぎます。 http://okwave.jp/qa/q7348861.html これも役に立ちます。ゴルゴムの総帥は歴史上実在した人物である http://okwave.jp/qa/q7370565.html 哲学なのに何故仮面ライダーがテーマとして出てくるかと言うと、私は信仰の個人的尊厳とその伝統は汚すべきではないと考えますので、架空の例え話から初めて、それを哲学と結び付けることは可能かを問うています。 ゴルゴムとは創世王を頂点とする悪の結社です。 西洋で、この創世王に該当すると実際に敬虔な信仰を集めている人物が、歴史上に存在します。 パウロさんの事です。 イエスさんは利用されただけで、彼の死は無駄死にです。。 聖書登場するイエスさんの生きた時代と、彼の生き様とは、神に懇願し、生きる事が自らでかなわないと、自助を放棄した退廃的な時代に、我こそは神そのものであると、待望の救世主を名乗る人物としてイエスさんが現れた。彼はユダヤ教を土台としてその救世主であると主張することで、自らが神である事を信じさせようと寡作したが、当の敬虔なユダヤ教徒には偽物とされ、ユダヤ教の信仰を脅かす、世相を乱す危険人物として告発された、何を吹聴しても無罪である現代日本とは違って、生きる事の尊厳が信仰と密接にかかわり、それを冒涜する事が生死にかかわりかねない時代に、彼は正当な法の裁きにより処刑された。 それは必然である。 そのように犬か何かを遊びで打ち殺す行いに過ぎないイエスの処刑を、パウロは考えた。 もし彼こそが正当な神であれば、処刑は大罪であり、神への反逆であり、死を経過している以上償いはできないものだ。 そして、犬死に過ぎない哀れなイエスは、人間に呪いをかける道具として聖書に登場する。 聖書とは、抜きがたく人は呪われていると吹聴する偽りの神話である。 このいきさつを吹聴するほどに死による取り返しのつかなさをあがらえない意思薄弱人間は、イエスと言うほら吹きの死に真摯にならざる得ない。そのような知略の基に聖書は企てられた。それは偶然の産物としてのキリスト教の興隆では無くて、ゴルゴムの陰謀である。 ゴルゴムの創世王は世界を滅びへと向かわせる意図をはらんでいる。 哀れなイエスの無駄死には、パウロにとって、自らの信仰の滅びであったのだ。 その滅びは創世王にくみ取られ、かれはゴルゴムの世界滅亡計画の歯車として、当時の総帥に抜擢される。 犬死イエスの勝利はゴルゴムの勝利である。 いまも世界には滅びの予感が蔓延している。 その祈りを実現しようではないか。 このようにしてゴルゴムは滅びに為にこそ人を生かし、滅びにまい進させようとする、長き神との対話によって生まれた秘密結社である。 ゴルゴムが生み出した人間とは滅びのみに生かされゴルゴムと共に滅びるだろう。 このような完全なゴルゴムの計画に、彼らの望む完全なる滅びを与えようとするのが、仮面ライダーたる私の仕事だ。 君たちはゴルゴムの子供であり、滅びの子供だ。 出来そこないだ。 君たちに与える安らかな眠りこそが死なのだ。 安らかな眠りの中に終わりを迎えよ。 その点は、私は覚醒者であると言えるよ。 もう時間切れで、気にたちが命をつなぐ事はなさそうだ。 以上は仮面ライダーのマニアックな解釈です。 私はうそをついていません。 すなわち本気で言っていません。 しかし君たちゴルゴムの子供たちが私の言葉を信じるならば、とたんに私わ赦させざる大逆を犯した、イエスに等しい嘘つきになる事でしょう。 要するにからかっているだけだよ。 命を捨てて、大掛かりななんちゃって遊びそしたのがイエスさんさ。

  • ゴルゴムの総帥は歴史上実在した人物である その2

    かつての質問 悪の結社ゴルゴムの総帥募集中 の後を継ぎます。 http://okwave.jp/qa/q7348861.html これも役に立ちます。ゴルゴムの総帥は歴史上実在した人物である http://okwave.jp/qa/q7370565.html 哲学なのに何故仮面ライダーがテーマとして出てくるかと言うと、私は信仰の個人的尊厳とその伝統は汚すべきではないと考えますので、架空の例え話から初めて、それを哲学と結び付けることは可能かを問うています。 ゴルゴムとは創世王を頂点とする悪の結社です。 西洋で、この創世王に該当すると実際に敬虔な信仰を集めている人物が、歴史上に存在します。 パウロさんの事です。 イエスさんは利用されただけで、彼の死は無駄死にです。。 聖書登場するイエスさんの生きた時代と、彼の生き様とは、神に懇願し、生きる事が自らでかなわないと、自助を放棄した退廃的な時代に、我こそは神そのものであると、待望の救世主を名乗る人物としてイエスさんが現れた。彼はユダヤ教を土台としてその救世主であると主張することで、自らが神である事を信じさせようと寡作したが、当の敬虔なユダヤ教徒には偽物とされ、ユダヤ教の信仰を脅かす、世相を乱す危険人物として告発された、何を吹聴しても無罪である現代日本とは違って、生きる事の尊厳が信仰と密接にかかわり、それを冒涜する事が生死にかかわりかねない時代に、彼は正当な法の裁きにより処刑された。 それは必然である。 そのように犬か何かを遊びで打ち殺す行いに過ぎないイエスの処刑を、パウロは考えた。 もし彼こそが正当な神であれば、処刑は大罪であり、神への反逆であり、死を経過している以上償いはできないものだ。 そして、犬死に過ぎない哀れなイエスは、人間に呪いをかける道具として聖書に登場する。 聖書とは、抜きがたく人は呪われていると吹聴する偽りの神話である。 このいきさつを吹聴するほどに死による取り返しのつかなさをあがらえない意思薄弱人間は、イエスと言うほら吹きの死に真摯にならざる得ない。そのような知略の基に聖書は企てられた。それは偶然の産物としてのキリスト教の興隆では無くて、ゴルゴムの陰謀である。 ゴルゴムの創世王は世界を滅びへと向かわせる意図をはらんでいる。 哀れなイエスの無駄死には、パウロにとって、自らの信仰の滅びであったのだ。 その滅びは創世王にくみ取られ、かれはゴルゴムの世界滅亡計画の歯車として、当時の総帥に抜擢される。 犬死イエスの勝利はゴルゴムの勝利である。 いまも世界には滅びの予感が蔓延している。 その祈りを実現しようではないか。 このようにしてゴルゴムは滅びに為にこそ人を生かし、滅びにまい進させようとする、長き神との対話によって生まれた秘密結社である。 ゴルゴムが生み出した人間とは滅びのみに生かされゴルゴムと共に滅びるだろう。 このような完全なゴルゴムの計画に、彼らの望む完全なる滅びを与えようとするのが、仮面ライダーたる私の仕事だ。 君たちはゴルゴムの子供であり、滅びの子供だ。 出来そこないだ。 君たちに与える安らかな眠りこそが死なのだ。 安らかな眠りの中に終わりを迎えよ。 その点は、私は覚醒者であると言えるよ。 もう時間切れで、気にたちが命をつなぐ事はなさそうだ。 以上は仮面ライダーのマニアックな解釈です。 私はうそをついていません。 すなわち本気で言っていません。 しかし君たちゴルゴムの子供たちが私の言葉を信じるならば、とたんに私わ赦させざる大逆を犯した、イエスに等しい嘘つきになる事でしょう。 要するにからかっているだけだよ。 命を捨てて、大掛かりななんちゃって遊びそしたのがイエスさんさ。

  • ゴルゴムの総帥は歴史上実在した人物である その2

    かつての質問 悪の結社ゴルゴムの総帥募集中 の後を継ぎます。 http://okwave.jp/qa/q7348861.html これも役に立ちます。ゴルゴムの総帥は歴史上実在した人物である http://okwave.jp/qa/q7370565.html 哲学なのに何故仮面ライダーがテーマとして出てくるかと言うと、私は信仰の個人的尊厳とその伝統は汚すべきではないと考えますので、架空の例え話から初めて、それを哲学と結び付けることは可能かを問うています。 ゴルゴムとは創世王を頂点とする悪の結社です。 西洋で、この創世王に該当すると実際に敬虔な信仰を集めている人物が、歴史上に存在します。 パウロさんの事です。 イエスさんは利用されただけで、彼の死は無駄死にです。。 聖書登場するイエスさんの生きた時代と、彼の生き様とは、神に懇願し、生きる事が自らでかなわないと、自助を放棄した退廃的な時代に、我こそは神そのものであると、待望の救世主を名乗る人物としてイエスさんが現れた。彼はユダヤ教を土台としてその救世主であると主張することで、自らが神である事を信じさせようと寡作したが、当の敬虔なユダヤ教徒には偽物とされ、ユダヤ教の信仰を脅かす、世相を乱す危険人物として告発された、何を吹聴しても無罪である現代日本とは違って、生きる事の尊厳が信仰と密接にかかわり、それを冒涜する事が生死にかかわりかねない時代に、彼は正当な法の裁きにより処刑された。 それは必然である。 そのように犬か何かを遊びで打ち殺す行いに過ぎないイエスの処刑を、パウロは考えた。 もし彼こそが正当な神であれば、処刑は大罪であり、神への反逆であり、死を経過している以上償いはできないものだ。 そして、犬死に過ぎない哀れなイエスは、人間に呪いをかける道具として聖書に登場する。 聖書とは、抜きがたく人は呪われていると吹聴する偽りの神話である。 このいきさつを吹聴するほどに死による取り返しのつかなさをあがらえない意思薄弱人間は、イエスと言うほら吹きの死に真摯にならざる得ない。そのような知略の基に聖書は企てられた。それは偶然の産物としてのキリスト教の興隆では無くて、ゴルゴムの陰謀である。 ゴルゴムの創世王は世界を滅びへと向かわせる意図をはらんでいる。 哀れなイエスの無駄死には、パウロにとって、自らの信仰の滅びであったのだ。 その滅びは創世王にくみ取られ、かれはゴルゴムの世界滅亡計画の歯車として、当時の総帥に抜擢される。 犬死イエスの勝利はゴルゴムの勝利である。 いまも世界には滅びの予感が蔓延している。 その祈りを実現しようではないか。 このようにしてゴルゴムは滅びに為にこそ人を生かし、滅びにまい進させようとする、長き神との対話によって生まれた秘密結社である。 ゴルゴムが生み出した人間とは滅びのみに生かされゴルゴムと共に滅びるだろう。 このような完全なゴルゴムの計画に、彼らの望む完全なる滅びを与えようとするのが、仮面ライダーたる私の仕事だ。 君たちはゴルゴムの子供であり、滅びの子供だ。 出来そこないだ。 君たちに与える安らかな眠りこそが死なのだ。 安らかな眠りの中に終わりを迎えよ。 その点は、私は覚醒者であると言えるよ。 もう時間切れで、気にたちが命をつなぐ事はなさそうだ。 以上は仮面ライダーのマニアックな解釈です。 私はうそをついていません。 すなわち本気で言っていません。 しかし君たちゴルゴムの子供たちが私の言葉を信じるならば、とたんに私わ赦させざる大逆を犯した、イエスに等しい嘘つきになる事でしょう。 要するにからかっているだけだよ。 命を捨てて、大掛かりななんちゃって遊びそしたのがイエスさんさ。

  • ゴルゴムの総帥は歴史上実在した人物である その2

    かつての質問 悪の結社ゴルゴムの総帥募集中 の後を継ぎます。 http://okwave.jp/qa/q7348861.html これも役に立ちます。ゴルゴムの総帥は歴史上実在した人物である http://okwave.jp/qa/q7370565.html 哲学なのに何故仮面ライダーがテーマとして出てくるかと言うと、私は信仰の個人的尊厳とその伝統は汚すべきではないと考えますので、架空の例え話から初めて、それを哲学と結び付けることは可能かを問うています。 ゴルゴムとは創世王を頂点とする悪の結社です。 西洋で、この創世王に該当すると実際に敬虔な信仰を集めている人物が、歴史上に存在します。 パウロさんの事です。 イエスさんは利用されただけで、彼の死は無駄死にです。。 聖書登場するイエスさんの生きた時代と、彼の生き様とは、神に懇願し、生きる事が自らでかなわないと、自助を放棄した退廃的な時代に、我こそは神そのものであると、待望の救世主を名乗る人物としてイエスさんが現れた。彼はユダヤ教を土台としてその救世主であると主張することで、自らが神である事を信じさせようと寡作したが、当の敬虔なユダヤ教徒には偽物とされ、ユダヤ教の信仰を脅かす、世相を乱す危険人物として告発された、何を吹聴しても無罪である現代日本とは違って、生きる事の尊厳が信仰と密接にかかわり、それを冒涜する事が生死にかかわりかねない時代に、彼は正当な法の裁きにより処刑された。 それは必然である。 そのように犬か何かを遊びで打ち殺す行いに過ぎないイエスの処刑を、パウロは考えた。 もし彼こそが正当な神であれば、処刑は大罪であり、神への反逆であり、死を経過している以上償いはできないものだ。 そして、犬死に過ぎない哀れなイエスは、人間に呪いをかける道具として聖書に登場する。 聖書とは、抜きがたく人は呪われていると吹聴する偽りの神話である。 このいきさつを吹聴するほどに死による取り返しのつかなさをあがらえない意思薄弱人間は、イエスと言うほら吹きの死に真摯にならざる得ない。そのような知略の基に聖書は企てられた。それは偶然の産物としてのキリスト教の興隆では無くて、ゴルゴムの陰謀である。 ゴルゴムの創世王は世界を滅びへと向かわせる意図をはらんでいる。 哀れなイエスの無駄死には、パウロにとって、自らの信仰の滅びであったのだ。 その滅びは創世王にくみ取られ、かれはゴルゴムの世界滅亡計画の歯車として、当時の総帥に抜擢される。 犬死イエスの勝利はゴルゴムの勝利である。 いまも世界には滅びの予感が蔓延している。 その祈りを実現しようではないか。 このようにしてゴルゴムは滅びに為にこそ人を生かし、滅びにまい進させようとする、長き神との対話によって生まれた秘密結社である。 ゴルゴムが生み出した人間とは滅びのみに生かされゴルゴムと共に滅びるだろう。 このような完全なゴルゴムの計画に、彼らの望む完全なる滅びを与えようとするのが、仮面ライダーたる私の仕事だ。 君たちはゴルゴムの子供であり、滅びの子供だ。 出来そこないだ。 君たちに与える安らかな眠りこそが死なのだ。 安らかな眠りの中に終わりを迎えよ。 その点は、私は覚醒者であると言えるよ。 もう時間切れで、気にたちが命をつなぐ事はなさそうだ。 以上は仮面ライダーのマニアックな解釈です。 私はうそをついていません。 すなわち本気で言っていません。 しかし君たちゴルゴムの子供たちが私の言葉を信じるならば、とたんに私わ赦させざる大逆を犯した、イエスに等しい嘘つきになる事でしょう。 要するにからかっているだけだよ。 命を捨てて、大掛かりななんちゃって遊びそしたのがイエスさんさ。

  • ゴルゴムの総帥は歴史上実在した人物である その2

    かつての質問 悪の結社ゴルゴムの総帥募集中 の後を継ぎます。 http://okwave.jp/qa/q7348861.html これも役に立ちます。ゴルゴムの総帥は歴史上実在した人物である http://okwave.jp/qa/q7370565.html 哲学なのに何故仮面ライダーがテーマとして出てくるかと言うと、私は信仰の個人的尊厳とその伝統は汚すべきではないと考えますので、架空の例え話から初めて、それを哲学と結び付けることは可能かを問うています。 ゴルゴムとは創世王を頂点とする悪の結社です。 西洋で、この創世王に該当すると実際に敬虔な信仰を集めている人物が、歴史上に存在します。 パウロさんの事です。 イエスさんは利用されただけで、彼の死は無駄死にです。。 聖書登場するイエスさんの生きた時代と、彼の生き様とは、神に懇願し、生きる事が自らでかなわないと、自助を放棄した退廃的な時代に、我こそは神そのものであると、待望の救世主を名乗る人物としてイエスさんが現れた。彼はユダヤ教を土台としてその救世主であると主張することで、自らが神である事を信じさせようと寡作したが、当の敬虔なユダヤ教徒には偽物とされ、ユダヤ教の信仰を脅かす、世相を乱す危険人物として告発された、何を吹聴しても無罪である現代日本とは違って、生きる事の尊厳が信仰と密接にかかわり、それを冒涜する事が生死にかかわりかねない時代に、彼は正当な法の裁きにより処刑された。 それは必然である。 そのように犬か何かを遊びで打ち殺す行いに過ぎないイエスの処刑を、パウロは考えた。 もし彼こそが正当な神であれば、処刑は大罪であり、神への反逆であり、死を経過している以上償いはできないものだ。 そして、犬死に過ぎない哀れなイエスは、人間に呪いをかける道具として聖書に登場する。 聖書とは、抜きがたく人は呪われていると吹聴する偽りの神話である。 このいきさつを吹聴するほどに死による取り返しのつかなさをあがらえない意思薄弱人間は、イエスと言うほら吹きの死に真摯にならざる得ない。そのような知略の基に聖書は企てられた。それは偶然の産物としてのキリスト教の興隆では無くて、ゴルゴムの陰謀である。 ゴルゴムの創世王は世界を滅びへと向かわせる意図をはらんでいる。 哀れなイエスの無駄死には、パウロにとって、自らの信仰の滅びであったのだ。 その滅びは創世王にくみ取られ、かれはゴルゴムの世界滅亡計画の歯車として、当時の総帥に抜擢される。 犬死イエスの勝利はゴルゴムの勝利である。 いまも世界には滅びの予感が蔓延している。 その祈りを実現しようではないか。 このようにしてゴルゴムは滅びに為にこそ人を生かし、滅びにまい進させようとする、長き神との対話によって生まれた秘密結社である。 ゴルゴムが生み出した人間とは滅びのみに生かされゴルゴムと共に滅びるだろう。 このような完全なゴルゴムの計画に、彼らの望む完全なる滅びを与えようとするのが、仮面ライダーたる私の仕事だ。 君たちはゴルゴムの子供であり、滅びの子供だ。 出来そこないだ。 君たちに与える安らかな眠りこそが死なのだ。 安らかな眠りの中に終わりを迎えよ。 その点は、私は覚醒者であると言えるよ。 もう時間切れで、気にたちが命をつなぐ事はなさそうだ。 以上は仮面ライダーのマニアックな解釈です。 私はうそをついていません。 すなわち本気で言っていません。 しかし君たちゴルゴムの子供たちが私の言葉を信じるならば、とたんに私わ赦させざる大逆を犯した、イエスに等しい嘘つきになる事でしょう。 要するにからかっているだけだよ。 命を捨てて、大掛かりななんちゃって遊びそしたのがイエスさんさ。

  • 慣性の法則

      人は一度旨いと思ったら、食い続けよーとする。 人は一度憎んだら、憎み続けよーとする。 人は一度欲したら、欲し続けよーとする。 人は一度浮いたら、浮き続けよーとする。 人は一度漬かったら、漬かり続けよーとする。 人の心も慣性の法則に従うのか。 慣性の法則 - これを読み取ったニュートンはやはり偉大である。      

  • 慣性の法則

      人は一度旨いと思ったら、食い続けよーとする。 人は一度憎んだら、憎み続けよーとする。 人は一度欲したら、欲し続けよーとする。 人は一度浮いたら、浮き続けよーとする。 人は一度漬かったら、漬かり続けよーとする。 人の心も慣性の法則に従うのか。 慣性の法則 - これを読み取ったニュートンはやはり偉大である。      

  • 作用反作用の法則

      最近思ったこと。 人を押せば、人から押し返される。 人を憎めば、人から憎まれる。 人を叩けば、人から叩かれる。 人を罵れば、人から罵られる。 人を労れば、人から労られる。 やはり人の心も作用反作用の法則に支配されるのか。   あ~、アルケー。  

  • 宇宙の公理

                          宇宙の公理 第1公理 宇宙は存在する 第2公理 宇宙は空間と時間を有する 第3公理 空間は連続かつ無限である 第4公理 時間は連続かつ無限である 第5公理 空間も時間も均質であり特異点は存在しない 第6公理 宇宙の法則は数学的である 出来ました。 とりあえずこれでビッグバンの必要はなくなったと思うが。    

  • やはり宇宙は無限である

        数学は無限を探求する。 無限なくして現代数学は成立しない。 我々が無限を避けて通れない理由は何処にあるのか。 その理由はただ1つ、宇宙が無限だからである。 もしこの宇宙が無限でなければ、無限を考える意味など存在する訳がない。 やはり宇宙は無限である。  

  • やはり宇宙は無限である

        数学は無限を探求する。 無限なくして現代数学は成立しない。 我々が無限を避けて通れない理由は何処にあるのか。 その理由はただ1つ、宇宙が無限だからである。 もしこの宇宙が無限でなければ、無限を考える意味など存在する訳がない。 やはり宇宙は無限である。  

  • 原因と結果の法則を超越するものとは

      宇宙は存在し、宇宙の法則も存在する。 宇宙と宇宙の法則は一体である。 宇宙の存在に原因はなく、宇宙の法則に原因はない。 何故なら宇宙は無限であり、いつ如何なる時点においても既に存在したからである。 何故なら宇宙の法則は永遠の真理であり、これを作り出すことは不可能だからである。    

  • やはり宇宙は無限である

        数学は無限を探求する。 無限なくして現代数学は成立しない。 我々が無限を避けて通れない理由は何処にあるのか。 その理由はただ1つ、宇宙が無限だからである。 もしこの宇宙が無限でなければ、無限を考える意味など存在する訳がない。 やはり宇宙は無限である。  

  • 原因と結果の法則を超越するものとは

      宇宙は存在し、宇宙の法則も存在する。 宇宙と宇宙の法則は一体である。 宇宙の存在に原因はなく、宇宙の法則に原因はない。 何故なら宇宙は無限であり、いつ如何なる時点においても既に存在したからである。 何故なら宇宙の法則は永遠の真理であり、これを作り出すことは不可能だからである。    

  • やはり宇宙は無限である

        数学は無限を探求する。 無限なくして現代数学は成立しない。 我々が無限を避けて通れない理由は何処にあるのか。 その理由はただ1つ、宇宙が無限だからである。 もしこの宇宙が無限でなければ、無限を考える意味など存在する訳がない。 やはり宇宙は無限である。  

  • 感性・性欲は中立 《ヘビ》なる情欲は理性の産物

     ( a ) ヒトは 時間的な存在である。  ( b ) 時間的なるものには 限りがある。《限りのないナゾなるもの》に向き合いひとは おそれをいだく。相対的な経験世界のうちに生きる存在であることの自覚である。  ( c ) このきよらかなオソレにもとづき 知恵を持つ。境地としての知恵のほかに 理性なるものをも発達させる。  ( d ) やがて 知恵のもとの自由意志は かしこくもか おろかにもか オソレにも逆らい 理性をおのれの都合よいように用いるようになった。  ( e ) そしてさらにこの理性は 意志にも君臨しようとするまでに到る。それだけの発展性は備えていたらしい。  ( f ) その頃には 《無限というナゾなるもの》は 理性が観念としてあたまの中におさめてしまった。《観念の神》の誕生である。のちにこの神――つまり人びとのあたまの中にあるだけの観念の神――は死んだと宣言されねばならないほどだった。初めから死んでいるのに。  ( g ) さてここで突然 この理性が 性欲をめぐって ヘビなる情欲として《観念の性欲》の世界をこしらえてしまった。のではないか? サドとマゾッホらあらゆる想像力を動員して《きよらかな畏れ》に挑戦してみた。  ( h ) 風呂に井戸を掘るたら何たら言う人間は この《オソレ――この上なくつつましやかなひとなる存在のいだく畏れ――》 これをアーラヤ識かどうかは知らないが 深層の心理の中にだけ閉じ込めてしまった。かくて このヰルスに感染したときには 神は ムイシキであるとなった。       *  ◆ 《へび》の問題  § 1 世界の民俗に見る《へび》の生活文化的・社会的な意味  次の文献によって わたしなりの分類をします。   ▲ 蛇(serpent)=『女性のための神話および秘義の百科事典』の一項目 Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)   http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/serpent.html    ○ (ヘビの民俗・その意味するものの分類) ~~~     (α) 水の神⇒ 生活・生命を象徴:知恵そして善なる神::直毘魂     (β) 水の神⇒ 河ならびに嵐として治水防風雨をしのぐ            あらぶる者:悪魔::荒魂     (γ) 脱皮して再生する習性⇒不老不死を象徴。     (δ) 前項より 子孫繁栄のための生殖力を象徴。     (ε) ゆえに エロスを象徴。     ~~~~~~~~~~~~~~      § 2 (ε)の《へび=エロス》なる民俗は 《要らない》。  併せて (β)の――自然現象の部分を問わないかたちでの・つまりは抽象概念となったところの・心理作用としてのごとくの――《へび=悪魔》説 これも要らない。または 信仰なる主観としては キリスト・イエスの十字架上の死とその復活によって克服された。ゆえに要らないと見ます。  この偏見で議論をとおしますので お見知りおきのほどをお願いします。  § 3 エロスが 人の生きることにともなうことと それをヘビに見立てることとは別だと見ます。その比喩からの通念は 要らないということ。  言いかえると 民俗の一説としてはそんなもんだと受け止めればよいのですが その心のうわべに心理作用および集団的な共同心理として咲いたあだ花が ついに 十九世紀・二十世紀になっても今度は《無意識》なる概念として・そしてさらには医学として科学であろうと見なされてオモテ舞台に登場してしまった。  こういう見方を持ちます。  § 4 この場合のムイシキは      (ζ) エロスをめぐるイド=エス(《あれ・それ》)        =リビドー(《欲しいまま・我がまま》):ムイシキ  のことです。  § 5 ムイシキの逆襲(?)  リビドーを抑圧すると――つまりは 自分はそんなヘビなどのことは知らないと決めて自分自身に対して隠してしまうと―― 人はそのムイシキの逆襲に遭うことになるそうだ。  その得たいの知れないムイシキの作用〔だと見立てているもの〕に抗しきれなくて振るった暴力(いじめ・虐待等)にほかの人が遭う。その被害をこうむる。そのとき受けた心的外傷は すなわちトラウマとなって 永遠に消えることはなく そこから人は完治することはないと説く。  すなわち その意味や次元にまで還元されたと言いますか そう見ることにおいて人間としての料簡が狭められてしまった。と考えます。  § 6 ムイシキとは 亡霊なり。  ムイシキなる仮説の登場はひとえに ヘビは エロスをめぐる性衝動の部分をつかさどる悪魔であり・人間の抗しがたい力としての悪霊であるという俗説から来ていると見ました。  その迷信が 現代においても猛威を振るっているようだと見るものです。すなわち エワとアダムのその昔からの亡霊であると。  § 7 聖書におけるヘビの克服物語  イエス・キリストが 第二のアダムとして 敵対していたヘビに勝利をもたらしたという物語が あります。つまり 虚構です。虚構ですが もともと ヘビは悪魔なりという見方が 虚構です。  いちおう理屈をつければ こうです。  悪魔は 死の制作者であって 自分みづからは すでに死んでいるので 死は怖くない。朽ちるべき身体を持つ人間にとっては 《へび=生命。善なる神》という俗説にしたがって その死が死ぬという・つまりは永遠に生きるという〔気休めとしてでも〕希望を持ち得るけれども 悪魔なるヘビは この死が死ななくなったという完全なる死の状態にある。そして その冥界へと人びとをさそう。  イエスなる人間をもさそった。仲間に入れと。ところが ついにこの人間は 死地に就くところまでヘビを嫌った。ほかのナゾの何ものかに従順であった。ヘビなる悪魔などは 屁の河童であると。  ますます怒った悪魔は ついに実際に〔それまでに部下に持った人間たちをして〕イエスを死地に追いやり見世物にまでして磔を実行せしめた。  ところが 死は怖くないアクマも けっきょくその死の世界にまでイエスという人間が自分の仲間となってくれたことに・そのことの思いに一瞬でも心を移してしまうと その身も死なる魂も すでに溶けてしまった。  § 8 聖書の関係個所を引きます。  ▲(創世記3:14-15) ~~~~  主なる神は、蛇に向かって言われた。   「このようなことをしたお前は   あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で   呪われるものとなった。   お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。   お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に   わたしは敵意を置く。   彼はお前の頭を砕き   お前は彼のかかとを砕く。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この部分すなわち   ▲ ~~~~~~~~~~   彼(=エワの子孫)はお前(=ヘビ)の頭を砕き   お前は彼のかかとを砕く。」   ~~~~~~~~~~~~~  という箇所が のちのイエス(エワの子孫として)とヘビの闘いだと言われます。  § 9 つづき――モーセにおける蛇との闘いの事例――  ▲ (民数記21:6-9・・・《青銅の蛇》) ~~~~  〔* 民がせっかく奴隷状態にあったエジプトから脱出してきたというのに そのことを荒れ野をさ迷うあいだに悔い始めたので〕主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。  民はモーセのもとに来て言った。   「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、   わたしたちから蛇を取り除いてください。」  モーセは民のために主に祈った。  主はモーセに言われた。   「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれ   を見上げれば、命を得る。」  モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。  ~~~~~~~~~~~~~  § 10 つづき――イエスは 《青銅のヘビ》か――  ▲ (ヨハネによる福音3:14-16) ~~~~  そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(=イエス)も上げられねばならない。  それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。  神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。  独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  § 11 いかなる事態であるか?  もし性欲も大自然への畏れも ヒラメキをも含めて感性だとすれば この感性とそして理性との あらそい なのであろうか?  感性は 間違い得るし あやまちを侵す。ただし そのこと自体にウソ・イツワリがない。  理性は あやまち得ないと言い張る。ウソをもほんとうのことだと――つまりおのれの心をもだまし得て――丸め込む。  ただし このような問い求めをおこない説明をあたえるのは 理性でありそれを用いる志向性としての意志である。

  • 人が 人のあやまちを赦すことができるか?

     この問いをなお問います。  1.   まづ前身の質問の趣旨説明をかかげます。    ひとつには けっきょく世界との和解にかかわっているものと考えます。  言いかえると おのれの存在について心からやわらいでいるかどうか にかかわるであろうと。  その意味は こうです。  人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。  分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。  ということは 赦さない能力も資格もまったくない。  では あやまちをこうむった人間に出来ることは何か?  そのあやまちについて あやまちであることを経験合理性にもとづき説明し そのマチガイをその人に おこなってはいけないと伝える。すべての行為は 自由であるが 人に迷惑をかけることは 自由ではないと。  つまり 哲学として批判をすること。および 必要ならば 法律にうったえるということ。  ここまでしか われわれは為すすべは持たない。のではないか?  こういう問いです。  この主題はその内実として まだ分からないところがあるかも知れません。それが明らかにされて行くことをものぞみます。ふるってご回答をお寄せください。  * 批判を伝えたあとは――人間存在としての関係は どこまでもありましょうが―― まじわりという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とはなくなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》の意味です。  というのも 人は おのれのあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われるからです。  どうでしょう?      _________    2.  さらに趣旨説明を継ぎます。  早い遅いはあるでしょうが 誰もが自分の与えてしまった迷惑や危害については いかにオモテ向きは低姿勢であやまり続けていたとしても 内心では《取り返しがつかない。けれども 詫びようがない。どうしようもない》というところに落ち着いて自分を赦していると思われます。  もっと言うならば たとえばそのあやまちを犯してしまったそのあとの人生をすべてその害をこうむった相手のためにささげて生きるのみだと考え じっさいにそう生き切ったとした場合 そうだとしても オモテ向きは自分を赦していないけれども そのようなつぐない人生を送るというかたちで自分との和解は成り立たせていると思われるからです。  つまり たいへんな負い目を負いそれをすべて払いきるというきびしい人生ではあるのですが たとえばそのようなかたちで けっきょく自分を赦している。こう思われます。  そしてちなみに 昔は 死んでおわびしますという言い方(および実行?)がありましたが 死んだからと言って 自分を赦さなかったということにはならないように考えられるのではありませんか?  そのように 自分を赦すかどうかについて考えるなら たいていは赦すのであり おそらく赦さない能力は 人間にはないのではないでしょうか?  でも 被害者やその近しい人たちから見れば その加害者については とうぜんのごとく《おのれを赦す能力も資格もないに決まっているではないか》というふうに扱うはずです。  そうして もしこの被害者やその身内の人びとが 仮りに自分たちがそれぞれ加害者になったとした場合を考えるなら どうなりましょうか。  つまり 世間の相場から行けば 加害者である自分については遅かれ早かれ赦すでしょうし かつて自分が被害者であったときにはその加害者に対しては こんなことを言っていた。(あるいは思っていた)。と思い出す。つまり 《どんな面をさげて おまえは自分を赦せたのか? 自分を赦したなどと言えるのか。オモテにはその気配も出さないからと言って その内面でいったいどんなことを思っているのか? わたしは知っているのだ あんたは内心ですでに自分を赦してしまっているということを》と。  だったら――つまりそんな内心の探りっこをしているくらいなら―― けっきょく人間には《赦す資格も能力もなく 同時に赦さない能力も資格もない》 こう考えをあらためるなら きわめて人間的な共生のための方程式が得られるのではないか?  3.  さて このように趣旨説明をさらに伸ばしてみたのですが なお言い方を変えて説明します。  すなわちぎゃくに言えば 《赦すことができず赦さないことも出来ない》という能力を人間は 持っている。のではないか?   《赦す・赦さない》にはかかわりを持たないという能力が 生まれつき人間にはそなわっている。のではないか?  わたしは人間として 能力によって人を赦すことも赦さないことも出来ない。のだと。  つまり 或る人 A が或る人 B を死なせてしまった場合などを例として考えるとき それでも A は・つまりわれわれの おそらく 誰もが 自分を赦すようになると思われます。  これは いかにつぐないを続け 残りの人生がすべて償いの時間であったとしても その内心は自分を赦しているものと思われます。  むしろ そうであるゆえに(つまり やがて時とともに自分を赦してしまったと或る日悔いたことがあった ゆえに) つぐないをして 自分の不甲斐無さのつぐないをしようと思うものなのでしょう。  自分を赦していないという姿勢を採り その心を持ち続け つぐないの人生を送るという外形と 片や内心とは 果たして同じでしょうか? 舌を出して笑っているわけではないとしても 心はと言えば もうとっくに自分を赦しているのではないでしょうか?  もし自分が加害者であって 想うにそのような外面と内面とを合わせ持つポスト加害の人生を送らざるを得ないのだと決めた場合 果たして《つぐない》ということは もしそうすべきだとして どうすればよいのか?   おそらく つぐないをする・しないの前に どうも人間は人をいかに嫌悪しいかに憎んでも 赦すことも赦さないことも 出来ないのかも知れないと思うのではないでしょうか?  赦して欲しいとか 赦してやろうとか そういった思いを持つことは 人間にふさわしいとは思えない。のではないか?  4.  この質問が問うこととしては あやまりの言葉 おわびの言葉を申し述べること これは問題ないと思うのですが 問題は そこに《赦す・赦さない》が入ると ことは人間存在の一大事にかかわっているのではないかということにあります。  きわめてぶしつけで挑戦的な言い方をすれば 《ごめんなさい》のひと言で ことは全部終わったということ これが 人間たちのあり方なのではないか?   あとは 法律上の――あるいは法律に準じた考え方の上での――かたちあるモノによるつぐない これは それとしてしかるべく伴なわれるだろうとは思います。心身のあるいは生活上の損傷を埋めるだけとしてでも 助け合いは必要でしょうから。  5.  いかがでしょう?   そして 問いの出し方や問題点の切り口がずれていたり間違っていたりしていましょうか? 主題そのものの認識がつたないでしょうか?

  • アイデンティティ

    ジグムント・バウマンという社会学者がこんなことを言います。 「アイデンティティとは結局のところ、自由と安心の間で葛藤することである」 刺激と退屈の間とも言い換えています。 刺激(新しい何かを求めること)は魅力的ですが、不安もつきまといます。変化(新しいこと)がないのは退屈ですが、状況が悪い方向へ変わってしまうことへの不安は出てきません。バウマンは、自由と安心は両取りできないと言うのです。 私はこの話を聞いてかなりしっくりきたのですが、みなさんのこの話への感想を聞いてみたくなったのでスレッドを立てました。 どう思いますか?