ok9608 の回答履歴

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  • フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?

     文字どおり たたき台です。思いっきり自由なお考えをお聞かせください。  ○ (神とは何か?) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は 絶対 X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり 経験世界 Y に属す。  《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― マチガイである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。  X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の     歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • 科学と合理

    「科学者は合理的な考え方を行う」などのように、科学者に対して「合理的」という言葉が一般に多用されていると感じます。 質問: i) ここで用いられている「合理」とは一体なにを指しているのでしょうか。 ii) この考え方は科学主義(科学万能主義、科学教;批判的意味)を含んでいると考えて居ます。みなさんはどう思いますか。 大陸合理主義やイギリス経験主義といった対比からすれば、科学は帰納的な経験的手法によっています。にも関わらず「合理」といった言葉を用いているのは「科学が全て」であり、そこに普遍的な真理(理性)があると信じられているからではないでしょうか。 懐疑主義に陥るつもりでもありませんが、現代において科学が絶対視されすぎているこの風潮に漠然とした違和感を覚えます。 みなさんの意見をお聞かせ下さい。 ちなみに私は物理学専攻の修士課程に所属している学生であり、ここのところ特に科学に対する無情(無常)さに退屈を感じてしまっています。以前の情熱を取り戻したいという思いもどこかあり。。。

  • 布教活動をする宗教団体とは、悪そのものではないのか

    人間の世の中で嫌われるのは、自分の意思を相手に押しつけようとする人です。 小説やドラマ、漫画でも、悪役は、それをしようとするから、嫌われます。 犯罪も、基本的に同じ事で、それが相手の許容範囲を超えるから、犯罪になります。 ところで、宗教団体の布教活動とは、まさに、自分の意思を相手に押しつける活動といって良いでしょう。 活発に布教活動を行う宗教団体とは、悪そのものでは無いでしょうか。 他人を折伏しようとしている宗教者は、自分が悪だという自覚が本当に無いのでしょうか? 例えば、水戸黄門を見ると、悪代官を憎たらしく感じますが、それは、悪代官が自分の意思を相手に無理矢理押しつけようとするからです。 布教活動をしている人でも、水戸黄門を見ると悪代官を憎むと思います。(たぶん) それなのに、自分が本質的に悪代官と同じ事をしているという事に、どうして気付けないのでしょうか。 それが不思議でなりません。 無理に勢力拡大を図る宗教団体を、悪の団体として、法律で取り締まるように出来ないのでしょうか。 信教の自由といいますが、そんな宗教団体は逆に、他人の信教の自由を著しく損ねているとしか思えません。 布教活動をする宗教団体とは、悪そのものではないですか? ショッカーは、世界征服を企む悪の秘密結社である。 オウムは、マジで日本征服を企んだため、悪の烙印を押された。 ほかにも日本征服を企む宗教団体がいくつかあるようですね。

  • 多様性の思想的裏付け

    多様性は必要不可欠であるという共通認識みたいなものが現代はあるような気がします。その思想的な裏付けってどんなものなのでしょうか?出来れば、思想家の名前や著書を挙げてもらえれば助かります。

  • 「創造」と「発見」は、対義語か?同義語か?

    たぶん多くの人は、「発見」と「創造」は、どちらかというと対義語だと思っていますよね。違っていたらすみません。 なぜなら、「発見」は人間が関わってない隠された秩序が見つかることであり、「創造」は人間が自ら生み出した事物である、と一般的に言われているからです。 でもそれは果たしてそうなのでしょうか?それら2つの単語は、1つの物事の異なる側面を書き表わしているだけであって、対義語じゃなく、むしろどっちかというと同義語のような気がします。 でも、そう考えると、一つ納得のいかないことがあります。 発見は「探究力」「なぜ?なぜ?」と深く関わりがあると思います。 また、創造は(そのままですが)「創造力」「直感」と深く関わりがあると思います。 それで、芸術家というのを考えてみると、芸術家(ゴッホやバッハのような、画家あるいは音楽家等)にとっては創造力が最も大事であり、優れた作品を創るには創造力は最も欠かせないものだと思います。 ここで一つ疑問がわきます。 「創造」と「発見」をほぼ同義とすると、それに必要な「探究力」と「創造力」もまた同義になってしまうかと思います。 でもそうしてしまうと、芸術家は「探究心」が大変重要ということになってしまい、なんだか変な感じがします。 広い意味で考えると、芸術家でも「探究力」が重要であるかもしれませんが、芸術家イコール探究心ではないような気がします。この場合、"なぜ?なぜ?"の「探究」と、"直感"の「創造」が結び付きません。 そうすると、やはり「創造」と「発見」は全く別のものだということでしょうか? でも科学者のような「発明」で考えると、「創造」と「発見」が根本的には同じものであるとしか思えません。 以上のような理由で”「創造」と「発見」は、対義語か?同義語か?”という質問をさせて頂きました。 どうぞよろしくお願いします。

  • 体外離脱など

    体外離脱したことの有る人、または多少なりとも造詣のある人に聞きたいのですが、 体外離脱では、普段経験している世界よりはかなり精神面を反映しているところだと聞いています。 私は、一度だけ経験したことがあるのですが、こうした世界が実際に存在するものなのか、 実はただの物質的に脳のなせるわざなのかなどを知りたいです。 思うところを是非教えてください。こんな理由やエピソードがあるっていうのを 伝えてもらえると嬉しいです。 また、世界の構造についても諸説教えてもらいたいです。

  • スピリチュアリズム・霊的真理の疑問 (1)

    科学的に考えると、ビッグバンで宇宙が誕生してのち、何十億年も宇宙に生命が生存できる状況ではなかったといいます。そうした長い間、霊界はあったのでしょうか? 物質的生命体が存在できないということは輪廻転生などできませんね。 「いやいや、宇宙を超えた別次元に霊や霊界は存在しているんだよ。物質界に転生しなくてもスピリット達は修行していかれるのさ」と言う意見が御座いましたら、物質界はたいして重要なものではないということになりませんか? 

  • あの世があるとして

      あの世に行った人は、この世のことを振り返るのであろーか。 この世が懐かしいとか、この世に戻りたいとか思うのであろーか。 もしそのよーなことを思ったとしたら果たしてあの世は良いところなのであろーか。 それともあの世に行っても更なる次のあの世を願って祈るのであろーか。 あ~、あの世。  

  • 就職のために学んでおいた方がよいこと

    私は今年の4月から大学生になりました。 でもその大学は希望した大学ではなく、浪人するか迷った上の選択でした。 レベルもMARCHの少し下くらいです。 経済学部に所属しているのですが、授業はあまりためにならないし、英語なんて中学生でもできる内容です。 正直このままじゃ無駄な4年間になると感じています。 そこで、自分で深く学びたいと思っているのですが、何をしたらいいかイマイチわかりません。 就職のためにとって置いた方がよい資格や学んでおいた方がよいことを教えていただきたいです。 将来は国際関係の仕事、経済的な学問の面からの発展途上国の自立支援など、漠然とですが、そんな仕事をしたいです。 第二外国語はフランス語をとっています。 ぜひアドバイスいただけると嬉しいです。

  • 全ての存在は無なのか

      「全ての存在は、量子的な不確定性(確率波動)に基づき、 無限に詰め込むと存在確率の山が平らになり、無と等しくなる。 全ての存在は無である。」 以上はブータン帰りのあの人(P氏)がある時満身を込めて語った言葉である。 それ以来彼は懲りることなくこの言葉を繰り返すよーになった。 たとえ相手から気持ち悪いから止めてくれと言われよーと上のフレーズを繰り返すのであった。 宇宙は存在しないともゆーておった。 ブータン帰りのあの人は正しいか。  

  • ビッグバン宇宙論とは何だったのか

      我々の宇宙は150億年前に無から生まれたとするビッグバン宇宙論とは一体何だったのだろーか。 既にビッグバン宇宙論は破綻し、今ではビッグバン宇宙論は過去の遺物になってしまった。 ビッグバン宇宙論は何だったのか今一度振り返って見た。 ビッグバン宇宙論は無から宇宙が始まったことを何一つ証明できなかった。 結局ビッグバン宇宙論は科学ではなかった。 無は現実の世界には存在せず、物理で扱えるものではなかった。 にも関わらず実証不可能なものである無を科学に組み込んだのは、科学を否定することを意味したからである。 150億年とゆー宇宙年齢もいい加減なものであった。 人間が望遠鏡で観測できる、宇宙のごく一部を観測した結果をもって宇宙が膨張しているなどと戯言を言ったりもした。 実際ビッグバン宇宙論が科学的に正しいと考える人は殆どいなかったのである。 そもそも常識的、経験的に考えて宇宙が無限であることは誰の眼にも明らかであった。 ビッグバン宇宙論は20世紀が生み出した最大のギャクに過ぎなかった。 ではビッグバン宇宙論は何故生まれたのか。 ビッグバン宇宙論とは、一つの世界宗教であり、 ローマ法王が認定した終末思想であった。 しかしこの終末思想には明るい未来は無かった。 ビッグバン宇宙論は次第次第に人々の心に暗い影を落とし始めた。 もともとビッグバン宇宙論は日本には馴染まないはずであった。 しかし閉鎖的な日本の科学界はビッグバン宇宙論を盲目的に取り込み布教し始めた。 つい半世紀前にビッグバン宇宙論が誕生する前までは世界の宇宙観は常識なものだったのである。 しかしビッグバン宇宙論と終末思想のおかげで世界は狂い始め、科学は退歩し始めた。 以上が既に破綻したビッグバン宇宙論についての自分なりの総括であるが、皆はどのよーに捉えるのかご意見下さい。  

  • ビッグバン宇宙論とは何だったのか

      我々の宇宙は150億年前に無から生まれたとするビッグバン宇宙論とは一体何だったのだろーか。 既にビッグバン宇宙論は破綻し、今ではビッグバン宇宙論は過去の遺物になってしまった。 ビッグバン宇宙論は何だったのか今一度振り返って見た。 ビッグバン宇宙論は無から宇宙が始まったことを何一つ証明できなかった。 結局ビッグバン宇宙論は科学ではなかった。 無は現実の世界には存在せず、物理で扱えるものではなかった。 にも関わらず実証不可能なものである無を科学に組み込んだのは、科学を否定することを意味したからである。 150億年とゆー宇宙年齢もいい加減なものであった。 人間が望遠鏡で観測できる、宇宙のごく一部を観測した結果をもって宇宙が膨張しているなどと戯言を言ったりもした。 実際ビッグバン宇宙論が科学的に正しいと考える人は殆どいなかったのである。 そもそも常識的、経験的に考えて宇宙が無限であることは誰の眼にも明らかであった。 ビッグバン宇宙論は20世紀が生み出した最大のギャクに過ぎなかった。 ではビッグバン宇宙論は何故生まれたのか。 ビッグバン宇宙論とは、一つの世界宗教であり、 ローマ法王が認定した終末思想であった。 しかしこの終末思想には明るい未来は無かった。 ビッグバン宇宙論は次第次第に人々の心に暗い影を落とし始めた。 もともとビッグバン宇宙論は日本には馴染まないはずであった。 しかし閉鎖的な日本の科学界はビッグバン宇宙論を盲目的に取り込み布教し始めた。 つい半世紀前にビッグバン宇宙論が誕生する前までは世界の宇宙観は常識なものだったのである。 しかしビッグバン宇宙論と終末思想のおかげで世界は狂い始め、科学は退歩し始めた。 以上が既に破綻したビッグバン宇宙論についての自分なりの総括であるが、皆はどのよーに捉えるのかご意見下さい。  

  • ビッグバン宇宙論とは何だったのか

      我々の宇宙は150億年前に無から生まれたとするビッグバン宇宙論とは一体何だったのだろーか。 既にビッグバン宇宙論は破綻し、今ではビッグバン宇宙論は過去の遺物になってしまった。 ビッグバン宇宙論は何だったのか今一度振り返って見た。 ビッグバン宇宙論は無から宇宙が始まったことを何一つ証明できなかった。 結局ビッグバン宇宙論は科学ではなかった。 無は現実の世界には存在せず、物理で扱えるものではなかった。 にも関わらず実証不可能なものである無を科学に組み込んだのは、科学を否定することを意味したからである。 150億年とゆー宇宙年齢もいい加減なものであった。 人間が望遠鏡で観測できる、宇宙のごく一部を観測した結果をもって宇宙が膨張しているなどと戯言を言ったりもした。 実際ビッグバン宇宙論が科学的に正しいと考える人は殆どいなかったのである。 そもそも常識的、経験的に考えて宇宙が無限であることは誰の眼にも明らかであった。 ビッグバン宇宙論は20世紀が生み出した最大のギャクに過ぎなかった。 ではビッグバン宇宙論は何故生まれたのか。 ビッグバン宇宙論とは、一つの世界宗教であり、 ローマ法王が認定した終末思想であった。 しかしこの終末思想には明るい未来は無かった。 ビッグバン宇宙論は次第次第に人々の心に暗い影を落とし始めた。 もともとビッグバン宇宙論は日本には馴染まないはずであった。 しかし閉鎖的な日本の科学界はビッグバン宇宙論を盲目的に取り込み布教し始めた。 つい半世紀前にビッグバン宇宙論が誕生する前までは世界の宇宙観は常識なものだったのである。 しかしビッグバン宇宙論と終末思想のおかげで世界は狂い始め、科学は退歩し始めた。 以上が既に破綻したビッグバン宇宙論についての自分なりの総括であるが、皆はどのよーに捉えるのかご意見下さい。  

  • ビッグバン宇宙論とは何だったのか

      我々の宇宙は150億年前に無から生まれたとするビッグバン宇宙論とは一体何だったのだろーか。 既にビッグバン宇宙論は破綻し、今ではビッグバン宇宙論は過去の遺物になってしまった。 ビッグバン宇宙論は何だったのか今一度振り返って見た。 ビッグバン宇宙論は無から宇宙が始まったことを何一つ証明できなかった。 結局ビッグバン宇宙論は科学ではなかった。 無は現実の世界には存在せず、物理で扱えるものではなかった。 にも関わらず実証不可能なものである無を科学に組み込んだのは、科学を否定することを意味したからである。 150億年とゆー宇宙年齢もいい加減なものであった。 人間が望遠鏡で観測できる、宇宙のごく一部を観測した結果をもって宇宙が膨張しているなどと戯言を言ったりもした。 実際ビッグバン宇宙論が科学的に正しいと考える人は殆どいなかったのである。 そもそも常識的、経験的に考えて宇宙が無限であることは誰の眼にも明らかであった。 ビッグバン宇宙論は20世紀が生み出した最大のギャクに過ぎなかった。 ではビッグバン宇宙論は何故生まれたのか。 ビッグバン宇宙論とは、一つの世界宗教であり、 ローマ法王が認定した終末思想であった。 しかしこの終末思想には明るい未来は無かった。 ビッグバン宇宙論は次第次第に人々の心に暗い影を落とし始めた。 もともとビッグバン宇宙論は日本には馴染まないはずであった。 しかし閉鎖的な日本の科学界はビッグバン宇宙論を盲目的に取り込み布教し始めた。 つい半世紀前にビッグバン宇宙論が誕生する前までは世界の宇宙観は常識なものだったのである。 しかしビッグバン宇宙論と終末思想のおかげで世界は狂い始め、科学は退歩し始めた。 以上が既に破綻したビッグバン宇宙論についての自分なりの総括であるが、皆はどのよーに捉えるのかご意見下さい。  

  • ビッグバン宇宙論とは何だったのか

      我々の宇宙は150億年前に無から生まれたとするビッグバン宇宙論とは一体何だったのだろーか。 既にビッグバン宇宙論は破綻し、今ではビッグバン宇宙論は過去の遺物になってしまった。 ビッグバン宇宙論は何だったのか今一度振り返って見た。 ビッグバン宇宙論は無から宇宙が始まったことを何一つ証明できなかった。 結局ビッグバン宇宙論は科学ではなかった。 無は現実の世界には存在せず、物理で扱えるものではなかった。 にも関わらず実証不可能なものである無を科学に組み込んだのは、科学を否定することを意味したからである。 150億年とゆー宇宙年齢もいい加減なものであった。 人間が望遠鏡で観測できる、宇宙のごく一部を観測した結果をもって宇宙が膨張しているなどと戯言を言ったりもした。 実際ビッグバン宇宙論が科学的に正しいと考える人は殆どいなかったのである。 そもそも常識的、経験的に考えて宇宙が無限であることは誰の眼にも明らかであった。 ビッグバン宇宙論は20世紀が生み出した最大のギャクに過ぎなかった。 ではビッグバン宇宙論は何故生まれたのか。 ビッグバン宇宙論とは、一つの世界宗教であり、 ローマ法王が認定した終末思想であった。 しかしこの終末思想には明るい未来は無かった。 ビッグバン宇宙論は次第次第に人々の心に暗い影を落とし始めた。 もともとビッグバン宇宙論は日本には馴染まないはずであった。 しかし閉鎖的な日本の科学界はビッグバン宇宙論を盲目的に取り込み布教し始めた。 つい半世紀前にビッグバン宇宙論が誕生する前までは世界の宇宙観は常識なものだったのである。 しかしビッグバン宇宙論と終末思想のおかげで世界は狂い始め、科学は退歩し始めた。 以上が既に破綻したビッグバン宇宙論についての自分なりの総括であるが、皆はどのよーに捉えるのかご意見下さい。  

  • ビッグバン宇宙論とは何だったのか

      我々の宇宙は150億年前に無から生まれたとするビッグバン宇宙論とは一体何だったのだろーか。 既にビッグバン宇宙論は破綻し、今ではビッグバン宇宙論は過去の遺物になってしまった。 ビッグバン宇宙論は何だったのか今一度振り返って見た。 ビッグバン宇宙論は無から宇宙が始まったことを何一つ証明できなかった。 結局ビッグバン宇宙論は科学ではなかった。 無は現実の世界には存在せず、物理で扱えるものではなかった。 にも関わらず実証不可能なものである無を科学に組み込んだのは、科学を否定することを意味したからである。 150億年とゆー宇宙年齢もいい加減なものであった。 人間が望遠鏡で観測できる、宇宙のごく一部を観測した結果をもって宇宙が膨張しているなどと戯言を言ったりもした。 実際ビッグバン宇宙論が科学的に正しいと考える人は殆どいなかったのである。 そもそも常識的、経験的に考えて宇宙が無限であることは誰の眼にも明らかであった。 ビッグバン宇宙論は20世紀が生み出した最大のギャクに過ぎなかった。 ではビッグバン宇宙論は何故生まれたのか。 ビッグバン宇宙論とは、一つの世界宗教であり、 ローマ法王が認定した終末思想であった。 しかしこの終末思想には明るい未来は無かった。 ビッグバン宇宙論は次第次第に人々の心に暗い影を落とし始めた。 もともとビッグバン宇宙論は日本には馴染まないはずであった。 しかし閉鎖的な日本の科学界はビッグバン宇宙論を盲目的に取り込み布教し始めた。 つい半世紀前にビッグバン宇宙論が誕生する前までは世界の宇宙観は常識なものだったのである。 しかしビッグバン宇宙論と終末思想のおかげで世界は狂い始め、科学は退歩し始めた。 以上が既に破綻したビッグバン宇宙論についての自分なりの総括であるが、皆はどのよーに捉えるのかご意見下さい。  

  • ビッグバン宇宙論とは何だったのか

      我々の宇宙は150億年前に無から生まれたとするビッグバン宇宙論とは一体何だったのだろーか。 既にビッグバン宇宙論は破綻し、今ではビッグバン宇宙論は過去の遺物になってしまった。 ビッグバン宇宙論は何だったのか今一度振り返って見た。 ビッグバン宇宙論は無から宇宙が始まったことを何一つ証明できなかった。 結局ビッグバン宇宙論は科学ではなかった。 無は現実の世界には存在せず、物理で扱えるものではなかった。 にも関わらず実証不可能なものである無を科学に組み込んだのは、科学を否定することを意味したからである。 150億年とゆー宇宙年齢もいい加減なものであった。 人間が望遠鏡で観測できる、宇宙のごく一部を観測した結果をもって宇宙が膨張しているなどと戯言を言ったりもした。 実際ビッグバン宇宙論が科学的に正しいと考える人は殆どいなかったのである。 そもそも常識的、経験的に考えて宇宙が無限であることは誰の眼にも明らかであった。 ビッグバン宇宙論は20世紀が生み出した最大のギャクに過ぎなかった。 ではビッグバン宇宙論は何故生まれたのか。 ビッグバン宇宙論とは、一つの世界宗教であり、 ローマ法王が認定した終末思想であった。 しかしこの終末思想には明るい未来は無かった。 ビッグバン宇宙論は次第次第に人々の心に暗い影を落とし始めた。 もともとビッグバン宇宙論は日本には馴染まないはずであった。 しかし閉鎖的な日本の科学界はビッグバン宇宙論を盲目的に取り込み布教し始めた。 つい半世紀前にビッグバン宇宙論が誕生する前までは世界の宇宙観は常識なものだったのである。 しかしビッグバン宇宙論と終末思想のおかげで世界は狂い始め、科学は退歩し始めた。 以上が既に破綻したビッグバン宇宙論についての自分なりの総括であるが、皆はどのよーに捉えるのかご意見下さい。  

  • アルケーとは何か

      問う人: アルケーとは何か。 人の道: この世において最も根源的なもの、普遍的なもの、万物の根源である。 問う人: ではアルケーとは素粒子のことなのか。 人の道: 素粒子はアルケーではない。 何故なら物質はアルケーでは有り得ないからである。 問う人: ではアルケーとは空間のことなのか。 人の道: 空間もアルケーではない。 何故ならアルケーは空間よりも更に根源的なものだからである。 問う人: ではアルケーとは時間のことなのか。 人の道: 時間もアルケーではない。 何故ならアルケーは時間よりも更に根源的なものだからである。 問う人: ではアルケーとは何なのか。 人の道: アルケーとは宇宙の法則である。 何故ならこの世において最も根源的、普遍的なるものは宇宙の法則だからである。 これ以外にはない。 皆にも訊いてみー。 問う人: アルケーはこの世において最も根源的、普遍的なるもの、宇宙の法則であり、これ以外には有り得ないゆーこと皆はどー思う。  

  • アルケーとは何か

      問う人: アルケーとは何か。 人の道: この世において最も根源的なもの、普遍的なもの、万物の根源である。 問う人: ではアルケーとは素粒子のことなのか。 人の道: 素粒子はアルケーではない。 何故なら物質はアルケーでは有り得ないからである。 問う人: ではアルケーとは空間のことなのか。 人の道: 空間もアルケーではない。 何故ならアルケーは空間よりも更に根源的なものだからである。 問う人: ではアルケーとは時間のことなのか。 人の道: 時間もアルケーではない。 何故ならアルケーは時間よりも更に根源的なものだからである。 問う人: ではアルケーとは何なのか。 人の道: アルケーとは宇宙の法則である。 何故ならこの世において最も根源的、普遍的なるものは宇宙の法則だからである。 これ以外にはない。 皆にも訊いてみー。 問う人: アルケーはこの世において最も根源的、普遍的なるもの、宇宙の法則であり、これ以外には有り得ないゆーこと皆はどー思う。  

  • 《絶対》という概念を使いこなすようにならねばと

     ・・・思います。そのことをめぐって 問います。  おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたが想い描かれますが そうであるかどうかは 発進してみなければ分かりません。  すでに幾度も問うていますが そういう意味でさらにすすめたいと考えました。  たたき台です。  1. ひとは おのれの存在が永遠ではないにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。  1-1.  その意味で 《神》ということばも――そして《無い神》も―― 用います。  2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。  2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。  3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことばそして概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。  3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 経験世界の内側において用いられています。  4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。  4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。  5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。  5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。  5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。  6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。  6-1. 《絶対》の二重構造:   ・ 《非経験の場》そのものとしてのわが心の庭〔なる神〕:無根拠   ・ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:因果       関係などの合理的な根拠を科学的に明らかにする場合に       すら用いられることがある。        たとえとして都合がよいのだと思われる。        6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》と《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実(精神と思考の緑野ないし密林)》との《二重構造》を呈しています。     以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。  ちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。  ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~  近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。  ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・  むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。  しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。  絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。  ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞)    http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html  ~~~~~~~~~~~~~~