ok9608 の回答履歴

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  • 質問として成立する、成立しないは誰が決めるのか

      問い方は一つではないのではないか、 問い方にも様々な問い方があるのではないか、 問うにしてもその問おーとすることについて、全く知らずに問うことが出来よーか、 問うにしてもその問おーとすることの多くについて既にある程度の認識がなければ問いを発することさえ出来ないのではないか、 その問いを問いとして発するためには、問う者がその問いに対する自身の認識、既に知っておることを表明しなければ目的とする問いを伝えることは出来ないのではないか、 問う者が問いを問いとして発するために、その問う者が表明した既知の部分を指して、それは問いではないとゆーことが出来るのか、 語っておる本人が、わしは問うておるのであると言えば、その語りは問いなのではないのか、 語っておる本人が、わしは問うておるのではないと言えば、その語りは問いではないと言えるのではないか、 問いなのか問いではないのかは語っておる本人が決めることではないのか、 問うておる本人が、わしは問うておるのであるとゆーておるにも関わらず他者がそれは問いではないと決めることが出来るのか、 そもそもおよそ哲学として語る事柄であれば、その多くは問いではないのか、    

  • 哲学することは、その人のモラルを高めますか?

    偉人でも、自分の身の回りの人を見ても、独学なり趣味なり、真面目に哲学を学んで日々精進している人は、小さい自分の事で他人に迷惑をかける等のことがなく、モラルが高い人が多い印象を受けます。 自分の感じでも、哲学を始めた頃に比べ、身近かな自己中行為に対して興味が引かれなくなりました。 そこで、再び問います。 哲学することは、その人のモラルを高める効果があると思いませんか? 当然、質問の振りをして、自説に近い回答だけを取り入れ、逆の回答は、無視したり、屁理屈で排除するやり方は問題外です。

  • 宇宙は絶対有である

      問う人: ビッグバンがただのギャグゆーのは判った。 では宇宙はどのよーに創られた。 「人の道」: 宇宙は創られたのではない。 何ものも宇宙を創ってはおらん。 宇宙を創るとゆー考えは論理的に間違っておる。 なぜなら宇宙はいつ如何なる時間においても既に存在したからである。 無限に延びる時空間上の如何なる場所、如何なる時点においても宇宙は常に存在した。 すなわち宇宙は絶対有である。 宇宙は絶対的に存在する。 ビッグバンは大ウソであり、途方もなく大きな矛盾に包まれておる。 絶対有の宇宙には何一つ矛盾はない。 絶対有の宇宙は完全無欠である。 問う人: あ~、宇宙は絶対有か~。 あ~、これはもー究極の真理に到達したな~。 あ~、宇宙についてはもーこれ以上何も語る必要はないな~。  

  • 奇妙な吊るし上げ!?!?

     《欠席裁判》という問題がありますが 実際の司法による裁判でない場合 たとえば《吊るし上げ》があります。実際にはどういうことを言うのかと 引いてみますと こうでした。  ▲(ヰキぺ:吊るし上げ) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8A%E3%81%97%E4%B8%8A%E3%81%92    吊し上げ(つるしあげ)とは、集団で強圧的、威圧的な態度、言動によって相手を萎縮させること。  何らかの集団的欲求を権限を持つ相手に飲ませたり、又は特定個人の非を認めさせる為に行われるが、威圧行為を含むことから不当な要求を飲ませたり、冤罪の発生する傾向を含む。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち まづその特徴を挙げておきましょう。  (1) 集団でおこなう。  (2) その態度や言動が 強圧的で威圧的である。  (3) それによって 相手を萎縮させる。  あるいは  (4) 相手は何らかの権限を持つ者であり その集団の要求を飲ませようとする。  (5) 特定個人の非を認めさせるためにおこなう。  (6) 威圧行為によって その要求は不当なものである場合がある。  (7) 吊るし上げによって 冤罪の発生をうむ傾向がある。  さて いまおこなわれている吊るし上げについてですが  (1)は 当てはまる。   (2)は どうでしょうか。一般に紳士的であると言っておきましょうか。  (3)は その相手が萎縮も何もしていない。なら当てはまらない。  (4): 権限関係はないから 当てはまらない。  (5): その相手に非をみとめよと迫っているので 当てはまる。  (6): (2)でその威圧行為は いちおう否定しておいてあります。  (7): 司法とは別とします。ので考慮しませんが (6)や(2)を復活させる場合などにかかわっては その要求が不当なものであるというのなら そして不当なものであるのにこの吊るし上げという集団行為をおこなっているのなら 謂わば無罪を有罪と裁定する傾向があると言われても仕方がないかもしれない。  さてさらに そのヰキぺ解説は 次のような関連記事をも載せています。  ▲ (同上) ~~~~  § 擬似的な吊し上げ  この吊し上げであるが、擬似的に行われる場合も有る。  圧迫面接と呼ばれる面接方法がそれで、面接官が寄ってたかって面接者を詰問攻めにするというものである。  これはクレーム等で威圧的な相手と対峙した場合に、萎縮して一方的に譲歩してしまわないようロールプレイするという意図もあり、1990年代中頃に盛んに行われた。  ~~~~~~~~~  ☆ ということは――この記事の限りでですが――  (8) 《擬似的な吊るし上げ》とは ぎゃくに相手が威圧的であると思われているときにおこなわれる。  (9) その相手を詰問攻めにする。つまりは 《(5) 特定個人の非を認めさせるために》は 相手の威圧に負けないようにそうすると。  (10) この場合というのは 吊るし上げをおこなう側が 相手の威圧によって萎縮してしまわないように用心してかかるというようなことであるらしい。  さて 質問です。(9)や(10)は 取り上げません。その吊るし上げをおこなう側のそれぞれ人間の問題です。そこで ずばり  (8‐1): 《相手が威圧的であると思われている》のか?  ☆ どうぞ自由な哲学的所見をお寄せください。   

  • 宇宙は絶対有である

      問う人: ビッグバンがただのギャグゆーのは判った。 では宇宙はどのよーに創られた。 「人の道」: 宇宙は創られたのではない。 何ものも宇宙を創ってはおらん。 宇宙を創るとゆー考えは論理的に間違っておる。 なぜなら宇宙はいつ如何なる時間においても既に存在したからである。 無限に延びる時空間上の如何なる場所、如何なる時点においても宇宙は常に存在した。 すなわち宇宙は絶対有である。 宇宙は絶対的に存在する。 ビッグバンは大ウソであり、途方もなく大きな矛盾に包まれておる。 絶対有の宇宙には何一つ矛盾はない。 絶対有の宇宙は完全無欠である。 問う人: あ~、宇宙は絶対有か~。 あ~、これはもー究極の真理に到達したな~。 あ~、宇宙についてはもーこれ以上何も語る必要はないな~。  

  • 虚数とは その名のとおりに想像力の世界なのか?

     まづ 推測がゆるされるとしたらのお話です。    ( あ ) 虚数は 現実とどうかかわっているのか?  この問いから出た考え(推測)ですが その名のとおりに    ( い ) 虚数とは 《想像をめぐらしたその観念の世界》である。  と言えるものであるのか? これが質問です。おしえてください。         *  さらに推測を交えた世界に入りますが 趣旨説明を述べます。  まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。  たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。  ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?  たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況は相手からその答えを求められ決断をも迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。  つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( bi )とで構成される複素数( a+bi )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?  いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?   いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけている。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心が敵対心にまで広がっているかも分かりません。  もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。  言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。   《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として・つまりやはり一でありつつ また多少そこから脱線しても元の一に戻りつつ 生きる。  ところが 現実は 複素数である。かも知れない。虚数の動きが 心に忍び込んで来るのかどうなのか 起きる。おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。  自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明も できない。できなくなる。代わりに ひょっとするとその想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭の中にあそぶかのような時空間をすごすということかも知れない。    もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数が消えてゼロになり 虚数のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?  《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一(いち)( -1 )となる。  これでは 社会における交通(まじわり)が成らない。成し得ない。  という憶測としての発見をきょう得ました。  ご教示ください。  * おまけもしくは余分:   悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか?  余計でした。つまり《さとり》についてのゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるのですよ。  ご教示を願います。

  • 虚数とは その名のとおりに想像力の世界なのか?

     まづ 推測がゆるされるとしたらのお話です。    ( あ ) 虚数は 現実とどうかかわっているのか?  この問いから出た考え(推測)ですが その名のとおりに    ( い ) 虚数とは 《想像をめぐらしたその観念の世界》である。  と言えるものであるのか? これが質問です。おしえてください。         *  さらに推測を交えた世界に入りますが 趣旨説明を述べます。  まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。  たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。  ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?  たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況は相手からその答えを求められ決断をも迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。  つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( bi )とで構成される複素数( a+bi )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?  いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?   いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけている。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心が敵対心にまで広がっているかも分かりません。  もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。  言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。   《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として・つまりやはり一でありつつ また多少そこから脱線しても元の一に戻りつつ 生きる。  ところが 現実は 複素数である。かも知れない。虚数の動きが 心に忍び込んで来るのかどうなのか 起きる。おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。  自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明も できない。できなくなる。代わりに ひょっとするとその想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭の中にあそぶかのような時空間をすごすということかも知れない。    もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数が消えてゼロになり 虚数のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?  《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一(いち)( -1 )となる。  これでは 社会における交通(まじわり)が成らない。成し得ない。  という憶測としての発見をきょう得ました。  ご教示ください。  * おまけもしくは余分:   悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか?  余計でした。つまり《さとり》についてのゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるのですよ。  ご教示を願います。

  • 虚数とは その名のとおりに想像力の世界なのか?

     まづ 推測がゆるされるとしたらのお話です。    ( あ ) 虚数は 現実とどうかかわっているのか?  この問いから出た考え(推測)ですが その名のとおりに    ( い ) 虚数とは 《想像をめぐらしたその観念の世界》である。  と言えるものであるのか? これが質問です。おしえてください。         *  さらに推測を交えた世界に入りますが 趣旨説明を述べます。  まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。  たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。  ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?  たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況は相手からその答えを求められ決断をも迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。  つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( bi )とで構成される複素数( a+bi )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?  いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?   いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけている。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心が敵対心にまで広がっているかも分かりません。  もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。  言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。   《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として・つまりやはり一でありつつ また多少そこから脱線しても元の一に戻りつつ 生きる。  ところが 現実は 複素数である。かも知れない。虚数の動きが 心に忍び込んで来るのかどうなのか 起きる。おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。  自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明も できない。できなくなる。代わりに ひょっとするとその想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭の中にあそぶかのような時空間をすごすということかも知れない。    もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数が消えてゼロになり 虚数のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?  《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一(いち)( -1 )となる。  これでは 社会における交通(まじわり)が成らない。成し得ない。  という憶測としての発見をきょう得ました。  ご教示ください。  * おまけもしくは余分:   悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか?  余計でした。つまり《さとり》についてのゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるのですよ。  ご教示を願います。

  • 虚数とは その名のとおりに想像力の世界なのか?

     まづ 推測がゆるされるとしたらのお話です。    ( あ ) 虚数は 現実とどうかかわっているのか?  この問いから出た考え(推測)ですが その名のとおりに    ( い ) 虚数とは 《想像をめぐらしたその観念の世界》である。  と言えるものであるのか? これが質問です。おしえてください。         *  さらに推測を交えた世界に入りますが 趣旨説明を述べます。  まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。  たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。  ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?  たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況は相手からその答えを求められ決断をも迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。  つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( bi )とで構成される複素数( a+bi )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?  いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?   いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけている。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心が敵対心にまで広がっているかも分かりません。  もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。  言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。   《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として・つまりやはり一でありつつ また多少そこから脱線しても元の一に戻りつつ 生きる。  ところが 現実は 複素数である。かも知れない。虚数の動きが 心に忍び込んで来るのかどうなのか 起きる。おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。  自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明も できない。できなくなる。代わりに ひょっとするとその想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭の中にあそぶかのような時空間をすごすということかも知れない。    もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数が消えてゼロになり 虚数のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?  《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一(いち)( -1 )となる。  これでは 社会における交通(まじわり)が成らない。成し得ない。  という憶測としての発見をきょう得ました。  ご教示ください。  * おまけもしくは余分:   悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか?  余計でした。つまり《さとり》についてのゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるのですよ。  ご教示を願います。

  • 人が生きる意味を問う。絶対の答えはあるのか

    さきに投稿されている自殺を止める方法の質問を読み、思ったのですが、 人がこの世で生きていくことに、ただ一つの正しい答えはない、万人に共通する 「生きる意義」などはないといわれている。どこまでいってもその人にとっての意味しかないという人もいれば 自らそれを探すのが人生だと言う人もいる。 しかし自分は、人によって、おかれている境遇や、価値観が違うという次元を超えた部分に ただ一つの正しい回答が実際には存在しているのではないかと思うようになりました。 ものごとに自然の理というものが働いているのを感じるからで、その理がどういうものなのか 自分には分からないのですが、この世界と人間が存在している「ただ一つの明確な」意義。「万人に当てはまる正しい生き方、生きる目標」というものがもしかしたらあるのではないかと思うようになっています。いかなる生命にも神が宿っているとして、 人間が等しく創造されたのであれば、そのことにおいて、 万人に当てはまる理もあっておかしくない。 悪文で申し訳ありません。共感してくださる方あるいは反論など何かコメントをいただけますと有り難いです。読んでくださって嬉しいです。

  • 宇宙ってなんですか?

    宇宙って一体なんですか? なるべくわかりやすくお願いします!

  • 縄文・弥生の混合と日本社会の特性

    文系の出身ではないのですが,最近,古代史に興味を持ち始めました.日本には,もともと縄文人が独特の狩猟(加えて,栽培・農耕)文化を持っていたようです.あとから,稲作をする弥生人が移住してきたようです.大事件だったはずです.北九州の弥生遺跡では,弥生人同士の争いのあとはありますが,縄文人・弥生人は大規模な戦争をした様子はなく,どうやら平和的にゆっくり混血していったようです.後から来たものが先住者を殲滅することの多いヨーロッパの歴史とは大きく違うようです.不思議です.稲作は徐々に日本中に広まって,青森の縄文遺跡でも稲作のあとが発見されたりしています.日本人は,混血・雑種民族のようです.おおきく同じ文化・言語で暮らしていますが,西日本と東日本で異なる習慣・文化も息づいています.基本的に争いを好まず,忍耐強く,ものを大切にする暮らしを続けてきました.日本人(日本民族)がどのように形成されてきたのか,なぜ弥生人と縄文人が平和的に統合されていったのか,同一言語をもった雑種形成がうまくいったのか,その後の日本文化・国家の形成にどのような影響を与えたのか,世界史のなかで,それはどのような特徴をもつことなのか,わかりやすく解説した歴史書はありますか?そのようなことを研究されている大学・学者はいらっしゃいますか?まったく素人ですが,勉強してみたいです.

  • 語族と文型の関係

    世界にはSVO、SOV、VSO、VOS、OSV、OVSなど様々な文法形式とその言語がありますが、これらは歴史で扱うインド・ヨーロッパ語族などの語族と関連性はあるのでしょうか? 例えば同じSVOという文法構造を持つ言語ならば、その集団は同一祖先だった可能性があるのでしょうか? 例えば英語と中国語はどちらもSVO系ですが、この一致はただの偶然ですか? 文字や言葉が全く異なる言語でも文法上のルールは同じということが不思議に思えるのです。 もし偶然ならば、中国語が日本語(SOV)やアラビア語(VSO)のような文型にならず、その中からわざわざSVOという文型で定着するに至った要因を考えねばならないと思うのですが、このこともどうなのでしょうか。 もう一つお聞きしたいのですが上記に6パターンあげましたが、人間の言語の文型はこの6パターンしかないのでしょうか? 文型が多数存在するということは、我々の祖先がアフリカから出発したことを考えれば、つまり始祖文型なるものが存在して、そこから上記6パターンに分岐していったのでしょうか。 質問が多くてすみません。よろしくお願いします。

  • 宇宙ってなんですか?

    宇宙って一体なんですか? なるべくわかりやすくお願いします!

  • アマテラスとスサノヲの関係に

    やれ公民圏だの市民だのと、なんだか対立的な権力関係を読み取っちゃったみたいな見解があるようですが、古事記をいくら読んでも、優等生アマテラスに対してはスサノヲはどこまでもやんちゃな暴れん坊。全然そういう政治的な読み方はできないと思うんですが、さてどうなんでしょうか。神話研究的にはどういう解釈なんですか。教えてください。

  • 天使とは?――《はじめにことばがあった》。

     ( a ) 天使とは 純粋思想であり 純粋なる内なることばのことを言うか?  ( b ) そのことばが 人間にかかわるようなものであるなら 堕落しうる。天使も堕落しうる。と。  ( c )  つぎの文句のあいだに天使が位置するか? 1:4から1:5にかけてである。  ◆ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~    1:1 はじめに ことばがあった。     ことばは神とともにあった。     ことばは神であった。  1:2 このことばは はじめに神とともにあった。  1:3 すべてのものは ことばによって成った。     成ったもののうち ひとつとして ことばによらないものはなかった。  1:4 このことばに命があった。     この命は人を照らす光りであった。  1:5 光りは闇のなかに輝いている。     闇は光りをとらえなかった。  ~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《1:4 このことばに命があった。この命は人を照らす光りであった。》というときの《命》もしくは《光り》としては すでにこの経験世界ないし人間の世界のことにも触れて言っていると思われる。《闇》(1:5)と言うなら すでに経験事象である。  言いかえると 次のように位置づけるかたちである。  ( d ) 神をなぜ《ことば》にたとえたかの問題でもあるように考えられることには 次のような位置づけである。   ○ (ことばの階層) ~~~   (α) 神としてのことば    (α’) 天使としてのことば   (β・γ) 経験事象としての光なることば(ひらめき?)     (δ) 人間のことば   ~~~~~~~~~~  ( e ) 次の図式によっても説明しうるか? 《ことば》を《ロゴス》と言いかえている。   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~~  ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。  被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか?  もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。  おしえてください。  

  • 重罪悪業?

    生き物を殺しては食らい 盗むが如くしては利益を得る してはならない浮気を繰り返し 心にもない嘘を平気でつく どこまで許されるでしょうか?

  • 「物理学」崇拝

    「物理学」崇拝 は物神崇拝と言えるでしょうか?

  • 「物理学」崇拝

    「物理学」崇拝 は物神崇拝と言えるでしょうか?

  • 原発の哲学的考察

    原発の是非を問うスレはいくつかありますが、ここにはなかったように思い、たててみました。 この議論は、結局人間が高度な文明生活をすることが是か非かということになるのでしょうか。 あるいは、 これからも犠性者はあっても、それが許される範囲にとどまるなら進めて良いということになるのでしょうか。その程度はどのくらいでしょうか。 放射能は”本当は怖くない”のでしょうか? なら廃棄物処理は意外と簡単だったりして。 これは先進国、低開発国を問わず、人命に軽重は無いということが関係すると思いますし、ゆえに これは経済問題である以上に優れて哲学的な設問の範疇かと思います。 人間が火を使い始めたころは、なかなかコントロールが難しく、しかし様々な試行錯誤を重ねて、今ではなくてはならないものになっていますが、時には火事になったりして人命が失われることもあります。 火を使ってもいいということは人間のコンセンサスになっています。 車も多くの犠牲者が出ますが、無くそうというひとはごく少数意見です。 車はいまや無くてはならないものになっているとしていいのかもしれません。 原子の火たる原発は現実として日本で生活程度を維持するにはなくてはならないものになっています。 ただ、 折衷案として、もっと原発が信頼できるものになるまでおおいに我慢し、使用を封印しようという選択もあるかもしれません。それは可能でしょうか?なら、いつまで?どの程度ならOK? アンケートに出す手もありましたが、横すれ歓迎ということで、非力な質問者抜きで大いに諸賢のご明察とご意見を伺いたく。 よろしくおねがい言いたします。