ok9608 の回答履歴

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  • アイデンティティ

    ジグムント・バウマンという社会学者がこんなことを言います。 「アイデンティティとは結局のところ、自由と安心の間で葛藤することである」 刺激と退屈の間とも言い換えています。 刺激(新しい何かを求めること)は魅力的ですが、不安もつきまといます。変化(新しいこと)がないのは退屈ですが、状況が悪い方向へ変わってしまうことへの不安は出てきません。バウマンは、自由と安心は両取りできないと言うのです。 私はこの話を聞いてかなりしっくりきたのですが、みなさんのこの話への感想を聞いてみたくなったのでスレッドを立てました。 どう思いますか?

  • アイデンティティ

    ジグムント・バウマンという社会学者がこんなことを言います。 「アイデンティティとは結局のところ、自由と安心の間で葛藤することである」 刺激と退屈の間とも言い換えています。 刺激(新しい何かを求めること)は魅力的ですが、不安もつきまといます。変化(新しいこと)がないのは退屈ですが、状況が悪い方向へ変わってしまうことへの不安は出てきません。バウマンは、自由と安心は両取りできないと言うのです。 私はこの話を聞いてかなりしっくりきたのですが、みなさんのこの話への感想を聞いてみたくなったのでスレッドを立てました。 どう思いますか?

  • 神は 何でないか?

     神を想定する手続きについて述べつつ 神は何でないかを次のように明らかにした文章をたたき台とします。  批判・修正・評言などなど 自由なご見解をお示しくださればありがたいです。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《信じる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《信じる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の領域に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神の作用にとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。この非経験の場が 非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。これをそのまま受け取ったというその行為を《信じる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。  8. どちらも互いに同等の《信じる》行為である。非思考の場のナゾを 思考の場でその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の場は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス ブラフマン アミターユス マハーワ゛イローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。  10. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  11. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  12. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて思考の場に降りて来ている。この仮りの代理の場をとおして 非思考の場を望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。  13. だから《おしえ》は 思考の場に属しており それが非思考の場の神だということはあり得ない。なのに教義を信じるという言い方をする間違いが見られる。    14.エトセトラ。エトセトラ。  15. まとめて 神は何でないか?   A. 神は 人間の精神ではない。   ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。   B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと    ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。     つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。

  • 紀元前の人々の悩み

     紀元前の人々(中東辺り)の人々の悩みは どのようなものだったのでしょうか? 戦争や飢饉が主だったものでしょうか? 起源後も同じ悩みを抱えていますが、 当時の人々の心配ごとや悩みを教えて下さい。 理由は現在、世界史を勉強していまして 背景知識として学びたいと思いました。 ご存知でしたら、教えて下さい。 よろしくお願い致します。

  • 科学技術が発展するとは?

    科学技術が発展するとはどういうことなのでしょうか。 なるべくわかりやすい回答お願いします。

  • 科学技術が発展するとは?

    科学技術が発展するとはどういうことなのでしょうか。 なるべくわかりやすい回答お願いします。

  • 科学技術が発展するとは?

    科学技術が発展するとはどういうことなのでしょうか。 なるべくわかりやすい回答お願いします。

  • 思考も有機体の生化学反応なる物理現象に他ならない

        人間の行うあらゆる精神活動、哲学を含めあらゆる形の思考も有機体の生化学反応なる物理現象に他ならない。 このよーに考えて良いのではないか。    

  • 物理学が扱う宇宙と哲学が扱う宇宙は別物か

      一つ明らかにせねばならぬこと。 物理学が扱う宇宙と哲学が扱う宇宙は違うものなのか、 元々この2つは違う世界なのか、 単に観念の上であれば、次元の異なる800万の宇宙を考えることは容易である。 もちろん、その中には天国も極楽も地獄も含まれるであろー。 哲学とは元々そのよーなものなのか、 宇宙について語ると往々にして話が噛み合わないのはそのためなのであろーか。    

  • 宇宙が無限であるとの証明は可能でしょうか?

    星までの距離を測る場合、星からでた光が目的を通過すまでの時間で測定できます。 光には速度がありますからね。 少し離れた星なら、光の移動時間もかかり、それより長い距離であることが分かります。 しかし、さらに距離の離れた星ら、距離が長くなるため、測定に時間がかかりすぎます。 このように、どんどん、測定時間がかかってしまいます。 無限の向こうにある星には光が届かず光は帰って来ません。 つまり、宇宙の無限の広さの証明は出来ないと思います。 皆さんは、どう思いますか?

  • 「論理的」の意味

    論理的という言葉の意味について、特に決定的な定義が見つからないので、自分で考えてみました。 この解釈はおおむね正しいと思いますか? また、間違いやズレがあればご指摘をください。よろしくお願いします。 論理とは、何かを正しいと認めることから派生する法則のことである。 論理以外の法則として物理がある。物理は存在そのものによって現れる法則である。 つまり、論理=論(言葉)の理(法則)。物理=物(存在)の理(法則) たとえば、「すべての物体は重力の影響を受けて下に落ちる。(A)」といったとき、「Aだから、目の前のペンも放り投げれば落ちる」という構成は論理的であり、実際に物が落ちるのは物理的である。※物理は論理の影響を受けない。引力の法則(論理)が存在しなくても物は落ちる(物理) 言い換えれば、論理は物理を組み合わせて作られた法則である。 さらに、論理が間違うことはなく、ただ、物理と食い違ったときに価値が無くなるだけである。 たとえば、太陽が回っている(物理)、ということは空が回っている(論理)。というのは、論理的な間違いではなく、物理を通して構成された論理が、物理と食い違ってしまった。という誤りである。 ゆえに、論理的というのは、「正しい」という意味ではなくて、あるものを正しいとしたときに構成された法則にしたがっているということである。 このことから、論理的に話すというのは、次のようになる。 [極論的な論理的] ある個人自身が決めた法則にしたがって話す。 [社会的な論理的] 一般的な人が正しいと認めている法則にしたがって話す。 非論理的な例 ・言葉の定義を自由自在に変更する。(ステレオタイプなど) ・矛盾している。(結論が正しいとき、前提が正しくなくなるなど) ・根拠が無い。(人間は悪だ。)※法則(論理)について述べていない。論理と物理が食い違うことは「科学的に間違い」。 ・嘘。 非論理的とはいえない例 ・根拠が間違っているまたは薄い。(おなかがすいたということは12時だ)※物理とは食い違うかもね。 ・冗談、お笑い。(騙すという法則が構成に含まれている) メモ 社会的に正しいと認められていると思われる会話や議論の法則 ・論理学の基本法則(論理和・論理積・否定など)。 ・日常言語はすでに共通了解されている。(犬のことをサルということはない)

  • 宇宙が無限であるとの証明は可能でしょうか?

    星までの距離を測る場合、星からでた光が目的を通過すまでの時間で測定できます。 光には速度がありますからね。 少し離れた星なら、光の移動時間もかかり、それより長い距離であることが分かります。 しかし、さらに距離の離れた星ら、距離が長くなるため、測定に時間がかかりすぎます。 このように、どんどん、測定時間がかかってしまいます。 無限の向こうにある星には光が届かず光は帰って来ません。 つまり、宇宙の無限の広さの証明は出来ないと思います。 皆さんは、どう思いますか?

  • 「論理的」の意味

    論理的という言葉の意味について、特に決定的な定義が見つからないので、自分で考えてみました。 この解釈はおおむね正しいと思いますか? また、間違いやズレがあればご指摘をください。よろしくお願いします。 論理とは、何かを正しいと認めることから派生する法則のことである。 論理以外の法則として物理がある。物理は存在そのものによって現れる法則である。 つまり、論理=論(言葉)の理(法則)。物理=物(存在)の理(法則) たとえば、「すべての物体は重力の影響を受けて下に落ちる。(A)」といったとき、「Aだから、目の前のペンも放り投げれば落ちる」という構成は論理的であり、実際に物が落ちるのは物理的である。※物理は論理の影響を受けない。引力の法則(論理)が存在しなくても物は落ちる(物理) 言い換えれば、論理は物理を組み合わせて作られた法則である。 さらに、論理が間違うことはなく、ただ、物理と食い違ったときに価値が無くなるだけである。 たとえば、太陽が回っている(物理)、ということは空が回っている(論理)。というのは、論理的な間違いではなく、物理を通して構成された論理が、物理と食い違ってしまった。という誤りである。 ゆえに、論理的というのは、「正しい」という意味ではなくて、あるものを正しいとしたときに構成された法則にしたがっているということである。 このことから、論理的に話すというのは、次のようになる。 [極論的な論理的] ある個人自身が決めた法則にしたがって話す。 [社会的な論理的] 一般的な人が正しいと認めている法則にしたがって話す。 非論理的な例 ・言葉の定義を自由自在に変更する。(ステレオタイプなど) ・矛盾している。(結論が正しいとき、前提が正しくなくなるなど) ・根拠が無い。(人間は悪だ。)※法則(論理)について述べていない。論理と物理が食い違うことは「科学的に間違い」。 ・嘘。 非論理的とはいえない例 ・根拠が間違っているまたは薄い。(おなかがすいたということは12時だ)※物理とは食い違うかもね。 ・冗談、お笑い。(騙すという法則が構成に含まれている) メモ 社会的に正しいと認められていると思われる会話や議論の法則 ・論理学の基本法則(論理和・論理積・否定など)。 ・日常言語はすでに共通了解されている。(犬のことをサルということはない)

  • 宇宙が偉大であると語ることは悪なのか。

    宇宙の偉大さを語ることは悪なのでしょうか、人のためにならんのでしょうか。 宇宙が偉大であると語ることは悪なのか。 以下の質問スレで、スレ主が言った言葉です。 考える価値があると考えたので、独立に質問を立てました。 彼の問いに答えてみて下さい。 http://okwave.jp/qa/q7216604.html

  • 考古学はいつまで?

    考古学はいつからいつまでの時代をいうのでしょうか

  • タイムトラベル?過去って?未来って?

    長文になります。 物理のカテゴリーで「光より速い=時間を逆行?」ということで 「光速を超えると、時間を逆行するとはどういうことなのか」 という質問をして、様々な回答を頂きました。 そんな中、ふと思ったのですが、 本当に過去に行けるとしたら、遠い未来で過去に行く技術が開発されていても おかしくないわけですよね。 ということは、現在人類が宇宙に向かって「宇宙人がいたら返事してください」 という信号を送り続けているのと同じように、 未来の人が「過去の人、過去に行く技術はできましたよ!」みたいな通信とか、 未来から旅行に来た人とか、いると思うんですが、 今のところ、そういう人や信号があるという確実な証拠はありませんよね。 まぁ、いくつかそういう未来から来た人の話を聞いたりもしますが、 未来って人類が滅びたり、地球が無くなったりしない限り、永遠なはずなのに、 そのわりにそういう未来から来た話の数は少ないですよね。 ということは、未来の人類がめっちゃ完璧に、タイムトラベルを規制しているか、 そんな技術は開発されないかのどちらかだと思うんですが、どう思われますか。 また、質問なのですが、 未来から現在に、何かがやってくるためには、 未来と現実が同時に存在していなければならないと思うのですが、 未来は、まだ来てないから未来なのであって、現在と同時に存在するのはおかしいと思うんですが、 哲学的に(物理的なご回答も歓迎です)どう考えられるのでしょうか? 長々と申し訳ありませんでした。 回答よろしくお願いします。

  • なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

    『なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?』私はこの問いをWikipediaで知りました、この問いの詳細はWikipediaに載っています、まずWikipediaの記述の一部をほぼそのまま引用します。 『なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?』は哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ、 神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される、 なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題である、 別の形では 「なぜ宇宙があるのか?」 「なぜ世界があるのか?」 「なぜ無ではないのか?」 などの形でも問われる。 もの事の根拠を「なぜ」と繰り返し問い続けることでやがて、現れる問いであることから、「究極のなぜの問い」またはより簡潔に「究極の問い」とも呼ばれる、解答することが著しく困難であることから「存在の謎」と言われる、 哲学者たちはこの問いを、あらゆる問いの中で最も根本的な問い、第一の問いであるとしばしば言う。 物理学の領域ではビックバンにより宇宙が始まったという説明がなされることがあるが、こうした説明も答えにならない、 なぜなら、問いの形が「なぜ何もなかったのではなく、ビックバンがあったのか」に置き換わるだけだからである。 ビックバンが真空の揺らぎから発生したといった説明もまた同様である、 「なぜ何もなかったのではなく、量子力学の法則にしたがって揺らぐ真空があったのか」もしくは「なぜ量子力学の法則などという自然法則があったのか」こうした形に問いが置き換わるだけである。 同じように何か超越的な存在、例えば神様を持ち出し、それが世界を作ったと説明しても話しは同じである、 「なぜ何もなかったのではなく、神様がいたのか」こう問いが置き換わるだけである。 こうした例を見てわかるように、この問いは因果連鎖を過去に遡ることによって答えようとしても、もっと過去へ、もっと過去へ、と無限後退が生じるだけでそから答えは得られないだろうと考えられている。 また、こうした時間の始まりの問題を避けるため永続する宇宙、永遠の時間を想定してみても、解答はえられない、 「なぜ何もないのではなく、永遠に続く宇宙があるのか」こうした形に問いが置き換わるだけで終わる。 この問いは歴史学や考古学のように過去の歴史を問う問題ではなく、あくまで「なぜ何かがあるのか」を問う問題である、 またしばしば同時に問われる関連した問いに「なぜ世界はこのようになっているのか」という、この世界の在り方の根拠を問う問題とは区別される。 Wikipediaには解答の候補などもいろいろ載っていますが、 上述のように、哲学や科学など、宇宙、世界、自然を観察、観測したり、そこから論理的に思考したりする手段でも、さらに宗教のように神様を全ての原因とする手段でも、解決できそうもないこの「究極の問い」を、一体どうすればいいのでしょうか? つまり、それ(科学、哲学、宗教)以外に何か他にこの『究極の問い』にアプローチする手段があるのでしょうか? それはもはや論理や言語や思考を超えて、人間の能力を超えた手段が必要なのでしょうか?

  • ここは議論の場でないと言うけれど

    例えば、一つの質問を立てます。 そこに、氏が回答を書いたとします。 同氏の回答は難解な用語を使うことが多いです。 そこで、分からない点について追加で質問をしたとします。 しかし氏は質問を無視するか、議論の場ではないと返事をし質問への追加回答をしません。 この様な態度について皆さんはどう思われますか? 追加質問はいけないのでしょうか? 他のカテゴリ(例えば物理のカテゴリ)においても、回答で分からない点があれば、 質問者が追加質問をし、回答者がさらに、追加回答をすると言うのは、よく見受ける事だと思うのですが・・・ 皆さんの意見を聞かせて下さい。

  • 宇宙は人間の自己認識の延長でしかないのでしょうか

    そう考えたとき、なにかとても狭くて細い、塞がったような感覚がしました ニヒリズムというやつでしょうか・・・ この考えをとことん追い詰めていくと、活力が失われていく気がします。 結局、宇宙は人間の自己認識の延長でしかないのでしょうか? もしそうであるなら、超人になる方法を教えてください。

  • ここは議論の場でないと言うけれど

    例えば、一つの質問を立てます。 そこに、氏が回答を書いたとします。 同氏の回答は難解な用語を使うことが多いです。 そこで、分からない点について追加で質問をしたとします。 しかし氏は質問を無視するか、議論の場ではないと返事をし質問への追加回答をしません。 この様な態度について皆さんはどう思われますか? 追加質問はいけないのでしょうか? 他のカテゴリ(例えば物理のカテゴリ)においても、回答で分からない点があれば、 質問者が追加質問をし、回答者がさらに、追加回答をすると言うのは、よく見受ける事だと思うのですが・・・ 皆さんの意見を聞かせて下さい。