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満州国や満州事変について

「満州事変」もしくは「満州国」を当時の日本人はどのように評価・考えていたんでしょうか? ご教授いただけると幸いです。 できれば出典先も教えていただけると嬉しいです。 よろしくお願いいたします

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  • staratras
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回答No.5

No.4です。さらに補足しますと、満州事変を境にした日本人の満州観の変遷がよくわかるのが「満洲讀本」の変化です。この「満洲讀本」は南満洲鉄道の調査機関である東亜経済調査局が出していたので、満洲に関する公的な性格が強いガイドブックと考えることができますが、相当数売れていたようで、現在でも古書店(インターネット上など)でよく見かけます。 満州事変の前は、この地が日露戦争以後、日本が様々な権利を認められた「特別の地」という意識はあるものの、基本的には日本とは異なる独特の文化・習慣がある外国として紹介され、その中で事業を成功させるにはどうすればよいかということが書かれています。 ところが満州事変とこれに続く「満州国」の成立後記述は大きく変わり、ついには次のようになります。当時の多くの日本人の意識としては「問題が解決してめでたしめでたし」だったことが分かります。(以下「満洲讀本」昭和13年版365-6ページ(「第11経済建設工作」)から引用) 以上極めて概括的見通しに映ずるだけの事項としても、我国の利益は満洲建国によって、拡大されたる点が明瞭になるのであるが、さらに今後永続的に遂行されねばならない我対満移民に関しては、一層其の無限の恵福が謳歌される。即ち、旧政権時代に、頑強な障壁に直面して進退谷(きわま)っていた「土地問題」は、新政府によって易々と打開され、我国民は、我国の二倍大の満洲の全領域の随所に於て、土地の所有権を享有すること、国人と何らの差異が無いのである。正に過去数十年間、我国が仰望し来った「土地への要求」の全部は、今こそ微塵ほどの欠くることなく、完全に獲得されたのである。(引用終わり)

goria564219
質問者

お礼

ありがとうございます

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  • staratras
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回答No.4

「手っ取り早い回答」なら、高校の日本史の教科書にあります。 関東軍は参謀の石原莞爾を中心として1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し(柳条湖事件)これを中国軍のしわざとして軍事行動を開始して満州事変が始まった。第2次若槻礼次郎内閣(立憲民政党)は不拡大方針を声明したが、世論・マスコミは戦争熱に浮かされたかのように軍の行動を支持した。関東軍は全満洲を軍事的制約下におくべく、戦線を拡大したため、事態の収拾に自信を失った若槻内閣は総辞職した、(「詳説日本史」山川出版社 2003年文部科学省検定済) ただし、いくつか補足が必要です。まず重要なことは、当初からすべての世論・マスコミが軍の行動を支持したわけではない、ということです。これを端的に示しているのが、橘樸(たちばな・しらき)の「方向転換」です。 橘樸は当時の著名な中国通のジャーナリストで、自分が主宰する「満州評論」という雑誌の昭和9年に発行された「創刊三周年記念号」に「満州事変と私の方向転換」という論文を発表して、事変当時を回顧しています。その冒頭は次の通りです。(以下引用) 満州事変は私に方向転換の機会を与へた。友人の多くはこれを私の右傾と解釈して居るし、この解釈に反対する何等の理由もないのであるが、私自身としてはこの方向転換を、私の思想の一歩前進であると解し、同時に私の社会観に一つの安定を与へたものだとも解して居る。(引用終わり) 橘は当初「朝鮮軍の満州乗り込み」を批判する文章を満州評論に掲載しようとしたのですが、これが没にされ、逆に「事変に対する認識不足」を指摘されてしまいます。そこで10月初めに奉天で板垣征四郎や石原莞爾と会って話を聞いた結果、認識を改めて事変に積極的な意義を認めるベクトルに「方向転換」をしたというのです。 また当時の合法的な(共産党ではないという意味)政党の中に、満州事変をきっかけとした戦争に反対し、事変翌年の1932年1月の総選挙でも、「帝国主義戦争反対」を掲げた無産政党(全国労農大衆党)が存在したことを記さなければ公平さを欠くでしょう。この選挙の立候補者の一人で、戦後日本社会党の委員長になった浅沼稲次郎は、戦後次のように回想しています。(以下引用は青空文庫所収「私の履歴書」(日本経済新聞社から) ついで満州事変直後の昭和七年一月、総選挙が実施されたが、分裂した無産政党の大同団結がなり、全国労農大衆党が結成された直後でもあるので、私も大いに張切った。そのとき私ども全国大衆党の立候補者は“帝国主義戦争絶対反対”をスローガンとしてかかげた。ところが投票前夜に社会民衆党の公認候補馬島※(「にんべん+燗のつくり」、第4水準2-1-93)氏側が「満州を支那に返せという大衆党(浅沼)は国賊である」とのビラを全選挙区にばらまいた。  私も運動員たちもこの選挙は必勝を期していたところであり、投票前夜の意識的な中傷のビラには全く怒ってしまった。そこで演説会を終ると私の選挙運動員は大挙して馬島※事務所を襲撃、大乱闘となり、私の運動員は全員検挙された。残ったのは私と事務長の山花秀雄君(現社会党代議士)の二人であり、この乱闘の結果、私はまた落選してしまった。(引用終わり) 「帝国主義戦争絶対反対」よりも「満州を支那に返せという政党(候補者)は国賊」という訴えの方が、選挙では効果的であったとすれば、考えさせらるエピソードですね。なお社会民衆党は無産政党の中では右派で、選挙後全国労農大衆党と一緒になりますが、合併後の新党(社会大衆党)は次第に右傾化していきます。 橘や無産政党だけでなく多くの日本人とほとんどの政党ついには日本政府が、満州事変をきっかけに「方向転換」をしてしまいました。リットン調査団の報告書は日本側を一方的に断罪するものではなく、将来の満州の地位に含みを残したものでしたが、「方向転換」後の多くの日本人や日本政府にとって受けれられるものではありませんでした。 なお、こうした変遷を知るには、暇なときに図書館などで当時の新聞の縮刷版や雑誌に目を通すことも役に立ちます。当時の新聞・雑誌には検閲があったことを念頭に置く必要はありますが、それでも満州事変直後には、様々な動きや考え方が国内外に存在したことが分かります。それをどう総合的に理解すればよいかを自分で考えることが、「歴史の面白さ」でしょう。

  • oska2
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回答No.3

>「満州事変」もしくは「満州国」を当時の日本人はどのように評価・考えていたんでしょうか? 当時も、肯定的に受け取る方と否定的に受け取る方がいました。 今では信じられませんが、朝日新聞・毎日新聞も「万歳!満州国建国」でしたからね。 否定的だったのは、今も昔も政府と敵対していた共産党。 当時の赤旗には、1円も満州国への軍費を出すな!と記事にしています。 余談ですが・・・。 今では、政府の方針に「対案を出さないで反対するだけの政党」は新日本共産党(旧立憲民主党)・日本共産党だけになりましたね。 新日本共産党委員長の枝野は、わざわざ九州まで出向いて三顧の礼で「旧日本社会党党首に次期総選挙の援助・協力」を求めましたよね。 都議選と同様に、新日本共産党・日本共産党・社民党は結束して選挙を戦う様です。^^; 「反対・辞任しろ・謝罪しろ・任命責任・問責決議案・不信任案」 この6単語を使えば、誰でも国会での質疑が出来ます。 なかなか、自民創価学会連立政権に代わる政党は誕生しない様ですね。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10508/33049)
回答No.2

https://www.yomiuri.co.jp/special/70yrs/main/honsho_1_04.html ここらへんにあるかな。満州事変が勃発したときに朝鮮軍の司令官だったのが林銑十郎(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E9%8A%91%E5%8D%81%E9%83%8E)です。彼は最初の記事やウィキペディアにもありますが、押し切られるような形で部隊を満州に派遣しますが、その独断を当時のマスコミと大衆は「越境将軍」と呼んで熱狂的に支持します。これが後の様々な陸軍の暴走に繋がっていくことになります。 日本陸軍が満州事変後から太平洋戦争にかけて暴走していったのは、石原莞爾や林銑十郎が独断専行したからではないのです。独断専行を大衆が熱狂的に支持したからです。だから「暴走しても国民の支持が得られる」と思ったのです。 もうひとつ、五一五事件というのがありました。海軍若手将校などが政治家を殺すという「軍人によるテロ行為」です。これは本来テロを取り締まる側であるはずの軍人がテロを行うというとんでもない行為なのですが、若手将校らの行動が「国や国民を憂う義憤」に基づくものであり、政治家への不信感が募っていたという背景もあったため日本中で同情論が巻き起こり、異例の軽い処分となりました。 これで「国を想う心と義憤から起きることなら国民が支持してくれる」という考えになり、二二六事件なんかが起きるのです。 これはね、例えば今の日本で仮に誰かが西村経済破壊担当大臣を暗殺したとしたらですよ、どれだけその犯人が批判されるのかなって考えてみると分かると思います。たぶん今だったら感情的に支持されちゃうんじゃないかな。 また満州事変当時は世界恐慌の真っただ中で、日本も経済的に大変な状態でした。なにより日本人が希望を望んでいたんですね。満州の地は日本から見ると広大で天然資源も豊富で、「希望の地」に見えたのです。 当時の日本は天然資源はもちろん、食料でさえ自給できない貧乏国でした。満州の広大で豊かな農地は、食料不足にあえぐ大日本帝国にとっては「希望の大地」でした。 なにしろ当時の日本の人口が7000万人くらいで、アメリカ合衆国の人口が1億1000万人くらいでしたから、国土の広さや資源などを考えると「日本人大杉問題」は深刻だったと思います。

回答No.1

当時の日本国民は「満州事変」を「熱烈に支持していた」そうです。ちょっと前の大正時代の「軍縮ムード」時代には軍人自体が忌み嫌われていたようですけどね(笑)。 http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-e316.html http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-7902.html http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-0759.html

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