- ベストアンサー
満州事変のねらいについて
山室信一さんの著「満州国」の肖像 キメラ」を読んでいて満州事変を起こした石原や関東軍は当初満州を領有する計画だったことを知りました。しかし日本政府と折り合いが合わず、独立国家「満州国」を作ることになったと書かれていました。ここで質問です。独立国家を作るというのは妥協で本当は領有したほうが日本には得だったのでしょうか。というか簡単にいうと関東軍が独立国家を作るより領有したかったのはなぜなのでしょうか。わかりやすく噛み砕いて教えてください!
- 政治
- 回答数6
- ありがとう数6
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
当時の「満州」は中国の版図ではありましたが他の回答者のご回答のように、独立した軍閥が支配して一種の空白地の観がありました。 それに日露戦争の結果、満州鉄道やかなりの権益を所有して植民も行われていました。 鉄や石炭という資源も豊富なのでこれを領有する事を考えたのですが、国際連盟は認めません。 仕方なく傀儡国を作る為清朝のラストエンペラー溥儀を担ぎ出したのです。 「満州国」を建国したのは方便ですから、領有している気持ちで介入し続けました。 当時の関東軍の自由になる予算は日本の国家予算に匹敵する巨額だったといいます。 満蒙開拓団として多数の農民を送り込み現地の住民を追い出して入植地を作りました。 現在のイスラエルのようなものです。 炭坑や製鉄所を開発し物資を日本に送りました。 土地を失った農民は馬賊となって抵抗したので関東軍はこれを討伐しました。 満州国にあった軍閥は中立的立場でしたが関東軍の行動に不安を感じ、次第に反日に転じてきたのでリーダーを暗殺したのが柳条溝事件です。 国際連盟は関東軍の行為と疑い調査団を派遣し調査の結果、関東軍の関与を認めたのですが、日本はそれを認める訳にいかず、国際連盟から脱退しました。 以上が日中戦争直前までのいきさつです。
その他の回答 (5)
- thisaway
- ベストアンサー率29% (35/120)
当時日本は欧米列強との間に「九カ国条約」を結んでいました。 これは、中国を巡る列強九カ国間の取り決めで、中国の主権尊重、領土保全、中国に対する機会均等などを定めていました。 満州の領有はこの条約に反することとなり、欧米列強を敵にまわしてしまうことになります。 なので、日本にとっては傀儡政権を作るしか道は無かったのです。
- shigekomo
- ベストアンサー率39% (38/96)
満州は、漢人から見ても異民族の土地で完全な中国本土とも 言えず、権力空白地帯で軍閥(戦国大名もどき)が支配してました。 日本が満州への影響力を強めようとした理由は 共産ソ連の南下を防ぎ、日本既得の権益(満鉄・資源等)を 守るため アメリカの人種差別的な排日移民法により移民を拒絶され それに代る新たな移民の入植地を得るため といったものです。 ぶん取って領有しなかったのは、国際連盟への手前や、 中国の領土保全・門戸開放を決めた九ヶ国条約のためでしょう。 それでもリットン報告書では文句を言われ、結局日本は 国連を脱退しますが。
- k99
- ベストアンサー率47% (491/1025)
日本は事変以前に10億円(当時)以上の大金をこの地域の開発のために投資していました。石油こそ発見されていませんが鉄や石炭などの戦略資源も地域内には存在しています。また、市場価値もあったでしょうし(当時の目論見ほどはなかったでしょうが)租借地などの「権益」が多数、満州にはありました。当時「満蒙(満州と蒙古)は日本の生命線」などというプロパガンダもありましたし。 こうなったら領有した方が手っとり早いのですが、残念ながら時代がすこし進みすぎていたようで、「権益があるから切り取ってヨシ!」という時代ではもうなかったのです。 そのため、満州国をつくることに。そもそも、伝統的な中国の東端である山海関の外側ですから、まあ、別の国と見てもしょうがない範囲。そもそも領土だの主権範囲だのの概念は決して一様なモノではありません。 石原自身は彼の構想にあった「世界最終戦争」(日本を中心とする東洋とアメリカを中心とする西洋の最終決戦が行なわれ、その最終戦争によって世界は統一され戦争がなくなる、というもの)に対する布石として北方の脅威たるソ連との緩衝地帯が必要と考えていました。そのためのクッションとして満州を想定していたようです。彼自身は民族平等などを訴えていますが、後に後輩の参謀が石原の手法を真似て、統制しようと言う石原を振りきるという皮肉な事態に。 また、日本の国外領土に対する収支は常に赤字であったため、海外領土(朝鮮を含む)を放棄した方が良かったという説もあります(石橋湛山はその一例か)。特に「10億円つっこんで、利益が出ない。もうちょっと突っこめば利益が出る」というのは負けてる博徒が口にする言葉であって、おちつけ、という気がしてくるわけですが。
- m770
- ベストアンサー率21% (140/653)
第一次世界大戦以後「国際連盟」が出来、武力による他国への侵略、併合は禁止されていたと思います。 で、中華民国の誕生で退位していた清国皇帝を担ぎ出して日本の傀儡(かいらい)「満州国」をでっち上げたのだと思う。
関連するQ&A
- 満州事変に関する重大疑問B
昭和6(1931)年9月に南満州・奉天近郊の柳条湖で日本所有の南満州鉄道(満鉄)の線路が何者かによって爆破された(柳条湖事件)。関東軍は、事件は中国軍(張学良軍)の仕業であるとして軍事行動を起こし、たちまち南満州のみならず、(ソ連勢力下の)北満州をも制圧してしまった(満州事変)。満州事変の結果、満州国が樹立された。 ところで柳条湖事件については、関東軍の板垣征四郎高級参謀や石原莞爾作戦主任参謀らの将校たちが満鉄線路を爆破を計画したと言われます。しかし戦後の東京裁判では、板垣征四郎は満州事変の首謀者として起訴されて死刑になりましたが、同じ首謀者の石原莞爾が起訴されませんでした。なぜでしょうか。病気だったからですか。
- ベストアンサー
- 歴史
- 満州事変 どちらの記載が本当なのでしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%AD%A6%E8%89%AF 満州事変 張学良 1931年に入ると満州でも左派勢力に煽られた抗日運動が活発化し関東軍や在満 邦人の強い反発をかっていた。関東軍が満州への武力侵攻を決め、軍を続々と 集結させているときはいつもの軍事演習だと思い、何の対策も取らなかったと 言う。満州事変が勃発した時、彼は北京にいたが、日本軍侵攻の報告を受ける と日本軍への不抵抗を指示した。応戦すれば日本の挑発に乗ることになると判 断したことや平和解決を望んだということ、日本にとって国際的な非難を浴び るなど好ましくない結果をもたらすだろうと考えたということを当人はNHKの取 材で述べている。 とあります。また・・・ http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/37350760.html 満州事変は関東軍の暴走ではない。関東軍は、満鉄の守備など日本の権益 を守る警察の任務を担っていた。 1万人の警察(関東軍)が、日本権益を侵 害していた30万人の武装盗賊(張学良軍)を追放するには、柳条湖事件の ような作戦が必要だった。したがって、日本政府は、事後であっても、関 東軍の警察行動を承認した。決して関東軍の暴走ではない。次に、満州の 武装盗賊を追放したのは関東軍(警察)だが、満州国を建国したのは日本 ではなく溥儀をはじめとする満州人たちだった。 とあります。がどちらが本当なのでしょうか? 武装盗賊が左派勢力なのかどうか分かりませんが、彼らは ただの「小競り合い」をしていたのでは・・・?? 軍隊を越境させたわけではないのでは・・・? 私は、満州事変は、侵略とはまでは言えないと思っています。 パリ不戦条約は事実上法的有効性が薄いと思うし、主権国家への 攻撃ではないので・・・ けど、林銑十郎越境将軍の独断による軍の国境越えは やはり、暴走とまではいかなくても、 とがめられてしかるべきで軍の独断による越境であり、 自衛でもないと思うのですが・・・ また、満州国を建国したのは溥儀等であっても そのような傀儡政権を創らせたのは、日本人なのではないか? 当時の戦略からして現地人に国を創らせた方が、上手に侵入できることは 当然であっただろうから・・
- ベストアンサー
- 歴史
- 満州事変に関する重大疑問A
昭和6(1931)年9月に南満州・奉天近郊の柳条湖で日本所有の南満州鉄道(満鉄)の線路が何者かによって爆破された(柳条湖事件)。関東軍は、事件は中国軍(張学良軍)の仕業であるとして軍事行動を起こし、たちまち南満州のみならず、(ソ連勢力下の)北満州をも制圧してしまった(満州事変)。満州事変の結果、満州国が樹立された。 ところで柳条湖事件については、関東軍の板垣征四郎高級参謀や石原莞爾作戦主任参謀らの将校たちが満鉄線路を爆破を計画したと言われますが、関東軍の最高責任者だった本庄繁総司令官は、この計画について、事前に承認を与えたのでしょうか。それとも、何も知らなかったのでしょうか。
- ベストアンサー
- 歴史
- 満州事変の被害
はじめまして。 今、興味本位で満州事変前後の出来事を調べているのですが、そもそも満州事変の被害がよくわかりません。 ことの発端となった(柳条湖事件)は、日本軍が南満州鉄道を爆破し、そこから満州事変がはじまったということはわかったのですが、爆破はごく小規模な日本軍の自作自演だったとありました。 一通り調べてはみたのですが、どんなことがあったのか、ということは書いてあっても、実際の被害はよくわかりませんでした。 また、日本側の意見しか見つからなかったのですが、中国側からはどのように感じていたのでしょうか。 学校で習えなかったので、初歩的な質問かもしれませんが、よろしくお願いします。
- 締切済み
- 歴史
- 満州事変について
自分は現在高校で近現代史を習っている者です。 最近満州事変のあたりを勉強していて、疑問に思ったことがあったのですが、学校の先生にはなかなか聞き辛いことですので、こちらで質問いたします。 元々自分は学校が教える歴史をほとんど信用していません。例えば秀吉の朝鮮出兵や、大東亜戦争についてなどです。学校では満州事変~日中戦争関東軍の暴走として教えられているのですが、今回も捏造された歴史なのではないかと疑っているのですが、ちょうどその部分を肯定?する物を読んだことがありません。関東事変は、学校で教えているように、軍部の暴走だったのでしょうか? みなさんのご意見をお聞かせください。
- ベストアンサー
- 歴史
- 満州事変の動きについて
1931年9月 柳条湖事件(満州事変のはじまり) 1932年3月 満州国建国宣言 1935年 塘沽停戦協定(満州事変終了) (1)満州事変が始まってから終了まで、関東軍はどのよ うな動きで東三省・興安・熱河省を占領していった のか (2)政府は柳条湖事件のときには、不拡大方針をだして いたはずですが、どうして、日満議定書(1932年) などを交わして満州国を承認するような方向にいっ てしまったのか (3)多少の歴史知識はあります。満州事変のあたりの中 国の情勢がわかる本を教えてください。 以上、このあたりの経過を知りたいです。多少マニアックな説明の方が助かるのですが、どなたか詳しい方、教えていただきたいです。よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 歴史