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満州事変のねらいについて

山室信一さんの著「満州国」の肖像 キメラ」を読んでいて満州事変を起こした石原や関東軍は当初満州を領有する計画だったことを知りました。しかし日本政府と折り合いが合わず、独立国家「満州国」を作ることになったと書かれていました。ここで質問です。独立国家を作るというのは妥協で本当は領有したほうが日本には得だったのでしょうか。というか簡単にいうと関東軍が独立国家を作るより領有したかったのはなぜなのでしょうか。わかりやすく噛み砕いて教えてください!

noname#14975
noname#14975
  • 政治
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  • ss79
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回答No.5

当時の「満州」は中国の版図ではありましたが他の回答者のご回答のように、独立した軍閥が支配して一種の空白地の観がありました。 それに日露戦争の結果、満州鉄道やかなりの権益を所有して植民も行われていました。 鉄や石炭という資源も豊富なのでこれを領有する事を考えたのですが、国際連盟は認めません。 仕方なく傀儡国を作る為清朝のラストエンペラー溥儀を担ぎ出したのです。 「満州国」を建国したのは方便ですから、領有している気持ちで介入し続けました。 当時の関東軍の自由になる予算は日本の国家予算に匹敵する巨額だったといいます。 満蒙開拓団として多数の農民を送り込み現地の住民を追い出して入植地を作りました。  現在のイスラエルのようなものです。  炭坑や製鉄所を開発し物資を日本に送りました。 土地を失った農民は馬賊となって抵抗したので関東軍はこれを討伐しました。 満州国にあった軍閥は中立的立場でしたが関東軍の行動に不安を感じ、次第に反日に転じてきたのでリーダーを暗殺したのが柳条溝事件です。 国際連盟は関東軍の行為と疑い調査団を派遣し調査の結果、関東軍の関与を認めたのですが、日本はそれを認める訳にいかず、国際連盟から脱退しました。 以上が日中戦争直前までのいきさつです。

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  • thisaway
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回答No.6

当時日本は欧米列強との間に「九カ国条約」を結んでいました。 これは、中国を巡る列強九カ国間の取り決めで、中国の主権尊重、領土保全、中国に対する機会均等などを定めていました。 満州の領有はこの条約に反することとなり、欧米列強を敵にまわしてしまうことになります。 なので、日本にとっては傀儡政権を作るしか道は無かったのです。

  • shigekomo
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回答No.4

満州は、漢人から見ても異民族の土地で完全な中国本土とも 言えず、権力空白地帯で軍閥(戦国大名もどき)が支配してました。 日本が満州への影響力を強めようとした理由は 共産ソ連の南下を防ぎ、日本既得の権益(満鉄・資源等)を 守るため アメリカの人種差別的な排日移民法により移民を拒絶され それに代る新たな移民の入植地を得るため といったものです。 ぶん取って領有しなかったのは、国際連盟への手前や、 中国の領土保全・門戸開放を決めた九ヶ国条約のためでしょう。 それでもリットン報告書では文句を言われ、結局日本は 国連を脱退しますが。

  • k99
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回答No.3

 日本は事変以前に10億円(当時)以上の大金をこの地域の開発のために投資していました。石油こそ発見されていませんが鉄や石炭などの戦略資源も地域内には存在しています。また、市場価値もあったでしょうし(当時の目論見ほどはなかったでしょうが)租借地などの「権益」が多数、満州にはありました。当時「満蒙(満州と蒙古)は日本の生命線」などというプロパガンダもありましたし。  こうなったら領有した方が手っとり早いのですが、残念ながら時代がすこし進みすぎていたようで、「権益があるから切り取ってヨシ!」という時代ではもうなかったのです。  そのため、満州国をつくることに。そもそも、伝統的な中国の東端である山海関の外側ですから、まあ、別の国と見てもしょうがない範囲。そもそも領土だの主権範囲だのの概念は決して一様なモノではありません。  石原自身は彼の構想にあった「世界最終戦争」(日本を中心とする東洋とアメリカを中心とする西洋の最終決戦が行なわれ、その最終戦争によって世界は統一され戦争がなくなる、というもの)に対する布石として北方の脅威たるソ連との緩衝地帯が必要と考えていました。そのためのクッションとして満州を想定していたようです。彼自身は民族平等などを訴えていますが、後に後輩の参謀が石原の手法を真似て、統制しようと言う石原を振りきるという皮肉な事態に。  また、日本の国外領土に対する収支は常に赤字であったため、海外領土(朝鮮を含む)を放棄した方が良かったという説もあります(石橋湛山はその一例か)。特に「10億円つっこんで、利益が出ない。もうちょっと突っこめば利益が出る」というのは負けてる博徒が口にする言葉であって、おちつけ、という気がしてくるわけですが。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD
  • yetinmeyi
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回答No.2

柳条湖事件(満州事変勃発)

参考URL:
http://www.c20.jp/1931/09ryujo.html
  • m770
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回答No.1

 第一次世界大戦以後「国際連盟」が出来、武力による他国への侵略、併合は禁止されていたと思います。  で、中華民国の誕生で退位していた清国皇帝を担ぎ出して日本の傀儡(かいらい)「満州国」をでっち上げたのだと思う。  

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