比較の良くない理由とは?

このQ&Aのポイント
  • 比較することが一般的に良くない理由は、環境や競争意識の影響による価値観の変化や偏り、自己評価の低下などが挙げられます。
  • 環境によっては比較を行うことで、自己肯定感や幸福感が低下し、ストレスや不安を感じることがあります。
  • また、比較することで他者との関係が悪化することもあります。自己と他者を比較するという行為は、互いの違いや差異に目を向けることで、対立や嫉妬の感情を生むことがあります。
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比較について

「質問」ですが、誰か比較することが一般的に良くない理由を教えて下さい。 長文になります。 比較の何が良くないことなのかが理解出来ないです。勿論、悪い面だけではないことは承知しています。 理解し難い理由が二つあります。 まず、環境です。他人とくらべてはいけないとよく言われるけど、皆さんも同じように、いままで誰だって比較されて生きてきた訳じゃないですか。学校、塾、プライベート限りがありませんが、その価値観をどうやって変更出来るのか不思議なんです。 何故なら、私達はたとえ些細な事でも競争意識を燃やして、誰かに打ち勝つ為に頑張ってきました。受験だって部活の大会だって芸術作品だって何だって比べ比べられて意識を高めながら自分を高めてきたからです。 中学から高校生の時は、一回落ちぶれれば二度と這い上がることは不可能だという洗脳紛いのことを言われ続けて、あっというまに兵士色に染められるものじゃないですか。その後急に比べる必要はないという考えに至る筋道を一切想像出来ません。 駄目なんです。多様性、オンリーワン、人間性の高さ、価値観の変更を「負けた人」として認識してしまいます。自分含めて。競争意識が高いからかもしれません。 それは、「付加価値」がある人が人間性が高いと言う考え方をしているからで、逆の場合はほぼ意味がないじゃないですか。人間性が高くても経済的に余裕がなければ意味なんてありません。 そして、多様性、オンリーワンなんて「嘘」じゃないですか。SNSの普及などで、比較対象がさらに細部化され、さらに行きにくくなっただけだと思います。 纏めると、競争意識という凝り固まった考えを急に変えることは至難だと思うから。 次に自分の事です。 環境の違いがあるかもしれませんが、私は生まれた時からずっと競争意識を高める場所に置かれていました。また、自分が嫉妬深く劣等感が高い人間でした。 そして、決定づけたのが祖父と曾祖父の存在で、小さい頃から優秀で、よく祖父から話を 物心ついた時から話されました。 祖父は英語が非常に上手いです。特注があったり、翻訳や大学で英語を教えていました。曾祖父は海軍で非常に優秀な方だったそうです。 こんな大きな存在が身近にいるとどうしても執着してしまいます。誰だってそうじゃないでしょうか。 でも、私は彼らみたいなスペックは持ち合わせてないのに、プライドだけが肥大化したゴミみたいな人です。 私の場合、祖父に認めてもらう為に、届かない雲の上だとしても、それでも足掻いて足掻いて、並びたい。今現在は大学受験で失敗して、失望されていますが、それでも見返したい。 私がどんなに無謀だろうと、傲慢であろうと、彼らに届きたい。無理だと分かっていても彼らと同じ実績が欲しい。いや、手に入れなければいけないんです。 もう、自分じゃなくてもいい。自分以外の何者かでも構わないです。自分なんてどうせ「建前」で生まれてきた存在です。自分を捨ててでも届くことが出来たなら万歳です。 「死にたい」という気持ちを捨てたからにはどうしても執着し続けてたいんです。 四股が欠ければ口で、口が欠ければ目で目が欠ければ気迫で抗いたい。死んでも化けて出てきて地獄の底まで引きずり落としてやるくらいの執念を持ちます。 自分に対する「未来の可能性」を捨てたくないんです。何故なら彼らの子孫だからやれるに決まっている。また、そういった期待とプレッシャーがかけられているから。 だから私は諦めたくないです。たとえ、可能性なんて無くても模索し続けてたいんです。 だって、私は始めから劣っているから劣っている人として生きろと言うのですか?弱い人は泣き寝入りするしかないの?劣っていれば、虚な目で輝く人を見なければいけないのでしょうか。そんな事は絶対に「嫌」です。 全てを否定してしまうと、「じゃあ私は何のために生まれてきたの」と考えてしまいます。 彼らを打破する為に生まれてきた「機械」が何もなし得ないなんて周りからすれば、惨め以外の何者でもないから。 正直、生きにくいです。苦しいです。何かに取り憑かれたような気分になりますが、それでも仕方ないです。 妥協点があるとしても、比較する事をやめるのは彼らを見返た後でもいいのではないかというのが考えです。 今はこういう考え方しか出来ないです。 以上が理由ですが、改めて誰かと比較することが一般的に良くない理由を教えて下さい。

みんなの回答

回答No.6

   こんばんは        何かをする為には 苦しい思いをするのが               当たり前だと 強く云う人が居ます。                確かに それは ある物ですが          苦しい思いをせずも 成る物であれば        そんなに 苦しい思いをする必要は無い物です          「苦しみを 耐え 乗り切る事」                 と          「苦しみから 離れる事               そして 乗り切る事」                   ある物です                  苦しみを耐え続けても 解決しない事もある物です       これを すれば 解決すると 思わされている事により       それを 強く信じ 自分でも 強く信じてしまう事で            本当の物が 見えなくなる事            (例えば 「本当の 答えは S なのですが」        それを 知っていても 知らずも      「本当の答えは N だけだと 信じ込んでしまう事」      それ以外は 間違いで それだけが 正解だと思う事               Nも答えの場合          Nを 一生懸命するだけで良い物と成ります       けれど N より S の方が              よい物の場合があるケースの場合                 や         N ではなく S だけが 正解の場合                  等の可能性がある場合                 色々と 書いてしまったのですが            「苦しみから 抜ける事」          「何かを 解き 乗り超える事」          「何かを 解けずも 乗り切る事」              あると思います。           【苦しみから 離れる事】                     自由に成る事          明るく 自分らしく 生きること              本当の幸せ              本当に 自分が 望む道             自分で 考えてみてください                                   

回答No.5

   こんばんは           比較する事の 〇×              あると思います。       比較してはいけないのは ×があるからです                   (×の部分です)            例えば      比較して 飛躍出来るのであれば それは よし      しかし      比較して 何かが 悪く成る様であれば 悪い          (過程や結果等)          よき事はし 悪き事は しない事です       自分が 望む事は           本当に 望むのであれば                努力をし 達成する事です        注意点は Aの方法は 普通に 努力する事             Bの方法は Aの方法と 比べると             (効率が悪いもの、非合理的である物等)             苦労も努力も 何倍も必要になる物      (それなのに 成功しない、成功しても 疲れ果てる等)            こう云う物も ありますから              よく 考える事です。              人に 騙されない事              人から 離れる事              人と比べる事をせず              自分で 歩んで行く事です                  ↓                        自分次第                  ↓            今 望む道を 歩む事をするもしないも、            その結果が、よくても、悪くても、                       等            する前からでも 答えは ある物です          事に臨むのであれば 出来る事なら       自分の状態を よい状態に 整えてから 望む事です            真→ 例えば         自分が 本当に 望んで居る事は 何なのか 等        人の 幸、不幸は             (他人や世間が云う事だけなのか)            誰が どう 決める事なのか          自分自身の 本当の 思想、心 は       自分自身で 本当に きちんと 見えているのか            準備→整える事→「形」            自分自身の事、その他の事           一つ一つ、、、、、、、全て 見えているのか                    全てが 見えて居なくても           きちんと 歩んで行ける物だけれど          いずれにせよ 今のままで いいのか                等 あると思います。         答えは これしかない          でも 本当に そうなのでしょうか                      等もある物です          一度 何かから 離れる事          そして もっと 広い視野                  色々な角度から                物事を 見つめる事                 等で 何かに 気づける事                        見つける事                     等 あると思います。             がんばってください                                                                                                            

  • tuyosik
  • ベストアンサー率4% (130/2728)
回答No.4

傲慢にならない、謙虚に、競争しない、協力する、自分に勝つ、落ち着く、決めつけない、柔軟に、ふさわしく、すべて因縁で変わる一時的な現象、私の思い通りにならない、嘘つかない、執着しない、軽快に、うまく、理性で、自分ではない、心と体、自分はいない、何者でもない、無我。生滅する。嫌にならない、生は苦、死も苦、生に死ある。生老病死。と思います。生活する。解脱する。

  • tuyosik
  • ベストアンサー率4% (130/2728)
回答No.3

私と比べない、ありのままに知る、今ここ自分に集中する、気づく、精進する、欲張らない、与える、嫉妬しない、ほめる、怒らない、慈しむ、ちゃんとまっすぐ、確信する、混乱しない、妄想しない、客観的に、と思います。

回答No.2

話の前提が間違っていると頓珍漢な答えになる典型でしょうか。比較は悪いことではありません。比較は悪くない、良い側面もあると言う前提で考え直してみて下さい。経済用語ですが、比較優位と言う言葉もありますからね。

  • togurin
  • ベストアンサー率45% (81/180)
回答No.1

あなたが他者の考え方と自身の考え方を理解して「比較」の解釈を正しくできていないからでしょう。 比較で負ける人の可能性や気力のようなものを潰すことをよしとしているのではないでしょうか。 もちろん、それは建前で例えば一例ですが統計的に良い大学に入れば良い年収になると誰もがわかっていることです。 よってその逆に大学に行かなくても成功する人はいるという話が出てくるだけで、統計的に見ましょう。 良い大学に行った方が年収が良くなる可能性が高く金銭的な判断として幸福になれると言う意見への反論が「比較」に対する反論なのでしょう。 比較により幸福=年収や地位ではないと言わなければ世の中成り立たないでしょう。 お金や地位がなくても幸せだと思わなければやっていけない人もいますし、本当にそう考えている方もいるので一概には言えないのだと思います。 その辺りを理解できればもっと達観できるのではないでしょうか。 あなたのような人がなぜこのような疑問をもつかが疑問です。

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