• ベストアンサー

壇ノ浦の戦い

壇ノ浦の戦いで源氏方と平家方の兵力を船の単位でなく、人員の兵力でだすと双方の兵力はどれくらいですか?おおよそでいいです。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • oska2
  • ベストアンサー率45% (2195/4859)
回答No.2

>人員の兵力でだすと双方の兵力はどれくらいですか?おおよそでいいです。 実は、誰にも分からないのです。^^; 平家物語では、源氏方3000艘・平家方1000艘となっています。 吾妻鑑では、源氏方840艘・平家方500艘となっています。 1艘について、非戦闘員の水主1人+戦闘員3名で計算して下さい。 余談ですが・・・。 平家の水軍が敗退したのは、別に海流の変化ではありません。 義経の「卑怯な戦法」が、勝敗を決めたのですね。 当時、非戦闘員に対しては兵は攻撃をする事は卑怯な事(武士にあるまじき行為)として行われませんでした。 が、義経は「まず、非戦闘員の水主を攻撃」して「平家方の舟の動きを止めた」のです。 船上で身動きが出来なくなった平家を、源氏は攻撃し勝利を得たのです。 源氏の棟梁であった頼朝は、(卑怯な勝ち方を)怒った様ですよ。 まぁ、死ぬか生きるかの狭間での戦闘です。 手段を選ぶ事は、無意味なのかもしれませんね。 保元の乱でも、卑怯な戦いで崇徳側は敗れています。 「敵に対して、夜襲をかけましよう」 「否、夜襲は卑怯な戦いだ」 後白河天皇方は、ためらわず崇徳側に対して夜襲をかけます。 正攻法での戦いを考えていた崇徳軍は、壊滅しました。

cma79458
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 平家が滅亡時の最後の兵力はどれくらいか気になってました。 海上での合戦はなかなか、調べようがないので。 当時の文献でもどれくらい正確性があるのか「?」ですから。 いつか分かる時があればいいのですが。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (2)

回答No.3

皆さんが仰る通り実は分かっていません。 有名なのは義経が指揮する海戦ですが、陸からの範頼は「源平盛衰記」によると3万余騎とあります。 なので多くて源氏側4万くらい、平氏側5千くらいでしょうね。 よく創作で言われている「卑怯な戦法」は当時そんなルールは実は無かったという説があります。 実際は補給線が絶たれた平氏側の矢が尽きてしまって、反撃ができず海はもちろん陸からのも矢の雨だったそうです。 戦なので水夫を避けて矢を射るなんてことは物理的にも出来ません。 「平家物語」では水夫を射るという描写は無く、敵船に乗り込んでの戦いだったそうです。

cma79458
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 言えるのは平家の兵力は源氏と比べて劣勢だったんですね。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • cactus48
  • ベストアンサー率43% (4480/10310)
回答No.1

壇ノ浦の戦いは源氏と平家の戦いで、平家が滅亡したと言われています。 ある記述によると源氏は約830隻で平家が約500隻だと言われていま す。戦い中に源氏側の約300隻が寝返って戦いから離脱したとも言われ てます。これだと五分五分ですが、源氏の方は陸上に約3万の兵がいたと 書かれていて、陸から弓で応戦したと書かれています。 源氏が勝利したのは、陸からの応戦があったからと思います。 大体これなら自分で兵力は計算できますよね。後は任せます。

cma79458
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 あとは勝手に想像してます。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 壇ノ浦の戦いで源氏はどうして舟戦をいどんだのでしょうか?

    壇ノ浦の戦いは海での舟いくさとなりました。 この戦いは舟に慣れている平家に有利です。 どうして源氏側は、不利な戦いをいどんだのでしょうか? よろしくお願いします。

  • 壇ノ浦の戦いのとき、どうして天皇は同船していたのか?

    源平最後の決戦の壇ノ浦の戦いに関する質問です。 平家物語によると、このころ平家は関門海峡の彦島を根拠地として、おおかたは船で暮らしていたそうです。 「矢合わせが、三月二十四日に決まった」とありますから、開戦日が決定していたようです。 天皇は家族や女官たちとともに唐船に乗っていたそうですが、 この唐船はとても大きくて、真っ先に敵の目標になることが わかっていました。 (そこを小船で挟み撃ちにしようというのが平家の戦略です) どうして戦場の真っ只中に天皇がおり、かつ敵の目標となる船に乗っていたのでしょうか? リスクが大きすぎるます! 陸で待機しなかったのは何故なんでしょうか? 婦女子が戦場にいるのは珍しいと思います。 もうひとつ質問。 当時の決戦では、いついつに合戦をはじめましょうと、あらかじめ矢合わせの日にちを決めていたのでしょうか?

  • 壇ノ浦の戦いで生き延びた平家の武将。

    壇ノ浦の戦いで生き延びた武将はいるのでしょうか? 確実に分かってるのが平宗盛父子と平時忠だと思いますが。 平家の落人の伝説ではそれ以外でも生き残りはありありですね(;^_^A

  • 壇ノ浦の戦い後の平家の女性の遊女化等

    平家物語の中で不思議に思った事をいくつか質問させて下さい 1・壇ノ浦の戦い後、生き残った女性達が下関で遊女化したという伝説について 1-1まず、どうして生き残ったのか不思議です。入水したのに、どうして多数生き残っているのでしょうか?一応下関の方が助けたとかいう事になってますけど、場所は戦場!間に合いませんよね 1-2なぜ、平家の女性達は、生き残った後殺されなかったのでしょうか?子どもを産むと不利益にしかならないのは源氏も分かってますよね 1-3生き残った遊女化した平家の女性はどのような遊女生活を送ったのでしょうか?(文献等あれば教えて下さい。一応、毎年安徳天皇の墓参りに行った、上座に座って接待した(わちゃですね)という文献だけは見つけました) 2  生き残った女性の中でも徳子について 2-1どうして殺されなかったのか本当に不思議です。源氏の武士に助けられたって事になっていますけど・・・(武士の情け?尼になったから?) 文献等紹介していただけたら嬉しいです。宜しくお願い致します

  • 壇ノ浦の場所

    お世話になります。 文学、歴史、地理のどのカテゴリに質問させていただくのがよいか、悩んだのですが、平家物語にお詳しい方がご存知なのかなと思い、こちらに質問させていただきます。 ”壇ノ浦の戦い”の壇ノ浦とは下関付近のことだとずっと思っていたのですが、”屋島の合戦”の香川県屋島のすぐ近くにも壇ノ浦という場所があり 「源平の古戦場」http://www.h4.dion.ne.jp/~yashima/dankorei.htm とされているのを知りました。 ひょっとして、下関までの内灘をかつてはすべて壇ノ浦といったのでしょうか? もしや屋島山頂から下関の壇ノ浦まで見通すことはできませんよね・・・? (すみません、関東の者なので。でも地図から見ても愚問ですよね・・・) 安徳天皇が入水されたのは、下関の方でいいのですよね・・・?

  • 一の谷と屋島の戦いの有名なエピソードは?

    源氏と平家の一の谷と屋島の戦いの屏風絵を持っているイタリア人から色々教えて欲しいといわれているんですが、無知なものですから教えていただきたいんです。色々サイトで調べているんですが、話が多すぎて説明するのにもまとまりがつきません。けれどあまりに大まかなあらすじですと、もってらっしゃる屏風絵と照らし合わせ見てみる楽しさがありません。ですので有名なエピソードを絵と照らし合わせながら細かく説明しようかと思っているんですが、とにかく一番有名なエピソードを一の谷と屋島の戦いで5個づつほど上げるとしたら、何になるんでしょう?参考になるサイトでもかまいませんので、どうぞよろしくお願いします。

  • 稲生の戦いについて質問です

    稲生の戦いは、兵力の面からみると圧倒的に信長方が不利だったと思います。それなのに、どうして信長方が勝利する結果となったのでしょうか? 考えられる勝因を教えてください。

  • 平家物語、どう思う?

    平家物語の一部なんですが、これについてどう思いますか? 下にあらすじ書きます。蛇足です。すみません。 源氏と平氏の戦いは一旦終わり、源氏軍は陸へ、平氏軍は船上へ帰った。 そこで平氏軍の人が、源氏軍に『この扇を射抜いてみよ〜』的なことを言う。 その扇は船の上にあり波もあって霧もある、しかも距離も相当ある。最悪の状況。 源氏はそれにノって、源氏軍の中で一番と言われる弓の使い、与一にやれと命ずる。 その騒ぎに何事かって思った両軍がぞろぞろと集まる中、与一は見事扇を射抜く。 それを称えた平氏軍の1人の男が船に出てきて、舞い踊る。 だが、源氏の命令により与一は男の首を落とした。 この舞踊りに来た男についてどう思いますか? 与一が射抜くのは本当にすごいことです。それを称えようと踊ったのに殺されて可哀想だと思いますか? それとも戦場なのに安易に出てきたバツだと思いますか? 率直な感想を聞きたいです。

  • 両家ともに二つの家紋

    代々、家紋に裏と表があります。 普段は表家紋を使いますが、親族のみの場では裏家紋を使います。 裏が本当の家紋です。 これは壇ノ浦から落ち延びた平家であるため、源氏から逃れるための身分隠しが理由であったと聞きました。 これは納得できます。 しかし、源氏側にも表裏があり、これも身分隠しだと聞きました。 かつて、他家の家紋と見間違われて襲われた経緯から、家紋を隠したのだと聞きました。 この、源氏側の表裏の理由がイマイチ納得できません。 かなり特徴的な家紋であり、見間違うような家紋とは思えないからです。 第一、苗字まで偽ってきた平家と違って源氏側は堂々名乗っていますし。 家紋だけ偽る意味が、理解できません。 そこで質問させて下さい。家紋の表裏って、よくある事なのでしょうか。 ご存知の方、いらっしゃいましたら教えて下さい。

  • 東国の源氏、西国の平氏?

     鎌倉時代前でしょうか、 東国の源氏、西国の平氏という言い方がされると思います。  まず、 935~941年の承平・天慶の乱で、 平氏は、平将門が下総で国士を追放し、 他方、瀬戸内海の海賊を率いた藤原純友を源経基(つねもと)らが討ったのが、 武家の台頭のきっかけだと認識しています。  しかし、その後、 「東国の源氏、西国の平氏」と言われるようになったのは、なぜでしょうか? 1031年、平忠常の乱(1028年)を源頼信が降伏させ、関東の平氏が衰退したとの情報にも接しましたが。 源経基の子孫が、東国に移動していったのか、別の清和源氏が東国にいたのか、 そして、いずれにしても源氏が平氏を関東から追い出し、 伊勢に逃れた平氏が平家になり、今度は平家が源氏を京都における平治の乱で破り、 最後に、源氏が平家を壇ノ浦で破る・・・ 地理的に理解できないところです。  ご存じの方、よろしくお願いします。