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南雲忠一

南雲忠一中将ってなんで評価がよくないのですか? 開戦前はすごく能力を発揮していたみたいですが、開戦後は覇気がなくなり元気がなく彼が関わった作戦は負けてしまいます。 けど、これは南雲さんだけの責任ではないし、むしろ対英米に勝てることなんてないとわかっていて冷静な人だったんではないですか? 最後はサイパンに行かされて亡くなってしまいます。 サイパンに赴任する前も今度は帰れないと言っていたようですし、あの当時冷静に戦争を見ていた人だと思うんですが。 ご意見お聞かせください。よろしくお願いいたします。

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  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (812/3033)
回答No.4

>南雲忠一中将ってなんで評価がよくないのですか? 軍神山本五十六を悪く言うこともできない、結果ミッドウェー敗戦は南雲中将の責任と扱われたといった感じでしょう。 本来は真珠湾が山本五十六の功績であればミッドウェーもまた山本五十六の失敗なのですが。 彼を個人的にどう見るかというと、凡庸の一言、特別問題があるわけじゃないんですよね。普通に指揮をとって作戦通り真珠湾で勝ち、ミッドウェーで負けてる。ミッドウェーで即時出撃させず兵装転換させたのが致命的といわれてますしそれも事実、でも彼の幕僚も誰も異論を挟まず疑問も持たなかったので当事の判断としておかしかったわけでもない。ミッドウェーの戦訓後は間違いの典型ではあるのですがそれは歴史のあとだしジャンケンです。 若き水雷戦隊指揮官時代は勇猛果敢、それが虎の子の機動部隊司令長官となると慎重で臆病。航空戦が専門外だからといわれますしそれも一要因でしょうが、虎の子唯一の主力部隊を率いる立場としては一般論としてたぶん臆病なくらいが正しいんですよ。 特別高く評価されるべきでも低く評価されるべきでもない、組織の歯車として普通に勤めを果たした平均的な将官なのではないでしょうか? 将官が歯車でいいのか?という点と彼に仕えた周りの部下の評価が芳しくないのがいささか減点要因でしょうか? >むしろ対英米に勝てることなんてないとわかっていて冷静な人だったんではないですか? そうでしょうね、それでも軍人は国を守って死力を尽くして戦わないと。

hn040430
質問者

お礼

わかりやすく教えて頂きありがとうございます。南雲さんの見方が変わりました。ありがとうございました。

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その他の回答 (3)

回答No.3

No.2の eroero4649 さんの回答が当時の状況をかなり正確に、かつ分かりやすく解説されているので、私も同意します。 そこでご質問の最初に戻って、なぜ南雲中将の評価が良くないかですが、結局はミッドウェーの負けっぷりが余りにもひどかったからでしょう。 実際には真珠湾攻撃の後、南方でニューギニア・オーストラリア・インド洋と転戦して、僅かな損害で多くの戦果を挙げています。本来ならこれらの戦果も評価されてしかるべきなのですが、ミッドウェーで帳消しどころか大幅なマイナスになってしまったからでしょう。

hn040430
質問者

お礼

ありがとうございます。ご意見勉強になりました。

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  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10541/33135)
回答No.2

>むしろ対英米に勝てることなんてないとわかっていて冷静な人だったんではないですか? だったとしても、手を抜いていい立場ではありません。一軍を任され、20代の青年たちに死んで来いと命令する立場です。「俺ァ最初から勝てねえと思っていたよ」なんて言い訳が許される立場ではありません。 南雲提督の限界は、航空戦(空母戦)というものを最後まで理解していなかった点にあるでしょうね。実際の作戦で彼が指導的役割をこなしたことは一度もありません。参謀の草鹿龍之介は「南雲さんは何をいっても『うむ、よかろ』といって一度も反対されたことはなかったが、それが物足りなく感じることもあった」と後に述べています。南雲提督が参謀の言葉に全て従ったのは、自分は航空戦というものが理解できなかったからだと思います。 「素人が、偉い立場になったのか」と思うかもしれませんが、それは今も変わりません。ついこないだも、内閣のサイバーセキュリティ戦略副本部長になったある政治家は「自分はパソコンも触れないしスマホも持っていない」と公言して話題になりました。オリンピック大臣もやったあの人です。海外のメディアから「パソコンを使っていないのは最強のセキュリティ」と皮肉られました。 ではなぜ南雲提督が空母機動部隊の司令官になったのかといえば「そういう人事の順番だったから」なのです。日本の組織ってそういうものでしょ。 現代でも、A銀行とB銀行が合併したら頭取は旧A銀行と旧B銀行の出身者から交互に出すなんてことをやっています。日本の組織では、キスカの奇跡の撤退作戦を成功させた木村昌福提督やルンガ沖夜戦で活躍した田中頼三提督のような人を抜擢することはできないのです。現代でもバラエティ番組でさえ「東大卒のクイズ王」なんて、学歴が重視されるじゃないですか。 以前の山本五十六への回答で、質問者さんは「もっとまともな作戦をやっていれば」とおっしゃっていましたが、まともな作戦をやっていたら、もっと終戦は早かったでしょうね。まともにやっていたら、もっとボロ負けしていましたよ。もっとも、そっちのほうが国民の犠牲は少なかったかもしれません。 当時の常識である戦艦で比較すれば、日本海軍が保有する戦艦は長門型の2隻と伊勢型の2隻(他に大和型が建造中)で、扶桑型(2隻)は当時でも時代遅れでした。結果として戦争で一番活躍した金剛型は「巡洋戦艦」と呼ばれるタイプです。 一方のアメリカ海軍は、コロラド級が3隻にテネシー級が2隻にニューメキシコ級がペンシルベニア級が2隻の合計7隻です。他に日本の扶桑型に相当する当時でも時代遅れの戦艦が4隻あります。これは太平洋と大西洋の二つに分けなければならないですが、大西洋にはアメリカの脅威になる海軍はありません。ドイツ海軍はUボートだけだし(戦艦は爆雷を積んでいません)、イタリア海軍はジブラルタル海峡は突破できない。もし真珠湾奇襲で戦艦を潰していなければ、戦艦同士の艦隊決戦で日本海軍は敗北していたでしょう。「なあに、日本には大和と武蔵がある」というたって、大和と武蔵が戦力になる頃には、アメリカもノースカロライナ、ワシントン、サウスダコタ、インディアナ、マサチューセッツが就役していて、その後にはアイオワ級(計画では6隻、建造されたのは4隻)が控えています。波動砲でもついてないと勝てない。 まともな人なら誰もが「アメリカとやっても、勝てない」と分かっていました。分かっていたけれど、アメリカから石油とくず鉄の輸出を止められちゃったのです。当時は石油の90%以上はアメリカからの輸入に頼っていたし、くず鉄の100%はアメリカからの輸入でした。くず鉄がないと鋼鉄は作れません。石油がないと日本海軍は戦艦も戦闘機も保有したまま干上がって降参してしまうことになる。国民の生活を後回しにしても国防費に多大な予算を注いできた手前、戦わずに座して死を待つなんてことは許されなかったのです。 あれは結果として日本から始めた戦争になりましたが、アメリカからの石油が禁輸された時点で実際はもう始められていたのだと思います。そしてアメリカがそこまでやってでも超強気だったのは「日本と戦争をしても勝てる」という絶対の自信があったからだと思います。

hn040430
質問者

お礼

とても詳しく教えて頂きありがとうございます。勉強になりました。

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  • maiko04
  • ベストアンサー率17% (345/1956)
回答No.1

まぁ、評判なんて人気投票ですから、実力は二の次ですね。 勝てばいいという人、 作戦や計画だという人、 顔形だという人。。 例えば 源義経は勝ったけれど反則したという意味で評判悪い。 白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき。 企業だって儲けが第一ですけど、あまり前に出すと嫌われますよね。

hn040430
質問者

お礼

ありがとうございます。参考になります。

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