江戸時代の男女人口統計

このQ&Aのポイント
  • 江戸時代の男女の人口統計によれば、男性の方が女性よりも多い傾向にありました。
  • 江戸時代の人口統計調査において、武士やその奉公人・又者は含まれていなかったようです。
  • 江戸時代の人口統計調査において、遊女や飯盛女は含まれていなかったようです。
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江戸時代。男女の人口。

wiki「江戸時代の日本の人口統計」によれば、江戸時代を通じて、男の人口は女の人口より多いです。 ちなみにこのwikiの「幕府人口調査と推定人口」の表からテキトウに抜き出してみます。 この調査は享保の改革の一環として、享保6年(1721年)に始まったそうです。 調査回次 調査年次  西暦    男      女 第3回        1732年  14,407,107 12,514,709 第6回  寛延3年  1750年  13,818,654 12,099,176 第19回 文政11年  1828年  14,160,736 13,040,664 第20回 天保5年   1834年  14,053,455 13,010,452 質問です。 1.男が多い(女が少ない)のはなぜですか。 2.この調査では、武士やその奉公人・又者は含まれていないのですか。 3.この調査では、遊女・飯盛女は含まれていないのですか。 よろしくお願いします。 wiki「江戸時代の日本の人口統計」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88#%E5%B9%95%E5%BA%9C%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E3%81%A8%E6%8E%A8%E5%AE%9A%E4%BA%BA%E5%8F%A3

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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • oska2
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回答No.1

>wiki「江戸時代の日本の人口統計」 WIKIの情報は、色々と問題があるので「この様な考え方もあるのか」程度の認識として・・・。 >男が多い(女が少ない)のはなぜですか。 先ず、家長制度が存在した事。 当時は、幼児の死亡率が高かったのですね。 そこで、男児の場合は大事にし+女児の場合は・・・だったのです。 農家の場合でも、男児は働き手になりますよね。 ※七五三は、神様に「この年代まで生きる事が出来て、ありがとう」の感謝を伝える行事。 ※東北地方の「こけし人形」は、「嬰児の段階で口減らしをした子供の姿を写した人形」との説もありますよね。 >この調査では、武士やその奉公人・又者は含まれていないのですか。 調査自体が「眉+唾」です。 当時の住民は、最寄りのお寺で(現在の)住民票を管理していました。 ※キリシタンでない!証明も兼ねていた。 幕府でも、日本全国の住民調査は出来ません。 ましてや、各藩でも「藩内の人口把握は不可能」でした。 もちろん、正規採用の藩士の数は把握していましたがね。 >この調査では、遊女・飯盛女は含まれていないのですか。 各宿場の遊女・飯盛女は、幕府・各藩で人数が決められていました。 ですから、調査が正確だ!との前提だと含まれています。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 この統計は、私領は領主の、幕府領は代官の、旗本領は旗本の報告を基にしているので、報告そのものが確かに不統一で不正確でしょう。 幕府の統計ミスや後世の転記ミスなどの凡ミスもあるかもしれません。 干ばつなどで不作の年は、“子消し人形”もあったでしょうが、それにしても男女の人口差が大きすぎます。 でも、やはり“こけし”のせいですかねぇ。 江戸時代を通じて、男が100~180万人ほど多いです。 ところが明治5年には、男は48万人多いだけです。 戊辰戦争の死者は1万人ほどですね‥。 この明治5年の統計は、かなり正確でしょう。 結局、よく分かりません。

その他の回答 (2)

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10482/32973)
回答No.3

他の方が指摘していない女性が少ない理由として、この頃は「お産がらみで亡くなることは多かったから」というのもあると思います。 「産後の肥立ちが悪くて死んだ」なんてのは、戦前まではよくあることでしたからね。ましてや男尊女卑の社会でしたから、女性に適切な医療処置が施されることはあまりありませんでした。それこそ「産む機械」扱いされていましたからね。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほど! お産で亡くなる女性は多かったでしょうね。

回答No.2

今の世でも、統計不正があるので正確かといわれれば不正確というしかないですが、概ね正確であると考えられます。 なぜならば、税収にかかわるからです^^ 各藩の武士および農民の人口は相当に正確なはずです。原則として移動を禁じられているので、今よりも正しいかもしれない。 無宿人という言葉がありますが、これは住所不定となった者たちで主に江戸、大坂などの大都市に流れこむわけですが、このへんは不確かなような気もします。 ただ、都会でも町々はは夜、木戸がしめられ移動できなくなりますので、意外に今よりも正しく数が把握できたはずです。 遊女、飯盛り女も公娼は届出です。私娼はいつの世もいますが取締対象で有り把握し切れてないでしょう。 男が女より多いのは、前に回答したかたのとおりです。まあ、生物学的、統計的に男の出生率のほうがおおいですけど。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 wiki「江戸時代の日本の人口統計」には、主な14藩の人口統計も出ています。 身分も細かく分類して、居住地もきちんと分類しています。 幕府への報告は杜撰であっても、藩としては正確に把握しているようです。 藩によっては、非人、穢多、乞食までつかんでいます。 どの藩も男が多いです。 「まあ、生物学的、統計的に男の出生率のほうがおおいですけど。」とのことですが、信頼できるサイトがあれば教えてください。

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