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日本はなぜ中国の科挙と宦官制をまねしませんでしたか

日本語を勉強中の中国人です。日本は昔の中国のことをたくさん勉強して自分の国で実施したのですが、なぜ中国の科挙制度と宦官制度をまねしなかったのでしょうか。 また、質問文に不自然な日本語の表現がありましたら、それもご教示いただければ幸いと存じます。よろしくお願いいたします。

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  • ベストアンサー
  • yanhua
  • ベストアンサー率72% (508/701)
回答No.6

お久しぶりです。勉強熱心に敬服いたします。 ちょっと長い回答になりましたが、余談の部分は適宜読み飛ばしてください。 【科挙について】 先行回答で触れられているように、日本で科挙制度が定着しなかったのは、 日本の文化社会環境による事項も夫々に外せない観点ですが、 他の方が触れていない観点から見ておきます。 ■科挙の目的は、 ・マンネリ化して堕落した貴族側近に壟断された官僚の刷新や ・政治哲学としての儒学の徹底 ・作詩能力の涵養 などが言われているのはご承知の通り。 ★中国で科挙制度が必要とされたのはなぜか! -以下は小生が長年中国に親しむ過程で本や人との接触から得た理解です- ・漢の武帝(前141年即位)の時期に端を発し、隋の文帝(581年即位)が整備した。 この頃にはすでに四書五経に代表される多くの文献が存在し、王朝を経る度に必要に応じて新解釈書も著わされた。 一方で ・古代中国語は文法が未整備 ・古代中国語はとりわけ助詞が未熟 ・古代中国語は句読点を使用しない などの理由から、古文献の解釈が一意に定まらず、年月を経て最適とされる解釈が定着してきた。 ⇒政治哲学としての文献解釈や行政文書の作成さらに官僚の品格を表す作詩の為には、  古文献の定着した解釈を学び、文体を学び身につけること、即ち暗記しておくことが必須でした。  暗記しておかないと仕事にならないということです。  つまり 「科挙制度の直接説的目的」は「古典を記憶している頭の良い人材の確保」      そして「その記憶を準用して古法に倣って作文や作詩をする」ことのできる人を求めたのです。  儒教が齎す固陋な習癖に縛られた宮廷や官吏の世界が見えてきます。  従って新奇なアイデアや新しい哲学や科学的思考は生まれませんでした。 王朝が変わると重要経典の目録も変わったり、「-本義」「-伝」のごとく新たな解釈書も著わされますが、 政治的目的であったり、未整備のものの再編や注釈の改廃補注でした。 清末の1905年廃止まで続いたのでした。 ★日本に大陸文明が齎された時期には、当時日本に古文献はないに等しく、前述のような必然性がなかったということでしょう。 平安時代に紀伝道(主として中国史)を学んだ学生対象に、科挙制度を模倣した試験制度が設立運営されたようですが、所詮は貴族の子弟対象で平安末期には自然消滅した模様。 むしろ平安時代以降、貴族階級が大陸からの古文献で漢字漢文を学び、日本語に適用する工夫が為されたことが重要。 その結果万葉仮名、ひらがな、カタカナへとつながり、漢文の読み書きが武士や学問を目指す庶民に定着していきました。 明治から大正時代にかけて、二葉亭四迷や夏目漱石たちの作品により、言文一致の文体が定着するまで、日本の知識層では漢文を自在に扱う人たちが多く、一般にも文章では漢文調文体が生きていました。 庶民の読み物(いわゆる”黄表紙”が典型)では、漢文の気配のあるかな文字主体の口語文でしたが。 ★江戸時代には儒学が武士階級の必修科目とされ、政治の道具として利用され、結果として庶民にも普及しました。 武士は学問所で学び自宅の祖父母両親からも薫陶を受けて育ったようです。 庶民は寺子屋or手習塾(町内村落内の学習塾)で儒学準拠の教本も使用されたようです。 このことにより、武士は漢文に精通し、庶民は世界一と言われる識字率を得られました(都市部で80%前後)。 江戸時代に政治的には儒教-朱子学が敷衍されましたが、一方で市井の学者の間では儒教-陽明学も一派を成しました。 陽明学は事実を尊重する学問であり、日本では当時すでに現実を観て正当に評価する姿勢が養われてきました。 西洋の技術学問への対応が柔軟であり早かったのもこのことによる効用が大きいとされます。 ★ついでに、日本では神道の先祖崇拝が定着しているので、儒教(現代日本人は思想を示す”儒教”を常用,学問を示す”儒学”は意図的に区別する場合に使用)の「君には忠義 親には孝行」の概念は抵抗がなかったと考えます。 むしろこの一点でのみ儒教を理解し受け入れているといっても過言ではないでしょう。 徳川家康は儒学-朱子学に基づいて「武家諸法度(大名統制の法令)」を制定しました、後年一般武士も対象に改定。 徳川光圀(みつくに:TVドラマの水戸黄門)は儒学思想を中心に、国学・史学・神道を結合させた「大日本史」の編纂に着手し、水戸藩が事業を継続、完成したのは200年以上経過した明治時代になってから。 【宦官制度について】 確たる根拠はありませんが、小生の個人的推測です。 ■宦官制度はなぜ日本になかったか。 ・日本人は農耕民族で去勢についての関心や知識が薄かった、施術の技術も未熟。 ・日本人の自然観は、命あるものを等しく愛しみ、生あるものを傷つけることに抵抗があった。 日本ではたとえ下層民であっても、人として尊重する社会でしたから、罪なき人間の生体を毀傷することへの嫌悪感や不快感があったことでしょう。そもそも刑罰制度に”宮刑”がありませんでした。 ⇒などによるものと考えます。 なお ・江戸時代以降は大奥(後宮)と称する、女性のみの生活区域が設けられ、将軍は夜間に限りそこで過ごしました。 将軍は日中は中奥または表の間で執務/生活しました。 ・大奥は将軍の母親など女性の最高権力者が取り仕切って男の出入りが厳しく管理された。 ★ついでに、 ヨーロッパ、アフリカ、ギリシャ、ローマなどにも宦官が見られ、宦官がなかったのは日本くらいか? ウィーン少年合唱団は、声変わりを防止するために少年歌手を去勢することが行われていたようです。 有名な作曲家ハイドンも去勢を勧められて断ったとか。 ローマ教皇により禁止されたのは1878年と言いますから、日本で言えば明治11年、つい最近とも言えますね。 貴国では1924年宣統帝の時期に周辺環境により自然消滅するまで続きました。 残酷なと言えば纏足も思い浮かびますが、これも日本では採用されていません。 ⇒社会的効用のない残酷さに対する感受性の違いではないでしょうか。

awayuki_china
質問者

お礼

ご無沙汰しております。ご丁寧に教えていただき誠にありがとうございます。興味深く拝見いたしました。大変いい勉強になりました。中国についての知識にとても感心いたします。

その他の回答 (5)

回答No.5

一番大きな理由は,中国,中国大陸から,日本は,島国なので,海(日本海など)を隔てて,離れていたことだと思います..朝鮮半島の李氏朝鮮王朝の場合などは,中国大陸と陸続きであり,新羅の時代から,日本(大日本帝国)によって,事実上解放されるまで,長い間,中国大陸の中華王朝の属国として,強烈な支配下にありましたので,中華王朝の宦官制度や,科挙制度などが,王宮内の内侍や,官吏(両班)の登用などに,積極的に,導入されました..一方,日本では,古代,飛鳥・奈良時代などは,遣隋使や遣唐使などを,朝廷が,積極的に,当時の中国大陸に派遣し,仏教を含む文化的な交流などが,当時の中国の中華王朝と,盛んでしたが,日本は,早くから,中華王朝の皇帝などから,独立国として認められ,日本の遣隋使が,当時の中国(隋王朝)から持ち帰った書状にもあるように,日出ずるところの天子=天皇が,日本を,治めていました..又,宦官制度や科挙制度などのベースとなる,儒教(孔・孟思想)より,早くから,中国大陸や朝鮮半島から伝わった仏教,大乗仏教が盛んで,同時に,天皇が主祭人の神道が盛んでした..現在でも,日本の天皇陛下は,即位の際には,大嘗祭や,毎年,田植えの行事などを,行われます..平安時代に入ると,遣唐使などが廃止されると,貴族の間などで,日本独特の,国風文化が栄え,男色なども,その一つですが,当時の京都の朝廷には,中華王朝などの宦官の代わりに,女官や女房と呼ばれる宮女達が,天皇の側に侍り,天皇の身の回りの世話から,伝言などまで,様々な役割を担っていました..又,中華王朝のような,異民族や多民族国家などではなかった日本の場合,朝廷内の様々な行事や仕事などは,それぞれ,専門の朝廷官吏や,貴族の家系に任され,そのほとんどが世襲制で,貴族の位階の上限や,特権(陰位の制),貴族の家格なども,江戸時代に入る頃には,事細かく決められており,武家,江戸時代などの,征夷大将軍職の徳川氏などの台頭により,天皇や朝廷貴族(お公家さん)達の権限なども,制限され,天皇が,日本の政治の表舞台に,本格的に出て来るのは,明治天皇の明治期からで,明治期以降,急速な西欧化,近代化を遂げた日本でしたが,旧日本軍などが,太平洋戦争で,アメリカに負けてからは,天皇は,あくまで,日本の象徴として扱われるようになりましたが,立憲君主制の日本の国家元首は,天皇陛下です..

awayuki_china
質問者

お礼

ご親切に教えていただきありがとうございます。いろいろとても参考になりました。

  • shpfive
  • ベストアンサー率40% (21/52)
回答No.4

はじめまして。 朝鮮半島やベトナムなどでも採用された科挙の制度ですけど 実は我が国でも実施されたことがあります。 平安時代に大学寮で紀伝道を学んだ学生を対象とした試験が行われるなど、科挙にならった制度が導入され、おそらくは白丁(庶民あるいはそれに近い身分)の出身であったと考えられている勇山文継が進士に合格して下級官人となり、最終的に貴族にまでなった例もあります。 が、受験資格者は大学寮の学生に限られますから、実際には受験できたのは、ほぼ、貴族の子弟はかりで、中国の科挙のように庶民にまで門を開ききることができませんでした。 そして運用上も「蔭位の制」と呼ばれる例外規定が設けられ、高位の貴族の子弟には自動的に官位が与えられたため、受験者の大半は下級貴族で、せいぜい、合格者が中級貴族に進める程度。 やがて制度自体も形骸化していき、そのうちに廃れていきます。 我が国にこうした科挙の制度が根付かなかった理由として考えられるのは、やはり「家の世襲」という考え方が、それ以上に根強かったからでしょう。 これは平安貴族が力を失い、新たに勃興した武士階級も「血族による世襲」に拘ったことからもうかがえます。 そして武士階級は、一般の農民から成り上がることもできました。 宦官については、こちらのURLが参考になると思います。 https://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1165852971?__ysp=5pel5pysIOWupuWumA%3D%3D >(1)日本でなぜ宦官が広がらなかった理由 普通に考えてください。女の集団を物理的に囲い込んでいるから、宦官が成り立つのです。物理的に男が出入りできるなら、宦官なんて配置する意味は無いのです。 日本では、天皇などは古くから多くの后や妾を持っていましたが、物理的に囲っていませんでした。源氏物語では光源氏が天皇の女御である義理の母と不義密通してしまい子まで生ませちゃいます。光源氏は天皇の息子ですからその辺は割り引くとして、宦官のいる世界は本来こういうことが無いようなシステムであるということです。 それを物理的に行うのですから、出入りする男は「切らなければ」なら無いのです。 特に女を囲っている後宮は、皇帝の生活の場でもあるわけで(この辺江戸幕府と違う)、取り次ぎにせよ何にせよ、宦官の高官と言うのは必要不可欠だったのです 日本は、道徳心で女を縛りました。もっとも平安の頃までは高級貴族といえども「通い婚」「重婚」が当たり前で、浮気が許されないのは天皇の周辺くらいでした。 コレが武士の時代になると「女をさらってくる」荒っぽい方法が流行り、「嫁入り」が一般的になります。 しかし、それでも、女を物理的に囲うことはしませんでした。通い婚よろしく別宅に住まわせてせっせと通うのが通常の形です。戦国大名でも、妾を沢山持っても、物理的に隔離する後宮は作りませんでした。 ですから、男は普通に出入りしていたのです。浮気するのしないのは道徳的な規律で縛っていた、ということです。 江戸になると、三代将軍家光がホモだったことから、春日野局が大奥を作ります。ここに日本初の「隔離された後宮」が誕生します。中国の後宮と違うのは「子作りの為の場」であり、「将軍の生活の場」とイコールではないことです。つまり、子作りしないなら、将軍は中奥で生活できたのです。なので、大奥には基本的に「夜から朝まで」しかいません。なので、取り次ぎも大奥の女中で十分なのです。 大奥を作ったのが春日の局だったのも影響しています。自身が君臨するために女だけの世界を作ったのです。ですから宦官なんて仮に存在していても不要だったのです。実際その後も大奥は、女達の権謀術数権力争いの場と化し、肝心要のお世継ぎもまともに育てられない状況を呈し、徳川総本家(家康の直径)は7代で絶えちゃいます。 結局、日本のような隔離しない後宮では、宦官以外の男も出入りするので、宦官であることは何の役にも立たないのです。であるからわざわざ切る事もしませんし、刑罰できられた人間(犯罪者)をワザワザ雇うこともありませんでした。それでけです。 →日中の文化の違いなどについて考えるためのご参考になれば と思います。

awayuki_china
質問者

お礼

ご親切に教えていただき誠にありがとうございます。おかげさまで、科挙は理解できました。宦官の日本語文は難しくてまだよくわかりませんでした。

  • kei00332
  • ベストアンサー率11% (5/45)
回答No.3

日本は古来よりある特定の家柄が政をしてきたので公平に官僚に取り立てる科挙は不都合でしかなかったんです。 知ってますか? 日本は最近まで千数百年前の人物、藤原の鎌足以来ずっと藤原家が日本を支配してきました。今でも政界や財界に多く居ます。 総理大臣にも藤原五摂家出身の方が大戦中に居ましたよね。 日本は天皇の国というより天皇を影から支配する藤原氏の国と言っても良いのではないかとも思います。 そのような国で科挙制度が取り入れられることは不都合でしかないからでしょう。 だから誰もが天皇を排除せずに戦国時代などでも藤原氏を名乗りたかったのです あなたも知ってると思う徳川家康は藤原氏を名乗っています。 ところが将軍は源氏しかなれない習わしなのであっさりと藤原氏を名乗るのをやめ源氏に鞍替えしたと思いますw 宦官とは「王の宮廟に仕える者」とありますが日本の天皇を支配していたのは藤原氏などの豪族です。後に源氏や平氏の皇族出身者の公家や武士も仲間入りします。 そのため天皇より藤原氏が持っていた領土のほうが圧倒的に多く財力もあったのです。 天皇の立場というのは今の日本人や外国人が思ってるほど強い立場では無かったはずですのでそのような制度は産まれなかったのではないでしょうか。 いつの時代も天皇は政治に利用され続けた存在です。 中国や他国のように圧倒的な王または皇帝に使えるのではなく天皇を利用して政治をするという日本独特な体質からそのような制度が産まれなかったんだと思います。

awayuki_china
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。参考にさせていただきます。

noname#252929
noname#252929
回答No.2

それは文化の違いですね。 日本以外の中国も含めて、多くの国の歴史は、戦って勝った者が支配する。という文化です。 日本は。紀元前660年(今から2600年以上前)から、その国の形(記録として)がある国です。 基本的な考え方は、国民は、「国の宝である。」という考え方です。 宦官というのは、異民族を奴隷化して、人として扱わない考え方ですね。 日本という島国であったために、異民族がそばにいませんでしたから、異民族を別の者と扱う文化もなかったと、いうことでしょうね。 科挙に関しては、試験というものではなく、実際の功績を評価するという方法で、評価がされていました。 そして、それらには問題もなかったですので、真似をする必要もなかったわけです。 簡単に考えてみてください。 真似というのは、真似をする側の人が、それが良いことであると考えた時に真似をするものであって、よくないと判断すれば真似はしません。 他の国の文化だからと行って、全てが良いものとは判断しませんので、必要ない、よくない。と判断されたものは、使用されないとなります。 全て真似をしたのなら、中国と同じになってしまうでしょう? 良いところ、必要なものは真似をするが、そう思わないものは、真似をしない。 それだけの話です。

回答No.1

  良い制度だと思わなかったから   中国はなぜ民主主義や自由経済、言論の自由をまねしないのですか?

awayuki_china
質問者

お礼

ありがとうございます。

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