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「切腹」が出来る覚悟

 注射でさえも、痛くて嫌いな私にとって、武士の尊敬できるところのひとつとして、「日々の生活の中で、常に、切腹の覚悟が出来ている、……殿様に限らず、下級武士に限らず」ということだと思い込んでいます。(現実がどのようであったかは知りません。……認識が間違っていれば指摘して下さい。)  この「常在死対面(「常在戦場」からの私の造語<(_ _)>)……普段の平凡な生活の中にも、常に死への覚悟を持っている」という精神と、「切腹を平然として実行できる」いう覚悟は、何処から生まれているのでしょうか???というのが質問です。  もちろん、幼少の頃から、「そのような教育」を受けてきたとか、いろいろな要素が総合された結果だと思うのですが、それらの要素の中で、「何が大きな要素か???」ということついて、お考えを教えていただきたいということです。「教育」だとか、「生まれ・身分」だけで説明できるものでしょうか???「何か決定的な要素」というのはないのでしょうか???三島由紀夫も切腹しましたが、それとは違う「武士の何か、武士とは何か」というのがあるのではないかと???  それと、とはいっても、武士といえども人間ですから、「潔い」という理想からかけ離れた見苦しい事件もあったのではないか???という疑問もあります。紹介して下さい。少しでも「己の見苦しい生き方への慰めと、少しでも教訓」になればと考えています。

noname#238475
noname#238475
  • 歴史
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みんなの回答

  • oska2
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回答No.12

>「武士の何か、武士とは何か」というのがあるのではないかと? まぁ、「行動は、全身全霊をかけて行う」「失敗しても、命は惜しくない」 という事ですかね。 五輪書(1640年代)にも「武士とは、死ぬことと」とありますよね。 常に、真剣勝負!という事でしようか。 >「潔い」という理想からかけ離れた見苦しい事件もあったのではないか? 武士の最期は「切腹」ですよね。 庶民なら、斬首ですが「武士の場合は、名誉ある切腹」が一般的。 腹を十文字に切って、内臓を手で出す。 「腹の中にも、逸物(偽り)は無い」事を、見届け人・世間に主張するのです。 赤穂事件(忠臣蔵)の時、46名の内一人しか切腹をしていません。 ※寺坂吉右衛門は、天寿を全。彼が生存したので、赤穂事件の詳細が伝わる。 間光風(通称、間新六(しんろく))だけが、切腹をしています。 大石良雄(通称、大石内蔵助)も、切腹はしていませんよ。^^; 物語・忠臣蔵では「息子に切腹の作法」つたえて「潔く死ぬ」事を教えていますよね。 が、大石良金(通称、大石主税)も切腹をしていません。 切腹場で「(短刀の代わりに)扇子をお腹に当てる時点で、介錯人が首を打ち落とし」ました。 1700年代初頭には、既に切腹は形式的な作法になっていました。 そうそう、質問の「見苦しい切腹」ですが・・・。 嘘か真か、大石内蔵助の切腹は「非常に見苦しい」との記録が多く残っていますよ。 ただ、物語・忠臣蔵の影響で「ノンフィクションが、フィクションを超えた」様です。

noname#238475
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 常に、真剣勝負!…… 生きていく上では「武士」だけでもないような気もします。 たしか、「葉隠」にも、「武士とは死ぬことと見つけたり。」というくだりが最初に出てきたように、かすかに記憶しています。自分で疑問に思うのも変な話ですが、私の質問の原点がこの辺にあったのかなぁ……と、今、気づきました。 逸物(偽り)は無い……そういうことですか。また知識が一つ増えました。 46名の内一人しか切腹をしていません。……知りませんでした。忠臣蔵と水戸黄門と大岡越前は、安心して観ていられるので、私の大好きな時代劇ですが、いろいろと創作はあるのでしょうね。(*^_^*) 嘘か真か、大石内蔵助の切腹は「非常に見苦しい」との記録が多く残っていますよ。ただ、物語・忠臣蔵の影響で「ノンフィクションが、フィクションを超えた」様です。……事実であれば、大石内蔵助も人間だったということですね。少し安心しました。しかし作られる偶像というのは恐ろしいものですね。

回答No.11

No.7です わざわざお礼を記入頂きありがとうございます。 回答が舌足らずであったこともあり追加の御質問がありました。 補足をかねて書かせていただきます。 >武士が特別、「尊敬される」存在というわけでもないということですね。 尊敬される存在であったか否かの以前に武士集団というものの発祥経緯が良く分かっていません。 一般的には源平時代の武士と鎌倉時代以降の武士は発祥がことなる集団だったとされています。 時代に応じて武士の社会的な評価というか位置づけも違っていました。 それに伴って武士自身の死生観などという基本的な価値観もそれぞれに違っています。 戦闘集団だった武士が行政官に変わっていた江戸時代の武士の死生観は切腹が儀式化されてしまっていたように織豊時代までのものとは大きく変わっています。 下記のような詳細な論文が掲載されていますので是非一度目を通してみてください。 武士道思想における死生観に関する一考察 - 学校法人順天堂 www.juntendo.ac.jp/hss/albums/abm.php?f=abm00007799.pdf&n=vo... 中世期の武士の死生観に関する論文です。 武士道思想における死生観に関する一考察 - 桐蔭法学 源平以降の武士の死生観に関する論文です Title 武士道と儒教 - TeaPot:お茶の水女子大学 教育・研究成果 ... teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/bitstream/10083/35222/2/37_171-17... 筆者は台湾の方でお茶大の客員研究員をされている方です。 本場中国の儒教と日本の儒教は異なっています。 この為に江戸時代には儒学と呼んでいました。 もし日本儒教(儒学)に馴染んでおられると多少違和感のある部分があるかも知れません。 >面倒でなければ、人物名を教えて下さい。 秀吉の水攻めにあって天正10年(1582)に落城した高松城主清水宗治やその一族です。 落城した後で秀吉が踏み込みこの宗治一族の最後の姿を見て絶賛しました。 やがて秀吉が天下人となったこともありこの宗治一族の切腹の様子が以降の武士の切腹の基本とされました。 >「介錯人」というのは相当の腕前でないとつとまらないということかなぁ……と。 武芸の腕だけでは務まりません。 斬り合いや戦闘で殺すのとは違い平時に目の前に座っている人の命を絶つという行為はメンタルな面で相当な負担がかかります。 御質問にあった三島由紀夫の際にも介錯を担当した人物はそれなりに剣道の心得があった人物ですが取り乱して三島の肩を何度も傷つけました。 このために江戸時代には伝馬町の牢屋に罪人の首切りを専門に請け負う要員を置いていました。 代々山田浅右衛門と称していました。武士で幕府の施設である牢獄に詰めていましたが浪人扱いでした。 >何とも悲しい宿命ですね。 殺傷能力の高い日本刀を常時携える身分ですのでやむを得ません。 人を切るというのはどういうことかということを幼いうちから脳裏に刻み込ませておく必用があります。 結果的に江戸時代を通じて親子代々人前で刀を抜いたことなどない武士が沢山いました。 >歴史には素人ですので、どのように理解すれば良いのか、ちょっと難しいです。 歴史と言わずとも現代の軍人と呼ばれる人達は上官の命令があれば弾丸が飛び交う中へ反射的に突入するように訓練されています。 >江戸時代の武士よりも、武士らしい人間だと理解して良いのでしょうか??? 新渡戸稲造が書いたのはあくまでも明治時代の人間によるイメージです。 先の御質問で「少しでも「己の見苦しい生き方への慰めと、少しでも教訓」になればと考えています。」とありましたが、このようなご希望であれば色々書籍があります。 人類は人の死や死後の世界を専門に扱う宗教というものを生み出しました。 先日105歳で亡くなられた聖路加病院の院長を務めておられた日野原重明医師が下記のような書籍を残されています。 生きていくあなたへ105歳どうしても遺したかった言葉 発行:幻冬舎 氏は敬虔なクリスチャンでしたので宗教書すなわち聖書を引用されています。 現代人は宗教では納得しなくなっています。 これに対しては、仏教哲学を専門とする東京大学の教授であった岸本英夫氏が書き残したメモを編集した書籍があります。 ガンとたたかった十年 死をみつめる心 講談社文庫 悪性の皮膚癌に冒された十年間の御自分の心理の変化を都度メモしていたものです。 哲学者であっただけに極めて詳細に自分自身を観察分析しています。 生前親しかった友人のすすめで遺された奥様が公表することを決心されて編集したものです。 御両方も死を他人事とせずにどのように死を迎えたかということを書かれています。 いずれもネットで購入出来ます。 人間というものは人は死ぬものだということは充分了解していますが自分が死ぬということは考えない生き物です。 結果として死に直面する狼狽して取り乱します。 巷間、如何に死ぬかは如何に生きるかということだと言われる所以です。 150年以上も昔の武士などという他人の価値観や言動などよりも遙かに身近かと思います。

noname#238475
質問者

お礼

再度ご丁寧に回答をいただき恐縮です。 一般的には源平時代の武士と鎌倉時代以降の武士は発祥がことなる集団だったとされています。……なにやら「生物の分類学」のような世界ですね。生物の分類学の世界も複雑な迷路のようです。私のような素人から見ると、むしろ研究者が「迷路」にしてしまっているのではないかと。(*^_^*) 戦闘集団だった武士が行政官に変わっていた江戸時代の武士の死生観は切腹が儀式化されてしまっていたように織豊時代までのものとは大きく変わっています。……戦後の70年でさえも、大きすぎるほど、そしてついて行けないほど変化しているのですから、当然かも知れませんね。 「武士道思想における死生観に関する一考察」、「武士道と儒教」……どちらもネットで探せましたので、読んでみます。 高松城主清水宗治やその一族です。……読んだ小説の中で、かすかに記憶が蘇ってきました。詳しくはありませんが、歴史を左右する出来事でもあったように記憶しています。 結果的に江戸時代を通じて親子代々人前で刀を抜いたことなどない武士が沢山いました。……「痛み」を知っているが故に、あえて抜かないということは、「自制」が十分に機能していたと理解できますよね。「痛み」が分からないが故に、平気で痛めてしまう現代の「いじめ」とは全く異なる次元のように感じました。 「少しでも「己の見苦しい生き方への慰めと、少しでも教訓」になればと考えています。……「死」を意識しはじめました。深層としてこちらの方が主題だったかも知れません。 日野原重明氏の著書には、新聞の広告や記事を見て、強い関心を持っていました。ここで勧められたのも縁だと思います。 「ガンとたたかった十年 死をみつめる心」……私の求めているものが見つかるかも知れません。ネットで購入する習慣がないので、体調の良いときに本屋に行ってみます。 如何に生きるか……あと何年くらいなのか、あるいは……どのくらいかは分かりませんが、今の私の大命題になりました。 ありがとうございました。

  • eroero4649
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回答No.10

#8です。 >何か、今の行政が、江戸時代の行政にだぶって見えてきました。 基本的に同じだと思います。というか、日本人の多くがそのやり方を支持したからこそ200年の長きに渡って安定政権でいられたのだと思います。最終的には薩長によって倒幕されるわけですが、フランス革命のように市民の蜂起によって政権が倒されたわけではなく、いってみれば権力争いで政権交代が起きたようなものです。 江戸時代初期の1657年に明暦の大火という江戸市内がほぼ全域焼野原になるというとんでもない大火事が起きます。江戸城天守閣はこのときに消失し、再建されることはありませんでした。不幸中の幸いだったのは、このときに宰相として政権にあったのが保科正之という「日本史上最も無名の名君」だったということです。保科正之の手によって江戸は防災都市として整備されていくこととなります。 大火の直後、焼け出された市民のために正之は江戸城にある備蓄米を窮民に開放するよう命じました。江戸城の備蓄米は合戦に備えたものであるため反対意見もあったのですが、正之は「これは幕府の命運をかけた合戦も同様である」といって命じたといいます。この炊き出しが前例となって、以降、火事や地震などの災害が発生すると幕府は江戸城の備蓄米を無償で炊き出すものとなりました。それがどのくらい迅速だったかというと、最速だと災害発生時から翌日には炊き出しがされたほどです。 17世紀から18世紀頃の世界において、災害が発生したときに国家(政府)が市民に救援をするということはまず考えられません。世界中の国家を調べたわけではないですが、おそらくそういうことをしていた政府は江戸幕府だけだったと思います。 現代でも、災害が発生したときに政府の動きが悪いとわが国では政権が猛烈な批判を浴びます。その源流は既に江戸幕府にあったのです。アメリカでは台風カトリーナの被災地が一週間以上放置されたというようなことがありましたが、こと災害対策の迅速さでいうと、江戸幕府のほうがはるかに迅速です。 >平和な時代の到来と共に、武士の世界にも劇的な変化が起こっていたのですね これはもう宿命ですね。徳川家康にとって三河の小大名だった時代に最も頼りになったのは本多忠勝のような戦場で無双な戦士です。でも天下人のように大きな組織となると、組織を忠実に回す官僚が必要となります。それは豊臣政権でもそうでしたし、徳川政権でもそうです。豊臣政権ではベンチャー企業時代に会社を引っ張った創業の叩き上げである福島正則や加藤清正と、一大コンツェルンになった組織を回すために入ってきたインテリエリートの石田三成との間で確執が発生しました。 家康が優れていたのは、「君主がどんなにバカでも周囲が優秀ならきちんと政権が持つシステム」を作ったことです。これは現代にも基本的に引き継がれていて、宇宙人みたいなやつが首相になっても、漢字がロクに読めない人が首相になっても、東大を出たエリート官僚がいれば国がきちんと回るように出来ていますし我々もそういう組織を歓迎しています。どっかの国のように、君主をカリスマにしないといけない体制ってあまりよろしくないでしょう? >明治維新といわれる時代を突き動かした一番の原動力というのは、何だったのかなぁ このテーマだけで本が一冊書けるでしょうが、「時代が煮詰まってきた」というのと「政治体制が時代に合わなくなった」というのがあったと思います。世界では近代工業国家というのが出来つつあったのですが、君主制はそれに合わなくなってきましたよね。 現代がややそれに似てきたような気もします。奇しくも今年は明治維新から150年ですし、実は明治維新から太平洋戦争に至るまでの時間と、終戦から現代までがだいたい同じ時間なのです。明治維新から日清・日露戦争の勝利と急成長する日本、やがて空前の好景気と世界恐慌による大不況による社会不安と中国との関係悪化と、戦後の復興からバブル、バブル崩壊後の不況と中国との関係悪化は奇妙なほど一致しています。ついでに昭和初期の「大衆を扇動する活動家の人気と決められない政治」と現代は恐ろしいほど似ている気がしますね。幕末もそうですが、日本は煮詰まると「決められない政治」になります。 >初めて知りました。テレビ時代劇なんかで出てくる「傘貼り」のようなものでしょうか???他にどんなバイトがあったのですか??? そうです、そうです。他には寺子屋の講師とかありましたね。一応武士という立場がありますから、商人のようなアルバイトは体面上よろしくないというのがありますし、農民の邪魔になりますから畑を耕すわけにもいきません。 江戸の武士のアルバイトで有名だったのは、朝顔やほおずきを育てることでした。今でも東京のあちこちで朝顔市とかほおずき市なんてありますよね。あれのルーツは江戸時代になるわけですが、そこで売っていた朝顔やほおずきは武士がアルバイトで作っていたものでした。あと絵心がある人は絵を描く人もいました。蛮社の獄で知られる渡辺崋山はそのパターンです。 そもそもですね、バイトやって武士も大変だなーって思うのですけれど、一般的に武士の勤務は一勤一休、しかも勤務時間は午前中のみです。時間はあり余るほどあったんですよ。安月給でも一勤一休で終身雇用、しかも次の世代も雇用が確保されるというと意外に悪い話でもないような・笑。 江戸文化を知るとですね、現代にやってることのほとんどはもう江戸時代にやってることが分かって面白いですよ。歌舞伎役者や花魁の浮世絵はタレントのブロマイドでしたし、衣装を服屋がスポンサードしてそのデザインが流行したりとか、駿河町から見た富士山の浮世絵というのがあるのですが、それは前景に呉服店である越後屋(今の三越)が描かれていて、そう、富士山の浮世絵に見せかけて実は越後屋のCMなんです・笑。 AKBなんて花魁みたいなものですよ。だから江戸文化に詳しい私の父はAKBのことを吉原のお女郎さんと呼んでいます。吉原人気ランキングなんかもあったらしいのでほぼ同じですね。また、大阪には米の先物市場というのがありまして、これは世界で初めての先物市場だったそうですよ。現金を払うのではなく、両替屋にお金を預けてその代わりに手形を受け取り、その手形で支払いをするという手形決済も確か江戸時代の日本で行われたのが世界初だったと思います(ちょっとここうろ覚えです)。 そうそう、戦国時代の切腹ですが、真偽はちょっとはっきりしない話ですがこんなのがあります。織田信長、豊臣秀吉の家臣で越前加賀120万石の大名となった丹羽長秀は晩年病に伏せっていたら、武士が布団で死ねるかよと言い出して切腹し、長年胆石で苦しめられていたのでその胆石を取り出して「俺を長年苦しめていたのはお前か」といったという眩暈がしそうな話が残っています。 他には、宝暦治水事件で50名を超える薩摩藩士が抗議の自害をしたというのもありますね。こちらは全員介錯なしだったと思うので、相当な覚悟だったのだろうなと思います。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E6%9A%A6%E6%B2%BB%E6%B0%B4%E4%BA%8B%E4%BB%B6

noname#238475
質問者

お礼

再度、筆を運んでいただきありがとうございます。 フランス革命のように市民の蜂起によって政権が倒されたわけではなく、いってみれば権力争いで政権交代が起きたようなものです。……司馬遼太郎の作品は少し読みましたが、気づきませんでした。明治維新を理解する上での重要なポイントかも知れませんね。もう読み直す気力・体力はありませんが。 保科正之……初めて知りました。「日本史上最も無名の名君」……興味深いですね。少しお近づきになりたいと思います。資料、書籍など探ってみます。 これはもう宿命ですね。……「宿命」……「奥が深すぎる言葉」ですね。 家康が優れていたのは、~~~君主をカリスマにしないといけない体制ってあまりよろしくないでしょう?……(*^_^*)(*^_^*)まったく同感です。 明治維新といわれる時代を突き動かした一番の原動力というのは、何だったのかなぁ……独り言にまで、お付き合いをいただきありがとうございます。半分は期待していましたが。<(_ _)><(_ _)> 「時代が煮詰まってきた」というのと「政治体制が時代に合わなくなった」というのがあったと思います。……これも「宿命」ですかねぇ。早速使わせて貰いました。<(_ _)> 現代がややそれに似てきたような気もします。奇しくも今年は明治維新から150年ですし、実は明治維新から太平洋戦争に至るまでの時間と、終戦から現代までがだいたい同じ時間なのです。……このような見方をしたことがありませんが、平和な時代に身をおいてくれた親には、常々感謝しています。 日本は煮詰まると「決められない政治」になります。……日本の政治を理解するための「切り口」として使わせて貰います。 商人のようなアルバイトは体面上よろしくないというのがありますし、農民の邪魔になりますから畑を耕すわけにもいきません。……武士も肩身の狭いところもあったのですね。(*^_^*) 一般的に武士の勤務は一勤一休、しかも勤務時間は午前中のみです。時間はあり余るほどあったんですよ。安月給でも一勤一休で終身雇用、しかも次の世代も雇用が確保されるというと意外に悪い話でもないような・笑。……えぇ~~。知りませんでした。「悪い話」どころか、「良すぎる話」じゃないですかと、怠け者の私なら考えてしまいます。 そう、富士山の浮世絵に見せかけて実は越後屋のCMなんです・笑。……思わず吹き出してしまいました。 吉原人気ランキングなんかもあったらしいのでほぼ同じですね。……これは想像つきますね。自分が評価されるのは嫌うくせに、他人のことには何かとランキングを付けたがるのは人間の性だという気がします。 そうそう、……2例とも「目眩」どころか「異次元」の世界ですね。 ありがとうございました。

回答No.9

凄まじいのは幕末、境事件ですね。 大名行列を横切る、夷人を守護の武士が切り殺す。 そして切腹させられる。 その切腹:自己の腹を切ってはらわたを掴み出して、裁きの席にいる夷人に投げつける。裁きの席の夷人は驚愕する。 武士たる面目なんでしょうね。 生麦事件、神戸事件。幕末もたくさん事件があった。 武士は死を恐れてはならなかった。

noname#238475
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 凄まじいのは幕末、境事件ですね。……そういえば、そんな事件がありましたね。「堺」でなかったでしょうか??何かで読んだ記憶があるのですが、忘却の底に埋もれてしまっていました。 うまく表現は出来ませんが、やはり、幕末には、何か異常な興奮というのがあったのですかねぇ。

  • eroero4649
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回答No.8

我々がイメージする武士は江戸時代の武士でございまして、江戸時代の武士というのはひらたくいうと官僚、役人です。「戦う人」という覚悟はもう江戸時代が始まった頃にはほとんどなくなっていたのです。 その典型が「江戸時代最後の戦い」となった島原の乱だったと思います。はい、実は島原の乱は江戸時代最後の戦争だったのです。じゃあ幕末の戊辰戦争は?あれは大政奉還の後に起きたので厳密には江戸時代が終わってからの戦争なのです。 島原の乱のとき、島原には失業武士たちが全国から集まりました。江戸幕府は失業武士たちが島原に集まるのをあえて止めなかったフシもあります。彼らは合戦があるときに雇われるフリーター武士で、いってみれば百戦錬磨の傭兵軍団なんですね。しかし彼らは合戦がなくなると仕事がなくなります。しかも、彼らは自分たちの武器も持ち歩いている。ライフル銃を持った傭兵が国中にいたら彼らは潜在的テロリストで社会不安の要因となりますよね。 徳川幕府はそのフリーター武士を大阪の陣でかなり処分したのですが、それでも残っていた失業武士たちはその不満を胸に島原に集まったのです。 その鎮圧する幕府軍は、既に生まれてこの方戦場を経験したことがない官僚型武士ばかりでした。なので功名にはやり、経験がないものだから稚拙でへっぴり腰の戦い方をして百戦錬磨の籠城軍に散々てこずったのです。 その後に武士が本来の役目であるはずの戦いの場に駆り出されたのは、大塩平八郎の乱と二度の長州征伐、鳥羽伏見の戦いなどですが、どれもこれも武士たちってのは何より戦意が低くて使い物にならなかったのです。長州征伐で最も活躍したのは武士以外の身分の者たちによって構成された奇兵隊だったことは有名ですが、他の長州軍の部隊でも戦意が高かったのはみんな武士階級以外の隊ばかりでした。 武士の作法の切腹についても、程なく腹には刀を当てるだけになり、やがて刀でさえなくなって扇子になりました。みんな自分でお腹を切るのは怖かったんですね。 じゃあ切腹って何かっていうと「名誉を守るための手段」だったのです。切腹すればその死と引き換えに主に家の名誉は守りますよということでしたし、切腹することによってそれ以上の責任の追及も逃れることができるのです。 これは今のサラリーマンでいうと、とんでもないヘマをやらかしても、自分から辞めるといったら解雇にならないで済むってやつと同じことですね。政治家から芸能人まで、自ら責任をとって辞任したり引退すれば、そのスキャンダルの真偽ってのは割と曖昧にされちゃうじゃないですか。それこそ「腹を切ったんだから、それでいいだろう」って。 江戸時代に武士とは体面以外の何物でもなかったので、武士の身分がお金で売買もされました。有名な例では、勝海舟のご先祖は養子で武士になった人です。 当時、武士(特に下級武士)ほど割の合わないものはありませんでしたよ。だって、メンツは守らないといけないのに、お給料は先祖代々から昇給一切なしです。江戸時代はその時代を通じてほぼインフレになっていったのですが、経済全体がインフレなのに給与は据え置きですからね。つまり相対的に年収は右肩下がりなのです。 じゃあどうやって生活していたか?それが、バイト生活なんですよ。みんなバイトに必死だったのです・笑。

noname#238475
質問者

お礼

ありがとうございました。 江戸時代の武士というのはひらたくいうと官僚、役人です。「戦う人」という覚悟はもう江戸時代が始まった頃にはほとんどなくなっていたのです。……そうかも知れませんね。イメージだけが先行して、ご指摘を受けて、肝心なことが抜けていたような気がします。愚問だったかも??? それと現代の官僚・役人の姿もその延長線上にあるということかなぁ???という漠然とした感想を持ちました。……何か、今の行政が、江戸時代の行政にだぶって見えてきました。それと何か得体の知れない化け物が現代にも棲んでいるような???得体の知れない不安感みたいなものが。 江戸幕府は失業武士たちが島原に集まるのをあえて止めなかったフシもあります。……なるほど。このような発想というのは、現代でも、いろいろと使われているのかも知れませんね。私のような凡人には見抜けませんが。 しかし彼らは合戦がなくなると仕事がなくなります。しかも、彼らは自分たちの武器も持ち歩いている。ライフル銃を持った傭兵が国中にいたら彼らは潜在的テロリストで社会不安の要因となりますよね。……現代社会のことかと思いました。人間って成長しないのですね。(T_T) その鎮圧する幕府軍は、既に生まれてこの方戦場を経験したことがない官僚型武士ばかりでした。なので功名にはやり、経験がないものだから稚拙でへっぴり腰の戦い方をして百戦錬磨の籠城軍に散々てこずったのです。……平和な時代の到来と共に、武士の世界にも劇的な変化が起こっていたのですね。 長州征伐で最も活躍したのは武士以外の身分の者たちによって構成された奇兵隊だったことは有名ですが、他の長州軍の部隊でも戦意が高かったのはみんな武士階級以外の隊ばかりでした。……読んだ小説からかすかな記憶を思い起こすと、分かるような気がします。今、ふと、「明治維新といわれる時代を突き動かした一番の原動力というのは、何だったのかなぁ」という疑問が湧いてきました。 みんな自分でお腹を切るのは怖かったんですね。……(*^_^*)私もやっと安心しました。 「名誉を守るための手段」だったのです。……理解できるような気がします。 それこそ「腹を切ったんだから、それでいいだろう」って。……どんな悪い政治屋でも、お亡くなりになると、「立派な政治家」に仕立て上げられるのと同じ思想でしょうか??? 経済全体がインフレなのに給与は据え置きですからね。つまり相対的に年収は右肩下がりなのです。……(T_T)(T_T)(T_T)……「年収」を「年金」に置き換えたら、私の立場です。(T_T)(T_T)(T_T) それが、バイト生活なんですよ。みんなバイトに必死だったのです・笑。 ……初めて知りました。テレビ時代劇なんかで出てくる「傘貼り」のようなものでしょうか???他にどんなバイトがあったのですか???ご面倒でなければ教えて下さい。

回答No.7

>日々の生活の中で、常に、切腹の覚悟が出来ている、 切腹の覚悟ではなく死ぬ覚悟です。 切腹というのは死ぬための一つの手段に過ぎません。 人間はおへそのまわりを切っても簡単には死にません。 出血死か大量の出血によるショック死です。 つま切腹してもしばらくは生きているということです。 本人は苦しみますので誰かがサッサと首を切り落としました。 切腹が儀式化された以降は介錯人と呼ばれました。 >切腹を平然として実行できる」いう覚悟は、何処から生まれているのでしょうか??? 歴史的には切腹を平然と行ったとされる人は戦国時代にごく希にいたことが確認されているだけです。 死ぬことをいとわなかった人は幾らでも確認されています。 自刃する際には切腹よるも喉や心臓に短刀を突き刺しました。 会津の白虎隊のようにお互いに向かい合って相手を刺し殺しました。 平和な江戸時代になって切腹は武士のみに認められた行為とされると同時に儀式化されました。 有名なのが近藤勇です。 新撰組というのは身分としては百姓でありながら両刀をさして歩くことが認められた郷士と呼ばれる人達の集団でした。 近藤勇が板橋で処刑される際に切腹ではなく斬首だったのはこの為です。 儀式化された切腹の手順はザット下記のような手順です (1) 切腹の沙汰が下されると、切腹人は沐浴し身を清めます。水に湯を足して温度を調節する、死者の湯灌と同じやり方をします。 (2) 髪は普段より高く結い、曲げ方を逆にします。白無地の小袖と浅黄色の裃を左前(死者と同じ)で身に付けます。 (3) 切腹の場所では北面して座り、湯漬けなどの膳と酒を最期の食事としていただきます。酒は盃二杯を四度で飲み干します。 (4) 柄を外して紙などで巻かれた短刀が、三方に載せられて切腹者に差し出されます。 (5) 介錯人は切腹人に名乗り一礼、背後に回ると刀を清め、八双(正面より右へ寄せ、切っ先を天に向ける構え)に構えます。 (6) 切腹人は右から肌脱ぎになります。左手で腹を押すように撫でると、手にした短刀を左腹に突き立て、右へ引き回します。ここで介錯人が首の皮一枚を残して斬ります。 (7) 屏風で遺体を隠し、検視役が首を確認して切腹は終了です。 武士の家に生まれた男の子はこの手順を覚え込まされました。 更に上記の(4)(6)にある短刀の取り使い方の練習をさせられました。 >何が大きな要素か??? 死ぬことをいとわない要素というよりも武士であり続けるには死ぬことをいとわない必用があったということです。 これは武士という集団が生まれた経緯と深く関わっています。 御質問にありますように「武士とは何か」ということに関わっています。 簡単に言いますと武士というのは戦闘集団ですので死をおそれていたのでは役に立ちません。 死ぬことを恐れなかった集団だった結果死に方や死に様を重要視するようになりました。 >「潔い」という理想からかけ離れた見苦しい事件もあったのではないか??? いくらでもありましたが木曽義仲の最後が有名です。 蛇足 武士道と言う言葉は明治時代に新渡戸稲造が広げた言葉です。 江戸時代以前は「もののふの道」「弓矢執る身の習」「兵の道」「坂東武者の習」などと言われていました。 新渡戸稲造が紹介した「葉隠れ」も佐賀の奇書とされて内容が不穏当だということで出版が禁止されていました。 つまり江戸時代の武士は好事家でも無い限り読んでいなかったということです。

noname#238475
質問者

お礼

ありがとうございました。 切腹というのは死ぬための一つの手段に過ぎません。……確かに、おっしゃるとおりです。ということは、現代人にも、「いつでも死ねる覚悟」というのが出来ている人間は沢山いると思いますから、武士が特別、「尊敬される」存在というわけでもないということですね。 歴史的には切腹を平然と行ったとされる人は戦国時代にごく希にいたことが確認されているだけです。……興味深いですね。面倒でなければ、人物名を教えて下さい。 自刃する際には切腹よるも喉や心臓に短刀を突き刺しました。……女性・少年の選択と誤解していました。どちらにしても、相当の覚悟と勇気が必要な行動ではありますが。 有名なのが近藤勇です。……他の方のご回答にも「新撰組」が登場していました。「武士への憧れの強さ」というものを感じさせますし、近藤勇の無念というのが、分かるような気がします。 儀式化された切腹の手順はザット下記のような手順です……読んで、想像するだけで、あまりにもリアルで、気の小さい私は、寒気がしてきました。一つ感じたのは、「介錯人」というのは相当の腕前でないとつとまらないということかなぁ……と。 武士の家に生まれた男の子はこの手順を覚え込まされました。……死の手順を覚え込まされるというのは、……何とも悲しい宿命ですね。 死ぬことをいとわない要素というよりも武士であり続けるには死ぬことをいとわない必用があったということです。……歴史には素人ですので、どのように理解すれば良いのか、ちょっと難しいです。 死ぬことを恐れなかった集団だった結果死に方や死に様を重要視するようになりました。……現代に生きる人間という立場を越えて、表現は難しいのですが、「生き様」とか「プライド」という観点から、漠然と理解できるような気がします。 木曽義仲の最後が有名です。……調べてみます。 つまり江戸時代の武士は好事家でも無い限り読んでいなかったということです。……百姓の生まれながら、もう、40年以上も前になりますが、三島由紀夫の「葉隠れ入門」という本を読んだ記憶だけが残っています。ということは、私は、江戸時代の武士よりも、武士らしい人間だと理解して良いのでしょうか???(*^_^*)

  • hekiyu2
  • ベストアンサー率35% (271/774)
回答No.6

子供の頃からの教育です。 教育といっても座学ではありません。 例えば次のようなものです。 ・真夜中、一人で刑場に出かけ、晒されている  首を持ち帰る。  子供の時に、これをやらせるわけです。 ・薩摩でやられていた方法ですが、刑死した死体を  墓から掘り起こして、刀で斬りつける。 ・同じく薩摩ですが、ヒモにねじりを入れて、火のついた  火縄銃をつるし、その周りで酒宴をはる。 つまり、死に慣れ親しみ、感覚を鈍磨させるわけです。

noname#238475
質問者

お礼

ありがとうございました。 子供の頃からの教育です。……これは大きいですよね。「例」を挙げていただきましてありがとうございました。武士の子に生まれなくて、あらためて幸せをかみしめています。 ただ、「死に慣れ親しみ、感覚を鈍磨させるわけです。」ということが、「切腹」だとか、「潔い死に方」ということにつながるのか???という疑問が湧いてきました。

  • heyboy
  • ベストアンサー率21% (1852/8729)
回答No.5

現代においては 当時は「武士」は職業または職種です。 ですから、「切腹」は現代では「サービス残業」と考えれば わりやすいでしょ? もっと簡単に言えば 「ハイリスク&ハイリターン」で 「武士」は実入りが「農業」より多いけど 「刀」を所持しているから 「人に切られる」か「自分で切腹」する究極の2択なのです。 ちなみに日本の頭を下げるお辞儀は 「この私の首を貴方に差し上げます。」と言う意味合いですから その相手に預けた命(首)を「切腹」してください と言えば道理は合ってますでしょ? ま、そんなものですよ。

noname#238475
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 「サービス残業」ですか???私とは、かなり認識が異なります。そもそもが「サービス残業」が引き合いに出されるものではないと思いました。 「ハイリスク&ハイリターン」……??? その相手に預けた命(首)を「切腹」してくださいと言えば道理は合ってますでしょ?……何の「道理」だか??? ま、そんなものですよ。……理解できないで申し訳ありません。 <(_ _)>

回答No.4

「切腹を平然とできる覚悟」を持つ武士は殆どいなかったと思います。 武士に憧れた新撰組の一部としか。 (武士らしく名誉ある処刑方法だと思われていた) 安土桃山時代あたりから切腹が自死方法の一つから武士の自死処刑方法に変わり、形式化されたのが享保年間あたりという説があります。 平和な江戸時代中期になると切腹自体廃れ、やり方がわからない人もいたとか。 切腹がどうしても嫌だという武士も意外と多く、そのために「一服」という服毒による自死処刑方法もありました。 幕末頃に切腹が復活するものの処刑方法としての切腹は明治6年に廃止されました。 武士=切腹は芝居(後に映画やドラマ)のイメージが強いかと思います。

noname#238475
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 「切腹を平然とできる覚悟」を持つ武士は殆どいなかったと思います。……そうですか。少し安心しました。武士といえども「人間だった」わけですね。 形式化されたのが享保年間あたりという説があります。……そうなんですか。赤穂浪士の事件もこの頃だったではないでしょうか???関係しているのでしょうかねぇ??? やり方がわからない人もいたとか。……まさに「平和な時代」だったのですね。 切腹がどうしても嫌だという武士も意外と多く、そのために「一服」という服毒による自死処刑方法もありました。……そうなんですか。「一服盛る」というのも、これが由来でしょうかねぇ???今の日本の死刑制度にも課題を与えそうな事例ですね。 武士=切腹は芝居(後に映画やドラマ)のイメージが強いかと思います。……自分でも、たしかにそう思います。先入観ばかりが強い、扱いづらい糞ジジィです。(T_T)

回答No.3

 大まかに言って二十歳までに半数ぐらいが死亡するような時代、死は今のように珍しいものでなくもっと身近なものだったでしょう。流行り病でもあれば先週まで遊んでた友達が死んでるというのも不思議じゃなかった。反面でそういうのを乗り越えた頑丈な人間は結構長生きしたようですが。

noname#238475
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 生まれてきた者は、いつか死にます。それは、時代や、身分立場、命の長短には関係のない大原則です。 私の質問の趣旨はそんなことではありません。<(_ _)>

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