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幕府領の捕物。

江戸では、犯人が寺社地に逃げ込めば、町奉行配下の者は手出しができず、悔しがるというテレビではお馴染みの場面がありますが、これはホントですか。 大坂においても同様ですか。 では、代官が支配する町(例えば高山、日田、石見、生野など)では、代官が警察権や司法権をもっていたのですか。 よろしくお願いします。

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  • misa-on28
  • ベストアンサー率35% (227/640)
回答No.1

町奉行配下では断りなしに手出しができなかったようですが、町奉行側が一定の手続きを踏んで申し入れれば犯罪者の逮捕や引渡しは可能だったようです。 また鬼平で有名になった火盗改方はこれらの事前了解なしでも直接寺領内に踏み込むことができたそうです。 寺社方も寺社奉行の管轄下にあり、犯罪者をかばうなどの悪事に加担した場合は厳しく詮議されましたから、時代劇のような治外法権ではなかったようですよ。 まあ武家政権自体が寺社の宗教権威に基づく政治への口出しを実力で封じることが成立の一つの要因でもありますから、手続きに面倒なことはあるかもしれませんが、「守護不入」のようなことは実際不可能であったと思われます。 代官はその管理地域での警察権や司法権を持っていました。ただその決裁権は小さく、軽犯罪以上のものは口書を添えて幕府勘定方の決裁を青いたと言います。 そのほか、代官の職責としては年貢の管理、地域の河川や道路、橋の管理、宗門改人別帳の作成管理、新田開発や災害・凶作時の対応などとてもやることが多く、時代劇のような派手な羽織を着て悪巧みをする暇はないケースが多かったと言いますね。 概ね代官に支配される天領の年貢は大名領よりも安く、暮らしやすかったらしいです。 司馬遼太郎のエッセイでもそのことは指摘されて、司馬遼太郎の関係者のお年寄り(どんな関係だったかは失念しました。祖母だったかもしれません)が「天領のものは塩気が足らんからな」といったと記載されていたと思います。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 町方が僧侶・神官にむやみに手出しができないのは納得できますが、寺社には普通の人も大勢働いていましたから、悪事を働いてもそこへ逃げ込めばなんとかなるということに疑問でした。

その他の回答 (2)

  • ithi
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回答No.3

kouki-koureisya さん、こんばんは。 寺社地の場合は寺社奉行の許可が必要でした。 代官はとりあえず任地を支配していました。町方が踏み込むためには勘定奉行の許可が必要だったようです。(公事方担当の勘定奉行) いずれにせよ、これらは評定所という幕府の最高決定機関で話し合われることでした。 評定所 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%95%E5%AE%9A%E6%89%80 寺社奉行 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%A4%BE%E5%A5%89%E8%A1%8C 勘定奉行 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%98%E5%AE%9A%E5%A5%89%E8%A1%8C

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

  • oska2
  • ベストアンサー率45% (2174/4818)
回答No.2

>犯人が寺社地に逃げ込めば、町奉行配下の者は手出しができず(略)ホントですか。 本当です。 寺社地は「寺社奉行」の管轄です。 ※寺社奉行は、将軍直轄。町奉行は、老中直轄の組織。 幕府は「宗教管理」を、徹底的に行っていました。 宗教がからむと「一向一揆」「本願寺抗争」「島原の乱」(年代不同)など、庶民が本気で反体制派になりますよね。 ですから、本願寺の勢力を弱くする為に「東西分割」も行っています。 まぁ、宗教に関しての懐柔政策ですね。 幕末には、孝明天皇誘拐を画策した三条実美派14名(以後、7名)が京都の寺院に逃げ込んでいます。 この寺院には「長州藩士1500名」が集まり、7卿を山口まで護衛しています。 ※この時、祐宮(後の明治天皇)を人質にしていたとの説もあります。 町方は、捕り物で寺院に入る事は出来ませんからね。 >大坂においても同様ですか。 同様です。 >代官が支配する町(例えば高山、日田、石見、生野など)では、代官が警察権や司法権をもっていたのですか。 その通りです。 有名な話では「紀州藩と山田奉行所の争い」があります。 紀州藩の農民が、幕府領である度会郡御薗村(現伊勢市)の農民を度々襲ったのです。 「御三家領の農民VS幕府直轄地の農民」 歴代山田奉行所は「紀州藩に遠慮して、見て見ぬふり」 が、18第奉行は「幕府領に越境してきた農民を処罰」したのです。 これも「奉行が、行政・司法権を持っていた」証拠ですね。 全国各地の幕府直轄地を支配する代官も、同様です。 勘定奉行の支配下で、全国各地の幕府直轄地を「奉行の代理で統治」を行っていました。 つまり、(身分は低いが)奉行の代理人として「奉行と同様の権力を発揮」していたのです。 権力が強いので・・・。 「越後屋。そちも悪よのぉ」 「お代官さま程では」 という台詞が多いのです。^^;

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 ただし、大坂の場合、江戸と同様の役目をもつ「寺社奉行」がいなかったようですので、どうなるのかなと思っていました。

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