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千種清右衛門直豊の御勘定時代の事績を教えてくだ

千種清右衛門直豊は『寛政諸家譜』によると、江戸幕府勘定奉行に属し支配勘定・御勘定・代官・美濃郡代を勤めました。 その内、御勘定時代の事績を教えてください。

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  • dayone
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回答No.5

某日、某^^図書館に行く機会があり、 『江戸幕府代官履歴辞典/西沢淳男編/岩田書院/2001.10』 『幕領陣屋と代官支配(近世史研究叢書4)/西沢淳男著/岩田書院/1998.11』 『中振村役人日記<一>(枚方市史資料第四集)/枚方市』 『寝屋川市史 第五巻/寝屋川市』 『寛政重修諸家譜(巻5・15・19・22)』のほか、 『幕府の地域支配と代官(同成社江戸時代史叢書11)/和泉清司著/同成社/2001.10』 『江戸幕府郡代代官史料集(日本史料選書21)/村上直校訂/近藤出版社/1981.4』 などを閲覧しました…残念ながら答は出ませんでしたが… kyodosika様の御見識を100超えと例えるなら、 0だった私の予備知識が1程度にはなったかもしれません^^ すでに御存知の事かとは思いますが、他の第三者様の目に止まり、 新たな情報が得られればとの趣旨でカキコミさせていただきますm(_"_)m 『江戸幕府代官履歴辞典』は人物別五十音で郡代・代官の履歴を簡潔に記され読み易く、 あと寛政譜の巻&頁も記されているので使い勝手良好。 『幕領陣屋と代官支配』は全国の幕領陣屋などが時系列で表にまとめられ見応えあり。 『中振村役人日記』で参考になりそうなのは「<一>(枚方市史資料第四集)解題iii」の 「第1表 領主支配の変遷」で 「<年号不詳>松平越中守(淀藩)領」 「<寛永10>永井信濃守(淀藩)領」に続き 幕領となって「<寛永20>豊島十左衛門代官所」 「<寛文1>豊島権之丞」… …「<享保3>鈴木運八郎・佐藤甚右衛門代官所」 「<享保4>斎藤喜六郎・室田金左衛門代官所」 「<享保5>間宮三郎左衛門代官所」 「<享保6>古郡文衛門代官所」 「<享保7>桜井孫兵衛代官所」 「<享保12>斎藤喜六郎代官所」 「<享保14>平岡彦兵衛代官所」 「<享保15>千種清右衛門代官所」 「<享保18>石原清左衛門代官所」…と続き、 信楽多羅尾氏が登場するのは 「<宝暦9>多羅尾四郎右衛門代官所」 「<明和2>石原清左衛門代官所」 「<明和7>多羅尾縫殿代官所」 「<安永3>辻六郎左衛門代官所」と続く中で2箇所のみ記載があります。 「讃良郡国松村」と「茨田郡中振村」との幕領管轄が同一だったか否かを別にして、 上記の「<享保7>桜井孫兵衛代官所」から 「桜井孫兵衛」が享保8・9年の代官?かと思い、 『江戸幕府代官履歴辞典』の「桜井孫兵衛(寛政譜15-169)」項目をみると、 (1)大和(今井)/宝永1(1704)~享保1(1716)/備考…出張・美作鹿田 (2)摂津(大坂1)/享保1(1716)~享保7(1722) (3)近江(大津)/享保7(1722)~享保11(1726)/(享保11・9・11老免) この記述が正しいとすれば『中振村役人日記』では、 少なくとも「桜井孫兵衛」の後任者が漏れているのかもしれません。 ※「大坂1」…本町東浜(後に谷町に移る)に役宅を構えた代官。 改めて『中振村役人日記』を見ると、「この表は「蹉陀村誌(明治42年)」を中心とし、 「明細帳」「覚」「免定」「御年貢可納割付之事」「皆済目録之事」 「新訂寛政重修諸家譜」「大阪市史 第4上」などにて、 可能な限りの補正を加えて作成、しかし今後の新史料の発掘によって、 さらに訂正すべき部分があるかもしれない…」とちゃんと逃げ道が用意されていました^^ あと、『江戸幕府代官履歴辞典』は一通り通読しましたが、 五畿内、摂津(大坂、大坂1、大坂2)など享保8・9年頃の代官は?で、 信楽多羅尾氏の項目でも特筆すべき記述は見当たりません。 なお、「管見」などと御謙遜されてらっしゃいますが、 全部を通読したワケではありませんが『寝屋川市史 第五巻』では 殆どが「伊沢」で記述され「井沢弥惣兵衛」は 「一六四 享保九年(一七二四)閏四月 井路拡張にともなう反別分米改め」 (287・288頁)に散見されるだけの様子ですね。 それにしても、享保8・9年の代官特定がこれほど困難な事とは 思いもよりませんでした…でも、たとえ代官特定には至らないとしても、 『寛政重修諸家譜(22-421)』の記述と『江戸幕府代官履歴辞典(360頁)』などから 千種清右衛門の代官初任時期「享保14.7.1」&前職「勘定」は明らかで、 享保8・9年当時は勘定所の役人であることに揺るぎないように思います。 (もっとも寛政重修諸家譜には誤りも多いとされているようですが…^^) また『寝屋川市史 第五巻』の中の享保8・9年に登場するのは 「千種清右衛門」であって「千種庄右衛門」は欠片もない様子ですから、 一体何故あのような事態に陥ったのか全く見当もつきませんね^^ 「千種清右衛門」と「千種庄右衛門」は同一人物である事の推定は容易くても、 「千種庄右衛門」は存在しない事の証明となると不可能に近いのでしょうか? 一字違いの別人説でも主張されれば、打つ手がないかもしれませんね… ではまた^^

kyodosika
質問者

お礼

dayone 様  2011/06/04付のご教示拝読しました。毎々ながらご懇切な内容に感謝しています。ご指摘の、『寝屋川市史 第五巻』一六四は見落としていました。同じ上堀家文書で一六四のみ「井沢」になっていますね(一々記載しませんが他に幾つかあるのは伊沢です)。原文コピ-をと寝屋川市に特別依頼していますが、まだ見つからないとのことです。  2011/05/10付でご教示の資料『信濃 第45巻 第7号』を大阪中之島図書館に依頼していましたが、到着の連絡がありましたので本日行って当該部分をコピ-してきました。論文タイトルと著者は 享保期における地方法令の立案・審議過程-新田検地条目の成立をめぐって- 著者は林敬氏 です。 38頁に及ぶ論文で素人の私には理解困難かと思いますが、勘定所勝手方等での千種清右衛門活躍振りがうかがえると期待しています。  国松村での千種庄右衛門の件、行誓寺へも行きそれなりの努力もしていますが、お説の通り一度誤ると正すのには計り知れないものがあります。T氏の件、その師ともいえるH氏ばかりではありません。此所20年の労苦を顧みて非力を歎きますが、救う神dayone様の天啓に感謝しております。これも最近正に神仏に縋る思いで般若心経など勉強しはじめた果報と喜んでおります。  お時間がありましたら、homepae3.nifuty.com/の後に心経の大咒終句薩婆訶をくずしたsovakaを入力検0してみて下さい。  老骨に鞭打つkyodosika 拝

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  • dayone
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回答No.4

再々登場失礼致しますm(_"_)m 既に御存知なら無益かもしれませんが、 No.3の関連で追加カキコミをお許し下さい^^ 続・信楽多羅尾氏に関して… 残念ながら「河内国讃良郡国松村」との関係は不明ですが、 下記によれば「多羅尾光忠」の信楽代官の期間は 「宝永3年2月~享保10年4月」の間のようです。 (No.3の貞享2年6月26日~翌年5月の間の閉門というのは どうやら小普請時のようです) ◆『國學院大學図書館紀要 9/國學院大學/1997-03-20』 「近江国信楽代官所旧蔵古文書(1) 國學院大図書館所蔵古文書目録(二)/ 大谷貞夫・千田豊子編」』(109-129頁) http://ci.nii.ac.jp/naid/110005943595 <2/21>(110頁) 略系図4~6番目 久三郎・久右衛門 (4)光好(みつよし)(~延宝二)  右京・四郎右衛門 (5)光忠(みつただ)(~享保十) 四郎五郎・次左衛門(6)光頭(みつあき)(~享保十七) 本文1行目~ …(4)光好(みつよし)は(3)光太の家を継ぎ代官となったが、 寛文七年十一月に私曲のことがあって職を奪われ、同年九月に七〇歳で死んだ。 (5)光忠(みつただ)は小堀遠江守政一の六男で、 養父(4)光好の縁座で閉門せしめ寛文九年二月にゆるされ、 延宝二年十二月に至り遺跡を継ぐことが認められ小普請となった。 宝永三年二月に代官となり、享保十年四月に八二歳で死亡した。 (6)光頭(みつあき)は享保十年九月に遺跡を継ぎ、同年十二月代官となり、 享保十七年十二月に五九歳で死没した。… ◇『國學院大學図書館紀要10/國學院大學/2000-03-20』 「近江国信楽代官所旧蔵古文書(2) 國學院大図書館所蔵古文書目録(二)/ 大谷貞夫・千田豊子編」』(70-133頁) http://ci.nii.ac.jp/naid/110005943599 以上 一度始めると止まらない素人検索人ゆえ御容赦下さいm(_"_)m

  • dayone
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回答No.3

再登場、失礼致しますm(_"_)m先ずは小生の記載誤りから… 誤「河内國豊野村国松」→正「河内国讃良郡国松村」、 kyodosika様が先に明示されてらっしゃいますにもかかわらず 誠に失礼致しましたm(_"_)m 2000文字から4000文字に制限が緩和されたものの、 小生の無駄なカキコミが多いためNo.2でも4000文字ギリギリでした^^ 信楽多羅尾氏に関して、 ◇東京大学史料編纂所> http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/tosho/kensaku.html データベース検索> 「できごとを主題に-大日本史料総合データベース」 又は「人を主題に-(大日本史料総合データベース)」 にて「多羅尾」をキーワード検索しても 「索引」欄では光俊(四郎兵衛光俊<綱>)、光雅(作兵衛光正<雅>)、光太のみ、 辛うじて「網文」欄で 「貞享2年6月26日 幕府、勘定役坂部三左衛門・代官吉川源蔵・市岡清次等の失行を罰し、 三左衛門父子に死を賜ひ、源蔵・清次を流し、並に其子を放ち、 蘆浦(西川)朝舜・多羅尾光忠の職を褫き閉門を命す」の記述がある程度。 「多羅尾光忠の職を褫(と)き閉門」とは言え、単に謹慎だけなのか、 ◇『御当代記: 将軍綱吉の時代/戸田茂睡・塚本学/平凡社/1998』(480頁) 「…京都で普請を担当中に坂部と遊興し、これから金銀を借りた咎で三宅島流しとされ、 一方坂部に金を貸したとされる多羅尾光忠は閉門で、翌年五月にはゆるされている。…」 ◇伊勢四日市陣屋 http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/yokkaiti.htm 「四日市陣屋は、慶長8年に四日市代官水谷光勝によって築かれた。 代官はその後たびたび交代したが、享保7年に近江信楽代官多羅尾光忠が四日市代官を兼務した。 享保9年、大和郡山城主柳沢吉里の所領となり、柳沢氏が3代に渡ってこの地を領した。 享和元年、再び幕府直轄領となり、信楽代官多羅尾光崇が代官を兼務し、 以後明治まで代々多羅尾氏が代官を務めて明治に至った。」と 世襲代官を裏付けるような 記述もみられます。 「享保7年に近江信楽代官多羅尾光忠が四日市代官を兼務した。」記述が 正しければ、享保8・9年頃と僅か一年違いの同時期なので、 「河内国讃良郡国松村」の天領も信楽多羅尾氏の兼任等であれば 代官「多羅尾光忠」の可能性も有るのかな?と… 以上 お騒がせ致しました^^

  • dayone
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回答No.2

kyodosika様お久しぶりです、素人検索人のdayoneです^^ 享保八・九年の河内國豊野村国松?の幕府代官は誰となると 或る意味では辞書の逆引きのようなものですから難問ですね^^ 世襲代官とされる信楽多羅尾氏だったのか否かも?ですし… 「中振村役人日記」を未読でしたら 何らかのヒントに繋がるかもしれません。 前回同様GoogoleBooksで「千種清右衛門」にてキーワード検索したところ、 約247件(0.23秒)ヒットの中、6ページ目に「中振村役人日記」の一部抜粋情報。 なお「中振村役人日記」で キーワード検索した場合には一部抜粋情報が出ない様子です。 ◇中振村役人日記 枚方市史編纂委員会-1983- …3 今井九右衛門代官所 4 辻弥五左衛門代官所 13 万年長十郎代官所正徳 3 高谷太兵衛代官所享保 3 鈴木運八郎、佐藤甚右衛門…所 14 平岡彦兵衛代官所 15 千種清右衛門代官所 18 石原清左衛門代官所寛保 1 鈴木小右衛門代官所 3 青木次郎九^^宮所延… (文字化けもあり数字の意味も一部年号かも不明ではありますが、 一見すると代官か村役人の一覧か目次、索引風にも感じられます) 今井九右衛門、辻弥五左衛門、万年長十郎、高谷太兵衛、平岡彦兵衛代、石原清左衛門、 鈴木小右衛門、青木次郎九^^=青木次郎九郎とすれば…鈴木運八郎、佐藤甚右衛門の2名を除き… ネット検索では8名何れも代官歴任者のようです。 枚方市立図書館にて「中振村役人日記」を検索すると https://toshokan.city.hirakata.osaka.jp/cgi-bin/index?0 「中振村役人日記 1~4-枚方市史資料(第4~7集)/枚方市史編纂委員会/1980~1983」 4巻の蔵書があり、中央図書館に限らず香里ヶ丘図書館にも4巻揃いのようです。 過剰な御期待は禁物ですが、寝屋川からは目と鼻の先Let's go^^ 実は私、本籍は紀州、おけいはんから淀川を眺め通学・通勤河州(枚方市)在住30余年、 今は和州で大和人の身の上でございます^^ ところで… お示しいただいたWEBページを拝見して、改めて検索してみると 善し悪しは別にしてもT氏の影響が見え隠れしている様子も伺えますね。 (決して個人攻撃の意図は有りませんが…) 「昭和28(1953)年には行誓寺本堂前に「千種庄右衛門大人之碑」」については、 「昭和26年(46歳)6月、「寝屋川市誌」編集常任委員、寝屋川市文化会役員。 同月、寝屋川市役所奉職、固定資産税創設に従事。」したT氏、 「昭和40(1965)年には伏越樋のある堤上に「千種庄右衛門彰徳之碑」が建立…」についても 「昭和38(1963)年(58歳)4月、第二版「寝屋川市誌」編集主幹(1967年2月まで)。」のT氏と、 無関係と考えるには余りにも偶然が重なり過ぎるようにも思えます。 あと、昭和45年9月15日付のT氏の記述として 「国松地区の今日あるのは千種庄右衛門のおかげと、 その命日の1月26日には水引き正月といって村中の休日とし、 行誓寺で氏の供養するのが例となり今日にいたっています。」 http://www.geocities.jp/kakejiotto/jiichi/n020.html と命日まで特定している様子ですね。 また、「千種庄右衛門は、その責任をとって自害したと伝えられています。」 「千種庄右衛門については、行誓寺には「智久瑳昌右衛門霊」と記した位牌と 江州信楽の役人と云う伝承…」 「千種庄右衛門は、その後のこの地域の治水問題の責任をとって 自害したと伝えられていますが…」に至っては、 勘定所新田方出身の千種清右衛門直豊と同一人物とすると 誰でも「はあっ?!」と首をかしげたくなります。 それとも別人の可能性もあるのでしょうか?(笑) 『寛政諸家譜』の略歴までは存じませんが、 史料とまでは言えないため真偽は定かではありませんが、 ネット検索だけでも下記のように断片がヒットする様子です。 千種清右衛門(ちぐさ・せいえもん)…1689-1767倉敷代官 ◇『岡山県歴史人物事典/山陽新聞社/1994』 享保13年11月/代官鈴木平十郎・勘定千種清右衛門他/上野群馬郡福島村検地書抜帳*抄*土地 http://www.archives.pref.gunma.jp/mkrok/komonjo/src/kensaku/komonjo/k_kmj_0110_0_0.php4?mode=DSP1&seino=H23-15-2%B6%E1%C0%A4++++++++++ 享保14(1729)年­~/千種清右衛門/大坂谷町代官 ◇『近世村落の成立と展開: 北播磨地方を中心に/桑村寛/明石書店/2000.7』(117頁) (1732)?頃/千種清右衛門/新座 http://www.sinza.info/_sinzatte/index.html <享保20~元文2(1735~1737)年/井澤弥惣兵衛為永/勘定吟味役・美濃郡代兼任> http://www.cbr.mlit.go.jp/kisokaryu/bunko/1/kisso-VOL22.pdf 元文5(1740)年~/千種清右衛門直豊/倉敷代官・笠岡代官等兼任者 寛保元(1741)年~?/千種清右衛門直豊/倉敷代官専任者 http://www1.harenet.ne.jp/~wawa/kurashiki/kurashikitenryou.htm http://www7b.biglobe.ne.jp/~edorekisi-64syu/enkyo/enkyo-tiiki/enkyo-tyugoku/enkyo-bizen/enkyo-bizen.html 延享元(1744)年~?/千種清右衛門/幕領 代官 吉田村(笠岡)? http://www.tok2.com/home/ryutaroh/YoshidaMura/01_YoshidaMura.html 宝暦3(1753)年~宝暦4(1754)年/千種清右衛門/播磨国漆山代官所 宝暦7(1757)年/千種清右衛門/小名浜代官所 http://www6.ocn.ne.jp/~jyokoin/page8.htm 宝暦8(9?)年~明和(2?)3年/千種清右衛門直豊/美濃郡代・笠松陣屋 http://www.town.komono.mie.jp/k-backno/komono459/rekishi1.html http://www.pref.gifu.lg.jp/kyoiku-bunka-sports/shakaikyoiku/kankeikikan/rekishi-shiryokan/mokuroku/rekishi/24syoke/24syoke3-ueda.html http://www.cbr.mlit.go.jp/kisokaryu/bunko/1/kisso-VOL22.pdf ボツネタとしては、 「国立国会図書館>近代デジタルライブラリー」にて http://kindai.ndl.go.jp/index.html 例えば「日本財政経済史料」でキーワード検索すると 10巻の蔵書が存在し、そのうち巻四を確認してみると ◆『日本財政經濟史料 巻四/大蔵省編/財政経済学会/大正11.10』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925953/3 官制之部 一 第一、勘定書職制  八、御勘定所分課 ◇享保十一年丙午月日 在方御普請役發旦之事 <141/700>(217頁)…享保七年寅年古井澤彌惣兵衛… http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925953/141 ◇享保十三年戊申月日 <142/700>(219頁)…井澤彌惣兵衛… http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925953/142 ◇寛保三年癸亥月日 <143/700>(220頁)…井澤彌惣兵衛… http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925953/143 ◇延享三年丙寅月日 <143~144/700>(221~222頁)…彌惣兵衛… ◇寶暦三年癸酉月日 <144/700>(222~223頁)…彌惣兵衛…井澤彌惣兵衛… http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925953/144 享保十五年庚戌月日 <146/700>(227頁)…井澤彌惣兵衛… http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925953/146 官制之部 一 第二、地方職制 三〇、代官 <304/700> (543頁) ◇宝暦七年丁丑十二月廿七日 御料高御代官、幷御預所高書付 <305/700> (545頁) 越後 高六萬八千三百石餘 千種清右衛門 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925953/305 以上のとおり「井澤彌惣兵衛」は散見されますが、 …見落としもあるかもしれませんが… 残念ながら「千種清右衛門」の記述は一箇所のみの様子です。 吉報か否かにかかわらず何らかのコメントいただければ幸いです。 kyodosika様が御自身にてこのQ&Aを締め切らない限りは、 賢者・達人の方々の目にふれれば新たな情報・展開が得られるかもしれませんし 公開私書箱がわりにもなります^^志は十分立派な郷土史家様と思いますがボソッ^^

  • dayone
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回答No.1

郷土史家様こんにちは^^ …前回述べた口上の手前、見て見ぬ振りも出来ず 事績と呼べるような回答も持ち合わせていませんが… 現時点ではどなた様からもカキコミがない様子なので、 お邪魔してみました… 私自身今回は前回以上に悪戦苦闘なので、前回同様、 既に御存知の内容の場合は笑って許して下さいm(_"_)m ◇甲斐素直の家>6.享保の機構改革 http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/rekisi/042edo.htm 勘定所は享保六(1721)年閏七月の制度改革で、 行財政を担当する勝手方と裁判問題を所管する公事方の二系統に分かれ、 勝手方勘定所の下位分課としては、御取箇方(年貢収納担当)、新田方(新田開発担当)、 知行割方(幕臣への知行・俸禄支給担当)、道中方(五街道担当)などが設けられ、 大手門内の下勘定所の中に設けられた新田方は、新田開発の中核となる組織で、 発足時は、勘定奉行1名・組頭2名・勘定5名の陣容のようですね。 ◇話そうはりま>加古川水の新百景>新百景一覧>加古川水の新百景 http://www.kkr.mlit.go.jp/himeji/outline/river/database/kako_scene/56.html …大久保喜市郎は、享保8(1723)年に幕府勘定所新田方の千種清右衛門から新田開発の命を受け、 当時周辺21か村の入会秣場(まぐさば)だった原野を「青野原新田」として開発した人物。 この開墾は最初、大久保一族で請負のかたちをとる予定でしたが、 水利工事の困難さから代官見立て新田として願い出、幕府の許可を経てまず水路工事に着手… 上記に誤りがなければ、享保8(1723)年当時、 千種清右衛門直豊は下勘定所新田方として「青野原新田」開発の命を下す立場だったようですね。 えっ?!たったこれだけ?とお嘆きの声か失笑が聞こえそうなので、少々オマケを… ただし、郷土史家様ならば既に読破済みかもしれませんから、 御存知の内容ならば、見て見ぬふりで見逃して下さい^^ あと、勘定方限定のお話でもなく又断片的な情報に過ぎない事を 先にお断り申し上げますm(_"_)m ◆GoogleBooks http://books.google.co.jp/ にて「千種清右衛門」をキーワードに検索すると約268件ヒット。 ◇GoogleBooks「千種清右衛門」 http://www.google.co.jp/search?tbm=bks&tbo=1&q=%E5%8D%83%E7%A8%AE%E6%B8%85%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80&btnG=%E6%9B%B8%E7%B1%8D%E3%81%AE%E6%A4%9C%E7%B4%A2 その一部抜粋文からピックアップしてみますと、以下のとおりです。 (なお、抜粋文は画像情報から文字情報に自動作成される為か、 記号・特殊文字、俗字・旧字などで一部文字化けもあるようなのでご注意ください) ◇『信濃: 第45巻/信濃史學會/1993』 (49頁) …勘定千種清右衛門直豊、同布施弥市郎胤条、同遠山孫次郎某、同菊池文五郎武卿、 同井沢弥惣兵術為永が配属され、この新田方を中心に新田政策は展開されたのである。… (※「同井沢弥惣兵術為永」は「同井沢弥惣兵衛為永」の文字化けのようです) ◇『近世村落の成立と展開: 北播磨地方を中心に/桑村寛/明石書店/2000.7』 (117頁) 播磨地方の幕領にあっては享保十四年[一七二?九]大阪谷町代官となった千種清右衛門の業績が大きく、 彼が関係した新田には青野原新田など例も多い。さて、この千種清右衛門… ◇『寝屋川市史: 第5巻/寝屋川市史編纂委員会/2001.3』 (69頁) …勢田より下宇治迄川浚之ケ条有之二付、山城水辺村々難義仕候趣、 其節之御巡見千種清右衛門様、伊沢弥一二兵衛様、宇治川、… (※「伊沢弥一二兵衛様」は「伊沢弥惣兵衛様」の文字化けと思われます) (288頁) 甚左衛門千種清右衛門様井沢弥惣兵衛様□享保十五年二七三□二月六日友呂岐悪水井路と用水新井路の流路について… (「伊」と「井」の問題はありますが、 千種清右衛門・井沢弥惣兵衛両氏が併記されているようですね) ◇『枚方市史/枚方市史編纂委員会』 (※『枚方市史/枚方市/枚方市役所/1951.3』<全1冊>と 『枚方市史 第1巻~第12巻・別巻/枚方市史編纂委員会/枚方市/1967~1995』<全13冊>の 二種類があるようで、現物を見ないと特定困難の様子です) (84頁) 第6表享保期の所領配支配村高|村名支配千種清右衛門代官所平岡彦兵衛… ◇『宝塚市史:第5巻/宝塚市史編集専門委員会/1978.12』 …より享保五子迄鈴木九太夫様御代官所(御免)□□定御座候―享保六丑年よ□同拾三申年迄 平岡彦兵衛様御代官所御免定御座候―享保十四酉年よ□千種清右衛門様御代官… ◇『新修加東郡誌: 資料編/加東郡誌編纂委員会/加東郡教育委員会/1974』 …こうして着手された青野原新田の開発は、 元文二年(一七三七)の千種清右衛門の検地によると、 村高五三四石余(田畑反別八二町八反余)に達し… 他にも代官時や美濃郡代時の記録も散見されます。 上記のうち 『近世村落の成立と展開: 北播磨地方を中心に/桑村寛/明石書店/2000.7』、 『寝屋川市史: 第5巻/寝屋川市史編纂委員会/2001.3』、 『枚方市史/枚方市/枚方市役所/1951.3』<全1冊>、 『枚方市史 第1巻~第12巻・別巻/枚方市史編纂委員会/枚方市/1967~1995』<全13冊>、 『宝塚市史:第5巻/宝塚市史編集専門委員会/1978.12』、 http://www.oml.city.osaka.jp/info/10chuo/index.html http://www.oml.city.osaka.jp/internet/japanese/ 何れも大阪市中央図書館(西区北堀江<西長堀駅>)に蔵書が有る事が確認でき、 『新修加東郡誌: 資料編/加東郡誌編纂委員会/加東郡教育委員会/1974』は、 兵庫県立図書館、神戸市立中央図書館での蔵書確認ができました。 一番食指が動く『信濃: 第45巻/信濃史學會/1993』は京阪神では無理なようですが、 長野県内公共図書館横断検索サービスにて http://www2.library.pref.nagano.jp/ タイトル「信濃」出版者「信濃史学会」出版年月「1993」と入力して検索すると 長野市立図書館など13館には<雑誌「信濃」の合本製本/半年分綴又は年間分綴> の何れかの蔵書がありますが殆どが館内のみで館外貸出禁止。 『信濃 第45(上)1号~6号 平成5年/松本 信濃史学会/1993年』 『信濃 第45(下)7号~12号 平成5年/松本 信濃史学会/1993年』 『信濃 第45巻 第1号~第12号 平成5年/信濃史学会/1993年』 ところが、幸いな事に長野県内では「伊那市立高遠町図書館」が唯一「貸出可」の様子^^ 一次史料ではありませんから蓋を開けてみない事には何とも言えませんが、 仮に未読ならば郷土史家様最寄りの図書館から「図書館間の相互貸借制度」を 利用しない手はないと思いますが如何でしょうか? 以上のとおり断片的な情報で申し訳ありませんm(_"_)m あとは賢者の方々の登場に期待しましょう!!

kyodosika
質問者

お礼

da-yo-ne 様 適格なご指導をいただき、ありがとうございました。  先に、山ねきの土民のマナ-無視といえる妄挙に対し慈愛あふれるお諭しを頂き痛み入っておりましたが、今回も救うものなきを見かね、懇到なるご回答を頂き感激致しております。 愚生が千種清右衛門の細事にまで拘りますのは、下記の「寝屋川市の文化財」を紹介する寝屋川市のweb記事に疑問を持っての事であります。 http://www.city.neyagawa.osaka.jp/index/soshiki/bunka/namaedesagasou/077chigusashouemonhi.html  ここで云う享保9年の国松村悪水伏越樋は、幕府勘定方の千種清右衛門・伊沢弥惣兵衛(注1) による御救普請であることは宝暦10年の国松村の地方文書(御巡見様あて当該樋改修願の控)より見てもあきらかであります。只どういういきさつか近年地元では多羅尾代官所(当時国松村は幕府領)の役人(代官とする市の発行物もある)千種庄衛門が身を犠牲にして施行した恩人として祀られています。 いずれにしても、国松村の人々にとっては大恩人であり神仏として祀る心情は、旱害や水損の被害に泣かされた農民(小生は近在の土着農民です)には理解出来ますが、市が誤った判断に基づき「寝屋川市の文化財」とするのは残念です。 寝屋川市では、下記の別のペ-ジでは上記と若干異なる解説をしています。 http://www.city.neyagawa.osaka.jp/index/soshiki/bunka/sin-hakei/sansaku-ruto/shiinomori.html  いずれにしても誤りは正さねばと、情報の入手に窮しgoo教えてでご援助をおすがりした所であります。da-yo-ne様のご回答により正鵠に迫ることが出来ると喜んでおります。 ただ、市では一命を擲っての美談として小学校3・4年郷土研究の副読本にまで掲載しています。  なんとか、真実を伝え早期是正をと考ええますが、誤りを糺すには的確で具体的に解りやすい証拠類を示すが必要です。その一つとして河内国讃良郡国松村の享保8・9年の支配代官が誰であったかです。 (注1) 管見でありますが、大阪での古文書では何れも「井沢」でなく「伊沢」としています。 追記  お恥ずかしいことですがgoo教えてのサインkyodosikaのsikaは「史か?」「疵瑕」をかけたつもりでした。しかし「郷土史家」と漢字で表記されると駄洒落にもならず、何時もの愚挙と悔いるしだいです。

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