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江戸時代の美濃国について

江戸時代の美濃国は、この地に強大な大名が出現しないように、江戸幕府の天領になっていたようですが、強大な大名が出現する要素は具体的には何だったのでしょうか?

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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • pri_tama
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回答No.2

 恐らくは、司馬遼太郎先生の国盗り物語に出てきた「美濃を制するものは天下を制す」と言う言葉(創作では無いと言い切るだけの資料を私は知りません…。)からの連想だと思います。  まあ、岐阜は信長が「周の文王 岐山に起って 天下を定む」の故事(他説も有るが…。)に倣って命名し、ここの地より天下布武の印を使い始めたことから、後の徳川幕府にしてみればこの地に有力な大名をおく事を避けたかったのは無理からぬ事(徳川氏に代わる天下人の出現を髣髴させる)だとは思いますが…。  (関ヶ原の戦いの後、わざわざ岐阜城を廃城にして、その近くに加納城を縄張は徳川家康自身が行い、普請奉行は本多忠勝が担当し、近隣の大名を動員した天下普請で築城し、家康の娘婿の奥平信昌を入城させる位の念の入用…。)  ただ、それだけだと一応岐阜生まれの自分としては少し寂しいので…。  まず、美濃という地は、関ヶ原の戦い等が行われたように交通の要所でありますし、石高が54万石と日本でも有数の豊饒の地(多くの国が1ヶ国で10~30万石程度。まあもっと大きい国も有りますが…。)であったりします。  また、美濃の国が他の国と違う所は、戦国時代における下克上の風潮が他国よりずっと早く起っている事です。  美濃における下克上の始まりは、応仁の乱での斎藤妙椿によります。  彼は、主君である土岐成頼が西軍として京に在陣している間に、美濃における敵の拠点になる恐れがある幕府奉公衆の所領、公家や寺社の荘園と国衙領を押領し(後に戦国大名がその扱いに困る小領主の排除をこの時点で達成)、その権力は美濃だけに留まらず尾張、伊勢、近江、飛騨までおよび、西軍をの去就を左右するまでの存在になります。  (官位も土岐成頼の従五位下を超えて従三位権大僧都に昇っている。)  ただ、妙椿の後を継いだ斎藤妙純(養子)の代で、妙純とその嫡子を含む家中の主要な者が土一揆に巻き込まれて戦死すると言う事態に成ります。  その後、復権を狙う土岐氏との争は、越前・近江・伊勢・尾張と言った近隣勢力の激烈な介入で、美濃守護土岐氏小守護代の長井家家臣として頭角を示し始めた松波庄五郎(後の斉藤道三←ただし最近では道三の美濃国取りは父との2代で果たしたとの説が有力)が躍進するきっかけとなります。  道三は、最終的に織田との間で婚姻関係に基づく同盟を組む事で、織田の支援を得て美濃統一(統一を完了したのは子の義龍に家督を譲る2年前[1552年]。←つまり、うつけ者信長と会見した時点では統一していない)を成し遂げますが、統一過程で頻発した抵抗勢力に対する苛烈な処罰[牛裂き、釜茹]は、心情的に土岐家を慕う旧臣の反発を受け、長良川の戦いで道三の戦死につながります。  ただ、これらの美濃の混乱は、後世の者が戦国時代として真っ先に思う時代(信長が今川義元を桶狭間で討って躍進以降)より前の話であるため、認知度が低いのですが…。  信長が美濃を手にして以降は、その善政(楽市楽座)も有って、発展と安定が続きますし。  また意外と忘れがちですが、関ヶ原の直前では、信長の孫である織田秀信(秀吉が擁立した三法師)を岐阜城の城主にして、その家臣には旧斉藤家臣などの美濃家臣団の再集結を達成していたりします。  (また近隣小大名も美濃衆だったりする…。)  美濃の小大名の大部分は、その内心は兎も角、秀信が西軍に味方すると言った際(家老など多くの者が、家康に味方するように諭したにも拘らず…。)には、素直に従い、秀信の岐阜城が陥落して以降の段階で徳川に鞍替えしています。  (心情的には、豊臣恩顧ならぬ織田恩顧の武将がまだ存在していた。)  あと、最後に美濃の国情ですが、飛騨や信濃などの国境を除くと南方の伊勢湾にまで到るまで、山どころか丘さえ殆ど無い極端な平野(木曽川・長良川・揖斐川の三大河による洪水によって出来た扇状地)です。  織田信長が宣教師から地球が丸いと言う事を伝えられたとき、瞬時にそれを理解したとされますが、岐阜城から伊勢湾方面への景観は、地球の丸さを示す地平線を見る事が出来ます。    http://www.panorama-yakei.com/19/gifujou/nightview/panorama-photo_01.html  この極端なまでに続く平地(数十キロに渡って河川以外の地勢障害物が無い)が逆に、美濃に侵攻する勢力にとって、補給線の極端な延長と野戦で不利な情勢に成った場合、地形を利用して踏みとどまる事を許さない状況に陥ります。  (秀吉の一夜城は、こういう地勢の中で補給を容易にする中継庫としての意義が有る。)

oshietezou
質問者

お礼

岐阜は自民党系議員が強く保守的なイメージがありましたが、それは今だけで、昔は下克上などの実力主義だったのですね

その他の回答 (1)

  • fujic-1990
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回答No.1

 寡聞にして、「この地に強大な大名が出現しないように」という話は聞いたことがなかったので、的外れかも知れませんが、長らく土岐氏が権威をもって統治できたことと関係があるかもしれません。  ご存じの通り、信長が登場する少し前に斎藤道三が権力を握ってしまうわけですが、それまで争乱らしきものがなく、また斎藤道三が権力を握った後も(歴史てきには)一瞬で権力を握り、統治できる体制をつくってしまうことができました。  小競り合いがない。  なぜか、ということです。  研究者ではないので想像するだけですが、あの地は比較的京都にも近く、古来の権威に服従する精神が色濃く残っていたのではないですかね?  つまり、その地に優れた指導者が出ると、素直にその人を認めて、従う性質をもっていたのでは、と幕府も思ったのではないでしょうか。  それは江戸幕府に対する反逆にもつながりますので、優れた者を配置しにくかった、と。  さらに、場所的にも、中国九州の外様大名と江戸との中間にあって、戦争が起きるとしたら、京都を背中にしょって江戸勢を押しとどめる防波堤になりうる場所です。  山がちですので、攻め込みにくい(攻め込み易かったら土岐氏はもっと早く滅んでいたのでは)。攻め込んでも、山に逃げ込まれると掃討するのに時間がかかる。  名古屋を前にしているので、商業からも利益を取って、武力などを蓄えやすい。 などなどが考えられると思います。

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