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江戸時代の「大名改易」

「幕府は江戸時代を通じて、諸大名を一つでも減らすことを考え続けていた」という見方があります。 6代家宣以降(1709年以降)幕末までのおよそ160年間に改易された件数は、wikiの「改易」によればわずか19件です。 そこで質問ですが「諸大名を一つでも減らすことを考え続けていた」と言えますか。 幕府は、大名改易に関してどんな基本方針をもっていたのですか。 家宣以降は、将軍権力の改易・転封をちらつかせて大名を統制したというよりは、大名家をなんとか存続させてやろうと務めたと見る方がよいのではないかと思うのですが、如何ですか。 よろしくお願いします。

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  • ithi
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回答No.2

kouki-koureisyaさん、こんばんわ。 kouki-koureisya 暇なときに回答ください 江戸時代の「大名改易」 「幕府は江戸時代を通じて、諸大名を一つでも減らすことを考え続けていた」という見方があります。 6代家宣以降(1709年以降)幕末までのおよそ160年間に改易された件数は、wikiの「改易」によればわずか19件です。 そこで質問ですが「諸大名を一つでも減らすことを考え続けていた」と言えますか。 家康から3代将軍家光までや5代将軍綱吉の時代では明らかにその方針で大名の廃絶を行っていました。とくに有力な外様や親藩大名などはその対象になりやすかったです。理由は幕府に対して敵対しそうだからでしょう。 だけど、4代将軍家綱のころに起きた慶安事件で大名廃絶による浪人の増加は幕府にとって危険な問題になりました。そのころから徐々に武断政治から文治政治に路線変更を行いました。ここで大名家の末期養子の緩和を行いました。そうすることで大名家の廃絶をなくすようにしたのです。 幕府は、大名改易に関してどんな基本方針をもっていたのですか。 その基本方針は武家諸法度です。この法度を破ると改易・厳封、転封などの処分がありました。 家宣以降は、将軍権力の改易・転封をちらつかせて大名を統制したというよりは、大名家をなんとか存続させてやろうと務めたと見る方がよいのではないかと思うのですが、如何ですか。 もはや天下は泰平となり、幕府に敵対するような大名もなくなったので、幕府も幕藩体制の存続することが幕府の方針になったからでしょう。 詳細は下記のURLを参照ください。 武家諸法度 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E8%AB%B8%E6%B3%95%E5%BA%A6 徳川家綱 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E7%B6%B1

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 よく解りました。 >もはや天下は泰平となり、幕府に敵対するような大名もなくなったので、幕府も幕藩体制の存続することが幕府の方針になったからでしょう。 なるほど! すっきりしました。

その他の回答 (4)

noname#224207
noname#224207
回答No.5

No.3.4です 補足を頂戴しましたので説明させて頂きます。 >記載されている本を教えて下さい。 読み易くて比較的まとまったものとしては 江戸大名の御引越 居城受け渡しの作法 白峰 旬  新人物ブックス 新人物往来社 数値についてであれば 日本史総覧 近世1(改易大名表) 新人物往来社 1984版 江戸の町というのは、全国レベルで見ると非常に特異な街です。 江戸には全国の藩の藩邸があり、幕府があたかも現在の霞ヶ関の官庁のような印象を与えますが、実際は異なります。 幕府のイメージは、むしろ現在の国連とアメリカを足して2で割ったようなイメージの方が近いかもしれません。 幕府が直接江戸という徳川家の城下町の管理もしていましたのでややこしいイメージになります。 徳川家の城下町であった江戸の町のイメージで、江戸時代を考えると大きくズレてしまいます。 藩幕制下での藩の性格や藩士について下記のものが手軽で読み易いでしょう 藩と日本人 現代に生きる<お国柄> 武光 誠 PHP新書 江戸300年「普通の武士」はこう生きた 八幡和郎/臼井喜法 ワニ文庫 江戸とは全く異なる様相を呈していた大阪について下記の書籍に一度目を通されることをお薦めします。 武士の町 大阪 「天下の台所」の侍たち 薮田 貫 中公新書 武家の気質も藩によって異なります。 元禄御畳奉行の日記 尾張藩士の見た浮世 神坂次郎 中公新書 各藩が根回しや情報交換に苦労していたようすは 江戸お留守居役の日記 山本博文 講談社学術文庫 中央政府が機能している現在とは大きく異なる時代ですので、全体を鳥観しながら楽しんで下さい。  

kouki-koureisya
質問者

お礼

しつっこい質問者に丁寧にご回答下さって誠にありがとうございます。 私は、疑い深い性格ですぐに“ホント?”と言ってしまうのです。 「現在確認されている各将軍が行った改易数」が225と聞けば、根拠を確かめたくなります。 wikiを信用している訳ではないですが、wikiとの差が大きい吉宗、家茂の代の改易を調べてみたくなりました。 『日本史総覧4 近世1 新人物往来社 1984版』は図書館にありました。 白峰 旬 氏の論文は、別府大学紀要で読むことができますので、これまでに何回も「城受け取り」の実例を読んでいます。 「城持ち大名を改易して城を接収する際には、完全武装をした上で受け取りを行いました」と仰る意味は、理解しているつもりです。 中でも「元禄14年の脇坂家による播磨国赤穂城在番について--播磨国龍野藩家老脇坂民部の赤穂城在番日記の分析より 」は、赤穂城受け取りの話で実に面白かったです。 『元禄御畳奉行の日記』は読みました。 山本博文著『お殿様たちの出世 老中への道』は読みましたが、『江戸お留守居役の日記』は未読です。 ただ私は、孫の話相手になれればよいので精読ではなく、乱読です。

noname#224207
noname#224207
回答No.4

No.3です わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。 お礼の中に追加のご質問がありましたので、説明させて頂きます。 先ず御理解頂きたいのが改易という政治手法の目的です。 藩幕体制というのは、徳川家を頂点として大名をピラミッド型の組織構造に組み込んで統制することが基本的な構造となっています。 これは、見方を変えればあくまでも徳川家の為の構造です。 幕府というのは、あくまでも徳川家です。 徳川家が朝廷から大名を統制する統制権を認められていただけです。 現在にように全国を統治する中央政府ではありません。 この統制権を返還したのが、幕末の大政奉還と呼ばれる儀式です。 大政奉還後も薩長が執拗に戦闘を継続させたのは、藩はあくまでも独立国家であったためです。 徳川家が大名の統制権を放棄しただけであって中央政府が崩壊した訳ではありません。 実態はともあれ、中央政府である朝廷は厳然と存在していました。 各大名家は現在の国家と同じように他家の内政に干渉できません。 これは、幕府といえども同様で、藩政への口出しはできません。 すなわち、各藩の意想を管理することができません。 このような状況下で藩幕体制を維持する手段としてとられたのが改易という手法です。 城持ち大名を改易して城を接収する際には、完全武装をした上で受け取りを行いました。 戦国時代の占領軍の進駐とおなじ姿形式で行われました。 命令一つで殿様が腹を切ってオシマイという簡単なものではありません。 改易された側に、もし、意志があれば、籠城して交戦することが充分可能でした。 現在もしばしば行われる、米軍が進攻して政権を解体して暫定政府を樹立するのと基本的に変わりがありません。 徳川家としては、いつでも改易という擬似宣戦布告を行使する用意があることを示し、事実行使して見せることは必要不可欠です。情状酌量の余地はありません。 綱吉は、先代の家綱に男子がいなかったことから急遽迎えられた養子将軍です。 自身の政治基盤を確立するために、家門6家、譜代22家、外様17家と譜代や家門(親戚)を中心とした改易を断行しています。これによって養子であることで軽くあしらわれることを徹底的に排除しました。 これだけ重大な行動ですから、当然軽々に発動させることはしません。 幕閣も慎重になるのは官僚としては当然のことです。 幕閣が審議を重ねて回避できるものであれば回避策を講じるのは当然のことです。 つまらんお家騒動や嫡子の有無などを一々理由にしていたら、財政は圧迫され仕事が増えだけです。 官僚としては極力避けます。 情けがどうのこうのということで審議をして回避策を模索している訳ではありません。 改易と家名断絶とは全く別次元の話です。 改易になっても「家」の存続継承を認めるのはこの為です。 分家本家というのは、本社や支店とは全く意味が違います。 分家であっても、一つの独立した家系です。御三家をみて頂ければおわかりのように、水戸徳川家はあくまでも水戸徳川家です。 分家を断絶するということは、水戸徳川家を断絶することと同じです。 千代田城にいる徳川家が断絶するわけではありません。 分家のあとを本家が引き取るというのは、同じ家名の別の家系が引き取るという意味です。 支店を閉鎖して本社が事務を代行するのとは本質的に違います。 大名家にも大きく分けて二通りあります。 いわゆる土着大名と官僚型大名です。 外様大名のように、先祖代々の領地を保有し続けた大名と、幕府の命に従って領国を転々と変えていった大名です。 幕政に関与できるのは譜代大名か家門大名のみです。外様大名は一切関与できませんでした。 譜代大名や家門大名は江戸城内ではあくまでも一官僚です。 微禄の大名ほどセッセと働かされました。 功績を挙げれば当然役職も上がります。 ここで問題は給与です。 大名というのは幕府から給与をもらっている訳ではありません。 あくまでも自分の領地からの収入に頼っていました。 収入を増やすには領地を広げる以外に方法はありません。 領地は広がりませんから、より広い領国へ引っ越すことになります。 あるいは、他の領国を新たに貰うことになります。 領国が増えれば、家臣の二三男で仕事がなかった者も仕事にありつけます。 田沼意次や柳沢吉保が出世して石高がどんどん増えたというのは、領国が増えたということです。 言い換えれば、誰かが領国から追い出されたということです。 幕政を司っている幕閣にとっては新たな領国が常に必要です。 大名を潰せば、一人や二人分の報償は簡単に捻出できます。 大名を改易するメリットは幕府の官僚には充分にあるということです。 後は、メリットと実行するための膨大な費用と手間とのそろばん勘定です。 情でそろばんを弾いている訳ではありません。 注:譜代大名というのは、石高1万石以上の幕臣です。1万石未満200石以上を旗本と称します。 200石以下は御家人です。 城を持たない大名もいます。 藩幕体制というのは停滞していたようで、内実は弱肉強食の出世競争の世界だったということを御理解願います。 追加でご質問があれば補足をお願いします。

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度の詳しいご回答ありがとうございます。 私自身が、改易をよく理解できていないせいかも知れませんが、まだよく分かりません。 質問の原点は、6代家宣以降では改易される大名が激減しているところから「諸大名を一つでも減らすことを考え続けていたと言えますか」ということです。 #1、#2の方のご回答は納得できるのです。 例えば「武断政治から文治政治への転換によって、隙あらば大名家の取りつぶしを!との方針から社会の安定を優先することになった」とか 「もはや天下は泰平となり、幕府に敵対するような大名もなくなったので、幕府も幕藩体制の存続することが幕府の方針になったからでしょう」とか。 また、前回ご回答いただいた「即ち幕閣が改易などの手出しができる大名の絶対数が急激に減少しています。幕閣の政治能力の低下も影響しています」という理由は分かります。 >幕政を司っている幕閣にとっては新たな領国が常に必要です。大名を潰せば、一人や二人分の報償は簡単に捻出できます。大名を改易するメリットは幕府の官僚には充分にあるということです。後は、メリットと実行するための膨大な費用と手間とのそろばん勘定です。情でそろばんを弾いている訳ではありません。 なんとか理由をつけて大名を潰して、他の大名に与える新しい領地を増やしたいのであれば、「無嗣断絶」で改易した場合は、遺領を取り上げたらよさそうなものですが、親族が立藩したり、再封されたりもしています。 >いつでも改易という擬似宣戦布告を行使する用意があることを示し、事実行使して見せることは必要不可欠です。 これはよく解ります。 だから「諸大名を一つでも減らすことを考え続けていたのだ」ということでしょうか。 家宣以降幕閣は、改易で牢人が増加することによる社会の不安定よりは、幕藩体制の安定維持を方針としたという見方に納得しています。 決して私が望んだ回答だからという訳ではありません。

kouki-koureisya
質問者

補足

現在確認されている各将軍が行った改易数は225家だそうですが、これについて図書館で調べてみたいと思いますので、記載されている本を教えて下さい。

noname#224207
noname#224207
回答No.3

>6代家宣以降(1709年以降)幕末までのおよそ160年間に改易された件数は、wikiの「改易」によればわずか19件です。 Wikipediaの掲載にやや不備があります。 家康が征夷大将軍に任官しているのは、慶長8年(1603年)です。 それ以前の関ヶ原の戦後処理の大名取り潰しは、幕府が行った改易とはカウントされません。 現在確認されている各将軍が行った改易数は以下の通りです。 家康  1 秀忠 55 家光 57 家綱 26 綱吉 45 家宣  3  家継  1 吉宗 12 家重  4 家治  2 家斉  4 家慶  3 家茂 11 慶喜  1  計 225 中期以降は、将軍の子女の婚姻先の大名が増え、統制の対象とされる大名が減少しています。 幕府の経済支援を受けるために,藩主に男子の子供ががいるにも関わらず、将軍家から養子を貰い受けるケースが頻発しています。 薩摩藩のように外様の雄であるにも関わらず養子を藩主として迎え入れているケースもありました。 藩主の正室として姫を迎え入れているケースも多数あります。(いわゆる持参金目当てです) 江戸古地図を御覧頂ければ判りますように松平姓を名乗る大名家が次々と増加しています。 上記の225家のうち将軍家の親戚(家門)の改易は15にとどまっています。 家重以降、家門はゼロです。 即ち幕閣が改易などの手出しができる大名の絶対数が急激に減少しています。 幕閣の政治能力の低下も影響しています。 時代が下るにつれ、前例主義、事なかれ主義が蔓延して制度が硬直化して行きます。 それでも幕末まで改易という手法は取られ続けました。 徳川藩幕体制というのは、中央集権国家体制ではありません。 各大名は完全に独立した組織で、徳川家がその中でダントツに大きかっただけです。 大名は幕府に雇用されている訳ではありません。 藩というのはあくまでも軍事組織です。 江戸時代というのは、いわゆるパワーバランスの上に成り立っていました。 幕府は藩政には一切口出しはできません。口出しをする意志もありません。 飢饉の際に、食糧の融通や支援などは一切行っていません。 融資の申し入れがあれば、あくまでも金銭貸借として処理しています。 結果として、隣接する藩で餓死者の数が極端に違うという現象が起きています。 >大名家をなんとか存続させてやろうと務めたと見る方がよいのではないかと思うのですが、如何ですか。 改易というのは、幕府が幕臣をクビにするのとは全く意味が違います。 姻戚外の大名に情けをかける理由などどこにもありません。 どのような根拠で務めたとお考えでしょうか?

kouki-koureisya
質問者

お礼

詳しいご回答をありがとうございます。 >中期以降は、将軍の子女の婚姻先の大名が増え、統制の対象とされる大名が減少しています。 >上記の225家のうち将軍家の親戚(家門)の改易は15にとどまっています。 家重以降、家門はゼロです。 即ち幕閣が改易などの手出しができる大名の絶対数が急激に減少しています。 幕閣の政治能力の低下も影響しています。 つまり、家宣以降改易される大名・小名が極端に減ったのは、以上のような理由によるということですね。 解りました。 >姻戚外の大名に情けをかける理由などどこにもありません。 どのような根拠で務めたとお考えでしょうか? Wiki「改易」の1709年以降の19件の一覧表を見ただけの印象ですが、「無嗣断絶」で改易されたケースでもその多くは、遺領は分知される前の本家に還付されたり、親族が立藩したり、再封されたりもしています。 一方、分知が許可される場合もあって、「諸大名を一つでも減らすことを考え続けていました」という見方に疑問をもちました。 また、実際には老中を中心とした幕閣が政事を行ったわけですから、“情けをかける理由はない”と断定できるものでしょうか。 さらに、一つでも減らさねばならぬ理由(メリット)もよく分かりません。 福田 千鶴著『御家騒動』 (中公新書)を読んだとき、次のような内容をメモしています。 1.幕府は大名統制の一環で改易する絶好の理由として御家騒動を利用したとされるが実際には騒動が露見しても改易にならない事例が圧倒的に多い。 2.幼少とは何歳までか。近世前期の17歳以下の幼少者が相続した事例を集計すると全体の3割強に。この事実から家督相続者が幼少であっても幕府の方針としてはなんとか大名家を存続させようと努めており、将軍権力が幼少を理由に改易・転封権を行使して大名を統制した通説は誤り。

  • trajaa
  • ベストアンサー率22% (2662/11921)
回答No.1

武断政治から文治政治への転換によって、隙あらば大名家の取りつぶしを!との方針から社会の安定を優先することになった 転換前は、徳川家の統治体制の確立と将軍家の権威を高める為にも、少しでも徳川体制への障害になりそうな(今現在ではなく将来的に見て)大名家は、徹底的にマークされた で、かなりの大名家を取りつぶす結果になった そうなると、主家を失った家臣達が浪人となって世の中に溢れるようになり、再就職も侭ならず 不平浪士達の不満の象徴として、由井正雪の乱のような社会的事件も起きるようになった 徳川統治体制も整ったこと、無闇に浪人を増やすことのデメリットが顕著になったこと、そういう要因によって、それまでの大名の統治方針を大きく転換して、末期養子を認めるなど幕藩体制の安定を優先した それ以降の取り潰しは余程の不始末でも無ければ行われなかった 以前であれば改易に相当するような事案でも、領地の大幅な削減を行って実質的には改易でも家名だけは存続させるというような対処を行う様になった 例えば、米沢藩上杉家のような領地半減とか

kouki-koureisya
質問者

お礼

早速のご回答ありがとうございます。 よく解りました。 「諸大名を一つでも減らすことを考え続けていた」という見方を信じ込んでしまうところでした。

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