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もし、徳川吉通が生きていたら、8代将軍は誰だった?

もし、7代将軍の徳川家継が死んだ時点で、尾張藩第4代藩主の徳川吉通が生きていたとしたら、8代将軍は誰になっていたでしょうか? 徳川吉通になっていたでしょうか? それとも、徳川吉宗だったでしょうか? 尾張藩の方が紀州藩よりも家格は高いですが、徳川吉通は家康の玄孫なのに対して、吉宗は家康の曾孫であり、吉宗の方が家康との血縁が近いです。 7代将軍の徳川家継が死亡した時点で、徳川吉通が生きていたら、8代将軍は徳川吉通になっていたか、それとも徳川吉宗になっていたか、予想を教えてください。

noname#224259
noname#224259
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  • oska2
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回答No.1

>もし、徳川吉通が生きていたら、8代将軍は誰だった? 難しい質問ですね。 が、徳川吉通は「藩内でも評判が芳しくない殿さま」だった様です。 尾張徳川藩の畳奉行の日記「鸚鵡籠中記」には、 「吉通は、ひどい大酒飲みで酷い事をする」 「家臣をいつも批判して、他人の意見を全くきかない」 など、延々と批評が書いています。 ※松の廊下事件や赤穂事件(吉良邸押し込み事件)についても、冷めた記録を残しています。 ※この日記によると、フィクションである忠臣蔵とは全く異なった内容が書いてあります。 >徳川吉通は家康の玄孫なのに対して、吉宗は家康の曾孫であり これも、眉唾なんですね。 徳川実記は、あくまで勝者の+為政者の都合による記録に過ぎません。 ただ、玄孫・曾孫といっても・・・。 吉通の実母が、宜しくない。 色んな色男に手をつけています。 流石に藩主の御生母でも、41歳で蟄居謹慎となり71歳で亡くなるまで幽閉生活です。 家臣の評判も実母の評判も芳しくない事は、幕府でも把握しています。 対して、吉宗の場合。 何故か、紀州徳川家を継ぐ兄が順番に死んでいますよね。 棚から牡丹餅形式で、吉宗が尾張藩主の座に付きました。 実母も、質素な農家の娘ですよね。 藩内では、まずまずの評判だった様です。 ※これも、為政者の記録に過ぎません。 この点から見ると、やはり吉宗でしようかね。

noname#224259
質問者

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御回答ありがとうございました。

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  • jkpawapuro
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回答No.3

徳川吉通の評判も徳川継友の評判と同じで、手堅い財政通で藩財政を建て直しそのうえで尾張全体の経済も底上げしてますよね。まあ尾張全体の経済は藩政とは無関係に向上したのかもしれませんが、財政規律がきっちりしてるってのがポイントです。無駄金使わない藩主というのは大奥にとって最大の敵です。 一方吉宗は自分の立場を確立するといった意味できわめて手堅い政治家で、将軍就任前には確実に幕閣や大奥にたいしては耳障りのいいことしか言わず手堅く支持を集めたことでしょう。 となると将軍継嗣争いの立場としては、吉通にしろ継友にしろ立場がまったく同じなので、大奥の支持は得られず吉宗が勝つと予想します。

noname#224259
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。 吉宗の将軍就任は、天英院の鶴の一声で決まったとか聞いた事があります。 月光院に押され気味だった天英院が大奥の最高実力者に戻れたのは、江島生島事件がきっかけだそうですね。 ありがとうございました。

  • ithi
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回答No.2

jmpwygko さん、こんばんは。 答えは微妙ですね。確かに吉通の評判や歳暮の性格はよくないけれども、御三家筆頭の当主ですからね。それなりに、資格はあるのです。一方吉宗はどうか?彼自身は兄綱教、頼職の死を受けての相続ですから、綱教であれば対抗馬になりますが、吉通に対して正当性にどうしてもかけるのです。

noname#224259
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。 吉宗では、吉通に対して正当性にどうしても欠けますか。 という事は、吉通が生きていたら、8代将軍は吉通だったという事ですよね。 綱教ならば吉通の対抗馬になり得たのですね。 ありがとうございました。

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