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武田家と真田家

武田信玄の家臣団といえば、 譜代層の四名臣の山縣、高坂、内藤、馬場と 外様的性格の木曾・小山田・穴山・真田が大所と思います。 この外様層(個別領主層)のうち木曾・小山田・穴山は武田と縁戚関係を結んでいますが、真田と武田はこのような動きはなかったのでしょうか?

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  • ベストアンサー
  • ithi
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回答No.1

jkpawapuro さん、こんばんは。 真田家は家格的に行って、縁戚関係を結ぶには足らないと思っていたのでしょう。嫡子以下の子供を近習に取り立てるなんて言うのは家格がちょっと足らない豪族の扱いですし、昌幸なんか養子の家を探してもらって相続していますからね。 真田氏 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E6%B0%8F

jkpawapuro
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます、確かに家格は低いですが、真田の領地って結構でかいと思うんですよねえ。これ調略されたらすごく危ういと思ったんですよ。

その他の回答 (2)

回答No.3

でしょうね ちなみに山本勘助とも姻戚関係を結んでません 真田も山本も武田にとっては「軍師格」です そして策謀に長けた人物であり ある種「危険人物」でもあったのだと思います(謀略を駆使して結果的に武田を乗っ取りかねないと信玄は警戒した感がある) ただ 真田幸隆の次男の昌輝(昌幸の次兄)の側室は武田の姫です そう考えると必ずしも真田を軽視していたとも言えなくもないかな…と しかし皮肉ですね 木曽 小山田 穴山と武田と姻戚にあった3氏は尽く武田を裏切っています 一方 真田は武田滅亡まで忠臣であり続けました これはいかなる皮肉か?

jkpawapuro
質問者

お礼

昌輝の側室が武田の姫?どんな傍系の姫かわかりませんが興味ありますね。 ご回答ありがとうございました。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9577)
回答No.2

ithiです。こんばんは。 真田の領地って結構でかいと思うんですよねえ。これ調略されたらすごく危ういと思ったんですよ。 おそらく、上野国沼田周辺でしょう。その辺は幸隆、その子信綱位の時代から、勃興してきたのではないでしょうか?沼田城が手に入ったのも昌幸の時代です。つまり、手に入れてから比較的新しいのです。 岩櫃城 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%AB%83%E5%9F%8E 沼田城 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BC%E7%94%B0%E5%9F%8E

jkpawapuro
質問者

お礼

沼田城はそうですね。 ただ信綱昌輝の真田兄弟の動員力は250騎、おそらく穴山・木曾の200騎を上回ってるのではないでしょうか?所領は上田盆地の一部から岩櫃一帯ですがこれだけの動員力と穀倉地帯上田盆地に占めてるとなるとそれなりの所領と思いました。 ご回答ありがとうございました。

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