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鳥羽伏見の戦い

徳川慶喜出陣!戦況はやはり挽回できないでしょうか?

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  • jkpawapuro
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回答No.2

うーん錦の御旗に一番繊維を喪失するのが慶喜ですので、その慶喜が陣頭に出たらってのがそもそも無理があるような気がします。 まあそこを飛ばして慶喜が陣頭に出たとしましょう。 鳥羽伏見の戦いっていろんな部隊が逃亡してはいますが、結局主戦線の鳥羽伏見では幕府主力の仏式陸軍と薩摩主力の英式小隊が真っ向から衝突して幕府側が敗れてます。 その戦いぶりが攻める幕府軍が街道を直進してそれを薩摩軍が打つという戦術もなにもあったものではありません。これでは当然火力で守る側が一方的に打つ展開になります。 ではこういったときどう攻めるか? 街を焼き払い見通しをよくして広いところを攻めるしかありません。 では京都郊外を焼き払ったらどうなるか? そんな無道な戦い方をしたら日和見をしてる諸藩が官軍につくでしょう。まず松平春嶽が慶喜の擁護が不可能になり越前の兵を上京させざるをえません。そして当初から情勢におもいっきり及び腰の紀州と反幕府傾向の強い尾張、このどちらかが官軍側について機内に兵を入れたら諸藩は雪崩を打って官軍につきます。敵地機内で周りが官軍についてしまったらさすがに戦いになりません。まあこんな状況だから史実では無茶な突撃をして散っていったのでしょうが。 どこか守備の薄い街道をみつけ京に乱入すればとはおもいますが、結局少数といえどもライフルで守られた街道を人の足で力づくで突破を続けるのは不可能でしょう。たとえ一時的に守備の薄い街道を見つけても、足止めを食らう間に相手の増援が来るのが目に見えています。そして錦の御旗の力で時間がたつほど幕府側の戦力は衰えていきます。慶喜はカリスマ性に乏しい将軍ですので錦の御旗の力をひっくり返すような存在ではないですし。 数だけは多くても烏合の衆状態でさらに情勢に両手両足を縛られていたら、幕府軍に戦いようは無いとおもいます。 やはり将軍としては逃げるのが正解とおもいますよ。大将たるもの敗兵を収容して逃げるのが人の道とはおもいますが・・・、船ひとつ身ひとつで逃げる以外正直退路も見当たりません。

naoki4865
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回答No.4

無理ですね 徳川軍が100万の軍勢でも たった1本の錦の御旗の前では全員ひれ伏すでしょう つまり 朝廷軍を相手に戦った時点でヨシノブの敗北は決まってたのです

naoki4865
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  • eroero4649
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回答No.3

徳川慶喜という人は良くも悪くも「聡明なお坊ちゃん」でした。頭が良くて先が見える人ではありました。そして、お坊ちゃんでもあったので民衆や家臣を犠牲にしても自分の立場を守るような、成り上がり者にありがちな強引さは持ち合わせていない人でした。 鳥羽伏見の戦いに先立つ2ヶ月前に、慶喜は大政奉還ということをやっています。これって討幕の動きに出ていた岩倉具視や西郷隆盛にとっては王手飛車取りにも似たキツい一手だったのです。政権を返された以上、討幕の名目が立たなくなるからです。しかし岩倉らはなりふり構わぬ強引な手に出て討幕への動きを見せました。このとき、慶喜(とおそらく勝海舟も)は「あいつら(岩倉や西郷)は何が何でも戦争に持っていくつもりだ」と気づいたと思います。そして先が見える慶喜は、「そうなった以上どう頑張っても幕府軍は最終的には敗北するだろう」ということが見えていたと思います。しかし、戦いもせずに逃げたらそりゃさすがに征夷大将軍という武士の棟梁としての面目が立ちません。鳥羽伏見の戦いも勝てるとは思っていなかったでしょうし、敗報を聞いたときの心境は「やっぱりな」だったのではないかなと思います。だからさっさと江戸に帰ってしまったのでしょう。慶喜の肩を持てば、大阪城で戦ったところで最終的な勝利はできない(後詰の兵が徳川軍にはない)わけだし、戦えば民衆に大きな損害が出て大阪の町が破壊されるのを避けたともいえます。実際、もし大阪城でそれなりに抗戦すれば大阪の町は大きな損害を受けたでしょう。 江戸に帰ってきたときの慶喜と勝海舟の共通認識は「徳川家はもうダメだね」だったと思います。

naoki4865
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  • sea96
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回答No.1

きっと無理だと思います。 彼らは元々勝てないことを前提に戦いに挑んでいたような気がします。 ので、慶喜公が参戦しても戦況はひっくり返らないです。

naoki4865
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