• 締切済み

どうして人間は悪知恵が働くのか?

質問です。 どうして、人間は善的なことを考えるよりも、悪知恵が働こうとするのでしょうか いじめ、盗み、スリ、殺人。。。等

みんなの回答

noname#229784
noname#229784
回答No.6

自分の感じた事を書きます。なので細かいことはつっこまないでw (1)ヒト属(ホモ属)はおよそ200万年前。ヒトの属するホモ・サピエンスは40万から25万年前。(2)それに対し、確認される最古の文明はせいぜい1万年以内。卑弥呼で1700年前くらい(この時点で日本に文字記録ナシ)。300年前は江戸時代。飛行機がはじめて飛んだのが110年くらい前。(3)あまりにも文明の進化の度合いがすごく、人間の進化がおいつかない・・・・

  • ways
  • ベストアンサー率31% (79/253)
回答No.5

自分が生きていくため。逆に言えば、そういうことをしないと生きていけない人。人は自分を通そうとします。善行を「クサい」と言って、悪行に進んでいく人がいます。神様に反抗するように。それだけ、善行に自分を見いだせない人たちです。

回答No.4

既に我々の身の回りの衣食住、全てが世界中からやって来て おり、もはや一人では生きられない、社会生命だと言える。 そこにおいて生きる事は、分業化=助け合う言であり、 労働は本来、助け合う喜びに充ちたものであるはずなのだ。 ところが、そうした分業化=社会性の発達において、そうし た自己の生の社会的拡張を自覚化できるだけの認識の深まりを 怠り、お金や出世といった“馬車馬の目の前のニンジン”を発達 させ、お金をもらうためにイヤイヤ働かされる他律的生に堕し てしまったのだ。 本来助け合っているはずの社会において、個々の意識としては 競い合い奪い合う、弱肉強食の擬似ジャングルと化してしまっ ている‥‥であれば、盗みも殺しもするだろう(自殺の一種)。

  • copemaru
  • ベストアンサー率29% (895/2998)
回答No.3

生き残るためです。 善的なこと(利他的行動)よりも,悪知恵(利己的行動)の方が生き残り,その人の遺伝子が子孫に拡散される可能性が高まるからです。 そもそも「良い行い」というものは,支配者にとって「都合の良い行い」という程度の意味でしかありません。

  • yaasan
  • ベストアンサー率22% (2715/12240)
回答No.2

楽をしようと考えるからです。ですから一方では人類の発展に寄与し、一方では他人に迷惑をかける。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10495/33004)
回答No.1

「ゲーム理論」というのがあるのですよ。別名「囚人のジレンマ」ともいうのですけれどもね。本当は容疑者のジレンマなのですが、なぜか囚人のジレンマというのが一般的です。 ゲームの中の話ですが、2人の容疑者がいます。お互いに黙秘をすると決定的証拠が得られず、2人とも釈放されます。しかしどちらかが黙秘をして、どちらかがそれを裏切って自白をしたら、自白をした者は捜査に協力したということで減刑されますが、黙秘をした者は不届き千万ということで余計重い罪になります。しかし、2人とも自白をしたら捜査協力の減刑はもらえず2人とも刑務所行きです。ですので容疑者はジレンマに立たされます。お互いに協力して黙秘をするのが一番自分の利益になるのですが、もし相手が裏切っていたら自分だけ損をすることになります。かくして2人は、お互いに黙っていたほうが一番の利益にも関わらず疑心暗鬼に陥って相手を裏切る行動をしてしまうのです。これが囚人のジレンマと呼ばれるものです。 これの発展版で、牧場のジレンマというのがあります。村人10人でお金を出し合って牧場を作り、1人1頭の牛を飼います。このとき、ある1人の村人がズルをして牛を2頭飼うのです。すると10頭の牧場で11頭飼うので、1頭辺りの体重が減って利益が少なくなりますが、ズルをした村人は2頭売れるので1頭辺りの利益が少なくてもより儲けることができます。 しかし、他の村人もそれに続いて20頭の牛を飼ってしまうとむしろ赤字になってしまいます。かくして村人はジレンマに立たされます。自分だけズルをしてどうにか利益を得ようとするか、それとも他の村人を信じて約束を守るか。 現実の人間社会では、囚人のジレンマより牧場のジレンマの状況のほうが起こりますよね。質問者さんがおっしゃるように、全員が協力し合えれば等しく利益を得ることができるはずなのです。しかし、自分だけ他人を出し抜くことができればより多くの利益を得ることができるので、そこで悪知恵を働かせる輩が出てくるのです。

関連するQ&A

  • 善と悪の捉え方

      善と悪の捉え方について見たとき、人間には3種類いるよーである。 1つは善と悪は絶対的なものであり、人の立場や社会情勢に関わらず常に明確に区別できると考える人。 2つは善と悪は相対的なものであり、その時々の人の立場や社会情勢により善が悪にもなり悪が善にもなると考える人。 3つはもともとこの世に善も悪も存在しないと考える人。 果たしてどちらがより真っ当であると言えよーか、 どちらがより真理に近いと言えよーか。  

  • 人間の本質って・・・善、それとも悪?

    大学の授業で、人間の本質について、学ぶ機会がありました。 私自身、人間の本質について悪なのか善なのか、答えが見つかりません。 答えというものは、無いわけですが、なにか、善か悪か、納得のでききるような 意見をお持ちの方いましたら、教えてください。

  • 究極の悪とは――存在について――

     《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。  ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。  ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。  悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。  ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりであり それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。  つまり 悪は 悪というものが なにか・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。  さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。  これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的に 無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。  言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。  ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。  ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。  これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。  果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ ご教授ください。  * わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。というふうに捉えるなら それだけで じゅうぶんなのかも知れないという捉え方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。

  • 善にも悪にも交じれない

    私は善にも悪にも交じれないと感じます。 優しくて素敵な人と知り合うチャンスもありました。しかしいつまでたっても対等になれず、一緒にいれて嬉しいのに、苦しいのです。相手の心の美しさが、自分の邪心を際立たせたり、その方の潔癖さに心の中でたじろいでしまうのです。その人の優しさや純真さや潔癖さに触れる度に、仮面を被ってしか一緒にいられない罪悪感やむなしさを感じます。 かと言って悪口を言ったりいじめや悪事を働くことに罪悪感を感じない、それを楽しむような人と一緒にいても苦しく、恐怖を感じます。 そんなことはしたくない、そんなことをして喜びを感じる人間になりたくないという思いが強いです。しかし、妬みや嫉みという感情は大いに理解でき、それを持ってしまうのが人間だという思いも持ってしまいます。 この優柔不断さが自分でも嫌でクリスチャンの友人に話すのですが、善と悪を選択出来ない者は両方に引っ張られてボロボロになる、賢い人と歩めと言われました。 善にも悪にもなれない、中立にいるような人間は結局は一番の悪なのでしょうか。 戦いも主張もしない傍観者は一番の卑怯者なのでしょうか。 両方の考えに感化されて、自分の本当の気持ちもよくわからくなりました。

  • 神とは「悪」なのか?

    私はいつも善と悪について考えています。 それを生んだ神という存在についても考えています。(この神とは何々教の神ではありませんし、神の存在について問うものではありません。創造されて何かがこの世界にある。森羅万象を作る源と扱います) これまで「善」=「神」だと思っていました。 人間については性善説ではなく、性悪説をとっています。 善と悪の戦いです。ですが、あまりにもの世の中の不条理に出会うたび、神はいないのではないかと思うのです。つまり神に失望したのです。 もし神が善なる存在でしたら悪は排除されるはず(べき)です。 では、神に対する人は希望なのでしょうか。 人が悪に対する希望だとしましょう。しかし人が善を求め、成長するために心や魂をもつものとしたら悪はそのための概念です(物語は絶えず悪を排除し、カタルシスを求めるところに人は善を求めている証しもみられる)。しかし悪というものの実態は破壊そのものであり存在意義すら許されることではありません。 善は善のままであってもよいはず。二律背反の法則で(?)悪があるとしたら、善そのものの美(という表現が適切かどうかはわかりませんが)が悪のためによって傷つけられ、汚され、破壊されるのが「現実」です。それでしたら善が善である存在意義がありません。 なぜ悪はあるのか。そして強烈に悪をしらしめるのがこの世の実相でしたら、もうこれは愛や創造のためではなく、破壊がこの世の、人のなかに前提として存在を許された(では「誰」に?)ものなのでしょうか。 このようなことを考えると、神はもしかしたら悪なのではないかと思ってきました…

  • 「善」と「悪」が混ざり合ったら?

    「善」と「悪」が混ざり合ったら、どうなると思いますか? 「善」に近い「悪」ですか? 「悪」に近い「善」ですか? それでは回答、よろしくお願いします。

  • 悪知恵

    こんにちはです。 みなさんが、生活の中で身につけた悪知恵は、どんな知恵ですか? 子ブタに、こっそり教えてくださいですブゥ、、、 実は、子ブタは、今、、、デブゥして、アイドルになるための知恵を絞っていますが、 子ブタは、いい子なので、悪知恵なんて思いつきません・・・ 子ブタってるです・・・困ってるです・・・・ブゥ お願いです・・・・・(^・Θ・^)・ブゥ~・・。

  • 悪は 存在しない

     《存在は 善悪を超えている》(質問として:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.html)という命題のほうが すすんでいると捉えていましたが どうも それでは 鍵となるような要件を解明しえないのではないかと考えるようになりました。  もとに戻って この質問をします。  ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。  ○ 悪は マイナスの善として 現象しているが そもそも 存在するのは 善が損傷されたことと その損傷を埋めることだけである。  ○ 《善悪の判断という行為に先行する〈存在〉は 一般に善悪観において捉えられるこの現実世界を超えている》と考えるが その現実の現象から捉えるならば むしろ 《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。  以上について 成否・当否を おおしえください。  なお   ○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。  ○ 善の欠如の典型として 素朴に 《うそ》を取り上げておきます。つまり うそという悪は わが存在および他者の存在を思うこころに へそ曲がりが生じたことと定義します。  ○ こころの曲がり・曲げ あるいは 歪み・ゆがめがあるところに 悪が 現象している。   ○ この善のマイナスを プラスまたはゼロにまで 埋め戻す作業があるのみだ。ゆえに 悪は じっさいには 存在していない。  これをとおして 存在論ないし人間論にせまれればと思います。自由な見解をお寄せください。  問い求めにおいて 質問者のわたしのほうが すすんでいた場合には 考える前提としてのことがらなどを述べて お応えとすることがあると思います。それが 度を過ぎると 規約違反になるそうです。あらかじめ このようにも――変なおことわりですが―― 触れておきます。

  • 悪は存在しない。善の欠け=悪 と呼ぶ現象のみだ。

     たたき台は つぎのようです。    1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。ウソ・イツハリのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 動悸を速め 時に顔を赤らめます。  2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎない。という考えです。  4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことをも 悪と呼ぶ。     5. 悪は 存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。

  • 殺人について「善」「悪」を教えないと、子供は成長してどうなるか?

      関係のない、他人を自分の都合で殺すことは「悪」だと感じます。 しかし、これは、幼いころからの道徳教育に依存している可能性が大きいのではないかと、思われます。 では、子供に殺人の「善」「悪」を教え込まなかった場合、子供は、成長してあと殺人をどう考えるでしょうか? 殺人を何の悪意もなしに行ってしまうのでしょうか? それとも、母が子供に母性を感じ、かわいがるように、自然に殺人的な行為を忌み嫌うようになるのでしょうか? 自由な意見をお待ちしています。