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足軽と言うのはどういう職業だったのですか?

逃げ足が早い人と言うイメージがあります。

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  • hue2011
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回答No.1

身分ではなく職業ですね。 殿さまが戦をするとした場合、家来としてヤリをかついだり剣をもったりして兵隊として戦います。 その意味では兵士なんです。 が、戦国時代でないかぎり連日戦うなんていうことはありません。 そのときはいらないや、とクビにしたりすると、いざというとき誰もいないことになります。 また、軍備が全くない状態というのは危なくて仕方がない。 だから普段戦争がないときでも食わせていかないといけないわけです。 何もしないのに食わせるわけにいかないから、馬の世話とか畑で耕作とか、あるいは殿さまが出かけるときにお伴をして荷物もちとか。 そういう庶務をこなすのが役割です。 ある程度こういうメンバーを雇用していないと、よそから見た場合にひどく困窮しているように見えますので、無理をしても足軽は雇ったもののようです。

ROOVSKENZZYJ
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回答No.8

戦闘の時に真っ先に敵陣に駆けていく下っ端の兵士たちです 軍隊で言う2等兵です 戦国のはじめごろまでは農民を借り出して足軽としていましたが 信長の兵農分離によって 雇われたプロの足軽集団が誕生しました これによって通年での戦が可能になったのです ちなみに 足軽=逃げ足が速いのイメージは秀吉から来ていると思われます

ROOVSKENZZYJ
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  • eroero4649
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回答No.7

他の皆さんが回答されているのは主に江戸時代の足軽についてです。なにしろ戦国時代と幕末との間では200年以上が経っていますから、時代によってだいぶニュアンスは変わります。私は、戦国時代の足軽について回答します。 誤解を恐れずに分かりやすくいうと足軽とはアルバイト兵士、という感じだと思います。戦国武将が幹部社員で、その周囲にいる武士たちが正社員なら、他にフリーター武士というのがいました。いくさのときだけ雇われる臨時雇用の武士です。いくさで活躍して褒美つまりお金をもらったり、名前を売ってどこかの大名家で正社員として雇われるのを目指している人たちです。このフリーター武士で一番有名な人が宮本武蔵です。結局この人は剣術は天才だったけれどサラリーマンとしての能力がほぼ皆無だったので正社員雇用はしてもらえませんでした。まあそういう意味では社会不適合者だったんですな。 フリーター武士は少なくとも「自分の名を売りたい」という功名心があるので、まだ真面目に戦います。しかし戦争では頭数も重要です。特に鉄砲や大砲が武器の主流になる以前の時代では頭数が多いほうがとにかく有利だったのです。こういっちゃ悪いですが、豊臣秀吉のいくさなんてのはほとんどそれです。とにかく圧倒的な兵数で押しちゃう。それだけの兵士を動員できる能力とその兵站を維持できる能力が羽柴(豊臣)家の強みだったのです。石田三成とか小西行長ってのはそういう官僚としての能力が高い人たちでした。 その頭数を稼ぐためのアルバイターが足軽です。バイトだから、愛社精神なんて皆無です。そして何より死ぬのが嫌だから、これは危ないとなったらすぐ逃げるのです。そもそも戦力として期待できないから、武装はお金のかからない軽武装です。そして逃げ出さないように集団戦法にします。自分一人だと不安だけれどみんなと一緒なら安心の群集心理と、四方を囲まれていたら逃げるに逃げられませんよね。そういう両方の意味があります。 足軽のいいところは「現金で臨時的に雇える」ということです。必要なときにだけ雇い、要らないときは雇わなくていい。まさにアルバイトと同じですね。そして正社員武士というのは農家も兼ねていたので、農業が忙しい時期には軍事動員ができません。まあ収穫の時期というのはどこもほぼ同じだからこっちが収穫で忙しいときは敵も収穫で忙しい時期です。そこはなんとなく休戦状態になるわけですが、足軽は専業バイトだから現金があれば1年を通じて雇うことができます。これが「兵農分離」ってやつです。 織田信長軍は兵農分離を進めていたので、武田信玄とか上杉謙信の軍隊に比べると足軽の比率が高かったというのがあります。「織田軍は弱兵」っていうのはそういう事情なんですね。だから特に信長は若いときにはこの士気の低い兵士たちに随分悩まされました。不利になると粘れないのです。姉川の合戦で織田軍は浅井軍より圧倒的な大軍を持ちながらあわや全軍崩壊まで押されたのは、バイト中心の烏合の衆の哀しさからでした。 その解決方法のひとつが、鉄砲だったのです。鉄砲は弓矢のような熟練した技術が不要です。そもそも弓矢は真っ直ぐ飛ばすだけで大変ですからね。鉄砲は扱いさえ慣れれば技術はいらない。しかも飛び道具ですから、離れた敵も攻撃できますから士気が低い足軽でも勇気をもって戦うことができます。かくして信長は積極的に鉄砲の数を増やしていったのです。 日本の足軽もそうですが、ヨーロッパの軍隊でも当時の兵士というのは「村に居場所がなくなった農家の次男三男それ以下」なんです。農民として真面目に働けないから都会に出て仕事を探して、地道に職人もやらず、頭が良くないとできない商人ができるほど知恵も回らない。そういう人たちが足軽や兵士をやっていたのです。真面目に働けないから兵士(足軽)やってるんだから、そもそも真面目に戦うはずがない。「逃げ足が早い」というのも納得でしょ。カイジみたいなのが集まってるんだから。

ROOVSKENZZYJ
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noname#224207
noname#224207
回答No.6

逃げ足が速いといいますか、足が速くないと務まらない役職の人達でした。 文献に名称が現れるのは平安時代末期です。 源平合戦のころは馬にのった騎馬武者の一騎打ちが主体でしたが、この一騎打ちをする武士の世話と護衛を兼ねていました。 馬と一緒に戦場を走り回りますので足が速くなくては務まりません。 室町時代の応仁の乱のころになりますと、一騎打ちよりも集団戦法にかわり、徒歩の突撃部隊の役割をしていました。 戦国時代に入りますと、鉄砲などが使われました。 鉄砲足軽などという名称もありました。 徒歩の突撃部隊も隊としての様式が整えられて階級が定められるようになりました。 この時に最下層の人達が足軽と呼ばれていました。 足軽は大名などに属していましたが、その他に臨時雇いの人もいて雑兵と呼ばれていました。 江戸時代に入り平和な時代になりますと、この足軽や雑兵の人達は卒と呼ばれ、刀を大小二本差すことは許されませんでした。 なかには郷士と呼ばれる、身分上は百姓で、特別に大小を差すことを許された人になる人もいました。 幕末の新撰組はこの郷士の人達です。 卒も職能に応じていろいろな名称で呼ばれるようになり専門化していきました。 幕府や大名領(藩)によってこの区分が違っていました。 イメージとしては、大名行列で槍を持ったり、挟み箱を担いだり、駕籠を担いだりしている人達です。 このころになりますと足軽は総称として使われたり職能として使われたりして判然としなくなりました。 町人と武家の中間層の人達でした。 親子代々終身雇用の人もいれば一代限りの臨時雇用の人もいました。 TVの時代劇などでの門番とお考えください。 平たい話が時代によって違うということです。 蛇足 幕臣の旗本が外出する際には、刀をさした家臣(若侍)と槍持ち、挟み箱持、草履取などを引き連れて出歩く必要がありました。 フラフラ一人で散歩というわけにはいきませんでした。 とは言え、全員の給与(禄)を払えませんので、少人数でなんでもやるようになりました。 中には臨時雇いで済ませる人もいました。 この臨時雇いの人達は普段は町人として暮らしていました。 いよいよ足軽などという区別が判然としなくなりました。 明治以降の戸籍では士族として登録されました。 逆に言いますと明治以降に士族だったからと言って二本差しの武士だったとは限らないということです。

ROOVSKENZZYJ
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回答No.5

回答No.4です。お徒でない上の身分階級が馬回り役です。 馬で行動することができる身分。歩兵に対する騎兵ですね。 そしてこの階級は駕籠に乗れません。 でもお徒の身分でありながら、関八州取締役は駕籠に乗りお供を連れて行動していました。 俗に、八州さまっていっていましたね。切り捨て御免。裁判に持っていく必要はない。 無論、藩の領内という治外法権に足を入れることは許されなかった。 かれらもお徒さま。いわば御徒、足軽の出身です。 司法や警察業務ってまぁ下級の職務とされていたのです。 だから大岡越前だって必要で登城してもいる場所がなかった。 お昼を使う部屋もなかった。ウロウロする始末です。 南北町奉行って都知事と警視総監と裁判所を兼ねていながら、低く見られていた。 町方の出る幕ではないと一蹴されるだけ。

ROOVSKENZZYJ
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回答No.4

一番というか、ともかく身分が低い軽輩ですが武士という身分です。 大名行列で奴の装束で毛槍を掲げたり、下に~下に~といっているのは奴であって武士ではない。無論足軽ではない。 足軽というのは歩兵という意味です。兵であるから当然に戦闘員であり武士です。 東京上野あたりに御徒町ってあるがそういう兵の家があった地域です。お徒(おかち)です。 家康の江戸開府とともに、与力同心を出した集団です。 我が家も江戸ではないが御三家の足軽の家系です。領地に帰ると、広大な田畑がある本陣です。まぁ大きな名主ですね。 でも登城すれば、三つの同じ階級の家と交代で24時間、城内の奥を警備する武力での軽輩の武士、まぁ警察官です。

ROOVSKENZZYJ
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  • ithi
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回答No.3

ROOVSKENZZYJ さん、こんばんは。 昔の歩兵部隊の主力です。名前の通り、上級武士と違い、完全重武装ではなく、胴丸のような軽量な鎧で動きが軽快で有利な時はさっと進んで、不利な時はさっとしりぞきます。応仁の乱以降登場したようです。だから、武士の領民が多いようで正規兵というより、手柄によっては正式の武士に取り立てられようという不正規兵が多いようです。 

ROOVSKENZZYJ
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  • tpg0
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回答No.2

こんにちは。 足軽とは、下級武士のことです。 軍隊の階級に例えると二等兵や一等兵のような立場ですから、戦があると最前線で戦われて戦死することが多い下級武士です。

ROOVSKENZZYJ
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