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足軽と騎馬武者

戦国時代に騎馬武者になれた人と言うのはどういった人だったのでしょうか? 足軽はそれこそ 農民から集められて簡単な訓練と武装で最前線に送り込まれた下っ端 と言うイメージがありますが 騎馬武者は 馬に乗るぐらいだからそれなりの武士だったと思うのですが… 単に馬の扱いに慣れてるから とか そういう基準とかがあったのでしょうか? それとも足軽として召集されたものの 「お前は馬に乗れ」と言われて騎馬武者にされたりとか?

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  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (812/3030)
回答No.2

足軽であろうと騎馬武者であろうと別に所属や部隊が変わるわけではありませんので、そういう言う意味では馬を用意できれば騎馬兵になります。基本馬は自弁ですし。まあ足軽が馬に乗れば武者と呼ばれるかとなると違うでしょうけど、足軽なら馬に乗ってはいけないってわけでもないですよ。 ただ現実的には馬を養い馬を連れ参陣するとなると当然従者も必要になるので、かなり経済的に恵まれていないと難しいです。 戦国時代は財力に応じ各大名が浪人を召抱えますし、また戦となれば関係のない浪人も恩賞や分捕り品目当てに参陣してきます。当然馬を用意してくる野武士も希にいるでしょう。

azuki-7
質問者

お礼

なるほど これは分かりやすい 久々に納得出来ました ありがとう

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noname#224207
noname#224207
回答No.3

なれたとかなれなかったというか問題ではありません。 手勢を引き連れた連中が馬に乗っていたということです。 源平の時代以降、足軽なる戦闘要員が使われるようになってからは馬は移動手段か、一段高い指揮台代わりかステイタスとして使われていました。 馬に乗っての切り合いつまり騎馬戦というのは偶々遭遇しない限りはやられませんでした。 馬から降りて切り合いをしていました。 足軽が取り囲んで長柄と呼ばれる熊手、刺又、袖搦などで馬から引きずり落とされたらどうにもなりません。 名乗りを挙げて一騎打ちなどという戦闘方法が採られなくなった戦国時代には騎馬武者というのはリスクが高いだけでした。 武田軍団のように鉄砲を射かけられたら全滅です。 参考 戦国合戦図屏風 - 岐阜市歴史博物館 www.rekihaku.gifu.gifu.jp/kanzouhin/pdf_data.pdf 7ページの1-9賤ヶ岳七本槍の活躍(右隻三~四扇)に母衣を背負った武士が地上で槍を構えています。 母衣は乗馬して疾走する際の弓矢除けの防具です。 地上では邪魔なだけです。 戦国時代の母衣は目立つステイタスの役割を果たしてしました。 上の絵で母衣を背負っているのは明らかに移動時には馬に乗っていた連中です 騎馬戦の有無については色々薀蓄を傾けている人がいます 天下城ノート3・戦国の合戦と騎馬部隊 - 佐々木譲 www.sasakijo.com/note/tenka3.html 馬に乗った連中や、馬に乗って走り回っていた連中についてセッセと書いていますが直接騎馬戦があったかなかったかには触れていません。 戦国時代も含めて武家というのは戦闘用具は自家調達が原則です。 江戸時代でもこの原則は変わりませんでした。 馬も鬼作左こと本多成重の書状「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」にもあるように自家調達が原則でした。 足軽の上位に位置づけられた一領具足と呼ばれる連中も具足をワンセットだけしか持たない輩というところからきています。 戦闘要員である足軽もそれぞれが雇用していました。 織田軍団、徳川軍団といっても、織田氏や徳川氏が直接雇用した員数だけではなく、臣下の盟約をかわした武家が個別に雇用した員数が含まれています。 足軽というのはあくまでも臨時雇用です。 兵農分離が徹底していませんから、平時は農耕に従事し、戦時に一儲けしようと参戦することを目論んでいた連中です。 農業専門のど素人ではありません。 平時からどの程度戦稼ぎに熱心かということで、装備も、戦闘能力も違いました。 平時から、お前さんが戦をするのなら手助けしてやろうと申し合わせていたような連中が一領具足です。 つまり「いざ鎌倉」などと考えていた連中です。 馬を飼ったり手下を養う財力があれば平時にセッセと準備をしていました。 身分制度が確定した江戸時代とは相当に様子は違います。 雇い入れるほうも、ど素人を集めて訓練などという無駄はしていませんでした。 やる気の無い連中を集めてもサッサと逃げられてしまいます。 僅かばかりの駄賃で命を懸けるような人間はいません。 戦の最中に逃亡兵を追い掛け回しているようではどうにもなりません。 ど素人集団ではプロ集団には勝てません 秀吉のように一旗揚げようというような連中でなくては使い物になりません 役務として徴集した農民は荷役など命に別状のない兵站要員として使っていました。 この足軽の名残りが後の郷士です。 一領具足のような連中は「徒歩」として残りました。 江戸の御徒町にはこの連中が住んでいました。 身分制度が確立した江戸時代の足軽、奴とはやや位置づけも職能も違いました。

azuki-7
質問者

お礼

どうもです

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.1

山之内一豊の妻が馬を買うお金を差し出した美談のように馬は武将持ちなのです。馬を買って飼育できる財力がないと騎馬武者にはなれません。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございます

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