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戦場で残された馬はどうなった?

戦国時代になると集団での合戦が主流となりました 武田騎馬軍団に代表されるように馬は合戦で重要なツールだったわけですが 戦国時代には暗黙のルールとして騎馬武者を狙う場合は馬を撃ってはいけないと決まっていました(もちろん間違って馬に当たって殺しちゃった事とかはあったと思いますが) 当然馬上の武者が討たれれば馬だけ残るわけですが その馬は合戦が終わったあとどうなったのでしょうか? 戦場に残されて野生化したのか? 勝った側が持ち帰って新たな軍馬として飼育したのか? 教えて下さい

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  • lions-123
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回答No.2

>戦場で残された馬はどうなった? 当然馬上の武者が討たれれば馬だけ残るわけですが その馬は合戦が終わったあとどうなったのでしょうか? 戦利品として没収され、勝者側の所有物になり、その後戦功のあった者等に恩賞の一環として支配者から下賜されるケースが多い。 特に名馬と称される馬は恩賞の希望として言上したり、支配者から領地・役職・俸禄等と併せ名刀や鎧兜や馬も現物支給で下知下賜されるケースも多かった。 >戦場に残されて野生化したのか? 勝った側が持ち帰って新たな軍馬として飼育したのか? 馬は乗り手がいなくなれば逃走し、一部は野生化したものもいたでしょうが、多くの場合は飼育調練された馬は山奥や厳しい環境に順応できず捉えられるケースが多かったと思考します。 したがって、勝者や支配者が戦利品として利用(軍馬・荷役)奪取した場合が多かった。 仮に逃走したケースは、衰弱死したり農民に捕まり(農耕や荷役に利用したり食料、馬市にて売る)のではないでしょうか・・・

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございます

その他の回答 (2)

  • teppou
  • ベストアンサー率46% (356/766)
回答No.3

 戦場に残された馬の、その後については、他の方の回答で正しいと思いますが、戦場での馬の役割については、下記のサイトのような考えも有ります。  http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1117039596  この内容については、かつて歴史研究家に聞いた話と符合します。  また、騎馬武者には2~3人の小者(武士でない者、戦闘をしない)が付き、武者が馬から降りると、小者の一人が馬を戦場の端に引いてゆき、戦闘が終わるまで付いていたとも聞きました。  馬と同様に小者らも襲われることはなかったようです。  その武者が打たれた場合、小者や馬がどうなったかについては聞いておりません。  味方総崩れとなれば、散り散りに逃げたのでしょう。  戦闘の状況によれば、いろんなことも起きるでしょうから。 ちょっと付け足しです。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございます

  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2589/17101)
回答No.1

馬に限らず、戦場に残ったものは勝った側や地元民の取り放題になります。鎧兜などは購入すればとてつもない高価なものですし、馬も同様です。裸に近い雑兵の遺体以外はほとんど残らないでしょう。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございます

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