哲学する人間は触媒である:カタリスト日本人

このQ&Aのポイント
  • 哲学する人間は触媒である:カタリスト日本人
  • 哲学するという生き方は、それぞれが小さなキリストになることである。相手が自分に還る化学反応が起こる。
  • 韓国人は人間としての話ができない状態になっており、触媒が必要である。中国人は覇者としての思考に囚われており、面と向かって話を進める触媒が必要である。欧米人は自身の世界認識を他の人へ押し付けようとするが、哲学の徒が触媒となり彼らの心の過剰を癒す必要がある。日本人は哲学を通じて化学反応を推進するカタリストとなって、世界の人々と共に進んでいくべきである。
回答を見る
  • ベストアンサー

哲学する人間は 触媒である::カタリスト日本人

 カタリストという言葉は 《壊す》という意味から来ているそうな。  あたかも《つるぎを投げ入れる》かのごとくに。  つまり哲学するという生き方は それぞれがあたかもちいさなキリストになることである。  相手がけっきょくわれに還ることをうながす。  そういう化学反応が その相手に起こる。  こちらは さして変わらない。  もしくは ミラーニューロン現象にて同じように振る舞うような状態に成る。  化学反応が完成すれば こちらも何ごともなかったように元にもどる。  カタリスト=触媒である。  韓国人は 人間としての話が出来ないというきちがい状態に落ち入っている。  また 事大主義というのは アマテラス予備軍症候群である。  これに対して触媒たらざるを得ないと思う。  中国人は 覇者たらんとすることしか頭にない。  アマアガリ・シンドロームである。  これに対して 面と向かって話をすすめて行くカタリストたらざるを得ないではないか。    欧米人は ただ自分たちの世界認識の枠をよその人びとに向けて嵌めようとする。  宗教も倫理も科学も人格もみな 自分たちが世界の模範であると思い込んでいる。  表向きウワベだけ《われに還る》かたちである。  生きたわれに立ち還るように 哲学の徒は 触媒となってその心向きの過剰を癒してやらざるを得ない。    哲学が自然の振る舞いであるにほんじんが ほかのアジアの人びとと一緒に世界の人びとに向けて触媒となって化学反応を推し進めて行くのが これからのときである。  ときは満ちたか。  ハカラヒなきがゆえに化学反応をうながすことになる。そういう日常生活での一歩一歩が大事なのでしょうね。  日常性と言えば にほんじんのムラの生活をぜんぶ丸ごと 輸出してもよいのではないか。とさえ考えられて来ます。  ときは満ちたでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#221368
noname#221368
回答No.2

 もしかすると関係あるかも知れないので書きます。あんまり深刻に取らないで下さいね。  浦沢直樹の「モンスター」という漫画に、イスラムの立法学者とおぼしき二人の会話があります。日本人の生態についてです。 ※お前は、こんなところ ↑ からしか知識を得ないのか?、と自己ツッコミ(^^;)。  我々には唯一無二の神がいる。神がいなければ、我々にはレゾンデートルがない。故に生きてはいけない。それはじつは欧米人もロシア人そうだ。そこには唯一無二のキリストがいる。中国,韓国には儒教がある。東南アジア,アフリカには根強い土着信仰がある。  彼らがもし、自分は無神論者だと言っても、今度は科学や思想を信仰する。結局それぞれに、それぞれのレゾンデートルの保証があるのだ。  ところが日本人が「自分は無神論者だ」と言った時には、意味は全く違う。それはレゾンデートルはない、いらないという事なのだ。この前、日本人の観光客に聞いた。十字架をしていたからクリスチャンだと思い、欧米の横暴について一言いいたかったのだが、彼女は言った。 「教会で洗礼を受けたけど、夏祭りの縁日で彼氏と知りあい、クリスマスはリゾートホテルでデートし、神仏結婚して仏教の葬式で死ぬのが普通でしょ?。エッ?十字架?。こんなの形式よ、形式。家がたまたまミッション系だったから。だって十字架してれば、チョベリグにかっこいいじゃない!」  彼らは何でもできる。彼らは恐るべき意味で自由だ。彼らは何をしようと、そこに罪の意識や恐れはない。だから繁栄もする。彼らは昔、エコノミック・アニマルとも呼ばれた。それがレゾンデートルがなくとも生きていけるという事なのだ。そんな人間の存在すら、我々には信じられない。まるでゴキブリか軍隊アリではないか?。そのような人種がはびこったら、我々は行き場を失うだろう。  ・・・なにぶんにも漫画なので誇大妄想気味ですが、現代の日本人のステレオタイプとして、けっこう鋭いなと思いました。なにか図星をつかれた気がしました。日本人は決してそれだけではないのですけれど。それに本来は、世界制覇を企むような人種じゃないし・・・。  ただ反対側の意見として、あり得る話だとは思いました。輸出には、PPT交渉みたいな難航が懸念されます(^^;)。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。   ○ 義無きを以って義とす。(親鸞)  このひと言でしょうね。そしてそこからの枝分かれは いろいろあるということ。  派生物は しばしば やっかいで鼻つまみものです。あるいは けっきょくほとんどが シガラミの中にしか花を咲かせ得ない腐れ縁のような派生思想(≒生活態度)なのでしょう。  でも  ★ 彼らは何でもできる。彼らは恐るべき意味で自由だ。彼らは何をしようと、そこに罪の意識や恐れはない。だから繁栄もする。彼らは昔、エコノミック・アニマルとも呼ばれた。それがレゾンデートルがなくとも生きていけるという事なのだ。  ☆ これが 本筋としては 《あらゆるシュウキョウの愚から自由である》という意味であり実態です。  シュウキョウのオシへという偶像の崇拝をまぬかれています。(その反動分子もいるにはいますが)。  《レゾンデートル》などという《義 ないしその思い込みとしての信仰》はありません。  これが 基本としては 普遍神へのふつうに自然でしかも人間的な信仰が 心の奥にはしっかりと根づいているということです。分からないから いいのです。  世界のほかのさまざまな神や信仰は お医者さんごっこのようなままごと遊びです。神でも信仰でもないということ。  ★ それに本来は、世界制覇を企むような人種じゃないし・・・。  ☆ この横顔が 基本線につながっているとすれば 基本線は生きています。《ゆづりあひ》という基本でしょう。  ★ あんまり深刻に取らないで下さいね。  ☆ ではなくて いま述べたことが現実であるという仮説を 《深刻に受け取って》くださいね。  どうでしょう。  ご回答をありがとうございます。

bragelonne
質問者

補足

 バースデー。四日違いぢゃん。

その他の回答 (4)

回答No.5

ちょっと見てきて独り言だよ。 日本人の子育ては、代々神を語る事は神に対する冒涜だと、何も教えが無いまま叩き込まれているんだよ。 語る言葉もなくね。 宗教は商売人だけの研究だよ。 私のこの無言に対する反逆の決心は固い。 幼くて、現実と観念上の精神世界の区別がつかないころは、神様と手をつないでいるんだ。 検索してみれば、何がしか証言が出るだろう。 童心が成熟しても生き続けるとは珍しい事ではない。 私もその一人で、余命一年未満と診断されて、親を悲しませた幼い私を励ましてくれた幼馴染は、神様なんだが、忌むべき私と同じ霊能力の資質を持つ者は死神と呼ぶだろう。 私も幼馴染が、不実の子の呼び名をものともせず元気いっぱいに私と遊んでくれた幸せな記憶がある。 西洋の学会では「滅びの子」この事だよ。 私が生きようとする限り、友達も滅びないんだ。 悪魔は復活した。 何か君達はあわてるかい?

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 神を語る事は神に対する冒涜だと  ☆ 代々《言挙げしない》ことになっている。と言われている。だがそれも 時代や情況に応じて変わる。臨機応変。そうでなければ 《言挙げせず》なる方針を採った意味がない。その精神がすたる。  神を語る・語らないも 自由。一方に片寄ってはダメ。日本人の生活態度(≒思想)は 自由自在。ただお二階から 日本教=クウキ教によって靄がかかっている。霧が晴れれば 正真正銘の自由。富士山の日本晴れ。  この《クウキ》にも千五百年 われわれはおつき合いして来ている。  ★ 観念上の精神世界  ☆ こんなものは 要らん。人びとがお二階さんの醸し出すクウキを追い払いたいと思って自分たちも こういう《観念の園》をつくってみたかった。だけ。    つまりあるいは ヨーロッパの哲学からその観念論を持って来て 観念の鎧として着ようとしただけ。  《お花畑》は要らない。何かの事件に遭ってその避けどころとして使う場合があるかも知れない。けれども それだけであって そのようなお花畑を旗に掲げて 現実のきびしさに対抗するのは 愚の骨頂。わたしはもう知恵が尽きて 阿呆状態ですと告白しているに過ぎない。  観念の世界は それが世に言うアヘンのことだ。    ★ 悪魔は復活した。  ☆ それが いま言った観念の園のことだ。  何かまだ こころにわだかまりがあるんだろう。じっとみつめてやったり 放っておいたりして 飼い慣らしつつ われに還るように。やがて観念の悪魔のほうが 浮かれて自分から踊りだすだろう。  《わたし自身》と和解する方向へ。世間とも和解できるように。日本晴れへと。  ご回答をありがとうございます。

回答No.4

君の兄弟でありながらそうふるまわない、愛してやまない同族の日本人に対する愛憎を見極めた。 君のいらだちは、西洋の観念全体を哲学に限らず飲み干した自己の見地から、すなわちイエスを愛した日本人の立場から、舶来の酒に良い狂乱する今の世の中に、怒りを奮い立たせようとしてるんだ。 イエスは私は茶化すばかりであまり手伝いができないが、君の独自の立ちばから、本気で怒りの溶岩噴火をあおりたいものだね。 生きている君は、死人を生かすためにあらぶっている。 この悪魔体験をさらに高ぶらせる事を願うよ。 健闘を祈る。 君の神にね。 君自体は自分で好きなようにしろ。 私の近況を述べると、君がやさしくしてくれたお穣さんのおかげでね、私は男の戦いとして清潔に保った相撲の土俵の様な哲学全般に対して、裏切り者になりそうなところだ。判り易くやさしい私の言葉が、何がしか、オカマハザードの再来を誘ってしまう。 哲学女子会が、自然成立したら今までとは変わるが困ったものだな。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 君のいらだちは  ☆ それは そちらの勝手な言い分だ。  ★ 舶来の酒に酔い狂乱する今の世の中に  ☆ だから それがミラーニューロン現象としてウワベだけは従っているということ。  つまり その嵐が過ぎれば 触媒なのだから 元の姿に戻る。  言いかえると 世界の人びとにおつき合いしているというのが いまの姿。  しっかりと 人間についてはその心を見定めて世界を認識しなければいけない。  ★ 生きている君は、死人を生かすためにあらぶっている。  ☆ 古くから 《魂鎮め》という生活の知恵が培われて来ている。  魂鎮めには ふつう先には 魂振りをおこなう。そのあと われに還る姿としての魂鎮めになる。  《あらぶっている》のではなく 《世間の只中につるぎを投げ入れている》または《人びとの魂を振って揺り動かしている》。   ★ 哲学女子会が、自然成立したら今までとは変わるが困ったものだな。  ☆ それはすでに成り立っていると捉えるとよい。自然成立している。  ただ おんなは出しゃばらない。あるいはつまり 論理的な思考はあまり――おこなったとしても――発表しない。答えが分かっていて まだるっこしいらしい。  ご回答をありがとうございます。

回答No.3

君のその情熱は実に人情味があるよね。 ところが理性的である事は感情を封殺したうえで思考することだと定説が出来ている。 これは私はやっぱり違うんじゃないかと判断して、西洋と異質の哲学の土台を築く事が目標だ。 君のやり方でも何らかの形で、人情のある哲学の正当性を主張しないと、哲学もどきの素人と学者さんから揶揄されて人格すら圧殺されかねないよ。 論文を英語だ書かないと受け付けない硬直した姿勢に対して効果的に正当性を主張する一つの手立ては、自らが仏陀そのものであると宣言して、その仏陀の定義を認めさせると、日本の哲学の体裁が出来て行く。人情味のある、すなわち感性の潤いがあり、理解のやさしい哲学だ。

bragelonne
質問者

お礼

 《ブ》筋は ダメ。何が何でもダメ。  No.2で親鸞を持ち出しているけれど。  それから鳥になって上から見た目線は なかなか成功しない。  具体的に論点を取り上げる必要がある。  いまの日本人は 着せ替え人形のごとく上から――日本教=クウキ教のオシへにもとづいた――法被を羽織らされている。その下には 人それぞれの自由な個性的な着物を着ている。  ときが満ちたなら クウキじるしの法被はもう脱いでしまわなきゃあ。  ご回答をありがとうございます。

  • JS56JC12
  • ベストアンサー率0% (0/8)
回答No.1

CatalystとはAMD社製部品の制御ソフトです。 時は満ちましたから、しっかりとした専門医に相談しましょう。

bragelonne
質問者

補足

 ソフトだと思ってるからには まだまだ先が長いようです。

関連するQ&A

  • 哲学する人間は 触媒である。

     以下を問います。  カタリストという言葉は 《壊す》という意味から来ているそうな。  あたかも《つるぎを投げ入れる》かのごとくに。  つまり哲学するという生き方は それぞれがあたかもちいさなキリストになることである。  相手がけっきょくわれに還ることをうながす。  そういう化学反応が その相手に起こる。  こちらは さして変わらない。  もしくは ミラーニューロン現象にて同じように振る舞うように成る。  化学反応が完成すれば こちらも何ごともなかったように元にもどる。  カタリスト=触媒である。  韓国人は 話が出来ないというきちがい状態に落ち入っている。  また 事大主義というのは アマテラス予備軍症候群である。  これに対して触媒たらざるを得ないと思う。  中国人は 覇者たらんとすることしか頭にない。  アマアガリ・シンドロームである。  これに対して 面と向かって話をすすめて行くカタリストたらざるを得ないではないか。    欧米人は ただ自分たちの世界認識の枠をよその人びとに向けて嵌めようとする。  宗教も倫理も科学も人格もみな 世界の模範であると思い込んでいる。  表向きウワベだけ《われに還る》かたちである。  生きたわれに立ち還るように 哲学の徒は 触媒となって癒してやらざるを得ない。    哲学が自然の振る舞いであるにほんじんが ほかのアジアの人びとと一緒に世界の人びとに向けて触媒となって化学反応を推し進めて行くのが これからのときである。  ときは満ちたであろうか。

  • 天皇を哲学する

     1. 万世一系とは いま生まれて来ている人の誰についても例外なく言えることです。  1-1. 記録がないだけでしょう。    1-2. 男系は 家筋としては途絶えているかも知れないけれど 血筋は とうぜん辿れるわけです。  1-3. 一般の人びとの場合は 側室による男系一系が少ないだけでしょう。  2. 天皇家は 祖先を遡るとアマテラスオホミカミにたどり着くと言う。けれども アマテラスは アメノミナカヌシらの神々のあとに出て来た神である。  2-1. そして――出生の謂われは生殖のかたちが微妙だけれど――スサノヲのミコトの実の姉である。  2-2. つまり 一般の人びとは スサノヲの子孫となっているが 天皇家も スサノヲの子孫である。スサノヲも 天皇家の祖先である。  3. 象徴天皇という社会的役割りは 決してめづらしいことではない。  3-1. 《スサノヲ市民社会 - アマテラス公民圏》なる連関制としての社会形態は 二階建て構造を成す国家という状態にかんして 世界において一般性を持つ。  3-2. アマテラス公民は 《公務員一般(狭義のアマテラス)とアマテラシテ》とに分かれるが この・象徴を意味するアマテラシテが やはり世界において一般的な元首のことである。  3-3. 具体的に 国王・象徴天皇・大統領などがある。  3-4. 一党独裁の党総書記は ふつうの国家におけるふつうのアマテラシテであると言えるかどうか。  ☆ 具体例を三件挙げました。――人びとはなぜ 天皇について哲学しないままでいるのか?

  • 《人間を国家的に》から《国家を人間的に》へ

     1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに価値判断すると アマテラス人格語として――ということは 倫理学として・また倫理規範として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. そこでは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語》のしかるべき有効な二層構造化 これを果たそうとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において人間である。自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家の人間化 ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語を回復させるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちは その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっているのではないか? あやまちをまぬかれる人間はいないのに。  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここからアマアガリして 抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちは のこったとしても実質的に 国家をそして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?

  • 《人間を国家的に》から《国家を人間的に》へ

     1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。(あやまつは人のつね)。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内容を共有しうる普遍概念の抽出)。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるようにさせるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. それは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語 》の二層構造のしかるべき有効な使いこなし これを実現しようとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において―― A 語公民性の幅と深さを持ってこそ――人間である。それが 人間の自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家をこんどは人間化すること ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語をも回復せしめるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちが その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっていると見られるから。あやまちをまぬかれる人間はいないのに。アマテラス的な あまりにもアマテラス的な姿を呈するようになってしまたのではないか?  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここから飛翔し人びとを措いて単独にアマアガリして その抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちは のこったとしても実質的に 国家をそして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか いまの課題は。インタムライズム。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?  15. 天皇 安倍晋三 シーチンピン パククネ バラクオバマ ・・・が 究極の《スサノヲ市民 - アマテラス公民》のしかるべき秩序構造化した《にんげん》でしょうか?   17. 人間の人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考えをお寄せください。

  • 《人間を国家(公)的に》から《国家を人間的に》へ

     姉妹質問です。互いが互いにとって分かりやすくなれば さいわいです。  ここの主題は 《人間化》です。  1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。(あやまつは人のつね)。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内容を共有しうる普遍概念の抽出)。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるようにさせるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. それは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語 》の二層構造のしかるべき有効な使いこなし これを実現しようとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において―― A 語公民性の幅と深さを持ってこそ――人間である。それが 人間の自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家をこんどは人間化すること ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語をも回復せしめるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちが その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっていると見られるから。あやまちをまぬかれる人間はいないのに。アマテラス的な あまりにもアマテラス的な姿を呈するようになってしまたのではないか?  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここから飛翔し人びとを措いて単独にアマアガリして その抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちはのこったとしても実質的な内容としては 国家をして・そして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか いまの課題は。  13-1. インタムライズム。公(A語)は 私(S語)の内に自然なかたちでおさめられてこそ 生きる。ムラ(市町村=S圏)が 主権をすでに理論的に持つのだからこれを実践して行くこと。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?  15. 天皇 安倍晋三 シーチンピン パククネ バラクオバマ ・・・が 究極の《スサノヲ市民 - アマテラス公民》のしかるべき秩序構造化した《にんげん》でしょうか?   17. 人間の人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考えをお寄せください。

  • アマアガリ・シンドロームとは どういうエートスか

     1. 人びとは 世界の何についても寄り憑く原始心性(アニミズム)の状態から脱して おのれの心と意志とで世界の中に入り行くところの:    《イリ(入り)》なる歴史知性(もしくは 世界‐内‐存在であること)  を獲得した。(すでに潜在的な能力としてそなわっていたのを開花させた)。  2. 世界の思想や行動なるいとなみを相対性の物指しで見るようになった。  3. だから 神は この経験世界をとおして望み見るかたちの信仰のもとにある。望み見るとき その神は――有る無しの経験事象を超えているからには―― 人間の言葉としては《神は有る》と言っても《神は無い》と言っても 同じひとつの信仰内容となると心得た。  4. そこへ アマアガリ現象が起きた。イリ歴史知性なる相対性には飽き足らないという心的現象に始まる。  5. 早い話が 子どもが空の月を取って欲しいと言うかのように・そしてそれを自分で実行するのだと言ってのように われは神を見た・神と話をしたのだ だからその神をわれはこの世に寄せたと説き始めた。  6. 《ヨセ(寄せ)なる超歴史知性》の誕生である。果ては みづからが神となるというまでになった。  7. ヨセなるスーパー・イリ歴史知性は すでに《世界‐内‐存在 In-der-Weld-sein 》と成っている。成っていた。《ヨリ(憑り)なる原始心性》を抜け出ていた。  8. そこへ 歴史知性――知性の相対性・経験現象性――を想像力を駆使して超えようとしたのである。天翔り 天上がりする。  9. これが アマアガリ・シンドローム。  10. その特徴は何か? ふたつある。  11. ひとつは 歴史知性の想像力ないし思考能力によって 世界の認識にあたって その普遍性を問い求めた。経験科学として・および良し悪しの価値観を伴なわせた倫理観として。これを アマテラス(A)普遍語と言う。  経験世界の相対性に立つ――あやまち得る人間性としての――言葉は スサノヲ(S)人間語である。  12. A 語の普遍性も しかしながら 経験科学としてである限りで 相対的なものであることを免れない。あやまち得ないわけではない。  13. だから ところどころにヒビ(罅)が入り傷がつく。  アマアガリ・シンドロームに罹った場合には この損傷や欠陥を隠そうとする。自分たちの権威ないし体面を科学的および倫理的な普遍性よりも 大事にする。無謬性の神話がつくられる。  14. もうひとつは 《お山の大将》型だということである。つねに脚光を浴びていないと 死ぬ。アマアガリしたのであるから 人びとの上に立って人びとを引っ張っているのでないと 死ぬ。だから アマテラス普遍語の磨き上げをおこたらない。  15. これが 超人幻想なるヨセ超歴史知性の落ち入るアマアガリ症候群だ。  16. われわれ人間の話す言葉は 時と場合に応じて    《アマテラス普遍語 - スサノヲ人間語》なる構造的なことば  がのぞましいとは考えられる。  17. アマアガリ・シンドロームは 国家人間を襲っているものと思われる。いかにすればよいか?

  • 外から来るアヤマチ:ミラー・ニューロン現象

     ここでミラー・ニューロン現象とは:     相手( A )の・特に疚しいと感じている思いや行動を    こちら( B )があたかも自分という鏡に映して     多少ともその内容を表現してしまうこと  を言うとします。  ヤマシサだけに限らないのですが いまはそれをあつかいます。  そのヤマシサは 一般に・漠然とになりますが 相手もこちらもそう思っているという意味とします。つまり 定まらないのですが そうだと思っていること自体は 事実としてあるというかたちです。    このとき こちら( B )が侵すあやまちについては あたかも相手( A )の代わりにおこなっているということであり ならば多少とも水割りのようなかたちで あやまちの度合いがうすまっているとは思われます。  けれどもこれは つまり A と B との間において あやまちについての共同自治なのであると考えることが出来るかも分かりません。  アヤマチであると同時に 共同自治の一環である。そういう見方です。  さて 一般にコミュニケーションにおいて 相手がけんか腰でやって来たら こちらもけんか腰になって わたしは 応対していました。いまも色濃くそれは のこっています。いつになったら こういったミラー・ニューロン現象は 静まっていくのでしょうか?  このミラー・ニューロン現象を 自分の中で 避ける・しないと決めた場合は あり得ます。  それは あやまちうるスサノヲ人間語にもとづくのではなく あたかもそこから去って もはやあやまち得ない〔と冀った〕アマテラス普遍語――アマテラス科学語(真実)およびアマテラス人格語(倫理規範)――の世界にのがれる場合です。    この普遍語アマテラス方言をたくみに駆使し得る場合というのは 神聖にして侵すべからざる権威が 人びとによって着せられます。  このアマテラシテ( amatérasité; amaterasity; Amaterasität )なる権威のもとに生活するなら ミラーニューロン現象は 避けることが出来るかも分かりません。  けれども そのときには このミラーニューロン現象を起こした相手( A )をどう扱うかと言えば じつは しばしば ウラで処理をする。ということだと思われます。自分( B )の手は汚さない〔恰好をよそおう〕。  つまりは アマテラス普遍語は だからこそ 普遍語アマテラス方言であるとも言いましたし 見てもいます。  このときひとつのみちびかれる結論としては 問題が 成るべくあやまちうるスサノヲ人間語にもとづき・これから離れないで できるかぎり主観を共同化しうるアマテラス科学語およびアマテラス人格語としての普遍語を用いる。ここにあることになるかと考えます。  ミラーニューロン現象を 《スサノヲ人間語 - アマテラス普遍語》なる構造的なコトバをつうじて 生け捕りにするような方向へとすすむこと。これが 求められるものと考えます。  具体的な事例が出しにくかったのですが 取り敢えずここまでをつづって 当否・成否その他批評・批判を問います。自由なご見解をお寄せください。

  • 事大主義(アマテラス予備軍症候群)とその後遺症

     1. ひとの言葉は あやまち得るスサノヲ人間語とあやまたざる〔と見なされる〕アマテラス普遍語とに分かれる。   《スサノヲ人間語 - アマテラス普遍語(科学語および人格語)》なる構造的な成り立ち  2. アマテラス語をよく使いこなすひとは 社会の中で一般に指導的な地位に上がることが多い。言いかえると スサノヲ市民が《あまあがり》すると アマテラス公民となる。   《スサノヲ市民社会 - アマテラス公民圏》から成る社会のかたち   3. このかたちは 二階建ての構造であるように思われる。お二階さんの中でさらにアマアガリが起きると いわゆる国家元首としてのアマテラシテが出来る。   《 S 圏 - A 圏(アマテラス公民 / アマテラシテ)》連関制    ・アマテラス公民:官僚・政治家その他もっぱらの公民と見なされる職務    ・アマテラシテ:国王・皇帝・象徴  4. ここに第三次のアマアガリがあり得る。それは特に 《皇帝なるアマテラシテ》の場合であり 《帝国》というのは なおほかの国家をも自分の支配下に置こうとする動きである。  5. 韓国は 大いなる帝国主義アマテラシテに事(つか)えるという事大主義なる行動をしばしばおこなって来た。これを アマテラス予備軍と呼び得る。そのクセを アマテラス予備軍症候群と言えるのではないか?  6. 大日本帝国に仕えた朝鮮は 日本が敗けたあと いろいろ協力を求めて来たように思われるが 敗戦国は叩けということになる。反日である。国是のごとく。  7. ジャパン・バッシングそのものは 自分の責任でそういう表現をするかぎりで 仕方ないことですが 問題は 《反日》が 自己表現の大前提になっていることにある。  8. ▼ (ヰキぺ:反日主義) ~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E6%97%A5%E4%B8%BB%E7%BE%A9  ▽ 鄭大均:「反日は韓国のアイデンティティと不可分な関係があり、反日と無縁な韓国人はいない」  ▽ 崔碩栄:「韓国の過激な反日感情は自然に発生した感情ではない。『反日国家』韓国では、日本は『悪い国』だという情報だけが与えられ、人々が自然に『反日型人間』になるように仕組まれた『反日システム』という社会構造が形成されている。・・・  ▽ 黒田勝弘:「韓国は世界で最も日本非難論が活発で、韓国マスコミは日本非難なら何でもありで、極端な比喩による感情的論評を書き、反日報道ではデッチ上げなど内容が誤報と分かっても訂正はほとんどない。これは『反日病』だ」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  9. もしこのようにおのれの行動方針が 真っ先に《反日・蔑日》を掲げているのならば 言葉としての《スサノヲ人間語 - アマテラス普遍語(科学語および人格語)》なる成り立ちよりも先に 日本叩きという頭が来ることになります。  10. すなわち 《統一方針なるアマテラス方言》が すべての言葉を凌駕してしまう。それは 子どもの頃から 頭に叩きつけられる。  11. これでは いくら思考能力を伸ばそうとしても 民族としての統一アマテラス語がつねに立ちはだかる。  12. これでは 気が狂わないほうが おかしい。のではあるまいか?  13. なお 中国の行動は アマアガリ・シンドロームに罹っていると見ます。最初のボタンをかけるときに そうなのである。

  • 哲学する人間は 触媒ではない。

    同意したくないなら、回答する場所はこちら。 哲学する人間は 触媒である。 http://okwave.jp/qa/q8866566.html どちらの質問者も喜ぶ。これでまるくおさまるのではないか?

  • にんげんの前史を終えるということ(!?)

     について あらためて問います。第三セッションです。  まえがき・あらましは 以前と同じものを使います。  今回は アメリカという問題に焦点をあてたいと考えています。タテマエとホンネとの使い分けを駆使する行為形式において あまりにも直線的すぎる。上から目線をもって そのことが単純すぎる。のではないか。という問いです。  § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。         したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ        の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり)  § 2 ここ(この一面的な定義ですが)から《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく       ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても――        まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者       とに分かれる場合。        ただしこの場合には そのまなざしの上下関係は 互い       にみとめあっている自生的な性格のものであると考えら       れる。        それは けっきょく人びとの仲介役・調整役を買って出る       音頭取りとそれをささえるほかの人たちに分かれる場合。         このときにも もしまなざしのあいだに何らかの上下関       係が起きているとすれば これが高じると 一方が《アース      (接地)役》を務めるかたちとなるように思われる。他方は      ガミガミ役になりそれが固まってくるおそれがある。       人為的・人工的な性格の人間関係が生じ得る。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》をおおむね離れて 《人工       的な性格のもの》をさらに強固にししかも固定させる動きとし       てそのまなざしの上下関係を社会制度としてかたちづくろうと       して出来たもの。        身分関係。その世襲制度。         特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階       建ての構造として固定する国家における身分制度。そこで       は 倫理を問うことを含みつつも それをもチカラで圧倒する       場合もあるというような社会力学的な交通として人間関係       およびその社会構造がかたちづくられる。        (その中で一階と二階とのあいだで自由な行き来としての       流動性が保証されている社会のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ   (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられる。   (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建て構造に成ると捉えられる。   言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲み込んだかたちとなっている。   ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても (ω)型のヒトにとっては もともとそのような社会力学は織り込み済みである。音頭取りの中から さらにお山の大将が出て これが常習のガミガミ役にもなるとするなら 二階建てとなりうる。ただ アマアガリしたに過ぎない。    階級関係の一本から成る社会では――つまり単純に言えば 人びとはそれぞれ一人の個人が《ガミガミ役=アース役》なる成り立ちをしていて―― あたかも誰もがアマアガリをねらっている。   ゆえに――きびしい言い方をすれば―― 階級関係を第一次の権力関係にあってその芽として織り込み済みの社会(ω)においては そのアマアガリしたお二階のえらいさんたちよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいとさえ 心のどこかで言っている。その人為性・人工性つまり非自然から自由になってくださいと。   (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。流動性というよりは 階級がひっくり返ることがある。そして それだけではなく 誰もが《スサノヲ市民=アマテラス公民》なる人格形式をもって 互いに相手のマナザシの隙をつくような姿勢を持つ。  マナザシの低さや弱いところを突いて おのれのマナザシをそれとしてアマアガリさせようとする。  このアマアガリ・シンドロームにかんして いまアメリカ人がいちばんきついのではないか?  中国人は 度を越している。ゆがんでいる。韓国人は 駄々をこねるかたちであたかもこのアマアガリをこころみている。    日本人は いいとこも わるいとこも あるでしょうか。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを世界史的な存在とした。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成ると見る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやひっくり返してもそれは堂々巡りであると分かったところまで行き着き)  社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――)   (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか?  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採っている。  ここで ふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  前史を終えて後史に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  § 3 の最後に触れたアメリカ(アメリカ人)という問題について焦点を当てると どういった評言が持たれるでしょうか?   ご教授ください。ケネディ大使の捕鯨はくぢらがかわいそうなる発言は 典型的なそのアマアガリ・シンドロームに罹った目線だと考えます。  § 5 おまけとして: 《後史》がどんなヒトのどんな社会になるのか   いまはほんとうには分かりません。たぶん《イサカイ》をむやみやたらに繰り広げることを《前史》の特徴とすれば それを止揚しそれから自由になる。でしょうか どうでしょうか。  もうひとつ。このあたらしい時代を切り拓くのは 世界広しと言えども わが日本人こそがふさわしく その先頭を切ってあゆむのではないでしょうか。(ω)のユヅリアヒが 根付いていると思われるからです。  宗教の弊害もしくはいわゆる一神教の弊害から わたしたちはそのふつうの生活態度において――理論じょう――すでに自由であり あとはわづかに自分たちの多神教としての〔つまり日本教としての〕じつは一神教なる性格を認識し自覚するなら 鬼に金棒 孫悟空に如意棒となること請け合いではないでしょうか。  一神教ヰルスからの免疫をすでに半分 得ている。あとの半分をさらに得て 世界に先駆けてあゆむことが出来るし その使命を負っているのではないか。どうでしょう。