外から来るアヤマチ:ミラー・ニューロン現象

このQ&Aのポイント
  • 外から来るアヤマチを表現するミラー・ニューロン現象について考える。
  • ミラー・ニューロン現象は相手の行動や思いを鏡に映す現象であり、共同自治の一環とも言える。
  • コミュニケーションにおいてミラー・ニューロン現象を避けることは可能であり、普遍語アマテラス方言を用いることが重要である。
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外から来るアヤマチ:ミラー・ニューロン現象

 ここでミラー・ニューロン現象とは:     相手( A )の・特に疚しいと感じている思いや行動を    こちら( B )があたかも自分という鏡に映して     多少ともその内容を表現してしまうこと  を言うとします。  ヤマシサだけに限らないのですが いまはそれをあつかいます。  そのヤマシサは 一般に・漠然とになりますが 相手もこちらもそう思っているという意味とします。つまり 定まらないのですが そうだと思っていること自体は 事実としてあるというかたちです。    このとき こちら( B )が侵すあやまちについては あたかも相手( A )の代わりにおこなっているということであり ならば多少とも水割りのようなかたちで あやまちの度合いがうすまっているとは思われます。  けれどもこれは つまり A と B との間において あやまちについての共同自治なのであると考えることが出来るかも分かりません。  アヤマチであると同時に 共同自治の一環である。そういう見方です。  さて 一般にコミュニケーションにおいて 相手がけんか腰でやって来たら こちらもけんか腰になって わたしは 応対していました。いまも色濃くそれは のこっています。いつになったら こういったミラー・ニューロン現象は 静まっていくのでしょうか?  このミラー・ニューロン現象を 自分の中で 避ける・しないと決めた場合は あり得ます。  それは あやまちうるスサノヲ人間語にもとづくのではなく あたかもそこから去って もはやあやまち得ない〔と冀った〕アマテラス普遍語――アマテラス科学語(真実)およびアマテラス人格語(倫理規範)――の世界にのがれる場合です。    この普遍語アマテラス方言をたくみに駆使し得る場合というのは 神聖にして侵すべからざる権威が 人びとによって着せられます。  このアマテラシテ( amatérasité; amaterasity; Amaterasität )なる権威のもとに生活するなら ミラーニューロン現象は 避けることが出来るかも分かりません。  けれども そのときには このミラーニューロン現象を起こした相手( A )をどう扱うかと言えば じつは しばしば ウラで処理をする。ということだと思われます。自分( B )の手は汚さない〔恰好をよそおう〕。  つまりは アマテラス普遍語は だからこそ 普遍語アマテラス方言であるとも言いましたし 見てもいます。  このときひとつのみちびかれる結論としては 問題が 成るべくあやまちうるスサノヲ人間語にもとづき・これから離れないで できるかぎり主観を共同化しうるアマテラス科学語およびアマテラス人格語としての普遍語を用いる。ここにあることになるかと考えます。  ミラーニューロン現象を 《スサノヲ人間語 - アマテラス普遍語》なる構造的なコトバをつうじて 生け捕りにするような方向へとすすむこと。これが 求められるものと考えます。  具体的な事例が出しにくかったのですが 取り敢えずここまでをつづって 当否・成否その他批評・批判を問います。自由なご見解をお寄せください。

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noname#221368
noname#221368
回答No.5

 #4です。 >特には そのばあい 世界がわたしの認識によって存在するというような見解が発表されているのを見て それに対していだいた違和感から 問うているものです。 >★ 前も言いましたが、物理学者はどこかで、素朴実在論を信じています。そうでなけりゃ、物理なんかやる気はおきませんよ(^^;)。 > ☆ 何だか これは こちらのセリフみたいなんですけれど。  そうでしたか。健全で安心しました。あちら側に行っちゃわれるのではないかと危惧したもので・・・(^^;)。  コペンハーゲン解釈と言われるボーアの量子力学解釈は、量子効果とどう付き合っていけば良いかという認識論であったはずなのですが、「世界を決めるのは、観測者の意識だ!」という存在論めいた考えにたやすく結びつくものでもありました。  ボーアは「世界を決めるのは、観測者の意識だ!」とは言っていません。古典物理の用語の定義に照らすと、「観測した時に、我々が実在と呼ぶものが現れる」としか言いようのない状況ではあるようだ、程度の事は言いましたが。  そしてコペンハーゲン解釈は観測事実の定性的な公理化だったので、あらゆる場面で役に立ちました。フォン・ノイマンは量子力学を数学的に公理化し、この前お話した波束の収縮が、量子の物理法則からは出てこない事を明確にします。「・・・状況ではあるようだ」を、「・・・状況なのだ」に変えた訳です。それを見たファインマンは言いました。  「もうとりあえず、観測者の意識が世界を決定すると、しとこうじゃないか。そうしたところで計算結果は常に正しいし、そうでないという立証なんかできはしない」・・・からです(^^;)。  ところがファインマンはその時すでに有名人で、その上「力学を解釈しなければならない」という古典物理的センスにとっては異常な事態に、哲学の方でも飛びつき、様々な拡大解釈も横行し出したという印象を持っています。さらにシュレーディンガーの猫が拍車をかけた・・・。シュレーディンガーは、量子力学は原理的上どこか不完全である、という事を言いたかっただけなのだと思います。  なので拮抗ではなく、現在の人達は「コペンハーゲン解釈を唯心論などに結び付けるのは、やはり行き過ぎだ」と思っているはずです。 > ☆ そうしますと けっきょく量子レベルというのか基底レベルが 人間とその社会のレベルなる階層にどれだけその特徴を現わしうるか? こういう問題はあるのでしょうか。ありえないほど 現実の階層は 量子とは別世界をかたちづくっているのでしょうか。それが 相補性でしょうか?  拡張解釈しないなら、「それが相補性」ではありません。我々は量子そのものを見たいのだけれど、観測するとそれは古典的実在に必ず化けてしまうので、古典物理の言葉を使ってでしか量子力学を定式化できないという、ジレンマ状況を指す言葉です。量子物理に特化した考えです。  で、別に基底レベルが量子レベルでなくても構わないんです。古典的な原子・分子レベルの挙動を想定しても、階層性については語れます。  ベナール対流という現象があるんですが(けっこう、ヤカンの中で見れるかも知れない(^^))、それは添付図にあるような綺麗な循環領域を作るように、対流は発生するというものです。対流は鍋の底で熱せられた水が軽くなって上昇しようとするから起こる訳ですが、水やお湯の運動は概ねランダムなので、最初から沸騰時のように温水が底から乱雑に湧き上がっても良いはずです(そうなるケースも存在します)。しかし現実には、添付図にあるような綺麗で暫定的に安定な構造を形成します(ベナール・セル)と言います。  それを決定するのは、まずレーリー数とプランドル数という流体の特性値です。ええと、プランドル数の方は忘れてしまったのですが、確かレーリー数は流体の持つ粘性の強さと密度(流体分子の質量)の比だったと記憶しています。流体の粘性や密度は、もちろん基底レベルの個々の分子や原子の物理法則から導かれるものです。しかし注目すべきはそこではありません。  ベナール対流が起こるかどうかは、(粘性,密度)の「組み合わせ」によって決まるからです。さらに鍋の底と水表面の温度差、つまり外気温とコンロの火力にも、決定的に影響されます。  (粘性,密度,外気温,火力,・・・)のある適切な組み合わせ、これらは個々の原子・分子の物理法則をいかに知ったところで、わからない事です。そこからは絶対に出てきません。集団には集団の現象法則があります。それは現象法則なんですが、基底レベルとは全く別の数理です。そして現実には、そっちの方をより知りたいのかもしれない・・・。  このような認識のもと、ベナール対流のような現象を語っているのは、散逸系とか非平衡熱力学とか自己組織化、複雑系の科学とか言われる、比較的新しい分野です。  人間の発生は、間違いなく自己組織化です。そこには物理法則しかないはずなのに(予想では(^^;))、心を持った存在が出来上がる・・・。宇宙の大規模構造も、ビックバン時のユラギによる不均一さが成長した(自己組織化した)ものと言われてるようです。自然に階層性は、きっとありますよ。 >そして ミラーニューロン現象は 量子レベルとは はっきりと別ということでしょうか?  自分は、はっきり別だと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 でーでーてーさん こんばんは。春いちばんを待つ今日この頃における特別集中講義をありがとうございます。  こうお聞きしてくると 量子の世界というのはますます奇妙な お化けの住むようなところなのですね。  しかもこのお化けは しっかりと閉じ込めてある。と言うか 火山のようには外に出て来ることはないのですね。別の世界として成り立っている。  別の世界として閉じ込めたままそのお化けを われわれはこのふつうの世界において利用している。ということでしょうか。  ★ (粘性,密度,外気温,火力,・・・)のある適切な組み合わせ、これらは個々の原子・分子の物理法則をいかに知ったところで、わからない事です。  ☆ それでいて 自己組織化するかのような秩序だった対流を起こすのですね。右回りと左回りとが規則正しく交互に現われるのでしょうか。大したものですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    >そして ミラーニューロン現象は 量子レベルとは はっきりと別ということでしょうか?  自分は、はっきり別だと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ だとしますと やはり意識の排泄に載せたガミガミ電磁波とか ガミガミ放射線とか ヤマシサ生体電波とか。・・・  アース役は つらいよがまだまだ続くかも知れません。  小保方さん。どうも はっきりと残念だったようですね。

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noname#221368
noname#221368
回答No.4

 #3です。 > 【Q:われ・ことば・表現は 世界と同時一体である。】 >  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8505592.html > これの回答No.1とNo.5での ねむりねこさんとのやり取りについて コメントを・・・ [No.1に関して] >☆すなわち 問いのねらいとしては うたのヌシとその心と周りの山々なる環境とは 言葉の生成をめぐって 同時発生である。 >◇ご紹介した「佐保わたり・・・」の方は。 >この歌では、おそらく「鳥・はし・妻」が同時発生的に発生しているのではと。そして、一つの世界を作者の前に現出させている。また、読み手もそのように感じ、この文学的な世界、環境を(心的に)再現する、もしくは心的・文学的な世界を現出させる。  心の問題として、全く賛成ですし、否定しません。私見を述べれば、言葉という技術は言霊ではないので、いくら口を極めて語ったところで、こちらの真意が伝わるとは限らない。むしろ要らぬ誤解を招くことの方が多い(法律文書のように)。  その時に重要なのが、言葉のキャッチボールだと思います。けっきょく良く話してみる事なんですが(^^;)、これは口を極めて語る事とは違うと思う。相手との相互作用が確立し、大げさに言えば同じ世界観を共有できたら、二言三言で通じてしまう事も少なくない。これは理系の専門書を読んでる時にも通じる話で、論理や計算の塊と思われている理系の専門書でも、じつは行間を読むことはとても重要なんです。特に独学する場合には。  でもあなたは上記の事を、物理的な量子揺らぎに結び付けようとしているのだろうか?。 [No.5に関して]  もしもそうなら現状では、日常世界はほとんど絶対に揺らがないと物理的に信じられているのが定説です。また心の問題を物理法則に還元しても、何も得られないだろうというのも定説です。  原子レベルの法則がわかったところで、集団レベルにはまた別の法則があり得る。人間も含めた自然現象には、19世紀や20世紀初頭に信じられていた単純世界よりも、もっと豊かで基底レベルの法則だけでは記述しきれない階層性を持っている。今の科学はそういう認識を持っています。これは平たく言うと、数が増えれば質も変わり得るという認識です。  最後に、 > ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >  「世界を決めるのは、観測者の意識だ!!」ということになります。 >  一時期、一部の哲学者の間でこうした考え方がもてはやされたようです。 >  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  >  ☆ この考え方に違和感をおぼえるところから この質問があります。 についてですが、物理学者達は、たぶんず~っと、この考えに不満だったんです。しかし他にやりようもなかったので、1920年代頃~1980年代初頭で、上記の研究を物理理論として真面目にやったりしてました。象徴的なのは、   唯心論物理学の誕生,中込照明,海鳴者、1998年. あたりでしょう。中込さんは保江先生の盟友なので、決して「トンデモ」の部類ではありませんが、自分は賛成しかねる。  そういう人達はけっこういるようで、「世界を決めるのは、観測者の意識ではない」事を、現行の物理法則から導こうとしているのが、「デコヒーレント理論」です。自分は現状では、これが一番現実的に思える。「デコヒーレント理論」は「シュレーディンガーの猫のパラドックス」を、不完全ながら解決してくれます。  前も言いましたが、物理学者はどこかで、素朴実在論を信じています。そうでなけりゃ、物理なんかやる気はおきませんよ(^^;)。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ でもあなたは上記の事を、物理的な量子揺らぎに結び付けようとしているのだろうか?。  ☆ 物理的な現象をタトエとして 人間・社会について・特には 心の問題として あつかおうとしています。  鳥の声も わたしの心におけるその受け留めも そのとき想い起こされる妻のことも みなあたかも量子のユラギが励起されたようなウゴキ(現象)としてあり それゆえ わたしと世界とは 同時一体であるのではないか? という問いです。  特には そのばあい 世界がわたしの認識によって存在するというような見解が発表されているのを見て それに対していだいた違和感から 問うているものです。    けっきょくは 物理をしっかりと知らなければ何も言えないことなのに 勇み足のまま 問うています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・「世界を決めるのは、観測者の意識ではない」事を、現行の物理法則から導こうとしているのが、「デコヒーレント理論」です。自分は現状では、これが一番現実的に思える。「デコヒーレント理論」は「シュレーディンガーの猫のパラドックス」を、不完全ながら解決してくれます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。そういう構図は 分かりませんでした。拮抗しているのでしょうか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  象徴的なのは、   唯心論物理学の誕生,中込照明,海鳴者、1998年.  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すごい象徴的ですね。看板も 唯心論と来ていますから。    ★ 前も言いましたが、物理学者はどこかで、素朴実在論を信じています。そうでなけりゃ、物理なんかやる気はおきませんよ(^^;)。  ☆ 何だか これは こちらのセリフみたいなんですけれど。  ★ [No.5に関して]~~~~~~~~~~  原子レベルの法則がわかったところで、集団レベルにはまた別の法則があり得る。人間も含めた自然現象には、19世紀や20世紀初頭に信じられていた単純世界よりも、もっと豊かで基底レベルの法則だけでは記述しきれない階層性を持っている。今の科学はそういう認識を持っています。これは平たく言うと、数が増えれば質も変わり得るという認識です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうしますと けっきょく量子レベルというのか基底レベルが 人間とその社会のレベルなる階層にどれだけその特徴を現わしうるか? こういう問題はあるのでしょうか。ありえないほど 現実の階層は 量子とは別世界をかたちづくっているのでしょうか。それが 相補性でしょうか?  そして ミラーニューロン現象は 量子レベルとは はっきりと別ということでしょうか?

noname#221368
noname#221368
回答No.3

 #2です。  ・・・例によって例え話は、分かりかねました(^^;)。これはイエスが「どうでも良いと思った」という事なのですか?。  仕方ないので、自分の経験で穴埋めします(^^;)。 (1)  以前、地球温暖化のホッケースティック曲線に関して発言した事がありました。その板のオーナーは、「自分は専門家でもないし、理系でもない」ので、温暖化に関するある記事を「ざっと読んだ」が、とても信用できる文面ではなかったと言いました。  それで、ざっとでは駄目でしょう。詳細はわからなくても(自分も詳細は無理だし(^^;))、論理を追ったり、たんにグラフを見て文面と矛盾するかどうかくらいは、誰だって判断出来るはずだと発言しました。  すると、「自分は専門家でもないし、理系でもないのに、そんな事できる訳がない。出来るなんて言うのは専門家の驕りだ」という返答でした(自分は専門家じゃないってば。理系ではあるけど(^^;))。  理系文系ではなく「国語力の問題じゃないの?」と言いかけたのですが、そうじゃないなと思いました。結局この人は、真面目に読む気がないのだと。己のイメージに合った回答だけを欲していると感じました。その時点で黙りました(去りました)。何を言っても無駄なので。 (2)  もう一つは、発言するかけっこう迷ったのですが、反相対性理論を標榜する質問に対してのものです。反相対性理論を標榜する人って、どういう反応をするのだろう?と興味があったんですよ(^^;)。 ※重要  反相対論の全てが、以下のようなものではりません。以下は、ここでの出会いにおける偶然の結果です。  結果は、人の回答の一部だけを取り上げて揚げ足を取ろうとする、引用文献を要求しても文献調査自体がお粗末極まりない、質問しても応えない・・・などなど。  そこで感じたのは、己のイメージに合った回答だけを欲している「のではない」。「わざとやっている」というものでしたが、この時点にいたっても去りませんでした。  「こう言ったら、どう反応するの?」と面白くなっちゃったからです(^^;)。時には「ここは喧嘩腰で行ってみるか!」なんて事もしました。そうすると、喧嘩腰回答の補足やお礼では口汚く罵っていたのに、ベストアンサーに選ばれたりして・・・。「やっぱりこいつ、わざとだな」と思いました。わざとなら、やりようがある。  もっとも楽しくなっちゃった時点で、実質的には立ち去ったのと同じだとは思います。 <追伸>  自分は競技スキーを下手の横好きやっているので、世界に出て行くような一流選手の心の内などわかりませんが、思うところはあります。  まず自分の所属する社会人チームのメンバーは、誰もが「沙羅ちゃん」と言います。浅田真央は「真央」です。  高梨沙羅の優勝インタビューを聞くたびに、「この子は優等生だなぁ~」と自分は思います。北海道の田舎から出てきたままの純朴な高校生のイメージです。だからいつか、こういう時は来るだろうと思っていました(オリンピックでなくても良かったんですが)。  身内からの過去の実績からのプレッシャーがあろうと、心が不安定であろうとパフォーマンスを安定させるために、死ぬほど練習するのが体育会系です。心とは関わりのないパフォーマンスを、体に覚えさせるためです。「練習は嘘つかない」は本当ですよ。だからミラーニューロン現象の結果であっても、自分に負けたと言います。  高梨沙羅は、ソチのジャンプ台に練習の時からずっと手こずってました。だから4位はある意味、順当な結果です。直後のワールトカップでは優勝してますし。でも4位でも泣いたのは、ミラーニューロン現象なんでしょうね。誇っていいのに。  いっぽう浅田真央のショートプログラムの失敗は、ミラーニューロンでしょう。あれはポカです。心とは関わりのないパフォーマンスを実現するはずの体が、動かなかった。鍛えた人達は九分九厘は大丈夫なはずなんですが、一厘にミラーニューロンが作用する事があるものの、浅田真央は十分に鍛えていたので、フリーでは練習は嘘をつかなかった。その後の笑顔は、高梨沙羅とは対照的に晴れやかでしたよね?。同じく4位なのに。  高梨沙羅はミラーニューロンと関わりなく4位だったのだが、同効果のおかげでその後泣いた。ソチのジャンプ台が不得意という事実は逆に、「練習は嘘つかい」という事の証左なんですよ。  浅田真央は、ミラーニューロンのせいでショートプログラムを失敗したかも知れないが、やっぱり「練習は嘘つかなかった」ので、同じ4位でも笑顔は晴れやかだった。  昔、ニッカネンという天才ジャンパーがいました。今の沙羅ちゃんよりちょっと年上でしたが、それでも二十歳前にワールドカップもオリンピックも制してしまったという人です。当時は二十歳にもなってなかったので、いったいこの人、ワールドカップやオリンピックで何勝するのだろう?って思ってました。  しかし、その後は転落人生まっしぐらでした。前途洋洋に見えた彼の人生の転落こそ、ミラーニューロン効果かな?。調べたら、たぶん面白いですよ(^^)。残酷だけど。  いま高梨沙羅は、ニッカネンの記録を越え、女子では世界一の優勝数を持っています。  自分とは全然かんけいないんだけど、胸が熱くなるのは、どうしてだろう!(^^)。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  (1)  わたしの感覚としての反応をそのまま書いてしまいますが:  つまり このグラフは かんたんに言って これこれこういうふうに見るとよいと思うくらいの説明をして 去ればよいのではないかと思いました。  (2)  わたしならと考えると どうするか?  たぶん――反相対性理論を知りませんし それの批判もできませんが―― その批判をきちんと説明してつたえるかなと思います。  <追伸>  ★ ・・・「練習は嘘つかない」は本当ですよ。だからミラーニューロン現象の結果であっても、自分に負けたと言います。  ☆ ソチ以後のワールドカップでも 三連勝でしたか。もっとも好敵手がいないので優勝が問題なのではなく きちんとよい成績としての結果を出している。つまり 《練習は嘘つかない》のとおりの結果が出ている。――それなのに オリンピックだけは 別だった。おかしい。ミラーニューロン現象だ。となります。  ただし 沙羅のときに限って 風が追い風になったとか。そういう不運な外的な条件があったとも言っていますが。それでも そういった風に対しても 乗り越える練習をもしていると 自分で言っていたと思いますから やはり好敵手の側からの《失敗しろ》といった内容の《敗けろ敗けろ放射線》を受けたのだと なお思っております。  ★ でも4位でも泣いたのは、ミラーニューロン現象なんでしょうね。誇っていいのに。  ☆ ん? あぁ 周りが《誇ってよいにもかかわらず それをゆるさなかった》ですか。だから その周りの思いを察して 沙羅は泣いた。ううーん。  ★ いっぽう浅田真央のショートプログラムの失敗は、ミラーニューロンでしょう。あれはポカです。心とは関わりのないパフォーマンスを実現するはずの体が、動かなかった。  ☆ ん? これは よく飲み込めないなぁ。  ポカをやったのは 周りからの・特には好敵手の側からの《おまえは 転べ》という念力(?)放射線を受けて その影響が 不覚にも 出てしまった。と見るのですが?  ★ ソチのジャンプ台が不得意という事実  ☆ このソチだけが そして沙羅だけが 不得意であるというのは 解せないですねぇ。  真央の場合は 採点の問題があるようですから それを差し引くと やはり 失敗という出来事がなぜ起きたかという問題になると思います。つまり フリーの演技は 採点でおそらく損をしている。だから あのフリーの演技では さらに加点され メダルにとどいていたかも知れない。  沙羅は メダルにもとどかなかった結果を受けて 顔がくしゃくしゃになっていた。これこそ 何が起きたのか? どうしてこうなったか? について真剣に向き合っている心だと思った。ミラーニューロン現象だとまでは認識しないと思うけれど 自分の中には原因や理由を探し得なかったのだと思う。んだけれど・・・。        ○ イエスのタトエ話  ☆ これは 《これらのもっとも小さな者たちのひとり》に対して 水を飲ませたか飲ませなかったかの問題は その小さな者がイエスであると言っているということは けっきょく弱い者や困っている者を前にしてそれは自分自身であると捉えるかどうかなのだと思われます。

bragelonne
質問者

補足

 【Q:われ・ことば・表現は 世界と同時一体である。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8505592.html  これの回答No.1とNo.5での ねむりねこさんとのやり取りについて コメントをお願いできないでしょうか?  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  もともと世界はあった。われとともにあった。鳥や蛙やとともに あたかも一体としてあった。その中で 声なら声が 言わば世界全体にユラギを起こし これをわれは認識する。(もともとユラギとして 世界はわれもなれ(汝)も一体であった。ユラギが目を覚ました状態になった)。――こういった事態が 世界とわれとのあり方なのではないか?  というふうに――例によって推測において――問うています。おしえてください。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

noname#221368
noname#221368
回答No.2

 まず、スサノヲ人間語,アマテラス普遍語の正体についてはおいときます。  で、理想的に上手くいった場合ですが、 >さて 一般にコミュニケーションにおいて 相手がけんか腰でやって来たら・・・ とりあえず怒りを覚えます。これはトリガーです。否応なく実生活を生きている以上、ほとんどのケースはスサノヲ人間語が動機になっていると思います。  しかし十分な訓練を積めばここで、スサノヲ的に反応するのが得策かどうかの判断が入ります。それはアマテラス普遍語で行います。その結果、   ・どうでも良い、と思えば「去ります」。  どうでもよくないと思った時(その多くは自分のスサノヲ的な都合です)、アマテラス普遍語で説得を試みます。論点の明確化あるいは、ずらし(^^;)、相手の自己矛盾への急襲(相手の言説の無意味化)、双方の方法論の違いを指摘すると同時に目的意識の共通項をあげつらう(相手の意見を解釈しなおし、自分の意見の補強材料とする)・・・などです(^^;)。  しかしこれらの行動の動機の全ては、スサノヲです。そこが何をしたいのか?を、決める気がします。  それで、   「・・・表現が違うだけ・・・」 とか、   「・・・自分の言ってる事と同じくらいに、あなたの言ってる事も不確かだ・・・」 みたいな状態に、持ち込もうとする・・・。  それでも駄目なら見限って、スサノヲのように、 >こちらもけんか腰になって・・・ やってしまう(^^;)。  具体的事例には、なりませんか?(^^;)。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  それでも駄目なら見限って、スサノヲのように、  >こちらもけんか腰になって・・・  やってしまう(^^;)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これには 思わず笑って(ほほえんで)しまいましたが まづは ご回答をありがとうございます。  でーでーてーさんでも けんか腰になるときもあるのですね。  分かっていらっしゃるので もはや次の一点についてお尋ねしてみたいと思います。  ★ ・どうでも良い、と思えば「去ります」。  ☆ この《どうでもよさ》をどう捉えるか? どう判断しそう仕分けするのか? についてです。  例え話でお訊きします。  というのも例によってイエスという人間は 次のように語ったからです。文脈を必要以上に削ったかも知れませんが。  ▲ (マタイによる福音書 25:31-46 )~~~~~~~~~~  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  ・・・  35: お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、  36: 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。  37: すると、正しい人たちが王に答える。    『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。  38: いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。  39: いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』  40: そこで、王は答える。    『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』  ・・・  44: すると、彼らも答える。    『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』  45: そこで、王は答える。    『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

bragelonne
質問者

補足

 ミラーニューロンについての事例を思いつきました。  先ごろあったソチ・オリンピックで 沙羅と真央それぞれの失敗は このミラーニューロン現象として起きたのではないか? とうたがっています。  むかしは ニッポン柔道の選手が 身内からのプレッシャーを受けるというかたちのミラーニューロン現象であったのではないかと思いますが 昨今の真央や沙羅の場合には ヨソの人たちからのヤマシイ思いや気持ちや情念が かのじょらにそれぞれ乗り移ったのではないか。  つまりかのじょらは あやまちうるスサノヲ人間語から去らなかった。こういうことだと見るわけです。どうでしょう。

回答No.1

こんばんはです。 あえて類型的にいいますと、 スサノヲ言語 :具象的、自然言語的、感情・感覚的、有機体的 アマテラス言語:抽象的、人工・科学言語的、理性的・合理的、無機的・機械的 という性質を有しているのではないでしょうか。 ───あえて、対照的に色づけしたこともありますが(ポリポリ)─── したがって、スサノヲ語を使う人には、アマテラス語で語られた内容は理解が困難、逆も然りです。 同じ桜の花を見ていても、 片や感情を重視し詩的・文学的に語り、 もう片一方は、感情ではなく理性的・科学的に語ろうとする。 いやいや、両者は、同じ桜の花を見ていても、まったく別なものをそこに感じ取っているのかもしれません。 この可能性は否定できません。 そもそも出発点が違うのかもしれません。 そして、「理屈ではないのだ!!」と抗議や不満の声を上げ、「感情的にならないで、落ち着いてよく(合理的に・理詰めで)考えてください」と説得にかかろうとする。そして、この言葉をみみにしたスサノヲ村の人々はさらに激昂し、感情的になってゆく・・・。 この両者の間の溝は永遠に埋まらないのかもしれないですね。 ですから、 ~~~~~~  それは あやまちうるスサノヲ人間語にもとづくのではなく あたかもそこから去って もはやあやまち得ない〔と冀った〕アマテラス普遍語――アマテラス科学語(真実)およびアマテラス人格語(倫理規範)――の世界にのがれる場合です。    この普遍語アマテラス方言をたくみに駆使し得る場合というのは 神聖にして侵すべからざる権威が 人びとによって着せられます。 ~~~~~~ は、返って、「火に油を注ぐ」ことになりはしませんでしょうか。 これは、かなり危険です。先方は、「バカにされた」と思うのではないでしょうか? ~~~~~~  このときひとつのみちびかれる結論としては 問題が 成るべくあやまちうるスサノヲ人間語にもとづき・これから離れないで できるかぎり主観を共同化しうるアマテラス科学語およびアマテラス人格語としての普遍語を用いる。ここにあることになるかと考えます。 ~~~~~~ 白亜(大学の先生や学問)の世界に住む人や高級官僚などの人々は、なかなかその高みから地べたに降りようとしませんから。 その正確性を期すために、抽象的で難解な(?)アマテラス科学語の使用をやめようとしないのではないでしょうか。 哲学書などはひとまずおきまして、 にしても、 お役所の文章や、法律などの文章や文言は何とかなりませんかね~。 数行読んだだけで、わたしなんぞは、もう辟易として読む気になりませんよ。 読み手の存在を全然意識していないですよ。お役人さんたちの自己満足で終わっていますよ。 分かりやすく伝えようという意識が欠落しているとしか言いようがない。 ちょっと工夫すれば、分かりやすくなるのに、その意識や、そうしようと努力する気持ちが欠落している。 庶民に理解できないように、小難しく書いてありますよ。 あるいは、すこし読んだだけで、読む気を喪失させるために、そうしているとしか思えない。 文章やその内容の正確さと、その分かりやすさとは相反しないはずなんですがね~。

bragelonne
質問者

お礼

 ◇ そもそも出発点が違うのかもしれません。  ☆ ここまでは思わなかったのですが――なぜなら ヒトとして生まれて来て 自然本性に種やカテゴリの差はないと思うからですが―― それにしても スサノヲ人間語とアマテラス普遍語との違いに 大きな違いを見ておられるのですね。  まづは ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  同じ桜の花を見ていても、  片や感情を重視し詩的・文学的に語り、  もう片一方は、感情ではなく理性的・科学的に語ろうとする。  いやいや、両者は、同じ桜の花を見ていても、まったく別なものをそこに感じ取っているのかもしれません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ といったことは 大いにあり得るとわたしも考えます。つまりは 同じ人間である相手を見ていても・向き合っていても アマテラス族は スサノヲ庶民のことを ビンボー人で ゾクブツであるとハナから思っているという場合が 現代においても無きにしも非ず。ではないかとは思います。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ・・・   この普遍語アマテラス方言をたくみに駆使し得る場合というのは 神聖にして侵すべからざる権威が 人びとによって着せられます。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  は、返って、「火に油を注ぐ」ことになりはしませんでしょうか。  これは、かなり危険です。先方は、「バカにされた」と思うのではないでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いえ。そうですが それをねらって言っています。なぜなら 《神聖にして侵すべからざる権威》が いかにもろく むしろしばしばインチキであることが分かっているからです。  少なくとも 必要以上の・中身以上のカザリをつけられた権威や権限や権力に つねに 落ち入るおそれがあると見られるからです。  しかもそうであるにもかかわらず   ◇ 白亜(大学の先生や学問)の世界に住む人や高級官僚などの人々は、なかなかその高みから地べたに降りようとしませんから  ☆ 《挑発》しています。(ほんとうは アンチテーゼに対する――アンチテーゼとしての――ジンテーゼなのですが)。  そうして  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  哲学書などはひとまずおきまして、  にしても、  お役所の文章や、法律などの文章や文言は何とかなりませんかね~。  ・・・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というように 援護射撃(ちょっと物騒な言い方ですが)をしてもらっています。ありがとうございます。  役人や小賢しい学者に対しては 《折伏》することもむしろ愛なのではないか。こうも考えます。    

bragelonne
質問者

補足

 ミラーニューロンについては 大昔にいちどここでおそわったことがあって その後 ねこさんからもあらためておそわった知見ですが  これについての事例を思いつきました。  先ごろあったソチ・オリンピックで 沙羅と真央それぞれの失敗は このミラーニューロン現象として起きたのではないか? とうたがっています。  むかしは ニッポン柔道の選手が 身内からのプレッシャーを受けるというかたちのミラーニューロン現象であったのではないかと思いますが 昨今の真央や沙羅の場合には ヨソの人たちからのヤマシイ思いや気持ちや情念が かのじょらにそれぞれ乗り移ったのではないか。  つまりかのじょらは あやまちうるスサノヲ人間語から去らなかった。こういうことだと見るわけです。どうでしょう。

関連するQ&A

  • 《人間を国家的に》から《国家を人間的に》へ

     1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに価値判断すると アマテラス人格語として――ということは 倫理学として・また倫理規範として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. そこでは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語》のしかるべき有効な二層構造化 これを果たそうとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において人間である。自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家の人間化 ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語を回復させるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちは その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっているのではないか? あやまちをまぬかれる人間はいないのに。  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここからアマアガリして 抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちは のこったとしても実質的に 国家をそして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?

  • アマテラス普遍人格語のつまづき

     1. まづは S 語 と A 語 (?)  わたしたちは どの言語にあっても ふたつのコトバを使い分けているようです。   《スサノヲ( S )人間語》:   ・ 身と心から成る自然本性そのものの自己表出〔としての言葉〕   ・ 感性の原野を開き ほどほどの理性を持ってしゃべる言葉   ・ 人間のつねとして あやまち得る思考を容れた広い度量の言葉   《アマテラス( A )人格語》:   ・ 身と心なる自然本性を 心ないし精神において捉え相手に向けて    心に或る種の構えを成して自己表現しようとする言葉     (自己表出を ととのえ練り上げ磨き上げさらには飾り上げる)   ・ 感性の原野をどちらかと言うと抑えて 理性によって思考の緑野    を開発する。その成果をもってしゃべる言葉   ・ その思考は あたかもあやまち得ないと見なされた《格》を持つ   ・ かつてはオシヘとして神格化され 神聖にして侵すべからざるも    のと見なされた  2. アマテラス人格語は 普遍科学語を開発している。  すなわち思考の緑野として 言わずと知れたアマテラス科学語の世界を打ち建てた。    誰が認識しても 同じ内容となるというその《個々の主観真実の共通性》 これである。この共同主観が 普遍なる神のごとくであると 時には 見なされた。  3. アマテラス普遍語は 人格語を倫理規範とし これを科学語で根拠づけた。  普遍科学語で彩(いろど)った衣裳としての人格語を着たならば そこに《あやまつべからざる人間像》が出来上がると踏んだ。いわゆる理念の信仰も始まる。    4. かくして アマテラス普遍語文化の君臨となった。  のではないだろうか。  5. このアマテラス語の隆盛が つまづきの石である。  6. なぜなら 自然本性にして普遍たるスサノヲ人間語を貶(おとし)めたつけが回って来ている。  7. スサノヲ人間語は 殊にその感性の原野たる領域において もののあはれを知ったかのごとく こう語る。    ・ 《ひとは 他人(ひと)の自由意志をないがしろにしない。      こころをとうとぶ。      《他人のおよび自分のいのちをないがしろにしない。      《わが自由意志がその自由度において横道に逸れ そこに      おける思考が人間をにくみこれを傷つけようと・あるいは殺      そうと思ったりすることはあるが なぜか そうはしないもの      だ》。  8. ところが アマテラス人格語は うったえます。  スサノヲ自然感性語の宣言を   ・《なんぢ ころすなかれ / むさぼるなかれ》  というふうに規範化しようと。おそらく このこと自体にすでに問題があります。問題が――社会にあって生きることが―― 理性の領域に移行したからです。あたまで逆立ちして町を歩こうと言い出した。  9. あるいは 同じように比べてみようと思えば:  スサノヲ人間語は 心の奥にあってこのように言葉を言い出そうとします。   ・ 《われは 心の奥底なるヒトにとっての思いとして      時に身に勝手に起こるやましさ(恥づかしさ)反応を受け留め      恥ぢを知るわが心にすなおにしたがい      よくおのれの自由意志を用いよう》  と。これを アマテラス語理性は―― 一般にガミガミ規範ないしアマテラス語理論として――言い換えます。    ・ 《すなおになりなさい。     わがままはいけません。     恥づかしさは 隠しなさい。     ウソをつくのは わるいことです。・・・》  10. すでにアマテラス普遍志向にもとづく《アマアガリ》主義は 行き詰まったのではないだろうか?     思考の緑野と言えども 理性のみによってその普遍語の世界に閉じこもらざるを得ないような規範性を帯びているかぎり このあたまデッカチは つまづきの基となる。  《オシヘや規範あるいは理念》をあたまに抱きながらしか おのれの思考や互いの対話を成し得なくなっている。感性の原野が なおざりにされてしまっている。  11. それだけではなく アマテラス人格語は 感性スサノヲ語を捻じ曲げてしまうくせがついてしまった。次のように語るようになってしまった。    ・ 《すなおだと人に見られれば 何かとよいことがあります。     どれだけわがままを通したいと思っていても わがままだと受け取     られてはいけません。     あたまを使いなさい。     ウソは ウソとバレては いけません。     上手につくのですよ。     また バレたなら うまく振る舞って あなたの秘書や部下の所為に     しなさい。     ・・・》  12. アマテラス語は 普遍語が ただの方言にしか過ぎなくなってしまった。  ただのアマアガリのための・それを飾るための・そしてそれを保守するためのアマテラス方言にしか過ぎないほどである。   何ともひどい訛りを身に着けてしまった。ダブル・スタンダードはお手の物というほどに へそが すでにひん曲がってしまったではないか?  どちらかと言うとスサノヲ語の側である野党党首が アマテラス語の舌を二枚三枚すでにあつらえて用意していた。それがとおった。  ☆ これを問います。  いまは 転機か? もしそうなら あなたはどうすればよいと考えるか?

  • 《人間を国家的に》から《国家を人間的に》へ

     1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。(あやまつは人のつね)。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内容を共有しうる普遍概念の抽出)。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるようにさせるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. それは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語 》の二層構造のしかるべき有効な使いこなし これを実現しようとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において―― A 語公民性の幅と深さを持ってこそ――人間である。それが 人間の自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家をこんどは人間化すること ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語をも回復せしめるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちが その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっていると見られるから。あやまちをまぬかれる人間はいないのに。アマテラス的な あまりにもアマテラス的な姿を呈するようになってしまたのではないか?  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここから飛翔し人びとを措いて単独にアマアガリして その抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちは のこったとしても実質的に 国家をそして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか いまの課題は。インタムライズム。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?  15. 天皇 安倍晋三 シーチンピン パククネ バラクオバマ ・・・が 究極の《スサノヲ市民 - アマテラス公民》のしかるべき秩序構造化した《にんげん》でしょうか?   17. 人間の人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考えをお寄せください。

  • あなたは 何語をしゃべっていますか?

     1. ひとがしゃべる言葉には ふつうに市民として社会の中に生活しているときの《人間語》があります。  2. そのひとつの特徴としては――互いに主観をぶつけ合うようにして 自由に交通するゆえ―― 《あやまちうる》という性格を持ちます。  3. この・スサノヲ市民のあやまちうる人間語のほかには そうだとすると あやまち得ない科学的な普遍語があり得ます。  4. つまり スサノヲ人間語としての主観をなるべく控えるかたちでアマテラス公民の用いる普遍科学語。  5. そして 科学語のように中立――価値自由-――ではなく そこに主観的な価値判断をまじえたときにも なお普遍性を問い求める倫理のことばがあります。  6. これは アマテラス公民の普遍人格語とよべます。  7. 整理すれば:   あやまちうるスサノヲ( S )人間語   あやまち得ないアマテラス( A )普遍語(科学語および人格語)  8. ところが ひとは誰も 公民としてのみ生活しているわけではなく 市民であっても 選挙をつうじてなりとも公民としても生きている。    9. したがって おそらくわれわれのふつうにしゃべる言葉の範囲は広く けっきょく S 語と A 語とのすべてだと言えます。  《 S 人間語 - A 普遍語(人格語&科学語)》の構造的な複合語  10. このようにひとがしゃべる言葉として捉えた内容は 人間観にもつうじており 哲学・思想の現実的なあり方にもかかわって行くものと思われます。  11. 端的に言って 西欧の人びとは・そしてその哲学は しばしば《 S - A 連関》の全体を必ずしも扱わないクセがある。  12. 普遍 A 語の世界のみを――倫理にしても自然や社会についてにしても――理論的に体系的に描こうとするクセ。    13. あるいは 《 S 人間語の世界――スサノヲ市民社会――》について探究するにしても すべからく《 A 普遍人格語かつ科学語》をそのドロドロとしてもいる生きた人間社会に あたかもメスを入れるかのごとく 当てはめてしまい ときにはそれだけに終わろうとするクセ。  14. ちなみに その思潮に対する反動が起きて 《あやまち》でもよい・または あやまち得る S 語のほうがよいという風が吹くときがあるようだ。スサノヲ市民の中の《その場主義》に片向いた一般ピープル主義とも言えるポピュリズムでしょうか。  15. と かんたんに捉えたとき 構造的な連関のあり方がまことに按配がよいといった《 S - A 連関》語は われわれは しゃべられないものだろうか?   16. つまり S か A かのどちらか一方に片寄ることなく その全体にわたる言葉をしかるべき配合にして しゃべるようになれないか?  ☆ これが問いです。忌憚なきご見解をどうぞ。

  • 《人間を国家(公)的に》から《国家を人間的に》へ

     姉妹質問です。互いが互いにとって分かりやすくなれば さいわいです。  ここの主題は 《人間化》です。  1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。(あやまつは人のつね)。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内容を共有しうる普遍概念の抽出)。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるようにさせるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. それは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語 》の二層構造のしかるべき有効な使いこなし これを実現しようとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において―― A 語公民性の幅と深さを持ってこそ――人間である。それが 人間の自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家をこんどは人間化すること ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語をも回復せしめるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちが その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっていると見られるから。あやまちをまぬかれる人間はいないのに。アマテラス的な あまりにもアマテラス的な姿を呈するようになってしまたのではないか?  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここから飛翔し人びとを措いて単独にアマアガリして その抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちはのこったとしても実質的な内容としては 国家をして・そして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか いまの課題は。  13-1. インタムライズム。公(A語)は 私(S語)の内に自然なかたちでおさめられてこそ 生きる。ムラ(市町村=S圏)が 主権をすでに理論的に持つのだからこれを実践して行くこと。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?  15. 天皇 安倍晋三 シーチンピン パククネ バラクオバマ ・・・が 究極の《スサノヲ市民 - アマテラス公民》のしかるべき秩序構造化した《にんげん》でしょうか?   17. 人間の人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考えをお寄せください。

  • ヨリ・イリ・ヨセなる知性の区分からインタムライズム

     1. 世界におけるおのれの位置づけによって 仕分ける。      ヨリ(憑り):世界と未分化なる原始心性:アニミズム・シャーマニズム           前(プロト)歴史知性    イリ(入り):時間的存在なるわれを自覚して世界の内に入った:           歴史知性;《世界‐内‐存在》    ヨセ(寄せ):時間を超えたと《さとった》ととなえ世界の経営にあたろうとする:           ヨリ心性もイリ知性をも寄せてたばねる:           《超歴史知性》;《世界‐外‐存在》  2. ひとは みな あやまち得るスサノヲ人間語をしゃべるスサノヲ市民である。ヨリ原始心性もイリ歴史知性もヨセ超歴史知性も 同じくである。  3. ただし このスサノヲ人間語の内に じつは人間の普遍的な特質もやどると見られている。一般に《人間としての互いのカカハリ(関係性・社会性)》である。マジハリは無くても カカハリの絶無な人はいない。  4. スサノヲ市民が暮らす世界にあって 人と社会とその他の世界について誰もが共にそうだと見とめる事柄を人びとは捉えるようになる。これは アマテラス科学語である。ゾーオン・ポリティコン。  5. アマテラス科学語で捉えた人と人との関係についての見方は 理論と成る。人は互いにひとしく自由だ。この自由は互いにまったくひとしい。うんぬん。これは むろんやはり普遍性を表わすものとして アマテラス人格語と呼ぶ。  6. アマテラス科学語およびアマテラス人格語をまとめて アマテラス普遍語と呼ぶ。  7. 一般に――相対的な意味においてだが――あやまち得ざる普遍語として捉えられるアマテラス語は むろんあやまち得るスサノヲ人間語にもとづきそれを練りに練って得たものである。  8. もしくは アマテラス普遍語は スサノヲ市民が用いる言葉である。ぎゃくではない。アマテラス人格語は スサノヲ人間語の内におさまってこそ 活きてはたらく。  9. アマテラス人格語および科学語によって ヨセなるスーパー歴史知性は スサノヲ人間語なる《ヨリ心性およびイリ知性》をおしえたい・みちびきたい・おさめたいと願った。根負けしたスサノヲ市民らは これに《くにゆづり》した。  10. よって 社会は もとは平屋建てであったが 《くにがゆづられた》あとには スサノヲ市民社会なる第一階とそしてアマテラス第二階との二階建て構造と成った。  11. 社会にも神棚をつくって そこに神聖にして侵すべからざるアマテラス公民を住まわせ ときにはこれを祀っていた。    12. 問題は ずばりひと言で言えば こうである。:ひとの用いる言葉は けっきょく誰にとっても《スサノヲ人間語 ‐ アマテラス普遍語》なる総合的にして構造的な言語だということになる。S語だけというわけではないし A語が突出してしまうものでもない。  13. いかに普遍語と言えども 《超・人間語》はない。同じように人間知性に超・歴史知性はない。ヨセなるズーパーメンシュとしてのアマアガリもしくはアマガケリは 非現実的である。社会に 神棚も雲の上もない。  14. 《スサノヲ人間語 ‐ アマテラス普遍語》なる構造言語をしゃべる一人のひと――基本的に言って広義の スサノヲ市民―― この人間が 社会の経営については ムラオサ(市町村長)として当番制において当たるのがよい。学級委員のごとくすべての人が ムラオサの当番になる。  15. また お二階は要らない。それは ムラムラの連携のために事務処理をつかさどる公務員としてはたらくのみ。  16. このムラムラのつながりは 日本だけでやるのもよいが 世界にひろがるなら もっとよい。  このたたき台についてご教授ください。異論については質問者として食い下がりますが ご批判を歓迎します。

  • アマテラス普遍人格語のつまづき

     (1) まづは S 語 と A 語 (?)  わたしたちは どの言語にあっても ふたつのコトバを使い分けているようです。  《スサノヲ( S )人間語》:   ・ 身と心から成る存在そのものの自己表出〔としての言葉〕   ・ 感性の原野を開き ほどほどの理性を持ってしゃべる言葉   ・ あやまち得る内容  《アマテラス( A )人格語》:   ・ 身と心なる存在を 心ないし精神において捉え自己表現しようとする言葉   ・ 感性の原野をどちらかと言うと抑えて 理性によって思考の緑野を開発する。その成果をもってしゃべる言葉   ・ あたかもあやまち得ないと見なされる内容   ・ かつてはオシエとして神格化され 神聖にして侵すべからざるものと見なされた  (2) アマテラス人格語は 普遍科学語をも開発した。   すなわち 思考の緑野に言わずと知れた科学語の世界を打ち建てた。     誰が認識しても 同じ内容となるというその《個々の主観真実の共通性》 これである。  (3) アマテラス普遍語は 人格語を倫理規範とし これを科学語で根拠づけた。  すなわち 普遍科学語で彩(いろど)った衣裳としての人格語を着たならば そこに《あやまつべからざる人間像》が出来上がると踏んだ。    (4) かくして アマテラス普遍語文化の君臨となった。  のではないだろうか。  (5) このアマテラス語の隆盛が つまづきのもとである。  (6) なぜなら スサノヲ人間語を貶(おとし)めたつけが回って来ている。  (7) スサノヲ人間語は 殊にその原野たる感性の領域において もののあはれを知ったかのごとく こう語る。    ・ 《ひとは 他人(ひと)の自由意志をないがしろにしない。     《他人のおよび自分のいのちをないがしろにしない。     《自由意志が人間を傷つけようと思ったりあるいは殺そうと     思ったりすることはあるが そうはしないものだ》。  (8) ところが アマテラス人格語は うったえます。   スサノヲ感性語宣言を   ・《なんぢ ころすなかれ》   というふうに規範化します。このこと自体にすでに問題があります。問題が――社会にあって生きることが―― 理性の領域に移行したからです。  (9) あるいは 同じように比べてみようと思えば:  スサノヲ人間語は 心の奥にあってこのように言葉を言い出そうとします。   ・ 《われは 心の奥底なるヒトにとっての思いとして      身のやましさ(恥づかしさ)反応と共なる心にすなおにしたがい      よくおのれの自由意志を用いよう》  と。これを アマテラス語理性は―― 一般に規範ないしアマテラス語理論として――言い換えます。   ・ 《すなおになりなさい。     わがままはいけません。     ウソをつくのは わるいことです。・・・》  (10) すでにアマテラス主義は 行き詰まったのではないだろうか?      人間が ただただ――思考の緑野と言えども――理性の領域で・その普遍語の世界の中に閉じこもってのように 《オシエや規範》とそれをめぐる思考との対話をしか成し得なくなっている。のではないか? 感性の原野が なおざりにされてしまっている。  (11) それだけではなく アマテラス人格語は 感性スサノヲ語を捻じ曲げてしまうくせがついてしまった。次のように語るようになってしまった。   ・ 《すなおだと人に見られれば 何かとよいことがあります。     どれだけわがままを通したいと思っていても わがままだと    受け取られてはいけません。     あたまを使いなさい。     ウソは ウソとバレては いけません。     上手につくのですよ。     また バレたなら うまく振る舞って あなたの部下の所為にしなさい。     ・・・》  (12) アマテラス語は 普遍語が ただの方言にしか過ぎなくなってしまった。  のではないか? しかも 何ともひどい訛りを身に着けてしまった。ダブル・スタンダードはお手の物というほどに へそが すでにひん曲がっているのではないか?  これを問います。もしそうなら どうすればよいでしょう?

  • 国家とは何か? その存立根拠とは?

     (あ) 存立根拠は 分かりません。ないのではないか?  (い) 国家とは 《スサノヲ市民社会( S 圏)‐もっぱらのアマテラス公民圏( A 圏)》という二階建ての構造を成して 公民 A 圏が主導していとなまれる社会の形態である。と仮説します。  (う) おそらくその特徴は ひとつに 社会秩序の問題として次がある。  ひとが人間としての意志ないし心が踏みにじられるといった不法行為に遭ったとき その不法行為を――それは 無効の行為ゆえに――なかったことにするための原状復帰について 被害者の自力救済に拠らずに アマテラス公民のチカラ(権力)に拠ることを原則とする。  これが 特徴であると考えられる。  (え) すなわちひとは そのしゃべる言葉が 《あやまちうるスサノヲ人間語‐間違いのないアマテラス普遍語(科学語および人格語)》なる二層構造を成すと捉えられる。このとき 普遍 A 語をもっぱらよく行使する 役割りをになう A 圏のチカラに 不法行為を受けてこうむった被害からの救済をゆだねた。  これによって 人びとのあいだの和についてそれを保守する役割りが果たされる。  (お) ところが 人びとのあいだの和は 考えてみれば むしろ《あやまちうるスサノヲ人間語》どうしの――むしろ互いにケンカをも自由に為すほどであるところの――スサノヲ市民としての自由なる自然史過程にゆだねたほうが よくその役割りを果たすものである。のではないだろうか?  (か) それとも 二段構えであるか。つまり S 語によるケンカの結着や仲裁と A 語を介しての解決法との二段構えである。と見るべきだろうか?  (き) けれども 普遍 A 語は スサノヲ人間語なる泥の中に根を張って咲かせる花であって根無し草になってはならない。はずだ。大岡裁判やソロモンの知恵が 大いにのぞましい。  (く) ここで短絡するならば アマテラス圏なるお二階は・つまり国家は 要らない。のではないだろうか?  (け) スサノヲ市民社会の――ムラそれぞれの――自立がのぞまれる。かまど(へっつひ)は S 圏にあり。歴史は ここでいとなまれる。  (こ) それとも A 圏を擁する国家なる社会形態こそが 人間とその社会にとって重大かつ欠くべからざる存立根拠を持つ。と見られますか?

  • われわれは どこへ行くか?

     世界についての展望を問います。  これまでの経過のみによって表わそうとした文章ですが それを たたき台とします。  添削をどうぞ。  1. 《知性》のあり方についての分類から始めます。    -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム   0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。                    時間的存在の自覚。   +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:世界の第二階から                 《ヨリ》を束ね 《イリ》をも                  社会力学上(政治的に) 寄せる。    2. なぜ 最後にヨセが出て来たのか。これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言います)。これは 宗教(まつりごと)の始まりです。  2-1. マツリゴトとは 平屋建てだった市民の社会を二階から共同自治する社会経営の方式です。  3. イリなる歴史知性は 世界にあってわが生活すなわちわれらが共生にとって互いの自由をとうとぶ。そのときには 互いの意志疎通を重んじる。民主制である。  3-1. それには 《経験合理性》がそれとして とうとばれる。(排中律や 因果関係の把握など)。  3-2. 特に経済生活では たとえば少ない費用で多くの収益を得ることを目指す。これは 勤勉と呼ばれる。  3-3. 経済活動にあたっても 勤勉なるイリ歴史知性は 倫理の側面を重んじる。ふつうにまじめに生きようとしており いわゆる人格の陶冶につとめ 商業道徳をおもんじるようになる。  4. ヨセなるスーパー歴史知性は イリ歴史知性と同じくこの勤勉志向を やはり経済的にも倫理的にも問い求め さらには言わば徹底して目指すようになる。かんたんに言って ガリ勉である。勤勉主義となる。  4-1. もともと優秀であって さらに優秀であることに価値を置く生き方なのであると思われる。    5. ちなみにここで 人びとのふつうの勤勉にもとづく生活においては あやまちうるスサノヲ人間語をしゃべると言える。その基礎において 合理性を問い求めている。  5-1. 他方 勤勉主義を志向するガリ勉知性にあっては あたかもあやまち得ない普遍性を問い求めて行く。たぶん 他人(ひと)の上に立ちたいからだと思われる。  5-2. これを 科学および倫理にかんするアマテラス普遍語として獲得するようになる。アマテラス科学語とアマテラス人格語と。  5-3. 学力優秀で品行方正なる優れた人間が出て アマテラス普遍語をよく駆使するようになるなら 自分からか周りの工作によってか すでに神のごとくいかなるものの下にも立つまいと誓うようになるらしい。その存在じたいが 侵すべからざる神聖さを帯びたと見なされるように自分をも周りをもそして人びとをも寄せつつ おしえ導くようになる。  6. 人びとのしゃべるコトバは スサノヲ人間語とアマテラス普遍語との二重構造になった。(やがては アマテラス普遍語にも 片寄りがあり 都合のよい部分で普遍的な内容を示すだけのアマテラス方言も 使われるようになった)。  6-1. そうして社会も スサノヲ市民社会とアマテラス公民圏との二階建て構造を採った。国家と呼ばれる。    6-2. もっとも現代ではすでに 主権在民とうたわれており アマテラス公民は 公僕であり スサノヲ市民のために社会を経営する。  7. さらにひとつの問題は 世界の経済活動において 勤勉主義なるガリ勉が さらに徹底してガリ勉主義となって 経済合理性のみを追求するウゴキである。  7-1. たぶんそれは 人間観として 個人は《スサノヲ( S )市民=アマテラス( A )公民》としての単層なる人間像に立つ人びとの側から 初めには出て来たものと思われる。日本人は 《 S - A 二層連関構造》なる個人ではないかと考えられる。  7-2. 言いかえると 《 S = A なる単層》としての人間観に立つ人びと・つまりは一般に欧米の人びとの社会は 次のような二階建て構造なのだと考えられる。  スサノヲ市民社会(《 S = A 》人)-アマテラス公民圏(《 S = A 》人)  つまりは 《 S 圏 ‐ A 圏》の二階建ては つねにひっくり返るウゴキ( revolution )を秘めている。ひとりの個人が《イリ歴史知性=ヨセ超歴史知性》なる心的現象を示す人間像であるように見られる。《万人の万人に対するたたかい Bellum omnium contra omnis.》。  7-3. そこで特には経済基礎において ガリ勉主義としての論理徹底指向なる合理性がグローバリズムとなって世界の隅々をも席巻しつつある。  7-4. ニートは このようなメーキャップをした世界の顔を見て やってらんねえよと言った。

  • アマアガリ・シンドロームとは どういうエートスか

     1. 人びとは 世界の何についても寄り憑く原始心性(アニミズム)の状態から脱して おのれの心と意志とで世界の中に入り行くところの:    《イリ(入り)》なる歴史知性(もしくは 世界‐内‐存在であること)  を獲得した。(すでに潜在的な能力としてそなわっていたのを開花させた)。  2. 世界の思想や行動なるいとなみを相対性の物指しで見るようになった。  3. だから 神は この経験世界をとおして望み見るかたちの信仰のもとにある。望み見るとき その神は――有る無しの経験事象を超えているからには―― 人間の言葉としては《神は有る》と言っても《神は無い》と言っても 同じひとつの信仰内容となると心得た。  4. そこへ アマアガリ現象が起きた。イリ歴史知性なる相対性には飽き足らないという心的現象に始まる。  5. 早い話が 子どもが空の月を取って欲しいと言うかのように・そしてそれを自分で実行するのだと言ってのように われは神を見た・神と話をしたのだ だからその神をわれはこの世に寄せたと説き始めた。  6. 《ヨセ(寄せ)なる超歴史知性》の誕生である。果ては みづからが神となるというまでになった。  7. ヨセなるスーパー・イリ歴史知性は すでに《世界‐内‐存在 In-der-Weld-sein 》と成っている。成っていた。《ヨリ(憑り)なる原始心性》を抜け出ていた。  8. そこへ 歴史知性――知性の相対性・経験現象性――を想像力を駆使して超えようとしたのである。天翔り 天上がりする。  9. これが アマアガリ・シンドローム。  10. その特徴は何か? ふたつある。  11. ひとつは 歴史知性の想像力ないし思考能力によって 世界の認識にあたって その普遍性を問い求めた。経験科学として・および良し悪しの価値観を伴なわせた倫理観として。これを アマテラス(A)普遍語と言う。  経験世界の相対性に立つ――あやまち得る人間性としての――言葉は スサノヲ(S)人間語である。  12. A 語の普遍性も しかしながら 経験科学としてである限りで 相対的なものであることを免れない。あやまち得ないわけではない。  13. だから ところどころにヒビ(罅)が入り傷がつく。  アマアガリ・シンドロームに罹った場合には この損傷や欠陥を隠そうとする。自分たちの権威ないし体面を科学的および倫理的な普遍性よりも 大事にする。無謬性の神話がつくられる。  14. もうひとつは 《お山の大将》型だということである。つねに脚光を浴びていないと 死ぬ。アマアガリしたのであるから 人びとの上に立って人びとを引っ張っているのでないと 死ぬ。だから アマテラス普遍語の磨き上げをおこたらない。  15. これが 超人幻想なるヨセ超歴史知性の落ち入るアマアガリ症候群だ。  16. われわれ人間の話す言葉は 時と場合に応じて    《アマテラス普遍語 - スサノヲ人間語》なる構造的なことば  がのぞましいとは考えられる。  17. アマアガリ・シンドロームは 国家人間を襲っているものと思われる。いかにすればよいか?