もっともっと自由に!マルクスとヘーゲル派の哲学について

このQ&Aのポイント
  • マルクスは青年ヘーゲル派の哲学を批判し、人間の観念と関係について述べている。
  • 歴史的な人間の批判は常に誤りがあることを指摘し、自己の生活態度に関しても神や規範的人間に基づいた観念が適切ではなかったことを述べる。
  • 観念や理論が間違っていたとしても、それによって自己の関係を整えてきたのなら、合理性があり妥当なものであると述べる。欲望や根拠が間違っていたことを弁明し、自由な存在に立つことを求める。
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もっともっと自由に。もっともっともっと自由に!

 (1) マルクスは まちがっている。青年ヘーゲル派の哲学をとり上げて批判するとき    (あ) 人間はこれまでいつも自分自身について すなわち   自分がなんであるか またはなんであるべきかについて ま   ちがった観念をいだいてきた。    神 規範的人間などについてのかれらの観念にしたがって    かれらはかれらの関係をととのえてきた。・・・    (マルクス;エンゲルス:『ドイツ・イデオロギー』 〈序文〉 古在由重訳)    のではない とただちに言っているべきであった。  (2) もし こうした歴史的な人間を その歴史的であるということにおいて批難せねばならないとしたなら そこに まちがいは つねにある と言って 批評することから始めていなければならなかった。     (い) 人間はこれまでいつも自分の生活態度について     すなわち自分がなんで生活するか またはなんで生きるか    について 神 規範的人間などについての観念によって説    明し 自分たちの関係をととのえようと すなわち自己をそ    れぞれ弁明しようと してきた。  のであると ただちに説明しかえしているべきであった。  (3) 《観念がまちがっていた》のではない。または 観念がたとえまちがっていたとしても そのことじたいを責めるには及ばない。責めても不十分である。説明の内容 弁明のための観念と理論とは もしいやしくも それによって自分たちの関係をととのえ得てきたのなら 人間の合理性をどこかに持っているであろうし 一般にそれとして妥当なものなのである。  (4) われわれの弁明しようとする欲望が まちがっていたのである。弁明のための根拠 すなわち 生活態度また生きる理由と目的 これらが まちがっているのである。  (5) しかも 歴史経験的であるという人間の条件の限りでは まちがっていても 経験妥当なものでありえた。まちがった観念を持った人を 何が何でも 断頭台に送ればよいというわけにはいかない。  [・・・]              *    (6) ただ――ただただ―― 弁明の要らない地点に立てばよいのだ。はだかの我れに立ち還ること。  (7) クリスマスツリーのカザリがおのれの《固有の時》にふさわしくないとなれば すみやかにこれを取り除けばよい。樅の木だけになればよい。  (8) われわれは なぜおまえは そこにおまえとして居るのか? などと誰からも検問される謂われはない。  (9) 公理としての自由存在に立つべし。  (10) いっさいの宗教のオシエで着飾ることから自由になろう。  (11) もっと自由に。もっともっと自由に。もっともっともっと自由に。  これを問います。

質問者が選んだベストアンサー

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  • Nakay702
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回答No.5

 再度の「お礼コメント」をありがとうございました。幾分それて長くなりますが、以下のとおりお答えします。  ★ マルクスは[・・・]「哲学思想で飾ろうとした」のではなく、「欠けている真理を発見しようとして」哲学し、思想したのではありませんか? >☆ その《欠けているところ》を補って全体観に立てる理論および実践としての思想を打ち出せば 《弁明は要らない》と言おうとしたわけだと思います。つまり 《真理》に対応する理論内容を表現し得たならよいはずだという前提に立っているものと思われます。 >確かにこの《世界観を提出するという欲望から自由に成ると言うなら 世界観の提出じたいを控える》ことではないか? それでは《何も始まらない》ではないか? という批判がただちに出されるのでしょうけれど そのときには次のような構図になるはずです。 >すなわち 片や《出来るだけ精緻な世界観を持って実践をすすめる人間たちとその社会》という像が捉えられ 片や《そもそもいっさいの世界観から自由な人間 どうしが 試行錯誤で模索しつつ社会を形成して行くという世界》なる像とです。 ⇒このあたり、同義反復の堂々巡りのようにも感じられますが、分かるような気もするところはあります。  つまり、キリストやデカルトがやったような、「基本へ戻る」ことや「単純化する」こと、と原理的には似たような考えのように感じます。それは、老荘思想の「無為自然」、ロックの「自然法」、ルソーの「自然へ帰れ」などとも通底するところがあるかも知れません。私の場合はこれを「前方脱出」と呼んでいます。  我田引水ですみませんが、以下で前方脱出を可能とする条件について、イエスやデカルトの所業を参照しながら考えてみたいと思います。  まず、「単純化」。イエスの、「必要なことは信じることのみ、信じる者は救われる」といった言行や、デカルトの、例えば、物心二元論などにうかがえるように、両者とも単純化を行った。後者の場合、「普遍数学」や「誇張懐疑」などに象徴されるように、その方法論の全体を単純化の思想が貫いている。もちろん、両者とも、時代の要請やその背後にある状況を止揚し、吸収した上での単純化であったに違いない。それゆえにこそ、時の人々の苦悩に対する解答になり得たのではないだろうか。その証拠に、イエスは「信仰のあり方を人々の口に合うように調理」し、デカルトは「思想を合理性に還元」して、「文化活動の焦点を当面の現実に求めた」のであった。  前方脱出のための第2の条件として考え得るのは、ある種の「飛躍」である(図中では、時代潮流と脱出路をつなぐ縦の点線でそれを示した)。一見、「肩透かし」を食らわせているように見えるが、問題となっている事柄の直接的な改革を訴えるのではなく、それをいわば「脱構築」し、本質部分を抽出して取り込みつつ、より高い次元から捉え直すという姿勢であろう。イエスは、人々の自己喪失や「社会化」の原因になった律法の錯綜とか文化的過剰繁茂を整理したり再構成したりして問題の解消を図ったのではない。デカルトも、もはや信念の役を果たさなくなったカトリックの教義に変更を迫る姿勢など微塵も示さなかった(示せなかった?)。かといって、無視もしなかった。ただ、おそらく気乗りしなかったであろう神の存在証明(本体論的証明)は、その詭弁性ゆえ、後年カントによって完膚なきまでに論破されることとはなったが。(「学問的衝動」ではなく「神への慮り」から出た行為だったので、デカルトとしても、詭弁性は承知の上だったのかも知れない、と筆者は推測する)。ともあれ、両者とも、目前の問題について、当事者に改革を迫ることも、それを等閑視することもせず、それに対する回答を含み込むように配慮しつつ、独自の信仰体系・理論体系を創造した、と言えよう。  こうして創出された体系が、疎漏なく首尾一貫した組織として、いわば「自己完結」していること、これが前方脱出のための第3の、総括的条件とすることができる。もちろんその枠組みの中には、上で見たように、当面する問題への解も含まれなければならない。体制のための御用学や反御用学などであっては、おそらく自己完結はおぼつかない。体制というゴンドラの中だけでなく、それを支えるケーブルや鉄柱やその土台…等々のことも視野に入れる、つまり、より大きな「普遍妥当性」を求める姿勢が盛り込まれなければなるまい。ということは、そこには、必ずや、新しい世界観・社会観・人間観が含まれているはずである。現実を「脱構築」し、それと、自己の暖めた理想体系とをそれぞれテーゼ・アンチテーゼと見立てて、弁証法的に止揚するような作業が求められることであろう。  過当単純化であるとの謗りを受けるかも知れないが、これまでの「歴史的危機」において、後退することで現実を否定し、それを取り替えようとした者(後方脱出組)もいたし、全体が病んでいるのに、局所の手術で解決しようとした者(側面脱出組)もいた。しかし、いずれも「脱出」は不可能だった。結局、頼りにできるのは前方脱出組しかいないのである。ところで、「脱構築」は「破壊」とは違う。再構築を意識しつつ解体し、本質部分を損なわないように抽出し、単純化し、新しい構築物の素材として取り込む…。おそらく、このような手順を経て始めて、パラダイムシフトをも可能とするような、第一級の枠組みが創生されるのであろう。「価値観の混乱と渡りに瀕する」現代、すなわち、現代的危機のさなかにあって、そのような知の枠組みが一刻も早く出現することを期待したいものである。  以上、再々伸まで。

bragelonne
質問者

お礼

 なかい702さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  マルクスを出汁にしたからには覚悟していなければならなかったのでしょうが ことは大ごとになって来ましたね。  世界史ぜんぶを扱わなくちゃならないぢゃないですか。  わたしは 殊に自然科学はカラキシですから 過去の歴史に見る《パラダイム・シフト》といった主題については 書けません。    言えると思われることは なかい702さんは ただし今のところ解説者の立ち場でおっしゃっている。  言いかえると わたしは これっぽっちも悪びれずに手前味噌も醤油も――あたらしいパラダイムを提出していますよと言い張って――ひけらかしています。  そうですね。《前方脱出・後方脱出・側面脱出》は おもしろかったですが このわたしめは そのパラダイムをも《逸脱》する異端分子でありますね。  《脱構築》の話を聞いたとき・そして今も 当ったり前ではないかと思いました。わたしは すでに飛んでしまっています。イエスが出たので言うとすると・つまり自己弁護をするとしますと すでに――いつ・どのようにかは定かではないかたちで――言わばサルト・モルターレをやっちゃった。のかも分かりません。  第二の条件として挙げられた《飛躍》の問題ですね。  そしてその前に確かにおっしゃるように ものごとの《単純化》もありそれは《自然本性だけの人間という姿勢》の問題でもある。こうも考えます。  自然本性は 身と心とであり 心が精神であり そこには《記憶‐知解‐意志》という三つの行為能力がありますから それは必ずしもルウソ関係のソヴァージュ論ではなく 《基本に戻ること》が問題になっていると これまた同じく思います。  人間存在の《基本》とは この自然本性の内のなかんづく《中軸としての意志行為》にあるかと考えています。  意志自由であり 答責性と一体となった自由 これが 基本中の基本であると考えます。  この《説明責任を愛する自由》 これが 第三の条件として挙げておられる《自己の完結性》ではないかと考えます。もっと簡単に言えば 《わたしがわたしであること》であり 生きることは動態でありそこでは あやまつは人の常ですから 《〈わたしがわたしである〉わたしが あやまちを侵したときには常にはっと気づき我れに還るというようにして なお自然本性としてのわたしに戻りつつ わたしする》。  《わたしがわたしする》 これで自己は完結しているとすら考えます。その《わたし》が 自由意志のもとにつねに答責性を帯び説明責任を果たすわけですから。  さて この《前方脱出》策は わたしは《正面突破》だと思っています。  キリストと呼ばれたイエスがやったことは いま見て来たような人間をつくることです。  すでに生まれつきそなわった自然本性を開花させることです。  少々なかいさんのご議論とは・もしくは世間の常識とは違ったことを述べますが いわゆる《贖罪》としての仕事は イエスにとっておまけのようなものです。(だんだん断定調に成って来ましたが)。  いわゆる原罪は 創世記でエワとアダムとに蛇がささやいたという話が出てしまったので この蛇の処理としてイエスは《人類の罪の根源を背負い これをその命でつぐなった》と言わざるを得なかった。そういう説明をして失楽園の物語を閉じざるを得なかった。  だって アダムらが神の禁止命令に背いたというのは ただただ人間の自由意志のことを物語にして説明したに過ぎません。エデンの園を追われてやっと その姿が 自然本性のヒトであることになった。(おのれの心にさえ背く自由度を持った自由意志を中軸とする自然本性)。  イエスがやったことは ユダヤ人のための神を 外に開いて普遍神として指し示したことです。  エレミヤ書(31:31以降)には その《つとめ》を示すあたらしい契約として二点がしるされています。(そのことは 新約でへブル書(8章)に取り上げられています)。  ヤハヱーなる神が そこではあたかも自己揚棄をおこないます。  あたらしい契約では 《もう人びとの罪をおぼえない。わすれる。問わない・咎めない》。これは 先ほどの《贖罪》論とかかわっているかと思います。  そして 《もう人びとは神を知れと言っておしえることはない》。ヤハヱーはユダヤ人の神である自己を開いて普遍神となって 自己を棄てる。すなわち モーセの律法から自由な人間――もともとの自然本性なるヒト――を指し示した。  そして このエレミヤの預言を イエスは 十字架上に去って行くことによって成就したと言われます。  人間にとって神は ひとつ。《非知》であるゆえに 《隠れたる神》。去って行ったイエスのごとく 神は――普遍神は―― その後ろ姿しか見えない。  この《わたし》に立つなら 人類史のすべてにわたって《正面突破》し得る。こういう《パラダイムの無いパラダイム》だと考えます。  《オシエ》は要らない。宗教としてのオシエも世界観としての〔それを正しい世界認識だと言い張る場合の〕オシエも 人はそれらから自由になって行く。  ・【Q:神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8961079.html  ・【Q:原罪がいまだに その贖罪とともにだが 言われるのは・・・どうしてか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8453243.html  ・【Q:デカルトのコギトの《われ》は 《非物質的な実体》?】 ~~~~   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8938723.html   コギトする《われ》というのは あたかも《霊我=アートマン》であったか? という問いです。その問いの内容についての確認です。   すなわち デカルトみづからが その《考えるわれ》は 《非物質的な実体(英訳ですが  an immaterial substance / incorporeal )》と書いたと言います。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このデカルトについては まだ最近やっと発見した新事実です。  ・【Q:《人間を国家的に》から《国家を人間的に》へ】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8976826.html  ☆ 不評を買っています。《あやまちうるスサノヲ人間語》と《あたかもあやまち得ざるアマテラス普遍悟(科学悟および人格語)》といった概念を用いて いささかの《人間と社会との理論》のためのパラダイムを試作中です。

その他の回答 (5)

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.6

>「まづ相手の――わたしの場合に限らずつねに誰れであってもその相手の――見解や命題について それを正面から受け留めたという姿勢を示すことから 対話が始まります。どうでしょう。」 「自由」について、一歩踏み込んだ見解を与えられたと思っております。

bragelonne
質問者

お礼

 お粗末でした。  ご回答をありがとうございます。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9721/12092)
回答No.4

「お礼コメント」をありがとうございました。 > まづは ご回答をありがとうございます。 ⇒こちらこそ、「難くせ」のような申し立てにお返事いただきまして、ありがとうございます。 > (4) 〔世界観やそれにもとづく生活の歴史がまちがっていたとするなら マチガイはむしろそれについて〕われわれの弁明しようとする欲望が まちがっていたのである。 > (6) ただ――ただただ―― 弁明の要らない地点に立てばよいのだ。はだかの我れに立ち還ること。 ⇒え? それなら、何も始まらないのではありませんか? > つまり 世界観なり社会思想なりは全体観を目指すものだけれど なおそれでも――人間のおこなうことであるからには――部分観であることをまぬかれない。 ⇒さればこそ、演繹法などを工夫したわけでしょう? > よって いちいちその不備を弁明するというよりは そうではなく 《弁明のいっさい要らない地点に立てばよいのではないか?》 これが問うている内容です。 ⇒と言うたかて、その「根拠」が示されていないから、問われても答えられないのですよ。 > 哲学思想を改善するというよりは――それを退けようとして言うのではないけれど―― 哲学思想で自分や人間や世界を飾ろうとする欲望から自由になればよい。ではないか? と。 ⇒正直、マルクスはよく分かりません(その昔、古在訳も途中で投げ出しました)が、ヘーゲル(神頼み)への不満をフォィエルバッハ(人間中心)に求め、それでも満たされない不満(観念論的唯物論)を克服しようとして科学的唯物論に至ったのでしょう? 「哲学思想で飾ろうとした」のではなく、「欠けている真理を発見しようとして」哲学し、思想したのではありませんか? > ・ 読点( , )の除去につきましては 読むのにそれほど差し障りはないと思うのですが。それに 《 , 》を入力するよりは 一字開けのキーを打つほうが速いので 省エネになるかと思うのです。 ⇒個人の自由を拘束するつもりはありませんが、でも日本語の正書法では、“「読点」と「空白」を互換的に利用することができる”ようにはなっていませんよ。 > ・ 《行もあまり空けないで》というのは どうしてですか? なかい702さんも 今回のご回答で行空けをされていますし。 ⇒はい、そうですね。ただし、「有意味な行空け」はせいぜい1行でしょう? 4行も6行も空けると読みづらいですよ。 > ・ 歴史的仮名づかひで書く人もいますし いまのところそれほど 鼻につくとは思っていなかったのですが。 ⇒そうですね。私も、それほど、「青筋立てて」まで、申しあげるつもりはありません。 以上、再伸まで。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   > (4) 〔世界観やそれにもとづく生活の歴史がまちがっていたとするなら マチガイはむしろそれについて〕われわれの弁明しようとする欲望が まちがっていたのである。   > (6) ただ――ただただ―― 弁明の要らない地点に立てばよいのだ。はだかの我れに立ち還ること。  ⇒え? それなら、何も始まらないのではありませんか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あぁ。言い方を間違えていたかも知れません。次の応答をも合わせて捉えてもらえるとよかったでしょうか。  ☆☆(No.3お礼欄) ~~~~~~~~   つまり 世界観なり社会思想なりは全体観を目指すものだけれど なおそれでも――人間のおこなうことであるからには――部分観であることをまぬかれない。  よって いちいちその不備を弁明するというよりは そうではなく 《弁明のいっさい要らない地点に立てばよいのではないか?》 これが問うている内容です。  哲学思想を改善するというよりは――それを退けようとして言うのではないけれど―― 哲学思想で自分や人間や世界を飾ろうとする欲望から自由になればよい。ではないか? と。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 次々と提示される世界観は 人間の有限な能力にもとづくかぎり部分観であることをまぬかれないので もともとマチガイを含んでいる。ゆえに 世界観をともかく提出しないことには《何も始まらない》のだけれど その世界観を提出するというコト自体には もう主眼がない。という見方へと変えてはどうか? ――こういった内容に過ぎなかったのですが それでもあたかも《全体としての答え》を出したかに 言ってしまっていました。  ★ ⇒さればこそ、演繹法などを工夫したわけでしょう?  ☆ これは ですから ちょっと違っていて 演繹法であろうが帰納法であろうが 人間の描き得る世界観は 有限で部分観でしかないということを言いたいのですが?    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   > よって いちいちその不備を弁明するというよりは そうではなく 《弁明のいっさい要らない地点に立てばよいのではないか?》 これが問うている内容です。  ⇒と言うたかて、その「根拠」が示されていないから、問われても答えられないのですよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ますます舌足らずだったと反省しますが それでも言おうとしたことは こうです。:  すなわち 部分観でしかなかった世界観について それを認めて こんどは全体観に立った理論を提出しますよと言って それに取り掛かるというよりは そうではなく そもそもそのような世界観提出の欲望から自由になることが 最初にやることではないか? と言おうとしています。  《根拠》は 《全体観を描き切ろうという欲望から自由になった状態》を想定し得れば その状態の現実性に見ようとしています。  ★ マルクスは[・・・]「哲学思想で飾ろうとした」のではなく、「欠けている真理を発見しようとして」哲学し、思想したのではありませんか?  ☆ その《欠けているところ》を補って全体観に立てる理論および実践としての思想を打ち出せば 《弁明は要らない》と言おうとしたわけだと思います。つまり 《真理》に対応する理論内容を表現し得たならよいはずだという前提に立っているものと思われます。  確かにこの《世界観を提出するという欲望から自由に成ると言うなら 世界観の提出じたいを控える》ことではないか? それでは《何も始まらない》ではないか? という批判がただちに出されるのでしょうけれど そのときには次のような構図になるはずです。  すなわち 片や《出来るだけ精緻な世界観を持って実践をすすめる人間たちとその社会》という像が捉えられ 片や《そもそもいっさいの世界観から自由な人間 どうしが 試行錯誤で模索しつつ社会を形成して行くという世界》なる像とです。      ★ でも日本語の正書法では、“「読点」と「空白」を互換的に利用することができる”ようにはなっていませんよ。  ☆ 変化しうるのではありませんか?  最近の変化としては たとえばアラビア数字が 漢数字に取って代わりつつあります。  それと 句点( 。 )が 英文のピリオド( . )で代用されている事例があります。  ★ ただし、「有意味な行空け」はせいぜい1行でしょう? 4行も6行も空けると読みづらいですよ。  ☆ そういう意味でしたか。でも 段落分けにはよいと思ってそうしています。読みやすくなるとさえ思っていました。  引用文のあとに なかいさんのように ⇒ なるシルシをつけると読みやすいのですが これが無い場合があります。これは 一般的な問題になるかとは思っています。  

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9721/12092)
回答No.3

せっかくのご投稿・お尋ねですが、正直、質問の意味(特に、根拠の部分)が分かりません。私の読解力不足ということもあるかも知れませんが、blagelonneさんの書き方にも改善の余地があるだろうと思います。 (質問形式のご提案) 例えば、「Aによると、BはCについてDと言っている。私は、このうちのEについては、間違っていると考える。なぜなら、Fだから・Fとしているからで、ここはGのようにすべきである。そして、その理由はHである。さて、皆さん、この私の考え方に対する賛否両論を寄せてください。」といったような形で投稿していただければありがたいです。 なお、表記の仕方も、ふつうの句読符合を用いて、ふつうの正書法で(つまり、句点の代りに空白を入れるなどをしないで、行もあまり空けないで)書いていただけるとなおありがたいです。 といっても、上記も含め「個人の自由」の部類でしょうから、無理にとは申しませんが、読み慣れた形式で書いていただければ助かる、という意味での「希望的ご提案」です。 以上、僭越ながらご提案まで。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですか。まだまだ――半分うれしいことに――わたしは問題児ですね。  まづは ご回答をありがとうございます。  問うている趣旨は:  ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~  (4) 〔世界観やそれにもとづく生活の歴史がまちがっていたとするなら マチガイはむしろそれについて〕われわれの弁明しようとする欲望が まちがっていたのである。    (6) ただ――ただただ―― 弁明の要らない地点に立てばよいのだ。はだかの我れに立ち還ること。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ にあります。  ★ (質問形式のご提案)  ☆ は ややこしいですね。複雑で むつかしいですね。  この質問の場合は 少し違うと思います。つまりもっと単純です。  つまり 世界観なり社会思想なりは全体観を目指すものだけれど なおそれでも――人間のおこなうことであるからには――部分観であることをまぬかれない。  よって いちいちその不備を弁明するというよりは そうではなく 《弁明のいっさい要らない地点に立てばよいのではないか?》 これが問うている内容です。  哲学思想を改善するというよりは――それを退けようとして言うのではないけれど―― 哲学思想で自分や人間や世界を飾ろうとする欲望から自由になればよい。ではないか? と。  単純です。その意味では 《質問形式のご提案》は ここでは ぜいたくでもったいないものだと思います。  ・ 読点( , )の除去につきましては 読むのにそれほど差し障りはないと思うのですが。それに 《 , 》を入力するよりは 一字開けのキーを打つほうが速いので 省エネになるかと思うのです。  ・ 《行もあまり空けないで》というのは どうしてですか? なかい702さんも 今回のご回答で行空けをされていますし。  ・ 歴史的仮名づかひで書く人もいますし いまのところそれほど 鼻につくとは思っていなかったのですが。  問題児であったことについてうれしいと言ったのは そろそろべらんめえ調をも直さねばならないのかなと思っていたところ そうは成っていなかった。ので その問題児ぶりが直っていないぶんだけ まだ伸び代があったかとうれしくなってしまいました。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.2

B様、こんばんは。 >「もっと自由に。もっともっと自由に。もっともっともっと自由に。」 そのためには、やはり、「信教の自由」について、「限界」があることを、言わなければならないでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 但し書きは 基本の命題についての注意事項です。  言いかえると 基本的な命題は その内容の有効性を保証するため具体的な条件について考えます。その条件つまり但し書きが ただちに書いていないからと言って そのことをすでに織り込んでいないわけではありません。  つまり 但し書きは 命題とは別の命題をつくるものではありません。  そういう前提に立って 但し書きを添えるようにしましょう。  すなわち この《自由》の命題(≒ひとつの判断)については いくつかの条件づけも必要になるのでしょうね。と言って その条件としての但し書きを考えてみるとよいでしょう。  まづ相手の――わたしの場合に限らずつねに誰れであってもその相手の――見解や命題について それを正面から受け留めたという姿勢を示すことから 対話が始まります。どうでしょう。  ご回答をありがとうございます。

noname#209001
noname#209001
回答No.1

「マルクスは まちがっている」←あっそう・・・ あなたも間違ってる・・ その事には 気づかないの!?

bragelonne
質問者

お礼

 気づかないよーーーーー。  ご投稿をわざわざ すみません。

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    (なるべくキリスト教徒の方のみご回答願います。) キリスト教徒と自認するものです。 自分の心の問題について、心を変えてくれるよう祈ったことがあるのですが、いままでかなえられたためしがありません。 以前説教で「神様は人間に自由意思を与えた」ということを聞いていたので、「やはり神様でも人間の心を自由に変えることはできないのか」と納得できてしまう部分がありました。 ご意見を伺いたいのは次の疑問についてです。 「万能の神様でも、人間の心は変えることはできない」というのは事実ですか? ご意見よろしくお願いします。

  • スサノヲだけがなぜ自由か

    スサノヲだけがなぜ自由か  それは はじめに スサノヲのミコトに生起した。  スサノヲは 父のイザナキのミコトによって ウナハラの統治を任せられた。ウナハラは 死の世界であり これをつかさどるというのは 宗教の祭司となることである。この職務を嫌ったというのは その呪術的な宗教の拒否を意味した。スサノヲは 泣きいさちるばかりであった。泣きいさちることによって 宗教の拒否をつらぬいた。ここに 第一に 神の国が現われた。  宗教の拒否によって 神の信仰が生まれたというのは 不思議な歴史であり 体験であり 人間の謎です。  スサノヲは 第二に 姉のアマテラスオホミカミから この宗教の拒否の姿勢を疑われた。おまえは おまえに任された死者の世界をまつりごつのではなく わたしと同じように生の世界の祭司となりたいから 泣きとおしたのではないか。  わたしたちは 自分のものを確かに自分のものだと証拠づけることは出来ても 自分でないものを それは自分ではないと証明することは 容易ではない。アリバイ(不在証明)の立証は 時としてそのものじたいとして 不可能であります。不可能な証明が不可能であると分かると 疑う人であるアマテラスは みづからの身を隠した。検察官が 容疑をそのままにして 黙秘権(?)を使った。  ここでスサノヲは アマテラスに対して 泣きとおしたのではなく ちょうど狂を装ってのように やりたい放題のことをしたのです。登校拒否ではなく あらゆる非行を――天つ罪として考えられたそれを――おかした。  ところがアマテラスは 疑う人でした。とうとう姿を現わさなくなりました。スサノヲの非行を その権威をもって むしろ容認していたのですが とうとう黙秘権を最後まで行使しました。人びとは――人びとも――アマテラスの権威に従って スサノヲを責めず ただ身を隠してしまったアマテラスのお出ましを願わざるを得ず その方策を思案しました。  アマテラスは出て来ざるを得なかったのであって それは みづからの権威の消滅をうたがわなければならなくなったから。ここでスサノヲに 第二に 神の国が生起したのです。  宗教の拒否の肯定をも拒否するというかれの意志が証明されたから。あえて破廉恥なことまでおこなうことによって 破廉恥ではないところの神の国が出現したというのは 不思議なことであり 人間の謎です。  アマテラスのお出ましを迎えた人たちは 権威者であるアマテラスに代わって ここでスサノヲの罪を裁きました。スサノヲをこのアマテラスの世界から追放したのです。  かれらは 宗教(呪術の園)が大好きなのでした。宗教を拒否してはならないわけではなく 宗教の拒否を肯定してはならないわけでもなく しかし泣きいさちっているばかりではいけないと考えられた。スサノヲは人びとによって その良心が問われたのではなく その泣きいさちりと非行とが 人びとの裁判にかけられました。スサノヲは 《千位(ちくら)の置き戸(罰金)を負わせられ また ひげを切られ 手足の爪も抜かれて 追放される》こととなった。  アマテラスは その権威ある主宰者の位を守りました。かのじょ自身 呪術の園にいたのではありませんが 宗教(だから そのような日常のおこないとしての)によって生活する人たちを統治することに長けていました。かのじょは この世に・日の下に 新しいものは何もないとよく知っていました。この知識の中にないものに対しては 疑うことしか知らなかった。だから疑うこと――疑うために疑うこと――をもって 呪術の園にある人びとの共同生活を統治していたのです。かのじょは この世の生 人間の世の中をよく知っていました。  このゆえに神の国が生起しました。言い換えると 死の世界と 宗教によるその統治とが 克服されたのです。原理的に。本質的に。人間の存在のあり方として。あるいは同じことで この世の生――それが行き着くところは 死の世界だから――が 克服されたのです。  この世で 時間的に歴史的に 神の国(ほんとうの現実)が見られることとなった。スサノヲに神がここで王となった。この世の権威たるアマテラスの疑いが克服されたから。この世〔のアマテラスの世界〕から追放されることによって この世に勝つことが出来たというのは 不思議な人間の歴史であり 謎です。  スサノヲは 追放され この世から そして神からも 見放されたのですが ちょうどこの神から見捨てられたというそのこと自体において 神はスサノヲを見捨てていなかったのです。  スサノヲはこの世に死ぬことによって 復活しました。ここで神の国が現われたのです。すなわち日本人のそもそもの歴史のはじめ。  ☆ 自由なご批評・ご批判をたまわりたく・・・。

  • スサノヲだけが自由であるのは何故か

     § 1 それは はじめに スサノヲのミコトに生起した。  スサノヲは 父のイザナキのミコトによって ウナハラの統治を任せられた。ウナハラは 死の世界であり これをつかさどるというのは 宗教の祭司となることである。  この職務を嫌った。というのは その呪術的な宗教の拒否を意味した。  スサノヲは 泣きいさちるばかりであった。泣きいさちることによって 宗教の拒否をつらぬいた。ここに 第一に 神の国が現われた。  § 2 宗教の拒否によって 神の信仰が生まれたというのは 不思議な歴史であり 体験であり 人間の謎です。  § 3 スサノヲは 第二に 姉のアマテラスオホミカミから この宗教の拒否の姿勢を疑われた。  おまえは おまえに任された死者の世界をまつりごつのではなく わたしと同じように生の世界の祭司となりたいから 泣きとおしたのではないか。  わたしたちは 自分のものを確かに自分のものだと証拠づけることは出来ても 自分でないものを それは自分ではないと証明することは 容易ではない。アリバイ(不在証明)の立証は 時としてそのものじたいとして 不可能であります。  不可能な証明が不可能であると分かると 疑う人であるアマテラスは みづからの身を隠した。検察官が 容疑をそのままにして 黙秘権(?)を使った。  ここでスサノヲは アマテラスに対して 泣きとおしたのではなく ちょうど狂を装ってのように やりたい放題のことをしたのです。登校拒否ではなく あらゆる非行を――天つ罪として考えられたそれを――おかした。宮の前に糞をしておいたりした。  § 4 ところがアマテラスは 疑う人でした。  とうとう身を隠したまま 姿を現わさなくなりました。  スサノヲの非行を その権威をもって むしろ容認していたのですが とうとう黙秘権を最後まで行使しました。  人びとは――人びとも――アマテラスの権威に従って スサノヲを責めず ただ身を隠してしまったアマテラスのお出ましを願わざるを得ず その方策を思案しました。  アマテラスは出て来ざるを得なかったのであって それは みづからの権威の消滅をうたがわなければならなくなったから。ここでスサノヲに 第二に 神の国が生起したのです。    § 5 宗教の拒否の肯定をも拒否するというかれの意志が証明された、ゆえ。  あえて破廉恥なことまでおこなうことによって 破廉恥ではないところの神の国が出現したというのは 不思議なことであり 人間の謎です。  アマテラスのお出ましを迎えた人たちは 権威者であるアマテラスに代わって ここでスサノヲの罪を裁きました。スサノヲをこのアマテラスの世界から追放したのです。  § 6 かれらは 宗教(呪術の園)が大好きなのでした。  宗教を拒否してはならないわけではなく 宗教の拒否を肯定してはならないわけでもなく しかし泣きいさちっているばかりではいけないと考えられた。  スサノヲは人びとによって その良心が問われたのではなく その泣きいさちりと非行とが 人びとの裁判にかけられました。スサノヲは 《千位(ちくら)の置き戸(罰金)を負わせられ また ひげを切られ 手足の爪も抜かれて 追放される》こととなった。  § 7 アマテラスは その権威ある主宰者の位を守りました。  かのじょ自身 呪術の園にいたのではありませんが 宗教(だから そのような日常のおこないとしてのオキテやナラハシ)によって生活する人たちを統治することに長けていました。  かのじょは この世に・この日の下に 新しいものは何もないとよく知っていました。この知識の中にないものに対しては 疑うことしか知らなかった。  だから疑うこと――疑うために疑うこと――をもって 呪術の園にある人びとの共同生活を統治していたのです。かのじょは この世の生 人間の世の中をよく知っていました。  § 8 このゆえにも神の国が生起しました。  言いかえると 死の世界と 宗教によるその統治とが 克服されたのです。原理的に。本質的に。人間の存在のあり方として。あるいは同じことで この世の生が――それが行き着くところは 死の世界だから 死が―― 克服されたのです。  死よ おまえのとげはどこにある?  § 9 この世で 時間的に歴史的に 神の国(人間にとってほんとうの現実)が見られることとなった。垣間見られた。  スサノヲに神がここで王となった。  この世の権威たるアマテラスの疑いが克服されたから。  この世〔のアマテラスの世界〕から追放されることによって この世に勝つことが出来たというのは 不思議な人間の歴史であり 謎です。  § 10 スサノヲは 追放され この世から・そして神からも 見放されたのですが ちょうどこの神から見捨てられたというそのこと自体において 神はスサノヲを見捨てていなかった。  スサノヲはこの世に死ぬことによって 復活しました。  ここで神の国が現われたのです。  すなわち日本人のそもそもの歴史のはじめ。  われわれの生活と社会の原点だ。  ☆ 自由なご批評・ご批判をたまわりたく・・・。

  • スサノヲだけがなぜ自由か

     それは はじめに スサノヲのミコトに生起した。  スサノヲは 父のイザナキのミコトによって ウナハラの統治を任せられた。ウナハラは 死の世界であり これをつかさどるというのは 宗教の祭司となることである。この職務を嫌ったというのは その呪術的な宗教の拒否を意味した。スサノヲは 泣きいさちるばかりであった。泣きいさちることによって 宗教の拒否をつらぬいた。ここに 第一に 神の国が現われた。  宗教の拒否によって 神の信仰が生まれたというのは 不思議な歴史であり 体験であり 人間の謎です。  スサノヲは 第二に 姉のアマテラスオホミカミから この宗教の拒否の姿勢を疑われた。おまえは おまえに任された死者の世界をまつりごつのではなく わたしと同じように生の世界の祭司となりたいから 泣きとおしたのではないか。  わたしたちは 自分のものを確かに自分のものだと証拠づけることは出来ても 自分でないものを それは自分ではないと証明することは 容易ではない。アリバイ(不在証明)の立証は 時としてそのものじたいとして 不可能であります。不可能な証明が不可能であると分かると 疑う人であるアマテラスは みづからの身を隠した。検察官が 容疑をそのままにして 黙秘権(?)を使った。  ここでスサノヲは アマテラスに対して 泣きとおしたのではなく ちょうど狂を装ってのように やりたい放題のことをしたのです。登校拒否ではなく あらゆる非行を――天つ罪として考えられたそれを――おかした。宮の前に糞をしておいたりした。  ところがアマテラスは 疑う人でした。とうとう姿を現わさなくなりました。スサノヲの非行を その権威をもって むしろ容認していたのですが とうとう黙秘権を最後まで行使しました。人びとは――人びとも――アマテラスの権威に従って スサノヲを責めず ただ身を隠してしまったアマテラスのお出ましを願わざるを得ず その方策を思案しました。  アマテラスは出て来ざるを得なかったのであって それは みづからの権威の消滅をうたがわなければならなくなったから。ここでスサノヲに 第二に 神の国が生起したのです。  宗教の拒否の肯定をも拒否するというかれの意志が証明されたから。あえて破廉恥なことまでおこなうことによって 破廉恥ではないところの神の国が出現したというのは 不思議なことであり 人間の謎です。  アマテラスのお出ましを迎えた人たちは 権威者であるアマテラスに代わって ここでスサノヲの罪を裁きました。スサノヲをこのアマテラスの世界から追放したのです。  かれらは 宗教(呪術の園)が大好きなのでした。宗教を拒否してはならないわけではなく 宗教の拒否を肯定してはならないわけでもなく しかし泣きいさちっているばかりではいけないと考えられた。スサノヲは人びとによって その良心が問われたのではなく その泣きいさちりと非行とが 人びとの裁判にかけられました。スサノヲは 《千位(ちくら)の置き戸(罰金)を負わせられ また ひげを切られ 手足の爪も抜かれて 追放される》こととなった。  アマテラスは その権威ある主宰者の位を守りました。かのじょ自身 呪術の園にいたのではありませんが 宗教(だから そのような日常のおこないとしての)によって生活する人たちを統治することに長けていました。かのじょは この世に・日の下に 新しいものは何もないとよく知っていました。この知識の中にないものに対しては 疑うことしか知らなかった。だから疑うこと――疑うために疑うこと――をもって 呪術の園にある人びとの共同生活を統治していたのです。かのじょは この世の生 人間の世の中をよく知っていました。  このゆえに神の国が生起しました。言い換えると 死の世界と 宗教によるその統治とが 克服されたのです。原理的に。本質的に。人間の存在のあり方として。あるいは同じことで この世の生――それが行き着くところは 死の世界だから――が 克服されたのです。  この世で 時間的に歴史的に 神の国(ほんとうの現実)が見られることとなった。スサノヲに神がここで王となった。この世の権威たるアマテラスの疑いが克服されたから。この世〔のアマテラスの世界〕から追放されることによって この世に勝つことが出来たというのは 不思議な人間の歴史であり 謎です。  スサノヲは 追放され この世から そして神からも 見放されたのですが ちょうどこの神から見捨てられたというそのこと自体において 神はスサノヲを見捨てていなかったのです。  スサノヲはこの世に死ぬことによって 復活しました。ここで神の国が現われたのです。すなわち日本人のそもそもの歴史のはじめ。  ☆ 自由なご批評・ご批判をたまわりたく・・・。

  • 宗教組織は 結社の自由になじまないのでは?

     (α) 宗教組織は 結社の自由になじまないのでは?  言いかえると――同じような内容ですが――  (β) 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないか?  (δ) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないか?    (ε) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の 自由にとっての 自殺行為ではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  (ζ)  宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為に片向きがちであるゆえ その自由は認められないのではないか?  (η) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為となるのでは?  (θ) 聖典と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   (ι) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?  (κ) 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきでは?

  • 孔子 マルクスの業績歴史的評価利点欠点限界とは

    マルクスと孔子は、 死後弟子達により 崇められている点で 共通しているのでは? 孔子は、 直接の弟子と孫弟子達よる 執筆の回顧録(思い出、エッセイ)を 後の権力者が国民が思考せずに 権力者を崇める道具、装置に 編集した書物により、 崇める対象に至り。 マルクスの方は純粋に 科学者の立場から 社会と経済(資本主義社会)等の 真理を追求した研究の結果、 得た認識で見えた視点(法則性等)を 本にまとめた、 本としての体裁での完全前に 死去するが、 執筆はエンゲルスが完成させる。 この本は 社会主義、共産主義国の 理論的な柱てして、バイブルとして 読み継がれるが. その本の執筆者、 社会主義、共産主義の理論構築の 人物として、(教祖として、) 弟子達、 (国を建国、権力を掌握し 権力側にいる人間達)から 崇められてしまった、、 (この私の歴史観は 正しいか、否か? 間違っている部分があれば 糺して貰えるとありがたい、) 彼ら二人 時代、背景等は違うが、 弟子達や権力者にとことこ、 利用された被害者なのでは?? 孔子、マルクスそれぞれの 業績、評価(学問、宗教、教育等) 利点、欠点、欠陥は?? 彼ら二人がいなければ 歴史は どの様になっていたのだろうか? 孔子、マルクスの 歴史における評価とは、、 歴史学を学んだ人間にとって、 歴史カテゴリー皆様の ご回答のほど、 お待ちしております!

  • 質問は、神が人間を創造したのか、いや、人間が神を捏

    造したのか? 今さらこうした二者択一的な質問をしたいのではありません。 本当に質問したいのは、その質問にある構造上の問題です。 だから信仰の話とは無関係です。 また、神の定義や想像力も必要ありません。 問題は 神が人間を創造したのか、人間が神を捏造したのか、 という形式の質問はできるのに、 神が人間を捏造したのか? と問うことが質問上の意味をなさないからです。 あたりまえですよね。 神が人間を捏造したと仮定したら、もはや人間はこの世にいない。 現に人間がいるから、その『仮定』自体が自動的に棄却されてしまう。 棄却されることによって『創造』という仮定がでてくるんです。 『神が人間を創造したのか?』 こんなふうに。 これって、構造上、インチキですよね。 先程の二者択一的質問に、『神が人間を創造した』『人間が神を捏造した』 とありますが、 人間だけには選択の自由が二つあるのに(※創造と捏造) 神には選択の自由が一つしかない。 つまり神は『人間を創造した』という選択しかない。 この時点で、この質問が公平な質問ではないことが明瞭なんです。 そこから芋づる式に『人間と神は公平ではない』とかなどという 論理が導けるのは、想像力ではなく、こうした構造があることから当然の結論です。 この構造について質問したいのですが 構造上あきらかなように、 歴史の古くから神が流行るのは当然ですし、 この構造が示唆してる決定的なことは、 これみよがしに私を信じなさい、と誘導してる構造そのもです。 この構造に公平性をもたせるなら、 どうしても『神が人間を捏造した』という現実に反する仮定 が必要不可欠であるにもかかわらず、 肝心のその『仮定』自体が人間に欠如している。 欠如してるがゆえに、『人間は不完全だが、神は全知全能だ』 とする結論も必然的にでてくる。 構造自体に公平性が欠如してるにもかかわらず、 人間が現にいるという事実によって『公平性』という 観念が構造のなかからもみ消され、 『信じるも信じないのもあなたの自由だ』 などという構造があたかも含まれているように見せかけている 構造が構造に含まれている。 選択の自由が与えられていない構造によってうみだされた 質問が質問として成立しないことは理性によって明瞭であるにも かかわらず、『人間が現にいる』という否定しきれない事実によって 構造が成立し、例の仮定を棄却できる最終的根拠はなんですか?

  • デカルトの《明証性》って何ですか?

     デカルトの思想を批判します。当否を問います。  ▽ (ヰキぺ:ルネ・デカルト) ~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88  §3 思想  §3.1.2 方法  ものを学ぶためというよりも、教える事に向いていると思われた当時の論理学に替わる方法を求めた。そこで、もっとも単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しうるという、還元主義的・数学的な考えを規範にして、以下の4つの規則を定めた。    1. 明証的に真であると認めたもの以外、決して受け入れない事。(明証)  2. 考える問題を出来るだけ小さい部分にわける事。(分析)  3. 最も単純なものから始めて複雑なものに達する事。(総合)  4. 何も見落とさなかったか、全てを見直す事。(枚挙 / 吟味)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (4)については 《すべてを見直した》あと なお《何も見落とさなかったか》を確認するのが ふつうである。《気をつけて事例の枚挙やその吟味をしましょう》というのと変わりない。つまり 何ら特別なことではない。  (3) 《単純なもの》か《複雑なもの》かを判定するには その判定の能力について判定しその結果を自覚しなければいけない。つまり 判定能力次第である。つまり 何か意味のあることを言ったとは思えない。  (2) 《考える問題》を《小さい部分に分ける》と言うけれど 《小さい》というのは 量の問題だけではないはずだ。ということは その大きい小さいの判断そのことが 《考える問題》になっている。何をか言わんや。  (1) 《明証的に真であると認めた》と言っても すべては主観である。明証性も 本人の主観次第である。何をか言わんや。  もういっちょう行きましょう。  ▽ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~  §3.2 形而上学  §3.2.3 神の存在証明  欺く神 (Dieu trompeur)・ 悪い霊(genius malignus)を否定し、誠実な神を見出すために、デカルトは神の存在証明を行う。  第一証明 -  意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性)は、対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。我々の知は常に有限であって間違いを犯すが、この「有限」であるということを知るためには、まさに「無限」の観念があらかじめ与えられていなければならない。    第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。  第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明)  悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。誠実な神が人間を欺くということはないために、ここに至って、方法的懐疑によって退けられていた自己の認識能力は改めて信頼を取り戻すことになる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▽ 第一証明 -  意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性)  ☆ というのは その《観念が われわれ人間の想像力の翼が飛び行くところまでは伸びて行く》と言っているに過ぎない。  《表現的実在性》とは どこまで行っても 《観念》のことである。  その神なる観念は  ▽ 対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。  ☆ だろうか? 阿呆なことを。  《神》が どうしてこの経験世界における現実的実在性と対応すると言えるのか?  それはせいぜい《観念》が 対応するだけである。《神》が《上》や《髪》や《守》や《紙》と――観念のあそびの上では――対応するに過ぎない。  われわれ人間の知について  ▽ この「有限」であるということを知るためには  ☆ て言ったって すでに《有限》だと言ってるぢゃん。朽ちざるべからざる存在であるなら その知も有限である。  考える葦であろうがなかろうが 死ぬべき身と心なら それゆえにこそ《永生なる無限》を想定してみるということである。《無限》を知ってから わが身の限りあるを知ったというのは 生活歴史的な順序ではないだろう。  ▽ 第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。  ☆ その神が 無でもありうる。と言わねば議論にならない。  ▽ 第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明)  ☆ 観念の中にまた観念を放り込んだだけ。観念があれば 《存在》を言えるのか? そういうことは休み休み言って欲しい。  ▽ 悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。  ☆ おままごとにあっては そう言えるのだろうか? 観念のお花畑には そういう花が咲いたと見えたのだろうか? バカらしくて話にならない。のではないだろうか?  (もし観念が現実的実在性と対応する(第一証明)なら 《悪い霊》なる観念も ただの仮定ではなく 現実であると言わねばならない)。  (もし《神》をまじめに想定したならば その神のもとには 人間の善悪が繰り広げられている。それを神は 何もしないかたちで見守っているとでも言うしかない)。  なんでこんなおとぎ話に われわれは振り回されているのか?