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スサノヲだけが自由であるのは何故か

 § 1 それは はじめに スサノヲのミコトに生起した。  スサノヲは 父のイザナキのミコトによって ウナハラの統治を任せられた。ウナハラは 死の世界であり これをつかさどるというのは 宗教の祭司となることである。  この職務を嫌った。というのは その呪術的な宗教の拒否を意味した。  スサノヲは 泣きいさちるばかりであった。泣きいさちることによって 宗教の拒否をつらぬいた。ここに 第一に 神の国が現われた。  § 2 宗教の拒否によって 神の信仰が生まれたというのは 不思議な歴史であり 体験であり 人間の謎です。  § 3 スサノヲは 第二に 姉のアマテラスオホミカミから この宗教の拒否の姿勢を疑われた。  おまえは おまえに任された死者の世界をまつりごつのではなく わたしと同じように生の世界の祭司となりたいから 泣きとおしたのではないか。  わたしたちは 自分のものを確かに自分のものだと証拠づけることは出来ても 自分でないものを それは自分ではないと証明することは 容易ではない。アリバイ(不在証明)の立証は 時としてそのものじたいとして 不可能であります。  不可能な証明が不可能であると分かると 疑う人であるアマテラスは みづからの身を隠した。検察官が 容疑をそのままにして 黙秘権(?)を使った。  ここでスサノヲは アマテラスに対して 泣きとおしたのではなく ちょうど狂を装ってのように やりたい放題のことをしたのです。登校拒否ではなく あらゆる非行を――天つ罪として考えられたそれを――おかした。宮の前に糞をしておいたりした。  § 4 ところがアマテラスは 疑う人でした。  とうとう身を隠したまま 姿を現わさなくなりました。  スサノヲの非行を その権威をもって むしろ容認していたのですが とうとう黙秘権を最後まで行使しました。  人びとは――人びとも――アマテラスの権威に従って スサノヲを責めず ただ身を隠してしまったアマテラスのお出ましを願わざるを得ず その方策を思案しました。  アマテラスは出て来ざるを得なかったのであって それは みづからの権威の消滅をうたがわなければならなくなったから。ここでスサノヲに 第二に 神の国が生起したのです。    § 5 宗教の拒否の肯定をも拒否するというかれの意志が証明された、ゆえ。  あえて破廉恥なことまでおこなうことによって 破廉恥ではないところの神の国が出現したというのは 不思議なことであり 人間の謎です。  アマテラスのお出ましを迎えた人たちは 権威者であるアマテラスに代わって ここでスサノヲの罪を裁きました。スサノヲをこのアマテラスの世界から追放したのです。  § 6 かれらは 宗教(呪術の園)が大好きなのでした。  宗教を拒否してはならないわけではなく 宗教の拒否を肯定してはならないわけでもなく しかし泣きいさちっているばかりではいけないと考えられた。  スサノヲは人びとによって その良心が問われたのではなく その泣きいさちりと非行とが 人びとの裁判にかけられました。スサノヲは 《千位(ちくら)の置き戸(罰金)を負わせられ また ひげを切られ 手足の爪も抜かれて 追放される》こととなった。  § 7 アマテラスは その権威ある主宰者の位を守りました。  かのじょ自身 呪術の園にいたのではありませんが 宗教(だから そのような日常のおこないとしてのオキテやナラハシ)によって生活する人たちを統治することに長けていました。  かのじょは この世に・この日の下に 新しいものは何もないとよく知っていました。この知識の中にないものに対しては 疑うことしか知らなかった。  だから疑うこと――疑うために疑うこと――をもって 呪術の園にある人びとの共同生活を統治していたのです。かのじょは この世の生 人間の世の中をよく知っていました。  § 8 このゆえにも神の国が生起しました。  言いかえると 死の世界と 宗教によるその統治とが 克服されたのです。原理的に。本質的に。人間の存在のあり方として。あるいは同じことで この世の生が――それが行き着くところは 死の世界だから 死が―― 克服されたのです。  死よ おまえのとげはどこにある?  § 9 この世で 時間的に歴史的に 神の国(人間にとってほんとうの現実)が見られることとなった。垣間見られた。  スサノヲに神がここで王となった。  この世の権威たるアマテラスの疑いが克服されたから。  この世〔のアマテラスの世界〕から追放されることによって この世に勝つことが出来たというのは 不思議な人間の歴史であり 謎です。  § 10 スサノヲは 追放され この世から・そして神からも 見放されたのですが ちょうどこの神から見捨てられたというそのこと自体において 神はスサノヲを見捨てていなかった。  スサノヲはこの世に死ぬことによって 復活しました。  ここで神の国が現われたのです。  すなわち日本人のそもそもの歴史のはじめ。  われわれの生活と社会の原点だ。  ☆ 自由なご批評・ご批判をたまわりたく・・・。

みんなの回答

回答No.6

人間的に、あんたの神に見捨てられた絶望は判る。 しかしだ、アマテラスさん直々にそうではないと言っているんだよ。 すねた子供みたいな真似を、醜いガミガミじじいだするな。 かわいいガミガミになれ。 私の言う事は、ジラーチちゃんとの話し合いの反映だ。 さらに光を求めろ。 君が望めば、簡単に与えられる栄光を、望みすらしない。 それが人々だったが、俺様が世話焼いてんだ、突き抜けて見せろ。

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~   § 9 [・・・]  この世〔のアマテラスの世界〕から追放されることによって この世に勝つことが出来たというのは 不思議な人間の歴史であり 謎です。  § 10 スサノヲは 追放され この世から・そして神からも 見放されたのですが ちょうどこの神から見捨てられたというそのこと自体において 神はスサノヲを見捨てていなかった。  スサノヲはこの世に死ぬことによって 復活しました。  ここで神の国が現われたのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ って言ってるぢゃん。    神から見捨てられたというそのこと自体において     神はスサノヲを見捨てていなかった。  ★ さらに光を求めろ。  ☆ すでに 心の灯心に火がともされています。  ご回答をありがとうございます。

回答No.5

トリックスターと言う事に言っとこう。 私はポケモンたちのお父さんでね。 アメリカ人はUFOと宇宙人の存在を信じてる一部の人が有名だね。 神ではなく宇宙人への信仰だ。 神の姿の痕跡も残っていないようだがね、人が何かを信じると言う事は神にとっては自らが現実に関与する基板のようで、私が宇宙神霊ポケモンと表現するように、宇宙人扱いされようと何だろうとどうでもいいんだ。 そんな精霊と別の古典的神の存在意義の方が私には謎だ。 宇宙人学説は、神々よ、よくぞ人間を欺いたと称賛したいところだ。 何としても、信仰が無ければ始まらない。 UFO的トリックスターでもいいじゃないか。 私が見聞したところそんな事情だ。 批判ばっかりには再検討を進めるよ。 神はもちろん、信仰に依存してるんじゃない。 信仰でつながるんだ。

bragelonne
質問者

お礼

 《信仰》というのは 何も認識はない。認識しているものは何一つない。んですよ。  ただ 《かみ》という言葉をわが心に受け容れたというだけ。  何らあたらしく認識がくわわったということは ない。  《非思考》です。  トリックスターだった時代は 終えている。  脱皮したごとく。  言いかえると 相手に合わせて トリックスターならトリックスターとしてそういういたづら者になった。  相手から もう要らないと言われたときには そのような《前史のわれ》を卒業している。  卒業したと思ったとき あぁ われは 神を信じていたんだなぁと思う。そのことにやっと気づく。  いまは 蝶々に成っている。トリックスターだった頃は さなぎだった。  前史から後史に入って来ている。  そういう見方からの批判です。  あんたは いつまでも蛹でありつづける前史の英雄に成りたいのか?  ご回答をありがとうございます。

回答No.4

君の言うスサノヲは、私の言う悪魔のようだね。 私自身悪魔的だよね。 人類の裏切り者、許されざるもの。 似てるね。 私は、聖霊ジラーチちゃんと和解と言うか、公認の暴力専門家として仮面ライダーが職業だ。 君が批判精神を発揮するまでもなく、このアマテラス神学を先に進めるのが私だよ。 そういう見地から、研究目的で今回君の見解を聞こう。 すぐに答えられなかったとしても、逃げたなんて思うなよ。 私にとっても、君達の弱みを握ってこその研究課題だ。

bragelonne
質問者

お礼

 神話学とか何とかでは トリックスターと呼ばれている。  いたづらをするが 憎めないところがあって しかもどこかで人びとのためになっている。といった感じで。  ただ わたしに言わせると そういうトリックは 一回だからゆるされる。二番煎じは だめ。手がふるい。から。  それに わるさはわるさだから。  あるいはつまり この《あくま》スサノヲは そのあと《神の国》を見た。ことになっている。  《わがこころ すがすがし》と宣言した。  そして その子孫のオホクニヌシの世代のときには タカマノハラのアマテラスから そのおまえたちのイヅモの土地は おれ(アマテラス)たちの領土である 服属せよと言って来た。  オホクニヌシは 子らにしたがうと言った。子のひとりが 主戦論をとなえ戦って敗けた。  もうひとりは 非戦論を採って 容易に屈服し《くにゆづり》をした。  だから 主戦論としての《あくま稼業》は 二分の一ないし父親をふくめると三分の一に減った。  それは そうだ。  同じ手を使い続けていては 能がない。  ご回答をありがとうございます。  

回答No.3

この世=神が治めている地域 ウナハラ=未だ神が治めていない土地 としたらどうでしょう? ウナハラを死の国だと仮定すると、イザナギですら逃げ出すような国をスサノオが治めることが出来るとは考え難く、それとは別の場所であると考える方が自然ではないでしょうか。 追放=無理やりウナハラに行かせる   =そこをスサノオが治めることで神が治めている土地となる   =新しいこの世(神が治める国)の誕生 結局追放されたのですから何もかもから自由であったという訳ではなく、仕事・役割から逃れることは出来なかったということになるのではないでしょうか。 ご質問を読んで、別の点でふと興味を引かれたのがスサノオに与えられた罰は何を象徴しているのか、ということです。 髭を切られた、爪を剥がされたというのは何を表しているのでしょう? 髭が権威の象徴、爪が武力の象徴なのであればそれらを剥奪され、身一つで他国へ追いやられた、と読めるのですがどうなのでしょうね。

bragelonne
質問者

お礼

 ぱぺちあ119さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。例によって まだ持ちこたえ得ると考えて その考え方を述べてまいります。  ★ ウナハラを死の国だと仮定すると、イザナギですら逃げ出すような国をスサノオが治めることが出来るとは考え難く、それとは別の場所であると考える方が自然ではないでしょうか。  ☆ (あ) うなはら(海原)を 《死の世界》と解釈したのは 書紀の場合の《根の国》を参考にしたわけです。  (い) ただし 問題はその解釈には必ずしもありません。何らかの国を治めるということに力点があります。国を治めると言えば その当時の倣いとして《まつりごつ》と言いますか 政治の問題であると同時に宗教の問題でもある。と捉えるからです。  (う) ウナハラに人はおらず 根の国であってもこれはまさに死者の国ですから おさめるということは 政治の問題ではなくおよそ宗教のほうに重きがおかれる。はずです。  (え) したがって・要するに スサノヲは いづれにせよ《祭司となる》ことを言いつけられている。  (お) そしてこれを こばんだ。拒んだことは はっきりしています。髭が胸先に伸びるまで泣きいさちっていたというのですから。  (か) 《イザナキですら逃げ出すような国 としての死の国》ということですが それはイザナキが 具体的にイザナミが骸となっている場所まで行ったときのことですから その場合と このスサノヲの場合としての・単純におさめる役に就くこととは どうでしょう いっしょでしょうか?  根のカタス国の門番のごとくその外にいるだけでよかったかも知れません。だとしたら やってやれないことはない。とも考えられます。  (き) つまり問題は スサノヲの場合は いやだと言ったということにあります。《泣きいさちる》のイサチるの意味にあるはずです。一般には 激しく泣く・泣き叫ぶというような解釈のようですが 大野晋によると これは《拒否》を表わすと言います。   ▲ (大野晋:いさち) ~~~~~~~~   イサは イサ(否)・イサヒ(叱)・イサカヒ(諍)などのイサと同根。   相手の気持ちや行為を拒否・抑制する意。   ▲ (いさめ) ~~~~~~~~~   [諌め・禁め] イサを活用させた語。相手の行動を拒否し 抑制する意。   類義語イマシメは タブーに触れることと教えて 相手に行動を思いとどまらせるのが原義。       (『古語辞典』補訂版 1980)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (く) 祭司にはならない・宗教はごめんこうむると言っているはずなのです。  (け) ウナハラが 死の国ではなく根の国でもない別の場所だとしたら それは どこのことでしょう?   どこでもいいから ただ何らかの空間があるところといったロクでもない場所である可能性はあるでしょうね。そのときにも いづれにしても 《おさめる》ことが 宗教の祭司であることを兼ねているということ ここに焦点は当たるとわたしは考えています。それを嫌だと言い続けたというところです。  ★ 追放=無理やりウナハラに行かせる  ☆ これは 誤解なさっているのでしょう。  (こ) ▲ (古事記) 〔父イザナキが〕建速須佐之男命に詔りたまはく、「汝が命は、海原(うなばら)を知らせ」と事依さしたまひき。  ☆ これは 《追放》ではありません。どうでもよいから ええかげんに割り当てたということはあってもです。  (さ) そして《追放》は アマテラスが天の岩屋戸から姿を現わしたあと タカマノハラびとたちによって裁かれ追いやられたわけです。ウナハラに行ったのではなく イヅモにたどり着きました。  (し) イヅモは いづれにしても アシハラのミヅホの国ということですから 上なるタカマノハラとは別のところです。そのとき何はともあれ タカマノハラとはいっさい関係が切れたと言うべきでしょうね。ですから  ★ 結局追放されたのですから何もかもから自由であったという訳ではなく、仕事・役割から逃れることは出来なかったということになるのではないでしょうか。  ☆ ということはない。ヨソモノとして入って行ったのであり 役割りはどこからも何もなかったのですし その土地の人からヤマタノヲロチの話を聞いてこれを退治してやろうと心に決めたというだけのことです。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ご質問を読んで、別の点でふと興味を引かれたのがスサノオに与えられた罰は何を象徴しているのか、ということです。  髭を切られた、爪を剥がされたというのは何を表しているのでしょう?  髭が権威の象徴、爪が武力の象徴なのであればそれらを剥奪され、身一つで他国へ追いやられた、と読めるのですがどうなのでしょうね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (す) 祭司になることを嫌がっていた人間が 《権威や武力》に恃むという思想を持つでしょうか?  (せ) いづれにしましても:  ▲ (ヰキぺ:神逐) ~~~~~~~~~~~~~  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%80%90  八百万の神々は協議の結果、須佐乃袁尊に千位置戸(通説では財物、異説では拷問道具)を納めさせ、鬚を切り、手足の爪を抜いて葦原中国に放逐したとされている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わけです。処罰をきちんと受けて・その意味で〔かれらの論理によると犯したとされる〕天つ罪についてすっきり・すっかりつぐない切ったわけです。文句あっかと言い返しても もう罰は当たらないでしょう。つまり 縁は切れたのです。タカマノハラびとが スサノヲとの縁を切ったのです。  (そ) そう読めるのですが・そうとしか読めないのですが いったいアマテラスたちは 何を血迷っているのでしょう? つまり アシハラの中つ国にスサノヲがたどり到ったあとのことについてです。

  • pigunosuke
  • ベストアンサー率19% (1063/5528)
回答No.2

人の生きる社会には規律が有って それを守りたいと願う事、そして それを人にも守らせようとすること、そして 守らない奴が居たからヘソを曲げる事 それらを自由意志で行っていたとするなら 天照も自由であったと考えて良いのではなかろうか? 自由と奔放は異なる物です スサノオは奔放であったと思いますが、己の意志で奔放であったのでしょう 天照は奔放ではありませんでしたが、それも己の意志による物だったはずです

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。  自由意志というのは 自分の心や意志を曲げてでも――自分にさからってでも――別のことを欲しそのことを実行したいという場合もありますね。  しかし 自由という場合には 何を欲し何をやってもすでに・つねに《わたしがわたしである》という状態と境地が――むろん 主観的なことなのですが ともあれ・ともかくそれとして――保たれているのだと思います。  スサノヲは 言ってみれば自由ではない行為・たとえば《田の畔をめちゃめちゃに壊す》行為をもおこなった。つまり ヘソを曲げています。  詭弁を用いますが けれどもこのスサノヲの《天つ罪》を犯したととがめられる行動は あくまで《宗教の祭司になりたくないことと 姉アマテラスのところにあいさつにやって来たのは ただそれだけであること》というふたつの心の真実をとうとび つらぬくためです。  非行を非行のために おふざけでやっているわけではありません。このことは はっきりしています。  ★ 天照も自由であったと考えて良いのではなかろうか?  ☆ 主観の問題という限界がちらついている議論になりますが・それでも敢行しますが たとえばアマテラスの場合には すでにスサノヲが暇乞いにおとづれるというとき それは 自分(=アマテラス)の領土をうばうために来るのではないかと疑います。  スサノヲのあいさつを聞くか聞かないか そんなことはどうでもよいと言わんばかりに うたがい続けます。つまりその前にはすでに みづからは武具をまとって構えてスサノヲを迎えたということです。  その上で アマテラスがヘソを曲げてもそれも自由であるのだという議論をなさったわけですが どうでしょうかねぇ。  スサノヲのあかくきよき心を――それを賭けて ウケヒという占いゲームをやって勝負が出たあとにおいても――うたがい続けました。ヘソを曲げて その上にヘソが折れて曲がって どうしようもない状態にまでなりました。  これで アマテラスは ほしいままに振る舞ったのだから 自由である。と言えましょうか? 自由という概念と現実から遠く離れて行ってしまっている。と言わざるを得ないのではないでしょうか?  次のような結論は 果たして成り立ちましょうか どうでしょうか?:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  自由と奔放は異なる物です  スサノオは奔放であったと思いますが、己の意志で奔放であったのでしょう  天照は奔放ではありませんでしたが、それも己の意志による物だったはずです  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いえ。つまり《自由と奔放は異なる物です》と言って説教を受けなければならないのは アマテラスのほうではありませんか?  なぜなら このあと追いやられたスサノヲは たどりついたイヅモの地で治水事業に励んでよきムラをつくりよき生活を築くことに尽力しましたが それを見たタカマノハラびととともにアマテラスは なんだ なんだ このタカマノハラから追放してやったスサノヲとやらが くにづくりをしているだと? これは ゆるせん そのムラは おれたちの領土だ 行ってうばって来いという事態になるのだからです。  いったいどっちが 《奔放》なのでしょう?  

  • pigunosuke
  • ベストアンサー率19% (1063/5528)
回答No.1

八百万の神の中には 人の役に立つ物ばかりで無く、人に害をなす物も居る 神に供物を捧げるのは、感謝の気持ち意味以外にも有る それが生贄って奴でしょね 別にスサノオだけが自由な訳じゃ無く 神は須らく自由で 自由にした結果、人の為になった神も居れば 自由にした結果、人に害をもたらした神も居る ただそれだけではないでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ううーむ。びみょうに違ったお考えのようですね。むろん歓迎なのですが。  ぴぐのすけさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  たとえば 八百万の神々と言いますが とは言え人類の始祖のごとく登場しているイザナキとイザナミの男女神 この二柱は 《ひと》の系譜としてあって ほかの山や海の神だとか狭霧の神なり刀を振り落とすときの音から来ている神なりとをくらべると 当然のごとくカテゴリが違っているかと思われるのです。  《ひと》の系譜と《自然現象(なかには 人為的な行為もふくむでしょうか)》の神格化との二種類に分かれませんか?  ★ 別にスサノオだけが自由な訳じゃ無く / 神は須らく自由で  ☆ と言っても 自然現象のたぐいとしての神々は この《自由》の概念にはなじまない。と思うのです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  自由にした結果、人の為になった神も居れば  自由にした結果、人に害をもたらした神も居る  ただそれだけではないでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 天の岩屋戸の場面で ただただアマテラスオホミカミの岩屋からのお出ましを願うという一様な思いと考えと振る舞いをしか出来ない人びと――タカマノハラびとゆえに 神々でもあるのでしょう――について どうして《自由》という見方ができましょうか?  なるほど アマテラス独りは スサノヲの悪行について それは土地が惜しいと思ってのことだだとかの理由をつけて 決して咎めませんでしたが ほかの人間たちはただただ その非行がわるいと口をそろえて非難するばかりです。  この画一性が どうして《自由》だと言えましょうか? 現代日本の社会を見る思いぢゃないですか。  宗教の祭司になること これは人間にとって果たして《自由》か?  むしろ 自由を落としめる意志行為なのではないか?  ――こういった問題についてナアーーンモ考えていない。あたまの中は すっからかん。アポコロキュントーシス。  ところが スサノヲの非行は 自分にその問題をきちんと考えきちんと結論を出せとスサノヲが迫っているのだと知っていたアマテラスにしても そこですでに思考は停止しています。仮病をいつわって一時入院するといった手をつかっただけのことです。いかに 人間の理性と思考能力において《不自由》な状態にあるか。とやはり言わざるを得ません。  そういうことではないですか?  スサノヲだけが どうして自由なのか?

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     それは はじめに スサノヲのミコトに生起した。  スサノヲは 父のイザナキのミコトによって ウナハラの統治を任せられた。ウナハラは 死の世界であり これをつかさどるというのは 宗教の祭司となることである。この職務を嫌ったというのは その呪術的な宗教の拒否を意味した。スサノヲは 泣きいさちるばかりであった。泣きいさちることによって 宗教の拒否をつらぬいた。ここに 第一に 神の国が現われた。  宗教の拒否によって 神の信仰が生まれたというのは 不思議な歴史であり 体験であり 人間の謎です。  スサノヲは 第二に 姉のアマテラスオホミカミから この宗教の拒否の姿勢を疑われた。おまえは おまえに任された死者の世界をまつりごつのではなく わたしと同じように生の世界の祭司となりたいから 泣きとおしたのではないか。  わたしたちは 自分のものを確かに自分のものだと証拠づけることは出来ても 自分でないものを それは自分ではないと証明することは 容易ではない。アリバイ(不在証明)の立証は 時としてそのものじたいとして 不可能であります。不可能な証明が不可能であると分かると 疑う人であるアマテラスは みづからの身を隠した。検察官が 容疑をそのままにして 黙秘権(?)を使った。  ここでスサノヲは アマテラスに対して 泣きとおしたのではなく ちょうど狂を装ってのように やりたい放題のことをしたのです。登校拒否ではなく あらゆる非行を――天つ罪として考えられたそれを――おかした。宮の前に糞をしておいたりした。  ところがアマテラスは 疑う人でした。とうとう姿を現わさなくなりました。スサノヲの非行を その権威をもって むしろ容認していたのですが とうとう黙秘権を最後まで行使しました。人びとは――人びとも――アマテラスの権威に従って スサノヲを責めず ただ身を隠してしまったアマテラスのお出ましを願わざるを得ず その方策を思案しました。  アマテラスは出て来ざるを得なかったのであって それは みづからの権威の消滅をうたがわなければならなくなったから。ここでスサノヲに 第二に 神の国が生起したのです。  宗教の拒否の肯定をも拒否するというかれの意志が証明されたから。あえて破廉恥なことまでおこなうことによって 破廉恥ではないところの神の国が出現したというのは 不思議なことであり 人間の謎です。  アマテラスのお出ましを迎えた人たちは 権威者であるアマテラスに代わって ここでスサノヲの罪を裁きました。スサノヲをこのアマテラスの世界から追放したのです。  かれらは 宗教(呪術の園)が大好きなのでした。宗教を拒否してはならないわけではなく 宗教の拒否を肯定してはならないわけでもなく しかし泣きいさちっているばかりではいけないと考えられた。スサノヲは人びとによって その良心が問われたのではなく その泣きいさちりと非行とが 人びとの裁判にかけられました。スサノヲは 《千位(ちくら)の置き戸(罰金)を負わせられ また ひげを切られ 手足の爪も抜かれて 追放される》こととなった。  アマテラスは その権威ある主宰者の位を守りました。かのじょ自身 呪術の園にいたのではありませんが 宗教(だから そのような日常のおこないとしての)によって生活する人たちを統治することに長けていました。かのじょは この世に・日の下に 新しいものは何もないとよく知っていました。この知識の中にないものに対しては 疑うことしか知らなかった。だから疑うこと――疑うために疑うこと――をもって 呪術の園にある人びとの共同生活を統治していたのです。かのじょは この世の生 人間の世の中をよく知っていました。  このゆえに神の国が生起しました。言い換えると 死の世界と 宗教によるその統治とが 克服されたのです。原理的に。本質的に。人間の存在のあり方として。あるいは同じことで この世の生――それが行き着くところは 死の世界だから――が 克服されたのです。  この世で 時間的に歴史的に 神の国(ほんとうの現実)が見られることとなった。スサノヲに神がここで王となった。この世の権威たるアマテラスの疑いが克服されたから。この世〔のアマテラスの世界〕から追放されることによって この世に勝つことが出来たというのは 不思議な人間の歴史であり 謎です。  スサノヲは 追放され この世から そして神からも 見放されたのですが ちょうどこの神から見捨てられたというそのこと自体において 神はスサノヲを見捨てていなかったのです。  スサノヲはこの世に死ぬことによって 復活しました。ここで神の国が現われたのです。すなわち日本人のそもそもの歴史のはじめ。  ☆ 自由なご批評・ご批判をたまわりたく・・・。

  • アマテラスは スサノヲの非行をなぜ咎めなかったか

    アマテラスは スサノヲの非行をなぜ咎めなかったか  古事記などが伝えるスサノヲとアマテラスの物語には われわれ現代人が人間を考えるための恰好の題材を提供していると考えます。そこで 表題の件で問います。質問者なりにあらすじをしるしますので    ○ ほかの人びとはスサノヲを咎めてもアマテラス自身はそうしなかった。それは何故か。  について 見解を示してください。  スサノヲは イヅモで復活する前に タカマノハラの世界でアマテラスの《なぜわたしの領域にやって来たのか。それは領土を奪いにではないのか 》という疑いによって悩まされていた。かれは 理屈で弁明するよりは 非行・愚行を繰り返すという破廉恥な抵抗によって 自己の知恵の同一にとどまろうと欲した。その一つに。    アマテラスオホミカミが 忌服屋(いみはたや=清浄な機屋)に坐(ま)   して 神御衣(かむみそ)を織らしめたまひし時 〔スサノヲが〕その服屋   の頂(むね)を穿ち 天の斑馬(ふちうま)を逆剥(さかは)ぎに剥ぎて堕   (おと)し入るる時に 天の服織女(はたおりめ)は見驚きて 梭(ひ)に   陰上(ほと)を衝きて死にき。(古事記)  とさえ記されている。  もちろんスサノヲは 殺そうと思ってそうしたのではないであろう。だが あえてこのような事をも辞さなかった。  そこで これらの天つ罪と呼ばれる非行のあと 罰を受けて追放されたのだが しかもなおかつその上で イヅモ・スガの宮での復活を受け取ることになった。こうなると つまりあたかも神の国が生起して身は復活し ひとの歴史が前史から後史へ入ったとすると おそらくこの神の国は 過去へとさかのぼり 後史が前史をも覆う・つまり前史を完成させるということが 生起するのではないか。  それは こうだ。この世にあっては 神の国は地上の国と混同して互いに入り組んでいるのだ。地上の経験的で相対的な人間の愛が ちょうどその向きを変えられ回転せしめられてのように あの神なる愛につらなるという〔観想的な〕事態を見ることになるのではないか。なぜなら 《その皮を剥いだ馬を機屋の屋根を破ってその穴から落とし入れて その結果 服織り女たちは驚いてしまい ひとりは 梭(=杼=shuttle)にほとを衝いて死んでしまった》という経験の中のスサノヲの前史の心を すでに その後史の心がおおうと見られるから。ちょうど    王はその宮からわたしの声を聞かれ    王に叫ぶわたしの叫びがその耳に達しました。(旧約聖書詩篇18・6)  とすでに言ってのように 前史の愛のなかに後史(または 王の本史)の愛がたしかに はたらいていたと見出されたかのように。あるいは   〔神の愛は〕処女の胎から あたかも閨(ねや)から出てきた花婿の   ように 道をかける巨人のように躍り出た。   (旧約聖書詩篇 19・5;アウグスティヌス:告白 4・12〔19〕)  というのが 事の真相であるのではないか。これによって機織り女が驚いたのでないなら それは 何故か。機織り女も 肉の眼によってではなく 心の内なる眼で なぞ(神の愛)を見たか。  この事件のあと 《ゆえにここにアマテラスオホミカミは見畏(かしこ)みて 天の石屋戸(いはやと)を開きて さし籠もりましき》。つまり その身を隠した。  もう一例を引こう。  スサノヲは アマテラスの疑惑を疑い返し やはり自己の知恵の同一にとどまろうとして この上の事件を起こす前に 次のような愚行をおこなったと記されている。    アマテラスオホミカミの営田(つくだ)の畔を離ち(境界を取り除き)   その溝を埋め また その大嘗(おほにへ)を聞こしめす殿(アマテラス   の神聖な御殿)に尿(くそ)まり散らしき。(古事記)  これは いわゆる反体制の運動のようなのだが そのあと    しかすれども アマテラスオホミカミは 咎めずて告りたまひしく     ――尿(くそ)なすは 酔(ゑ)ひて吐き散らすとこそ 我(あ)が     汝弟(なせ)のミコト(=スサノヲ)は かく為(し)つらめ。ま     た田の畔を離ち 溝を埋むるは 地(ところ)を惜(あたら)し     (=土地が惜しい)とこそ 我が汝弟のミコトは かく為つらめ。    と詔(の)り直したまへ〔ども なほその悪しき態(わざ)は止まずて    転(うたて)ありき〕。(古事記 承前)  要するに アマテラスは なお疑惑を解かなかった。     *  疑惑を解かないけれども 咎めもしなかった。なぜか?  《疑うなら つまりそう考えるなら 我れあり。》と考えていたという答えをひとつ用意していますが いろんな解釈があると思われ みなさんの知恵を拝借したいところです。

  • アマテラスは スサノヲの非行をなぜ咎めなかったか

     アマテラスは スサノヲの非行をなぜ咎めないのか  古事記などが伝えるスサノヲとアマテラスの物語には われわれ現代人が人間を考えるための恰好の題材を提供していると考えます。そこで 表題の件で問います。質問者なりにあらすじをしるしますので    ○ ほかの人びとはスサノヲを咎めてもアマテラス自身はそうしなかった。それは何故か。  について 見解を示してください。      *  スサノヲは イヅモで復活する前に タカマノハラの世界でアマテラスの《なぜわたしの領域にやって来たのか。それは領土を奪いにではないのか 》という疑いによって悩まされていた。かれは 理屈で弁明するよりは 非行・愚行を繰り返すという破廉恥な抵抗によって 自己の知恵の同一にとどまろうと欲した。その一つに。    アマテラスオホミカミが 忌服屋(いみはたや=清浄な機屋)に坐(ま)   して 神御衣(かむみそ)を織らしめたまひし時 〔スサノヲが〕その服屋   の頂(むね)を穿ち 天の斑馬(ふちうま)を逆剥(さかは)ぎに剥ぎて堕   (おと)し入るる時に 天の服織女(はたおりめ)は見驚きて 梭(ひ)に   陰上(ほと)を衝きて死にき。(古事記)  とさえ記されている。  もちろんスサノヲは 殺そうと思ってそうしたのではないであろう。だが あえてこのような事をも辞さなかった。  そこで これらの天つ罪と呼ばれる非行のあと 罰を受けて追放されたのだが しかもなおかつその上で イヅモ・スガの宮での復活を受け取ることになった。こうなると つまりあたかも神の国が生起して身は復活し ひとの歴史が前史から後史へ入ったとすると おそらくこの神の国は 過去へとさかのぼり 後史が前史をも覆う・つまり前史を完成させるということが 生起するのではないか。  それは こうだ。この世にあっては 神の国は地上の国と交ざり合ったかのように互いに入り組んでいるのだ。地上の経験的で相対的な人間の愛が ちょうどその向きを変えられ回転せしめられてのように あの神なる愛につらなるという〔観想的な〕事態を見ることになるのではないか。  なぜなら 《その皮を剥いだ馬を機屋の屋根を破ってその穴から落とし入れて その結果 服織り女たちは驚いてしまい ひとりは 梭(=杼=shuttle)にほとを衝いて死んでしまった》という経験の中のスサノヲの前史の心を すでに その後史の心がおおいつつむと見られるから。ちょうど    王はその宮からわたしの声を聞かれ    王に叫ぶわたしの叫びがその耳に達しました。(旧約聖書詩篇18・6)  とすでに言ってのように 前史の愛のなかに後史(または 王の本史)の愛がたしかに はたらいていたと見出されたかのように。あるいは   〔神の愛は〕処女の胎から あたかも閨(ねや)から出てきた花婿の   ように 道をかける巨人のように躍り出た。   (旧約聖書詩篇 19・5;アウグスティヌス:告白 4・12〔19〕)  というのが 事の真相であるのではないか。これによって機織り女が驚いたのでないなら それは 何故か。機織り女も 肉の眼によってではなく 心の内なる眼で なぞ(神の愛)を見たか。  この事件のあと 《ゆえにここにアマテラスオホミカミは見畏(かしこ)みて 天の石屋戸(いはやと)を開きて さし籠もりましき》。つまり その身を隠した。  もう一例を引こう。  スサノヲは アマテラスの疑惑を疑い返し やはり自己の知恵の同一にとどまろうとして この上の事件を起こす前に 次のような愚行をおこなったと記されている。    アマテラスオホミカミの営田(つくだ)の畔を離ち(境界を取り除き)   その溝を埋め また その大嘗(おほにへ)を聞こしめす殿(アマテラス   の神聖な御殿)に尿(くそ)まり散らしき。(古事記)  これは いわゆる反体制の運動のようなのだが そのあと    しかすれども アマテラスオホミカミは 咎めずて告りたまひしく     ――尿(くそ)なすは 酔(ゑ)ひて吐き散らすとこそ 我(あ)が     汝弟(なせ)のミコト(=スサノヲ)は かく為(し)つらめ。ま     た田の畔を離ち 溝を埋むるは 地(ところ)を惜(あたら)し     (=土地が惜しい)とこそ 我が汝弟のミコトは かく為つらめ。    と詔(の)り直したまへ〔ども なほその悪しき態(わざ)は止まずて    転(うたて)ありき〕。(古事記 承前)  要するに アマテラスは なお疑惑を解かなかった。     *  疑惑を解かないけれども 咎めもしなかった。なぜか?  《疑うなら つまりそう考えるなら 我れあり。》と考えていたという答えをひとつ用意していますが いろんな解釈があると思われ みなさんの知恵を拝借したいところです。    スサノヲの清くあきらけき心は 証明されえましょうか?  わたしは 《和を乱すな》と言われなかったなら 和を乱すことを知らなかった。と言えるか?

  • アマテラスは スサノヲの非行をなぜ咎めなかったか

     アマテラスは スサノヲの非行をなぜ咎めないのか。咎めず人に対するに取り合わないその人格にこそ欠陥があるのではないか?  古事記などの伝えるスサノヲとアマテラスの物語には われわれ現代人が人間を考えるための恰好の題材を提供していると考えます。そこで 表題の件で問います。質問者なりにあらすじをしるしますので:      ○ ほかの人びとはスサノヲを咎めてもアマテラス自身はそう     しなかった。それは何故か。  について 見解を示してください。アマテラスの批判――その人格批判――にまで到りたいとさえ考えています。          *  スサノヲは イヅモで復活する前に タカマノハラの世界でアマテラスの《なぜわたしの領域にやって来たのか。それは領土を奪いにではないのか 》という疑いによって悩まされていた。  かれは 理屈で弁明するよりは 非行・愚行を繰り返すという破廉恥な抵抗によって 自己の知恵の同一にとどまろうと欲した。その一つに:      アマテラスオホミカミが 忌服屋(いみはたや=清浄な機屋)に     坐(ま)して 神御衣(かむみそ)を織らしめたまひし時      〔スサノヲが〕その服屋の頂(むね)を穿ち 天の斑馬(ふちうま)     を逆剥(さかは)ぎに剥ぎて堕(おと)し入るる時に      天の服織女(はたおりめ)は見驚きて 梭(ひ)に陰上(ほと)を     衝きて死にき。(古事記・神代記)  とさえ記されている。  もちろんスサノヲは 殺そうと思ってそうしたのではないであろう。だが あえてこのような破廉恥な事をも辞さなかった。  そこで これらの天つ罪と呼ばれる非行のあと 罰を受けて追放されたのだが しかもなおかつその上で イヅモ・スガの宮での復活を受け取ることになった。  こうなると つまりあたかも神の国が生起して身は復活し ひとの歴史が前史から後史へ入ったとすると おそらくこの神の国は 過去へとさかのぼり 後史が前史をも覆う・つまり前史を完成させるということが 生起するのではないか。  それは こうだ。この世にあっては 神の国は地上の国と交ざり合ったかのように互いに入り組んでいるのだ。地上の経験的で相対的な人間の愛が ちょうどその向きを変えられ回転せしめられてのように あの神なる愛につらなるという〔観想的な〕事態を見ることになるのではないか。  なぜなら 《その皮を剥いだ馬を機屋の屋根を破ってその穴から落とし入れて その結果 服織り女たちは驚いてしまい ひとりは 梭(=杼=shuttle)にほとを衝いて死んでしまった》という経験の中のスサノヲの前史の心を すでに その後史の心がおおいつつむと見られるから。ちょうど:       王はその宮からわたしの声を聞かれ     王に叫ぶわたしの叫びがその耳に達しました。(旧約聖書詩篇18・6)  とすでに言ってのように 前史の愛のなかに後史(または 王の本史)の愛がたしかに はたらいていたと見出されたかのように。あるいは:     〔神の愛は〕処女の胎から あたかも閨(ねや)から出てきた花婿の     ように 道をかける巨人のように躍り出た。     (旧約聖書詩篇 19・5;アウグスティヌス:告白 4・12〔19〕)  というのが 事の真相であるのではないか。これによって機織り女が驚いたのでないなら それは 何故か。機織り女も 肉の眼によってではなく 心の内なる眼で なぞ(神の愛)を見たか。  この事件のあと 《ゆえにここにアマテラスオホミカミは見畏(かしこ)みて 天の石屋戸(いはやと)を開きて さし籠もりましき》。つまり その身を隠した。  もう一例を引こう。  スサノヲは アマテラスの疑惑を疑い返し やはり自己の知恵の同一にとどまろうとして この上の事件を起こす前に 次のような愚行をおこなったと記されている。      アマテラスオホミカミの営田(つくだ)の畔を離ち(境界を取り除き)     その溝を埋め また その大嘗(おほにへ)を聞こしめす殿(アマテ     ラスの神聖な御殿)に尿(くそ)まり散らしき。(古事記)  これは いわゆる反体制の運動のようなのだが そのあと:     しかすれども アマテラスオホミカミは 咎めずて告りたまひしく      ――尿(くそ)なすは 酔(ゑ)ひて吐き散らすとこそ 我(あ)が      汝弟(なせ)のミコト(=スサノヲ)は かく為(し)つらめ。ま      た田の畔を離ち 溝を埋むるは 地(ところ)を惜(あたら)し      (=土地が惜しい)とこそ 我が汝弟のミコトは かく為つらめ。     と詔(の)り直したまへ〔ども なほその悪しき態(わざ)は止まず     て転(うたて)ありき〕。(古事記 承前)  要するに アマテラスは なお疑惑を解かなかった。あるいは どうも弟スサノヲに対するに まったく取り合おうとすることはなかった。           *  疑惑を解かないけれども 咎めもしなかった。なぜか?  《疑うなら つまりそう考えるなら 我れあり。》と考えていたという答えをひとつ用意していますが いろんな解釈があると思われ みなさんの知恵を拝借したいところです。    スサノヲの清くあきらけき心は 証明されえましょうか?  《わたしは 〈和を乱すな〉と言われなかったなら 和を乱すことを知らなかった》と言えるか?  言えるとしたら アマテラスのほうが 断然おかしい。人格が崩壊しているのではないか?  ☆ なお得られたご回答につきましては 疑問点と思うところについて納得するまで問い求めてまいりますので よろしくお願いいたします。

  • ホノ二ニギ(天孫)は アマテラスとスサノヲの子孫か

     非論理的な話です。  いわゆる伝承上の第一代天皇である神武カムヤマトイハレヒコは アマテラスにとって来孫(らいそん)または耳孫(じそん)という五代目の孫です。まご ひまご やしゃご。そしてその子の きしゃご というのだそうです。    高千穂の峰に降臨したのは二代前のホノ二ニギです。これは 孫です。アメニキシクニニキシアマツヒコホノニニギのミコト。    さて このホノ二ニギの父・すなわちアマテラスの子は マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミのミコトです。  ところがこのオシホミミは 例のアマテラスとスサノヲとの賭けのようなウケヒにおいて生まれた子です。  アマテラスの髪飾りの珠を取ってスサノヲが噛み 吹き捨てた息吹きの霧に生まれたと言います。  ならば   【Q‐1】 神武天皇とそしてそれからの歴代天皇は アマテラスの子孫であると同時に スサノヲの子孫でもある。  こう言えるか?    ところで むろんアマテラスとスサノヲは じつの姉と弟です。と考えるにつけても  【Q‐2】 この国は あまりにもアマテラス系をとうとび過ぎて来たのではあるまいか?  一般にアマテラス公民が スサノヲ市民に対して デカい顔をし過ぎて来たのではあるまいか?   【Q‐3】 スサノヲ市民たちをもとうとんだ時代は 栄えたのではないか?  いまは あまりにもその格差が――感覚的に言って―― ひどすぎるのではあるまいか?  これでは 先行き とうてい明るいとは言えまい。  【Q‐4】 このような単純な問題なのではないか? いまのわが国の状態は。  あまりにも幻想的な議論であるが――なんのことはない―― そもそも人びとが 幻想的なクウキにしたがって考えたり振る舞ったりしているのではないか?  【Q‐5】 まだなおこのクウキたる共同の観念にしたがうとすれば まづ世の中の主役であるスサノヲ市民らを大切にするしか道はないのではないか?  さもなければ これまでのクウキとして君臨してきた共同観念を打ちこわすことが もとめられなければならない。  こうではないか? いづれにしても スサノヲ市民主権の時代ではないか。それとも スサノヲ市民は 長年しもべとして仕えたかのような歴史の末に へなちょこ人間に成り下がったか。もうどうしようもないか?

  • 【政治と宗教】エジプト文明が滅びたのは統治者が神の

    【政治と宗教】エジプト文明が滅びたのは統治者が神の力を借りたから。 民衆は神を讃え、統治者より神が偉くなり、統治者が神を制御出来なくなり、神を頂点とする世界に統治者は不要となった。 エジプト文明が滅びたのは神の力に頼ったから滅びたのですが、なぜこの世は過去に世界統一に失敗した神の力を未だに頼っているのでしょう。 エジプト文明は国民が統治者より神が偉いと思ったから国を統治者が統制出来なくなり滅びた。 違いますか?

  • ホノ二ニギ(天孫)は アマテラスとスサノヲの子孫か

     非論理的な話です。  いわゆる伝承上の第一代天皇である神武カムヤマトイハレヒコは アマテラスにとって来孫(らいそん)または耳孫(じそん)という五代目の孫です。まご ひまご やしゃご。そしてその子の きしゃご というのだそうです。    高千穂の峰に降臨したのは二代前のホノ二ニギです。これは 孫です。アメニキシクニニキシアマツヒコホノニニギのミコト。    さて このホノ二ニギの父・すなわちアマテラスの子は マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミのミコトです。  ところがこのオシホミミは 例のアマテラスとスサノヲとの賭けのようなウケヒにおいて生まれた子です。  アマテラスの髪飾りの珠を取ってスサノヲが噛み 吹き捨てた息吹きの霧に生まれたと言います。  ならば   【Q‐1】 神武天皇とそしてそれからの歴代天皇は アマテラスの子孫であると同時に スサノヲの子孫でもある。  こう言えるか?    ところで むろんアマテラスとスサノヲは じつの姉と弟です。と考えるにつけても  【Q‐2】 この国は あまりにもアマテラス系をとうとび過ぎて来たのではあるまいか?  一般にアマテラス公民が スサノヲ市民に対して デカい顔をし過ぎて来たのではあるまいか?   【Q‐3】 スサノヲ市民たちをもとうとんだ時代は 栄えたのではないか?  いまは あまりにもその格差が――感覚的に言って―― ひどすぎるのではあるまいか?  これでは 先行き とうてい明るいとは言えまい。  【Q‐4】 このような単純な問題なのではないか? いまのわが国の状態は。  あまりにも幻想的な議論であるが そもそも人びとが 幻想的なクウキにしたがって考えたり振る舞ったりしているのではないか?  【Q‐5】 まだなお共同の観念にしたがうとすれば まづ世の中の主役であるスサノヲ市民らを大切にするしか道はないのではないか?  さもなければ これまでのクウキとして君臨してきた共同観念を打ちこわすことが もとめられなければならない。  こうではないか?

  • アマテラスによる神勅は 独り善がりである

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第五章 多神教は その一まとめとして一神教である  補論 § 5‐d アマテラスによるアシハラ統治を宣べる神勅は 独り善がりである。  1. 父イザナキは 子のアマテラスにタカ〔ア〕マノハラをおさめよと宣べた。タカマノハラ(高天原)は おそらく空の上のどこかの場であろうから この統治の委任は まさしく神話の世界での話であると捉えられる。それにとどまる。  2. ところが タカマノハラを主宰するアマテラスは ふつうの地上の国であるアシハラ(葦原)を その孫であるホノニニギに治めなさいと宣べ伝えた。この統治委任は 無効である。または 独り善がりであって 部分的にしか有効ではない。  3. アシハラにはすでにスサノヲの系譜でもあるオホクニヌシが住んでいる。無主地ではない。先占の法理にかなわない。  4. いや だから よこせとは言ったが オホクニヌシらが 《くにゆづり》をしてくれたのだと言うのなら そのホノニニギの統治権は ゆづられたものである。アマテラスの統治せよという委任によって 有効となったのではない。民主的な話し合いによる。アシハラの人びとの善意によるものだ。いまもその恩恵の上にある。  5. けれどもしかし それは このアシハラの土地の中でも オホクニヌシらのほかの先住民であるアイヌの人びとのことが まだ問題である。けっきょく ゆづられていないので 征服した。ただそこはおれたちの土地だと言ってだだをこねつづけた頑固一徹の単なる帝国主義である。民主主義に悖った。無効である。  6. あの島々は 昔むかし大昔に 天命によってわれわれの天子がおさめることを任された土地だ。きさまらが何を言うか。返せ。出て行け。だまって言うことを聞け。うんぬんと言ってごり押しするのは 有効か?  7. 王権神授説は 有効ではない。ただの精神錯乱である。ローマ教会も 右に同じくだ。  行き届かず到らぬところを よろしく ご教授ください。

  • 記紀が書かれた目的は 天皇家の正統性を当時の国の要人に周知させ また後

    記紀が書かれた目的は 天皇家の正統性を当時の国の要人に周知させ また後世の人に知らしめる ことが第一であったとおもうのです。が、その神代記載の一部ですが アマテラスとスサノオの経緯の理解が出来てません。そこで お教え頂きたいのですが。 乱暴者のスサノオに対しアマテラスは身を隠したりまた出てきたりしますが 直接にはスサノオには手を下しません。高天原の神々の総意で 出雲に追放となり、そこではスサノオは どういうわけか 勇敢な善人となります。物語は 以後オオクニノヌシへと移ります。 私が思うにイズモのスサノオはアマテラスに徹底して前歴の悪行の数々を謝り アマテラスはスサノオを許す 物語があってよいとおもうのです。そこで皇祖アマテラスの心の広い正統性が示されるとおもうのですが どうも徹底してないように思えるのです。 アマテラスの正統性を示すことに関して なぜ スサノオの扱いが徹底してないのか 記紀成立当時の事情を含め どなたか説明頂ければと思います。私の勉強不足は ご容赦ください。