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アマテラスは スサノヲの非行をなぜ咎めなかったか

 アマテラスは スサノヲの非行をなぜ咎めないのか。咎めず人に対するに取り合わないその人格にこそ欠陥があるのではないか?  古事記などの伝えるスサノヲとアマテラスの物語には われわれ現代人が人間を考えるための恰好の題材を提供していると考えます。そこで 表題の件で問います。質問者なりにあらすじをしるしますので:      ○ ほかの人びとはスサノヲを咎めてもアマテラス自身はそう     しなかった。それは何故か。  について 見解を示してください。アマテラスの批判――その人格批判――にまで到りたいとさえ考えています。          *  スサノヲは イヅモで復活する前に タカマノハラの世界でアマテラスの《なぜわたしの領域にやって来たのか。それは領土を奪いにではないのか 》という疑いによって悩まされていた。  かれは 理屈で弁明するよりは 非行・愚行を繰り返すという破廉恥な抵抗によって 自己の知恵の同一にとどまろうと欲した。その一つに:      アマテラスオホミカミが 忌服屋(いみはたや=清浄な機屋)に     坐(ま)して 神御衣(かむみそ)を織らしめたまひし時      〔スサノヲが〕その服屋の頂(むね)を穿ち 天の斑馬(ふちうま)     を逆剥(さかは)ぎに剥ぎて堕(おと)し入るる時に      天の服織女(はたおりめ)は見驚きて 梭(ひ)に陰上(ほと)を     衝きて死にき。(古事記・神代記)  とさえ記されている。  もちろんスサノヲは 殺そうと思ってそうしたのではないであろう。だが あえてこのような破廉恥な事をも辞さなかった。  そこで これらの天つ罪と呼ばれる非行のあと 罰を受けて追放されたのだが しかもなおかつその上で イヅモ・スガの宮での復活を受け取ることになった。  こうなると つまりあたかも神の国が生起して身は復活し ひとの歴史が前史から後史へ入ったとすると おそらくこの神の国は 過去へとさかのぼり 後史が前史をも覆う・つまり前史を完成させるということが 生起するのではないか。  それは こうだ。この世にあっては 神の国は地上の国と交ざり合ったかのように互いに入り組んでいるのだ。地上の経験的で相対的な人間の愛が ちょうどその向きを変えられ回転せしめられてのように あの神なる愛につらなるという〔観想的な〕事態を見ることになるのではないか。  なぜなら 《その皮を剥いだ馬を機屋の屋根を破ってその穴から落とし入れて その結果 服織り女たちは驚いてしまい ひとりは 梭(=杼=shuttle)にほとを衝いて死んでしまった》という経験の中のスサノヲの前史の心を すでに その後史の心がおおいつつむと見られるから。ちょうど:       王はその宮からわたしの声を聞かれ     王に叫ぶわたしの叫びがその耳に達しました。(旧約聖書詩篇18・6)  とすでに言ってのように 前史の愛のなかに後史(または 王の本史)の愛がたしかに はたらいていたと見出されたかのように。あるいは:     〔神の愛は〕処女の胎から あたかも閨(ねや)から出てきた花婿の     ように 道をかける巨人のように躍り出た。     (旧約聖書詩篇 19・5;アウグスティヌス:告白 4・12〔19〕)  というのが 事の真相であるのではないか。これによって機織り女が驚いたのでないなら それは 何故か。機織り女も 肉の眼によってではなく 心の内なる眼で なぞ(神の愛)を見たか。  この事件のあと 《ゆえにここにアマテラスオホミカミは見畏(かしこ)みて 天の石屋戸(いはやと)を開きて さし籠もりましき》。つまり その身を隠した。  もう一例を引こう。  スサノヲは アマテラスの疑惑を疑い返し やはり自己の知恵の同一にとどまろうとして この上の事件を起こす前に 次のような愚行をおこなったと記されている。      アマテラスオホミカミの営田(つくだ)の畔を離ち(境界を取り除き)     その溝を埋め また その大嘗(おほにへ)を聞こしめす殿(アマテ     ラスの神聖な御殿)に尿(くそ)まり散らしき。(古事記)  これは いわゆる反体制の運動のようなのだが そのあと:     しかすれども アマテラスオホミカミは 咎めずて告りたまひしく      ――尿(くそ)なすは 酔(ゑ)ひて吐き散らすとこそ 我(あ)が      汝弟(なせ)のミコト(=スサノヲ)は かく為(し)つらめ。ま      た田の畔を離ち 溝を埋むるは 地(ところ)を惜(あたら)し      (=土地が惜しい)とこそ 我が汝弟のミコトは かく為つらめ。     と詔(の)り直したまへ〔ども なほその悪しき態(わざ)は止まず     て転(うたて)ありき〕。(古事記 承前)  要するに アマテラスは なお疑惑を解かなかった。あるいは どうも弟スサノヲに対するに まったく取り合おうとすることはなかった。           *  疑惑を解かないけれども 咎めもしなかった。なぜか?  《疑うなら つまりそう考えるなら 我れあり。》と考えていたという答えをひとつ用意していますが いろんな解釈があると思われ みなさんの知恵を拝借したいところです。    スサノヲの清くあきらけき心は 証明されえましょうか?  《わたしは 〈和を乱すな〉と言われなかったなら 和を乱すことを知らなかった》と言えるか?  言えるとしたら アマテラスのほうが 断然おかしい。人格が崩壊しているのではないか?  ☆ なお得られたご回答につきましては 疑問点と思うところについて納得するまで問い求めてまいりますので よろしくお願いいたします。

みんなの回答

回答No.5

ジラーチちゃんはなるべく思いを巡らしかばったんだよ。 悪魔をポケモン扱いする私みたいなもんだ。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ かばう  ☆ とは どういう行為か。  少なくとも その結果が出ていない。スサノヲは かばってもらったという結果を受けていない。  でしょう。  ご回答をありがとうございます。

  • nekosuke16
  • ベストアンサー率24% (903/3667)
回答No.4

スサノオの悪行三昧に対して天照が起こした罰といえば、「天の岩屋事件」により、世界を暗黒にしたことくらいでしょうかね。 そして、そうした行動もアメノウズメやオモイカネ、怪力のタジカラオなどの協力によって、呆気なく引きずり出されてしまい、話は立ち消えになってしまう。 そもそも、政治目的で編纂された記紀の日本神話の中に登場する話であり、歴史上の真実ではありません。 例えば、維新の頃の文献や風聞伝聞など、歴史を証明する何らかの解明の手段がある場合でも、西郷隆盛の心情や勝海舟の家庭を顧みない精神など知る由もない。 アマテラスやスサノオともなると、文献以前に想像の世界の問題であり、そこに事の真相も人格の崩壊もないでしょう。 想像世界という意味では小説も同じですが、その内容の受け取り方も千差万別。主人公に憧れる人もいれば、反発する人もいる。 「言えるとしたら アマテラスのほうが 断然おかしい。人格が崩壊しているのではないか?」 そうではなくて、記紀の存在は日本史を語る上でとても大きなものですが、神話の内容として、必要以上に複雑なあらすじや深層心理にまで踏み込む必要が無かっただけのことでしょう。 天の岩屋の件については、日食による暗黒世界を題材にした自然現象の起源とするとか、イザナミがヒノカグツチを産み落とすときの大火傷により命を落としたことを死の起源とするなどということは、学問の意義は別として、後世の研究者たちが勝手に考え出したことでしかありません。 したがって、日本神話といえども、内容としてもダイダラボッチが出てくる「昔話」や「民話」に近いものであり、書かれている文章に疑問を投げかけるよりも、その文章を、ただ素直に受け止めるに止めてよいのではないですか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ スサノオの悪行三昧に対して天照が起こした罰といえば、「天の岩屋事件」により、世界を暗黒にしたことくらいでしょうかね。  ☆ それは 《スサノヲの悪口三昧》に対する《罰》なのでしょうか?  極端な解釈としては アマテラスは 心の清きを懸けてウケヒをふたりでおこなった結果 スサノヲの清き心が明らかとなった。だから 会わす顔がない 体面が保てない 恥ぢ入るしかないと思って 雲隠れした。というに過ぎないのでは?  その結果が 日食であった。というだけでは?  つまり スサノヲは 完全に無罪。  極論ですが それをたたき台とすれば 互いの問い求めがなめらかに進められるものと考えます。  ★ そして、そうした行動もアメノウズメやオモイカネ、怪力のタジカラオなどの協力によって、呆気なく引きずり出されてしまい、話は立ち消えになってしまう。  ☆ その経過は おっしゃるとおりですが わたしの考えでは決して《話は立ち消えになっ》たとは思えません。  スサノヲ事件は 何一つ解決されていません。つまり アマテラスの人間不信あるいは自己神聖視は 依然として変わりありません。  《あたかも神のごとく如何なるものの下にも立つまいと堅く誓ったあとの行動である》と見られます。アマテラスは 神ですが ほかの者もタカマノハラでは神々ですから 言わば同等・対等な間柄なわけです。その水準を超えた《いと高き存在に成る・またすでにそうである》というヘンな決意が みなぎっていたとしか考えられません。  みなのもの われは アマテラスなり。われに従え。とのみ言っている。そう言い続けている。それだけの人格です。  わづかに アマの岩屋戸事件では 恥づかしさから 実際にはそうは言わず すねてみせた。わたしをホッタラカシにしないで 今後ともかまって欲しいと言ってみなければならない窮地に落ち入った。ということでしょう。  ★ そもそも、政治目的で編纂された記紀の日本神話の中に登場する話であり、歴史上の真実ではありません。  ☆ どうねつ造したかについても 考えをめぐらせればよいのでは?  資料が不足していると分かれば そういうひとつの結論を出しておけばよい。  ★ 例えば、維新の頃の文献や風聞伝聞など、歴史を証明する何らかの解明の手段がある場合でも、西郷隆盛の心情や勝海舟の家庭を顧みない精神など知る由もない。  ☆ ここまで知った・これだけは知り得たということの信憑性が有るか無いか。そのあやうさは 《知る由もない》という証明が出来ないという問題と それほど変わらないと思います。  というのは そこまでの《真実・真相》の問題となると 言ってみれば当の本人にでも知らなかった事情や分からなかった情況のことがあると考えられるからです。  つまり 誰でもその心の真実に照らして 研究の成果を発表することも 決して益なしとはしないはずです。そうではないでしょうか?  ★ アマテラスやスサノオともなると、文献以前に想像の世界の問題であり、そこに事の真相も人格の崩壊もないでしょう。  ☆ と見て 探究を閉ざすというのも ひとつの道であるかも分かりません。ただ わたしは その道を採らないとは思っています。  なぜなら 学問としては研究されているのですし 専門家と言いましょうか 日本の歴史についての政治的な書物である記紀神話にかんして これこれこういうことなのだと解説する発言も出ています。だったら みながそれぞれ自由に 自分の探究の結果を発表してもかまわない。となるのではありませんか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~  想像世界という意味では小説も同じですが、その内容の受け取り方も千差万別。主人公に憧れる人もいれば、反発する人もいる。  「言えるとしたら アマテラスのほうが 断然おかしい。人格が崩壊しているのではないか?」  そうではなくて、記紀の存在は日本史を語る上でとても大きなものですが、神話の内容として、必要以上に複雑なあらすじや深層心理にまで踏み込む必要が無かっただけのことでしょう。  ~~~~~~~~~~  ☆ おっしゃっている意味が読み取れません。  つまりこうでしょうか? 多少とも勇み足で言えば 《言えるとしたら アマテラスのほうが 断然おかしい。人格が崩壊しているのではないか?》になるかも分からない。けれども それを裏付ける証拠や資料が しっかりと詳しくは書かれていないし 伝承もされていない。と? いや 分かりませんが。  ★ 天の岩屋の件については、日食による暗黒世界を題材にした自然現象の起源とするとか、イザナミがヒノカグツチを産み落とすときの大火傷により命を落としたことを死の起源とするなどということは、学問の意義は別として、後世の研究者たちが勝手に考え出したことでしかありません。  ☆ これは 単純に捉えます。それぞれを解釈例のひとつと見なすことです。それに留めておくことです。  全体として何かよい構想のもとに 話をまとめ上げることが出来るようになれば そのとき互いにさらにその資料を活用して問い求めて行けばよいと。  ★ したがって、日本神話といえども、内容としてもダイダラボッチが出てくる「昔話」や「民話」に近いものであり、書かれている文章に疑問を投げかけるよりも、その文章を、ただ素直に受け止めるに止めてよいのではないですか?  ☆ というような・推理を閉ざす道は いやです。一人でも 解釈をほどこしそれを発表する場合が出て来ているのなら 互いにそれについて考え合って行くことは 大切だと思います。

回答No.3

 古事記や日本書紀の作者(伝承者?)に聞いて見るのが一番ですが、もちろんそれは不可能なことです。  古事記日本書紀の研究者の見解を聴きたいところですが、これもその人その人の考え方の違いも有るでしょうね。  なので単純に考えたら。。。 姉と弟であること。 女と男であること。  こればかりは現代の姉弟関係、男女関係でもそうですが、二人にしかわからない心境を勝手に判断するしかありません。  こうして私自身書いていて、ふと先日起こった25歳の姉が21歳の弟を殺してバラバラにした事件を思い出しました。全く理解できないですね。  

bragelonne
質問者

お礼

 ★ こればかりは現代の姉弟関係、男女関係でもそうですが、二人にしかわからない心境を勝手に判断するしかありません。  ☆ いえいえ。情況やそれぞれの個人的な事情が 書かれて伝えられているかぎりでそれらを取り上げ みなで考えることは出来ます。  情況というのは タカマノハラを第一子たるアマテラスに そしてウナハラを第三子たるスサノヲに それぞれその統治がまかされているといったことです。つまり 自分たちでそれをえらんだとか みなから推薦されたとかのことではなく 父のイザナキの仕切ったことです。  個人の事情というのは まさにその人の考え方であり人格如何になると思います。  それらを 発言や振る舞いから推して捉えようとします。  とにもかくにも スサノヲは ウナハラの統治がいやで もうそこから去って 妣(はは)の国に行き母に会いたいと思っていた。その前に 姉に暇乞いをしてからにしようと思ってタカマノハラに行ったら その姉は 普段の衣服の下に鎧をつけていたとか。  このエピソードを無視することが出来ますか? このひとつの事例だけでも 姉の性格や人格が 推測されるのではないですか?  決して  ★ 勝手に判断するしかありません。  ☆ とは言わせません。  ★ こうして私自身書いていて、ふと先日起こった25歳の姉が21歳の弟を殺してバラバラにした事件を思い出しました。全く理解できないですね。  ☆ 手がかりが有るか無いかではないでしょうか。  あっても 十全ではないでしょう。だけれども まわりの第三者としては 多少ともその情況を把握し その当事者それぞれの心中を察してみておくことは 無駄なことではないと思われます。  ご回答をありがとうございます。

noname#232509
noname#232509
回答No.2

人と関係を育むうえで、ここでいうスサノヲとアマテラスの状態が、起きたりしますね。 ーーーーーーーーーー アマテラスは スサノヲの非行をなぜ咎めないのか。咎めず人に対するに取り合わないその人格にこそ欠陥があるのではないか?  古事記などの伝えるスサノヲとアマテラスの物語には われわれ現代人が人間を考えるための恰好の題材を提供していると考えます。そこで 表題の件で問います。質問者なりにあらすじをしるしますので:      ○ ほかの人びとはスサノヲを咎めてもアマテラス自身はそう     しなかった。それは何故か。 ーーーーーーーーーー う~ん、なんていうのかな。  こんにちは。 私であれば、スサノオのとった、アマテラスさんに対する思いやりの欠如を非難しますね。 無邪気であったとしても。 例えば、アマテラスさんが、秩序ある生活こそが人生の喜びだと感じるとして、それを、スサノオさんに強要したとします。歓迎しない客ですよね。門限払いをしたっていいと思います。咎めて「あげる」親切心も失せてしまいます。 取り合ってほしいならば、態度を改め、 手土産を持つなり、服装を整えるなりして チャイムを鳴らしてから、家にお邪魔し 言葉で、自由のすてきさなどを語り、 興味を持ってもらえたなら、 徐々に仲良くなってから 放尿したらいい。共感しあえるかもしれない。 * 親なら、無条件にその無邪気さに 愛情をもって接するべき(「べき」といっていいと思う)と、思います。親なら。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 私であれば、スサノオのとった、アマテラスさんに対する思いやりの欠如を非難しますね。 / 無邪気であったとしても。  ☆ はああ。内容は 次ですね。  ★ 例えば、アマテラスさんが、秩序ある生活こそが人生の喜びだと感じるとして、それを、スサノオさんに強要したとします。歓迎しない客ですよね。門限払いをしたっていいと思います。咎めて「あげる」親切心も失せてしまいます。  ☆ 残念ながら よくつかめません。  アマテラスは スサノヲに何も語っていません。  スサノヲがアマテラスの統治する国であるタカマノハラにやって来ると言う。そのとき アマテラスは 弟のスサノヲが自分の領土を奪いに来るのだと考え ふつうの衣服の下に隠して武装していたとすら言います。  例の賭けのようなウケヒをふたりでやります。つまり スサノヲは おのれの心が腹黒いとうたがわれて そこで二人はこのウケヒをおこなう。  晴れてスサノヲの勝ちが決まった。というときにも アマテラスは 沈黙をまもった。  そこで スサノヲのハレンチな非行(天つ罪なる犯罪行為)が始まります。  それらについてアマテラスは スサノヲを弁護こそすれ 一向にとがめない。処罰を望む周りの人びとの声をおさえる。  ――というかたちで やはり沈黙する姿勢を変えない。  徹底的に スサノヲに対して取り合わない。スサノヲにとっては 取り付く島もない。  つまり   ★ 人生の喜びを感じ得るところの秩序ある生活  ☆ をスサノヲに対して《強要》することなどないだけではく まったく口を聞かない。のです。  ★ 歓迎しない客ですよね。門限払いをしたっていいと思います。  ☆ 微妙だと思います。なぜなら タカマノハラにいることになった段階での非行の数々はいざ知らず そのアマテラスのもとへ行こうとするときには――スサノヲは 嵐を起こし穏やかな天候を乱したかも知れませんが これは むしろ自然現象の問題ですから―― 《歓迎しない》という気持ちや判断は おかしい。  スサノヲがアマテラスのところをおとづれるというのは 妣(はは)の国に去って行こうとしてのことであった。その前に姉に暇乞いをする。ということであった。わけです。疑ったり取り合わなかったりするのは おかしかないですか。  ★ ~~~~~~~~~~~  取り合ってほしいならば、態度を改め、  手土産を持つなり、服装を整えるなりして  チャイムを鳴らしてから、家にお邪魔し  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 手土産は持たず 服装がどうであったかは――台風のごとくであったのかどうか――分からず チャイムを鳴らしたかも知れないし鳴らさなかったかも分かりません。  ですが――荒れ狂う自然現象のほかは―― 《改めるべき態度》はなかったはずです。  そのあとのスサノヲのハレンチ行為は すべてアマテラスが 自分をうたがっていたということを知ったことにより犯したものです。やりきれなさによるものでしょう。  ★ ~~~~~~~~  * 親なら、無条件にその無邪気さに  愛情をもって接するべき(「べき」といっていいと思う)と、思います。親なら。  ~~~~~~~~~  ☆ なるほど。ぢゃあ アマテラスは 実際に親子関係ではなく姉弟の関係だったのですが もっと《親の心》を持っていたなら スサノヲはバカ丸出しの非行はしなかった。  ――ということで よいでしょうか?  でも ふつうの人間としてなら ひと言くらいは口を聞くのではないでしょうか? 始まりから終わりまで 実質的に何も話さない。こういうのは どうなんですかねぇ。  でも このアマテラスを よき神としてまつりあがめる場合があるのですよ。どうなってるんでしょう。

bragelonne
質問者

補足

 この場をお借りして お知らせです。  回答No.1についてですが お応えしようとしたら:     ○ お礼がブロックされているので、 お礼することができません。  と出て来ます。念のため しるします。(こんな制度にもなったんですね。初めてですが もとからあったんですかね)。

  • sutorama
  • ベストアンサー率35% (1701/4759)
回答No.1

神を「人」として考察するのはどうなんでしょうね

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    アマテラスは スサノヲの非行をなぜ咎めなかったか  古事記などが伝えるスサノヲとアマテラスの物語には われわれ現代人が人間を考えるための恰好の題材を提供していると考えます。そこで 表題の件で問います。質問者なりにあらすじをしるしますので    ○ ほかの人びとはスサノヲを咎めてもアマテラス自身はそうしなかった。それは何故か。  について 見解を示してください。  スサノヲは イヅモで復活する前に タカマノハラの世界でアマテラスの《なぜわたしの領域にやって来たのか。それは領土を奪いにではないのか 》という疑いによって悩まされていた。かれは 理屈で弁明するよりは 非行・愚行を繰り返すという破廉恥な抵抗によって 自己の知恵の同一にとどまろうと欲した。その一つに。    アマテラスオホミカミが 忌服屋(いみはたや=清浄な機屋)に坐(ま)   して 神御衣(かむみそ)を織らしめたまひし時 〔スサノヲが〕その服屋   の頂(むね)を穿ち 天の斑馬(ふちうま)を逆剥(さかは)ぎに剥ぎて堕   (おと)し入るる時に 天の服織女(はたおりめ)は見驚きて 梭(ひ)に   陰上(ほと)を衝きて死にき。(古事記)  とさえ記されている。  もちろんスサノヲは 殺そうと思ってそうしたのではないであろう。だが あえてこのような事をも辞さなかった。  そこで これらの天つ罪と呼ばれる非行のあと 罰を受けて追放されたのだが しかもなおかつその上で イヅモ・スガの宮での復活を受け取ることになった。こうなると つまりあたかも神の国が生起して身は復活し ひとの歴史が前史から後史へ入ったとすると おそらくこの神の国は 過去へとさかのぼり 後史が前史をも覆う・つまり前史を完成させるということが 生起するのではないか。  それは こうだ。この世にあっては 神の国は地上の国と混同して互いに入り組んでいるのだ。地上の経験的で相対的な人間の愛が ちょうどその向きを変えられ回転せしめられてのように あの神なる愛につらなるという〔観想的な〕事態を見ることになるのではないか。なぜなら 《その皮を剥いだ馬を機屋の屋根を破ってその穴から落とし入れて その結果 服織り女たちは驚いてしまい ひとりは 梭(=杼=shuttle)にほとを衝いて死んでしまった》という経験の中のスサノヲの前史の心を すでに その後史の心がおおうと見られるから。ちょうど    王はその宮からわたしの声を聞かれ    王に叫ぶわたしの叫びがその耳に達しました。(旧約聖書詩篇18・6)  とすでに言ってのように 前史の愛のなかに後史(または 王の本史)の愛がたしかに はたらいていたと見出されたかのように。あるいは   〔神の愛は〕処女の胎から あたかも閨(ねや)から出てきた花婿の   ように 道をかける巨人のように躍り出た。   (旧約聖書詩篇 19・5;アウグスティヌス:告白 4・12〔19〕)  というのが 事の真相であるのではないか。これによって機織り女が驚いたのでないなら それは 何故か。機織り女も 肉の眼によってではなく 心の内なる眼で なぞ(神の愛)を見たか。  この事件のあと 《ゆえにここにアマテラスオホミカミは見畏(かしこ)みて 天の石屋戸(いはやと)を開きて さし籠もりましき》。つまり その身を隠した。  もう一例を引こう。  スサノヲは アマテラスの疑惑を疑い返し やはり自己の知恵の同一にとどまろうとして この上の事件を起こす前に 次のような愚行をおこなったと記されている。    アマテラスオホミカミの営田(つくだ)の畔を離ち(境界を取り除き)   その溝を埋め また その大嘗(おほにへ)を聞こしめす殿(アマテラス   の神聖な御殿)に尿(くそ)まり散らしき。(古事記)  これは いわゆる反体制の運動のようなのだが そのあと    しかすれども アマテラスオホミカミは 咎めずて告りたまひしく     ――尿(くそ)なすは 酔(ゑ)ひて吐き散らすとこそ 我(あ)が     汝弟(なせ)のミコト(=スサノヲ)は かく為(し)つらめ。ま     た田の畔を離ち 溝を埋むるは 地(ところ)を惜(あたら)し     (=土地が惜しい)とこそ 我が汝弟のミコトは かく為つらめ。    と詔(の)り直したまへ〔ども なほその悪しき態(わざ)は止まずて    転(うたて)ありき〕。(古事記 承前)  要するに アマテラスは なお疑惑を解かなかった。     *  疑惑を解かないけれども 咎めもしなかった。なぜか?  《疑うなら つまりそう考えるなら 我れあり。》と考えていたという答えをひとつ用意していますが いろんな解釈があると思われ みなさんの知恵を拝借したいところです。

  • スサノヲだけがなぜ自由か

    スサノヲだけがなぜ自由か  それは はじめに スサノヲのミコトに生起した。  スサノヲは 父のイザナキのミコトによって ウナハラの統治を任せられた。ウナハラは 死の世界であり これをつかさどるというのは 宗教の祭司となることである。この職務を嫌ったというのは その呪術的な宗教の拒否を意味した。スサノヲは 泣きいさちるばかりであった。泣きいさちることによって 宗教の拒否をつらぬいた。ここに 第一に 神の国が現われた。  宗教の拒否によって 神の信仰が生まれたというのは 不思議な歴史であり 体験であり 人間の謎です。  スサノヲは 第二に 姉のアマテラスオホミカミから この宗教の拒否の姿勢を疑われた。おまえは おまえに任された死者の世界をまつりごつのではなく わたしと同じように生の世界の祭司となりたいから 泣きとおしたのではないか。  わたしたちは 自分のものを確かに自分のものだと証拠づけることは出来ても 自分でないものを それは自分ではないと証明することは 容易ではない。アリバイ(不在証明)の立証は 時としてそのものじたいとして 不可能であります。不可能な証明が不可能であると分かると 疑う人であるアマテラスは みづからの身を隠した。検察官が 容疑をそのままにして 黙秘権(?)を使った。  ここでスサノヲは アマテラスに対して 泣きとおしたのではなく ちょうど狂を装ってのように やりたい放題のことをしたのです。登校拒否ではなく あらゆる非行を――天つ罪として考えられたそれを――おかした。  ところがアマテラスは 疑う人でした。とうとう姿を現わさなくなりました。スサノヲの非行を その権威をもって むしろ容認していたのですが とうとう黙秘権を最後まで行使しました。人びとは――人びとも――アマテラスの権威に従って スサノヲを責めず ただ身を隠してしまったアマテラスのお出ましを願わざるを得ず その方策を思案しました。  アマテラスは出て来ざるを得なかったのであって それは みづからの権威の消滅をうたがわなければならなくなったから。ここでスサノヲに 第二に 神の国が生起したのです。  宗教の拒否の肯定をも拒否するというかれの意志が証明されたから。あえて破廉恥なことまでおこなうことによって 破廉恥ではないところの神の国が出現したというのは 不思議なことであり 人間の謎です。  アマテラスのお出ましを迎えた人たちは 権威者であるアマテラスに代わって ここでスサノヲの罪を裁きました。スサノヲをこのアマテラスの世界から追放したのです。  かれらは 宗教(呪術の園)が大好きなのでした。宗教を拒否してはならないわけではなく 宗教の拒否を肯定してはならないわけでもなく しかし泣きいさちっているばかりではいけないと考えられた。スサノヲは人びとによって その良心が問われたのではなく その泣きいさちりと非行とが 人びとの裁判にかけられました。スサノヲは 《千位(ちくら)の置き戸(罰金)を負わせられ また ひげを切られ 手足の爪も抜かれて 追放される》こととなった。  アマテラスは その権威ある主宰者の位を守りました。かのじょ自身 呪術の園にいたのではありませんが 宗教(だから そのような日常のおこないとしての)によって生活する人たちを統治することに長けていました。かのじょは この世に・日の下に 新しいものは何もないとよく知っていました。この知識の中にないものに対しては 疑うことしか知らなかった。だから疑うこと――疑うために疑うこと――をもって 呪術の園にある人びとの共同生活を統治していたのです。かのじょは この世の生 人間の世の中をよく知っていました。  このゆえに神の国が生起しました。言い換えると 死の世界と 宗教によるその統治とが 克服されたのです。原理的に。本質的に。人間の存在のあり方として。あるいは同じことで この世の生――それが行き着くところは 死の世界だから――が 克服されたのです。  この世で 時間的に歴史的に 神の国(ほんとうの現実)が見られることとなった。スサノヲに神がここで王となった。この世の権威たるアマテラスの疑いが克服されたから。この世〔のアマテラスの世界〕から追放されることによって この世に勝つことが出来たというのは 不思議な人間の歴史であり 謎です。  スサノヲは 追放され この世から そして神からも 見放されたのですが ちょうどこの神から見捨てられたというそのこと自体において 神はスサノヲを見捨てていなかったのです。  スサノヲはこの世に死ぬことによって 復活しました。ここで神の国が現われたのです。すなわち日本人のそもそもの歴史のはじめ。  ☆ 自由なご批評・ご批判をたまわりたく・・・。

  • スサノヲだけがなぜ自由か

     それは はじめに スサノヲのミコトに生起した。  スサノヲは 父のイザナキのミコトによって ウナハラの統治を任せられた。ウナハラは 死の世界であり これをつかさどるというのは 宗教の祭司となることである。この職務を嫌ったというのは その呪術的な宗教の拒否を意味した。スサノヲは 泣きいさちるばかりであった。泣きいさちることによって 宗教の拒否をつらぬいた。ここに 第一に 神の国が現われた。  宗教の拒否によって 神の信仰が生まれたというのは 不思議な歴史であり 体験であり 人間の謎です。  スサノヲは 第二に 姉のアマテラスオホミカミから この宗教の拒否の姿勢を疑われた。おまえは おまえに任された死者の世界をまつりごつのではなく わたしと同じように生の世界の祭司となりたいから 泣きとおしたのではないか。  わたしたちは 自分のものを確かに自分のものだと証拠づけることは出来ても 自分でないものを それは自分ではないと証明することは 容易ではない。アリバイ(不在証明)の立証は 時としてそのものじたいとして 不可能であります。不可能な証明が不可能であると分かると 疑う人であるアマテラスは みづからの身を隠した。検察官が 容疑をそのままにして 黙秘権(?)を使った。  ここでスサノヲは アマテラスに対して 泣きとおしたのではなく ちょうど狂を装ってのように やりたい放題のことをしたのです。登校拒否ではなく あらゆる非行を――天つ罪として考えられたそれを――おかした。宮の前に糞をしておいたりした。  ところがアマテラスは 疑う人でした。とうとう姿を現わさなくなりました。スサノヲの非行を その権威をもって むしろ容認していたのですが とうとう黙秘権を最後まで行使しました。人びとは――人びとも――アマテラスの権威に従って スサノヲを責めず ただ身を隠してしまったアマテラスのお出ましを願わざるを得ず その方策を思案しました。  アマテラスは出て来ざるを得なかったのであって それは みづからの権威の消滅をうたがわなければならなくなったから。ここでスサノヲに 第二に 神の国が生起したのです。  宗教の拒否の肯定をも拒否するというかれの意志が証明されたから。あえて破廉恥なことまでおこなうことによって 破廉恥ではないところの神の国が出現したというのは 不思議なことであり 人間の謎です。  アマテラスのお出ましを迎えた人たちは 権威者であるアマテラスに代わって ここでスサノヲの罪を裁きました。スサノヲをこのアマテラスの世界から追放したのです。  かれらは 宗教(呪術の園)が大好きなのでした。宗教を拒否してはならないわけではなく 宗教の拒否を肯定してはならないわけでもなく しかし泣きいさちっているばかりではいけないと考えられた。スサノヲは人びとによって その良心が問われたのではなく その泣きいさちりと非行とが 人びとの裁判にかけられました。スサノヲは 《千位(ちくら)の置き戸(罰金)を負わせられ また ひげを切られ 手足の爪も抜かれて 追放される》こととなった。  アマテラスは その権威ある主宰者の位を守りました。かのじょ自身 呪術の園にいたのではありませんが 宗教(だから そのような日常のおこないとしての)によって生活する人たちを統治することに長けていました。かのじょは この世に・日の下に 新しいものは何もないとよく知っていました。この知識の中にないものに対しては 疑うことしか知らなかった。だから疑うこと――疑うために疑うこと――をもって 呪術の園にある人びとの共同生活を統治していたのです。かのじょは この世の生 人間の世の中をよく知っていました。  このゆえに神の国が生起しました。言い換えると 死の世界と 宗教によるその統治とが 克服されたのです。原理的に。本質的に。人間の存在のあり方として。あるいは同じことで この世の生――それが行き着くところは 死の世界だから――が 克服されたのです。  この世で 時間的に歴史的に 神の国(ほんとうの現実)が見られることとなった。スサノヲに神がここで王となった。この世の権威たるアマテラスの疑いが克服されたから。この世〔のアマテラスの世界〕から追放されることによって この世に勝つことが出来たというのは 不思議な人間の歴史であり 謎です。  スサノヲは 追放され この世から そして神からも 見放されたのですが ちょうどこの神から見捨てられたというそのこと自体において 神はスサノヲを見捨てていなかったのです。  スサノヲはこの世に死ぬことによって 復活しました。ここで神の国が現われたのです。すなわち日本人のそもそもの歴史のはじめ。  ☆ 自由なご批評・ご批判をたまわりたく・・・。

  • スサノヲだけが自由であるのは何故か

     § 1 それは はじめに スサノヲのミコトに生起した。  スサノヲは 父のイザナキのミコトによって ウナハラの統治を任せられた。ウナハラは 死の世界であり これをつかさどるというのは 宗教の祭司となることである。  この職務を嫌った。というのは その呪術的な宗教の拒否を意味した。  スサノヲは 泣きいさちるばかりであった。泣きいさちることによって 宗教の拒否をつらぬいた。ここに 第一に 神の国が現われた。  § 2 宗教の拒否によって 神の信仰が生まれたというのは 不思議な歴史であり 体験であり 人間の謎です。  § 3 スサノヲは 第二に 姉のアマテラスオホミカミから この宗教の拒否の姿勢を疑われた。  おまえは おまえに任された死者の世界をまつりごつのではなく わたしと同じように生の世界の祭司となりたいから 泣きとおしたのではないか。  わたしたちは 自分のものを確かに自分のものだと証拠づけることは出来ても 自分でないものを それは自分ではないと証明することは 容易ではない。アリバイ(不在証明)の立証は 時としてそのものじたいとして 不可能であります。  不可能な証明が不可能であると分かると 疑う人であるアマテラスは みづからの身を隠した。検察官が 容疑をそのままにして 黙秘権(?)を使った。  ここでスサノヲは アマテラスに対して 泣きとおしたのではなく ちょうど狂を装ってのように やりたい放題のことをしたのです。登校拒否ではなく あらゆる非行を――天つ罪として考えられたそれを――おかした。宮の前に糞をしておいたりした。  § 4 ところがアマテラスは 疑う人でした。  とうとう身を隠したまま 姿を現わさなくなりました。  スサノヲの非行を その権威をもって むしろ容認していたのですが とうとう黙秘権を最後まで行使しました。  人びとは――人びとも――アマテラスの権威に従って スサノヲを責めず ただ身を隠してしまったアマテラスのお出ましを願わざるを得ず その方策を思案しました。  アマテラスは出て来ざるを得なかったのであって それは みづからの権威の消滅をうたがわなければならなくなったから。ここでスサノヲに 第二に 神の国が生起したのです。    § 5 宗教の拒否の肯定をも拒否するというかれの意志が証明された、ゆえ。  あえて破廉恥なことまでおこなうことによって 破廉恥ではないところの神の国が出現したというのは 不思議なことであり 人間の謎です。  アマテラスのお出ましを迎えた人たちは 権威者であるアマテラスに代わって ここでスサノヲの罪を裁きました。スサノヲをこのアマテラスの世界から追放したのです。  § 6 かれらは 宗教(呪術の園)が大好きなのでした。  宗教を拒否してはならないわけではなく 宗教の拒否を肯定してはならないわけでもなく しかし泣きいさちっているばかりではいけないと考えられた。  スサノヲは人びとによって その良心が問われたのではなく その泣きいさちりと非行とが 人びとの裁判にかけられました。スサノヲは 《千位(ちくら)の置き戸(罰金)を負わせられ また ひげを切られ 手足の爪も抜かれて 追放される》こととなった。  § 7 アマテラスは その権威ある主宰者の位を守りました。  かのじょ自身 呪術の園にいたのではありませんが 宗教(だから そのような日常のおこないとしてのオキテやナラハシ)によって生活する人たちを統治することに長けていました。  かのじょは この世に・この日の下に 新しいものは何もないとよく知っていました。この知識の中にないものに対しては 疑うことしか知らなかった。  だから疑うこと――疑うために疑うこと――をもって 呪術の園にある人びとの共同生活を統治していたのです。かのじょは この世の生 人間の世の中をよく知っていました。  § 8 このゆえにも神の国が生起しました。  言いかえると 死の世界と 宗教によるその統治とが 克服されたのです。原理的に。本質的に。人間の存在のあり方として。あるいは同じことで この世の生が――それが行き着くところは 死の世界だから 死が―― 克服されたのです。  死よ おまえのとげはどこにある?  § 9 この世で 時間的に歴史的に 神の国(人間にとってほんとうの現実)が見られることとなった。垣間見られた。  スサノヲに神がここで王となった。  この世の権威たるアマテラスの疑いが克服されたから。  この世〔のアマテラスの世界〕から追放されることによって この世に勝つことが出来たというのは 不思議な人間の歴史であり 謎です。  § 10 スサノヲは 追放され この世から・そして神からも 見放されたのですが ちょうどこの神から見捨てられたというそのこと自体において 神はスサノヲを見捨てていなかった。  スサノヲはこの世に死ぬことによって 復活しました。  ここで神の国が現われたのです。  すなわち日本人のそもそもの歴史のはじめ。  われわれの生活と社会の原点だ。  ☆ 自由なご批評・ご批判をたまわりたく・・・。

  • どうして天照はアメテラスではなくてアマテラス?

    最近古事記にハマっています。 神様の名前への漢字の当てられ方が現代と随分違うところを見ていると、 ついにやにやしてしまいます。 しかし1つ疑問を抱いております。 天の岩戸屋が「アメのイワトヤ」と読まれる様に、「天」が含まれるものは大体の場合「アメ」と読みますが、 天照の場合は「アマテラス」のように読みます。 古代日本では原則的に「天」という字は「アマ」ではなく「アメ」に適用されていたのだと了解していますが、 「アマ」というのは特別な読み方なのでしょうか。 何故「アメ」「アマ」の両方に「天」が当てられたのでしょうか。 逆に言えば、何故「アマ」に当てられたのとは異なる漢字が「アメ」に対して当てられなかったのでしょうか。 これらの疑問への答えを教えて下さい。 答えが長くなるようでしたら、このことを論じている文献を教えて下さい。 どうぞ、よろしくお願いいたします。

  • アマテラス普遍人格語のつまづき

     1. まづは S 語 と A 語 (?)  わたしたちは どの言語にあっても ふたつのコトバを使い分けているようです。   《スサノヲ( S )人間語》:   ・ 身と心から成る自然本性そのものの自己表出〔としての言葉〕   ・ 感性の原野を開き ほどほどの理性を持ってしゃべる言葉   ・ 人間のつねとして あやまち得る思考を容れた広い度量の言葉   《アマテラス( A )人格語》:   ・ 身と心なる自然本性を 心ないし精神において捉え相手に向けて    心に或る種の構えを成して自己表現しようとする言葉     (自己表出を ととのえ練り上げ磨き上げさらには飾り上げる)   ・ 感性の原野をどちらかと言うと抑えて 理性によって思考の緑野    を開発する。その成果をもってしゃべる言葉   ・ その思考は あたかもあやまち得ないと見なされた《格》を持つ   ・ かつてはオシヘとして神格化され 神聖にして侵すべからざるも    のと見なされた  2. アマテラス人格語は 普遍科学語を開発している。  すなわち思考の緑野として 言わずと知れたアマテラス科学語の世界を打ち建てた。    誰が認識しても 同じ内容となるというその《個々の主観真実の共通性》 これである。この共同主観が 普遍なる神のごとくであると 時には 見なされた。  3. アマテラス普遍語は 人格語を倫理規範とし これを科学語で根拠づけた。  普遍科学語で彩(いろど)った衣裳としての人格語を着たならば そこに《あやまつべからざる人間像》が出来上がると踏んだ。いわゆる理念の信仰も始まる。    4. かくして アマテラス普遍語文化の君臨となった。  のではないだろうか。  5. このアマテラス語の隆盛が つまづきの石である。  6. なぜなら 自然本性にして普遍たるスサノヲ人間語を貶(おとし)めたつけが回って来ている。  7. スサノヲ人間語は 殊にその感性の原野たる領域において もののあはれを知ったかのごとく こう語る。    ・ 《ひとは 他人(ひと)の自由意志をないがしろにしない。      こころをとうとぶ。      《他人のおよび自分のいのちをないがしろにしない。      《わが自由意志がその自由度において横道に逸れ そこに      おける思考が人間をにくみこれを傷つけようと・あるいは殺      そうと思ったりすることはあるが なぜか そうはしないもの      だ》。  8. ところが アマテラス人格語は うったえます。  スサノヲ自然感性語の宣言を   ・《なんぢ ころすなかれ / むさぼるなかれ》  というふうに規範化しようと。おそらく このこと自体にすでに問題があります。問題が――社会にあって生きることが―― 理性の領域に移行したからです。あたまで逆立ちして町を歩こうと言い出した。  9. あるいは 同じように比べてみようと思えば:  スサノヲ人間語は 心の奥にあってこのように言葉を言い出そうとします。   ・ 《われは 心の奥底なるヒトにとっての思いとして      時に身に勝手に起こるやましさ(恥づかしさ)反応を受け留め      恥ぢを知るわが心にすなおにしたがい      よくおのれの自由意志を用いよう》  と。これを アマテラス語理性は―― 一般にガミガミ規範ないしアマテラス語理論として――言い換えます。    ・ 《すなおになりなさい。     わがままはいけません。     恥づかしさは 隠しなさい。     ウソをつくのは わるいことです。・・・》  10. すでにアマテラス普遍志向にもとづく《アマアガリ》主義は 行き詰まったのではないだろうか?     思考の緑野と言えども 理性のみによってその普遍語の世界に閉じこもらざるを得ないような規範性を帯びているかぎり このあたまデッカチは つまづきの基となる。  《オシヘや規範あるいは理念》をあたまに抱きながらしか おのれの思考や互いの対話を成し得なくなっている。感性の原野が なおざりにされてしまっている。  11. それだけではなく アマテラス人格語は 感性スサノヲ語を捻じ曲げてしまうくせがついてしまった。次のように語るようになってしまった。    ・ 《すなおだと人に見られれば 何かとよいことがあります。     どれだけわがままを通したいと思っていても わがままだと受け取     られてはいけません。     あたまを使いなさい。     ウソは ウソとバレては いけません。     上手につくのですよ。     また バレたなら うまく振る舞って あなたの秘書や部下の所為に     しなさい。     ・・・》  12. アマテラス語は 普遍語が ただの方言にしか過ぎなくなってしまった。  ただのアマアガリのための・それを飾るための・そしてそれを保守するためのアマテラス方言にしか過ぎないほどである。   何ともひどい訛りを身に着けてしまった。ダブル・スタンダードはお手の物というほどに へそが すでにひん曲がってしまったではないか?  どちらかと言うとスサノヲ語の側である野党党首が アマテラス語の舌を二枚三枚すでにあつらえて用意していた。それがとおった。  ☆ これを問います。  いまは 転機か? もしそうなら あなたはどうすればよいと考えるか?

  • 記紀が書かれた目的は 天皇家の正統性を当時の国の要人に周知させ また後

    記紀が書かれた目的は 天皇家の正統性を当時の国の要人に周知させ また後世の人に知らしめる ことが第一であったとおもうのです。が、その神代記載の一部ですが アマテラスとスサノオの経緯の理解が出来てません。そこで お教え頂きたいのですが。 乱暴者のスサノオに対しアマテラスは身を隠したりまた出てきたりしますが 直接にはスサノオには手を下しません。高天原の神々の総意で 出雲に追放となり、そこではスサノオは どういうわけか 勇敢な善人となります。物語は 以後オオクニノヌシへと移ります。 私が思うにイズモのスサノオはアマテラスに徹底して前歴の悪行の数々を謝り アマテラスはスサノオを許す 物語があってよいとおもうのです。そこで皇祖アマテラスの心の広い正統性が示されるとおもうのですが どうも徹底してないように思えるのです。 アマテラスの正統性を示すことに関して なぜ スサノオの扱いが徹底してないのか 記紀成立当時の事情を含め どなたか説明頂ければと思います。私の勉強不足は ご容赦ください。

  • アマテラス政治家の無謬性の神話がくづれたか?

     アマテラス公民ないし国家公務員については――それはいわゆる幕藩体制からのお上であって―― 無謬性というしるしが 神話としてのごとく添えられて来たのだと考えられます。《斬り捨て御免》という慣わしに代表されるごとく たとえかれらがあやまちを犯していてもスサノヲ市民らはそれは間違ってはいないと言わなければいけなかった。そういう至上命令ないし錯覚があったということでしょう。  社会保険庁のあやまちが引き金を引いたのかどうか この無謬性の神話はくづれて来ています。  ところが いまの民主党政権もしくは菅政権については どうもその性格や事情がいちじるしくそれまでのアマテラス政権とは異なって来ているのではないか?  感覚で言うのですが 鳩山前政権については まだその社会的な身分としての神話をあたかも引きずっていたからか そのままアマテラス公民の無謬性を どこかで何となく保ち得たかのように映っています。  鳩山由紀夫は出自がアマテラス圏であり 菅直人はそうではなくスサノヲ圏からであるという違いが出ているのかどうか?  そこでこの質問は このアマテラス公民の無謬性という慣わしと 《職業としての政治》にまつわる《悪魔性》とのつながりや如何? と問うものです。  まづは次のM.ヱーバーの議論を聞いてください。悪魔メフィストーフェレスに魂を売るファウストのごとく そのデモーニッシュな動物的な・別種の魂が必要なのだと言っていますか?  ▲ (ヱーバー) ~~~~~~~~~~~  およそ政治をおこなおうとする者 とくに職業としておこなおうとする者は・・・すべての暴力の中に身を潜めている悪魔の力と関係を結ぶのである。  無差別の人間愛と慈悲の心に溢れた偉大な達人たちは ナザレの生まれ〔のキリスト・イエス〕であれ アッシジの生まれ〔の聖フランチェスコ〕 インドの王城の出〔のブッダ〕であれ 暴力という政治の手段を用いはしなかった。  彼らの王国は《この世のものにあらず》ではあったが それでいて彼らは昔も今もこの世に影響を与え続けている。  〔トルストイの描く〕プラトン・カラタエフやドストエフスキーの描く聖者の姿は 今なお この人類愛に生きた達人たちの最も見事な再現である。  自分の魂の救済と他人の魂の救済を願う者は これを政治という方法によって求めはしない。  政治には それとまったく別の課題 つまり暴力によってのみ解決できるような課題がある。政治の守護神やデーモンは 愛の神 いや教会に表現されたキリスト教徒の神とも いつ解決不可能な闘いとなって爆発するかも知れないような そんな内的な緊張関係の中で生きているのである。  (『職業としての政治』 1919 脇圭平訳 pp.99-100)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 政治家としてアマテラス公民たる者はすべからく悪魔に身をゆだねるデーモン(悪鬼)にならざるべからず。――こうでしょうか?  極論して言うのですが この方策を忠実に取ったアマテラス政権は 安泰であって そうでない政権――たとえば民主党政権――は もはやスサノヲ市民らの信頼も支えも失くした。――こうでしょうか?  それとも そもそもアマテラス‐スサノヲの国家という二階建ての家における逆立ちした連関制が 無理なのでしょうか?

  • 古事記と日本書紀の正しく理解するには?

    古事記、日本書紀の原文は難しくて読めませんので、 まんがで読破シリーズを購入して読みましたが、 今ひとつでした。 そこで、分からないことがあるのでご存じの方、教えて下さい。 1.草薙の剣について、スサノオがアマテラスに献上する場面がない。 2.草薙の剣が最初から草薙の剣と呼ばれている。天叢雲剣の名前が出てこない。 3.古事記と日本書紀を正しく理解する本